北鎌倉、山崎の星岡窯と魯山人旧居
骨董古美術の世界に入門当時、先輩のFさんに「先ずは魯山人の『独歩』を読みなさい」と教えられた。以来、何かにつけて魯山人のことが気になる。
魯山人は書家・篆刻家・陶芸作家・美食探究家としてどれをとっても一流の人物であったが、人間的には欠点だらけで、男女関係も紊乱であって妻や友人とも関係が長続きしなかった。それでも、多くの人をひきつける魅力がある。
昭和2年魯山人は北鎌倉の山崎に「星岡窯」を開設した。
当時の写真には前景の水田越しに丘陵のふところに建つ星岡窯の建物が見える。
山林田畑を含めた総面積は7000坪。ここに窯場、茶室「夢境庵」蒐集した古陶磁を展示する2つの展示館などが散在した。神奈川県高座郡の旧家を移築し迎賓館「慶雲閣」とした。後には同じところから移築した母屋を自分の住まいとした。
この建物は、笠間日動美術館の付属施設「春風満里荘」となっている。
この母屋は公開されているので、御馴染みの方も多いだろう。
僕の魯山人の旧居への憧れは、この建物に拠る。
最初は荒涼たる山里であったのを一棟一棟増やしてゆき、一応完成をみるのに15、6年を要したとのことだ。
その桃源郷も昭和34年に魯山人が世を去った後は野村証券の北裏喜一郎が人を介して魯山人の旧居の引継ぎを依頼され、現在は野村不動産が管理しているらしい。
何年か前に、残された建物の一部が火事になり今は、建物は殆ど残されていない。
という様な事が、事前に知りえた情報。
横浜の友人Nさん宅に泊めていただき、藤沢の「エスプリ・フランセ」の昼食会に出かける前にNさんの車で星岡窯と魯山人の旧居を探しに出かけた。
手がかりは山崎小学校の近くということだけ。
小学校の近くで犬の散歩をしている人を見かけ「魯山人の旧居を探しているのですが」と訊くと「この直ぐ先で、私は魯山人と話したこともあります」という。
テレビ番組風に云えば、完全にヤラセとしか思えない出来事だった。
この人にでも訊かなかったら、分からずに戻ってしまったかもしれない。
当時の写真とは全く異なってしまった景観だから、探しようがない。
しかし、塀で囲まれた空間を上段から見回せば幾らかの名残を見出せた。
茶室らしき建物も残っている。
隣接地となってしまった当時の窯場(穴窯及び登り窯があった)は「其中窯」として河村喜太郎が引き継ぎ、今はその子息がその後をやっていると聞いている。
窯の一部を覗き見ることも出来た。
田圃は埋め立てられ、小学校の敷地となったようだ。
先ほどの近所の人の話によれば、魯山人旧居の一画にイサムノグチと山口淑子が昭和24年に所帯を構えた場所は山崎小学校のグランドの辺りだといった。
旧居跡地を3方向から眺めることが出来たのは幸運であった。
次回は写真を持参し、当時と比較しながら見ることが出来ればと思った。
骨董古美術の世界に入門当時、先輩のFさんに「先ずは魯山人の『独歩』を読みなさい」と教えられた。以来、何かにつけて魯山人のことが気になる。
魯山人は書家・篆刻家・陶芸作家・美食探究家としてどれをとっても一流の人物であったが、人間的には欠点だらけで、男女関係も紊乱であって妻や友人とも関係が長続きしなかった。それでも、多くの人をひきつける魅力がある。
昭和2年魯山人は北鎌倉の山崎に「星岡窯」を開設した。
当時の写真には前景の水田越しに丘陵のふところに建つ星岡窯の建物が見える。
山林田畑を含めた総面積は7000坪。ここに窯場、茶室「夢境庵」蒐集した古陶磁を展示する2つの展示館などが散在した。神奈川県高座郡の旧家を移築し迎賓館「慶雲閣」とした。後には同じところから移築した母屋を自分の住まいとした。
この建物は、笠間日動美術館の付属施設「春風満里荘」となっている。
この母屋は公開されているので、御馴染みの方も多いだろう。
僕の魯山人の旧居への憧れは、この建物に拠る。
最初は荒涼たる山里であったのを一棟一棟増やしてゆき、一応完成をみるのに15、6年を要したとのことだ。
その桃源郷も昭和34年に魯山人が世を去った後は野村証券の北裏喜一郎が人を介して魯山人の旧居の引継ぎを依頼され、現在は野村不動産が管理しているらしい。
何年か前に、残された建物の一部が火事になり今は、建物は殆ど残されていない。
という様な事が、事前に知りえた情報。
横浜の友人Nさん宅に泊めていただき、藤沢の「エスプリ・フランセ」の昼食会に出かける前にNさんの車で星岡窯と魯山人の旧居を探しに出かけた。
手がかりは山崎小学校の近くということだけ。
小学校の近くで犬の散歩をしている人を見かけ「魯山人の旧居を探しているのですが」と訊くと「この直ぐ先で、私は魯山人と話したこともあります」という。
テレビ番組風に云えば、完全にヤラセとしか思えない出来事だった。
この人にでも訊かなかったら、分からずに戻ってしまったかもしれない。
当時の写真とは全く異なってしまった景観だから、探しようがない。
しかし、塀で囲まれた空間を上段から見回せば幾らかの名残を見出せた。
茶室らしき建物も残っている。
隣接地となってしまった当時の窯場(穴窯及び登り窯があった)は「其中窯」として河村喜太郎が引き継ぎ、今はその子息がその後をやっていると聞いている。
窯の一部を覗き見ることも出来た。
田圃は埋め立てられ、小学校の敷地となったようだ。
先ほどの近所の人の話によれば、魯山人旧居の一画にイサムノグチと山口淑子が昭和24年に所帯を構えた場所は山崎小学校のグランドの辺りだといった。
旧居跡地を3方向から眺めることが出来たのは幸運であった。
次回は写真を持参し、当時と比較しながら見ることが出来ればと思った。