北の大地に馳せた夢 仙台藩最後のお姫さま
著者 伊達君代 伊達宗弘
出版年月日 2004年7月1日
出版社 新人物往来社
☆感想☆☆☆☆
仙台藩亘理の伊達家の主従が戊辰戦争に敗れた後、北海道の現在の伊達市に入植し開拓に苦労しながら成功した話は世に広く喧伝されている。著者は入植した伊達邦成から4代目の子孫の方と、親戚の登米伊達家の子孫の方だ。それで従来の世に喧伝されている本とは違って、当事者である伊達邦成やともに入植した義母の保子さまや、大叔母のお智恵さまの日記や和歌を多数引用しながら、入植にかける意気込みや開拓地の様子などを描写している。また、仙台藩伊達家中で、北海道開拓に従事した、4家の動静についても詳しく紹介している。その4家は岩出山の伊達家、白石の片倉家、角田の石川家、船岡の柴田家である。また、戊辰戦争の敗戦を、故郷で乗り切った登米の伊達家のことも紹介している。あと士族開拓団として淡路島の稲田家の静内入植や会津藩士の余市入植にも触れている。明治初年に明治政府は各藩に北海道開拓を命じたが、辞退が相次ぎ、その中で仙台藩の5家が応じたのである。
戊辰戦争敗戦で、仙台藩は62万石から28万石に減封された。亘理の伊達家は2万3千石から65石に減封され、領地は南部藩に与えられることになった。1300名の家臣は身分と生活基盤を失った。そこで今や食うに禄のない1300名の家臣を最大の資力として北海道を開拓して活路を求め、また北門の警備にあたって戊辰の汚名を雪ぎ名誉を回復しようとして、明治政府から有珠郡(今の伊達市)を支配地として受け取り、新しい亘理藩を作るべく入植することになったのである。廃藩置県でいったん有珠郡の亘理藩の土地を開拓使に引き渡したが、つづけて伊達邦成が支配を任されたので、開拓が続いた。移住の方式は家族をつれて移住すること。そして明治14年の第9回移住までで移住総人員は2600人余に上った。またアイヌの人々に対しても信実を旨として礼儀正しく馬鹿にしたり騙したり嘘をつかないようにという伊達邦成の直書が出ている。開拓は西洋式農具を導入し、農地の増大と多角的な畑作農業に成功した。さらに農業加工や製造、牧畜、漁業、鉱山業にも手を伸ばし、産業振興に大きく貢献した。明治4年には郷学校を設けて子弟の教育にも力をいれた。
初めて有珠郡に現地踏査に来たときに読んだ伊達邦成の和歌が残っている。
きのふより荒き波路を漕ぎよせて見る目うれしき函館の浦(函館到着)
此里に同じ烟を立てならべいかにえみしの住みよかるらん
(アイヌと和人が軒を並べて生活している遊楽部で)
住民の豊かなれとや臼かだけたえず烟をたてるなるらし(有珠山を見て)
春に見し都の花にまさりけり蝦夷が千島の雪のあけぼの(決意)
第3回移住団788人の中にいた大叔母のお智恵さまの渡道した際の和歌。
音にのみ聞きし海路を今ぞ見るげに恐ろしき波の手枕
来て見れば蝦夷ケ千島と思はれずただ古里の心地こそすれ
開拓の母と慕われた保子さまの和歌。
露霜の深く染めけむ伊達村のははその紅葉いろぞはえたる