相模原北公園はJR横浜線の橋本駅から徒歩20分ぐらいの所にある。
いろいろな花のある公園だが、今の時期は梅がたくさん咲いている。市民から寄贈された梅だそうで、それぞれ名前が付いている。
緋梅。
源氏更紗。
青竜枝垂れ。
蓮久。
梅林。
「雪溶けて 一輪ごとの 清らかさ」
相模原北公園はJR横浜線の橋本駅から徒歩20分ぐらいの所にある。
いろいろな花のある公園だが、今の時期は梅がたくさん咲いている。市民から寄贈された梅だそうで、それぞれ名前が付いている。
緋梅。
源氏更紗。
青竜枝垂れ。
蓮久。
梅林。
「雪溶けて 一輪ごとの 清らかさ」
読書感想 「日本の朝鮮統治」を検証する 1910-1945
著者 ジョージ・アキタ
ブランドン・パーマー
著者の略歴(本書から)
ジョージ・アキタ 1926年ハワイ生まれの日系二世。
ハワイ大学名誉教授。
専門は近代日本政治史研究。
ブランドン・パーマー 1970年生まれ。
コースタル・カロライナ大学歴史学部准教授。
専門は国際関係論、朝鮮史。
訳者 塩谷紘
出版年月 2013年8月
出版社 (株)草思社
感想
本書は朝鮮半島を覆う民族主義的歴史観(朝鮮民族の優秀性や自立性を強調する、いわゆる『民族史観』)に対して修正主義の立場から、日本の朝鮮統治を検証したものである。民族史観のパラダイムでは朝鮮人は歴史上最も冷酷な植民地統治の下で生きて来たといわれ、朝鮮人の大量虐殺政策がとられ、文化、言語も抹殺されたとされる。
以下は著者による修正主義の定義である。
修正主義とは、従来“真実”として容認されてきたが、少なくとも別の観点からの見直しが(理想を言えば学者による反駁)が必要な研究、概念、あるいは原理に対するアンチテーゼの追及である。この“真実”なるものは、イデオロギーやナショナリズム、あるいは感情的な(それも、往々にして激情的な)確信に基づくものであったり、「物事を自分が見たいようにしか見ない」という人間の生来の習性に基づくものであることが少なくない。
著者は山縣有朋の沖縄、五島列島、対馬に対する統合の基本方針が、漸進的な穏健な政策の実施であり、それが台湾、朝鮮という植民地にも適用されたと述べている。強制的な手段はとらず、日本の要塞としての機能と生産的な経済の構築による日本との相互の利益をはかり、教育を重視し、最終的に同化を目指すものである。さらに自らの政策の欠陥を現実的な観点から認め、方向転換することを躊躇わない姿勢があったと、民族史観の強制一辺倒な植民地支配の観点を排している。
そして明治国家は大津事件(ロシア皇太子の暗殺未遂)の法治主義の原則にのっとった解決(犯人を内外の死刑にせよとの圧力に抗して死刑にしなかったこと)や、かなり政治的な自由が認められた、開かれた社会であったと見て、それが朝鮮にも適用されたと著者は考えている。
思想統制についてみると、日本では1930年代の治安維持法の下でゾルゲ事件の尾崎秀美以外違反者を死刑にしていない。弾圧のために治安当局による大規模なテロルの方法が行使されていない。それが朝鮮総督府の行動にも反映され、朝鮮の警察隊は民族主義者と共産主義者を逮捕・収監したが、服従させるために恐怖政治は用いなかった。改心させ転向させるように努めているとし、これは1930年代のドイツやソ連と比べると異質な点であるという。
日本による大虐殺政策の証拠として取り上げられる3・1事件について日本側による数字は、逮捕者12,522人、死者は533人、負傷者1,409人である。一方、朝鮮側の示す数字はそれを上回るもので、46,948人が逮捕され、死者は7,509人、負傷者15,961人。朝鮮側の数字は5つの異なった情報源からのもので数値にズレがあるという。そして1919年5月時点での報告では、逮捕・送検された被疑者は、12,668人。うち3,789人が不起訴で釈放。6,417七が起訴され、残り1,151人は調査中。1審判決が完了した被告人は4,026人、うち有罪判決を受けたのは3,967人。死刑・無期懲役、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80人。
事後処置について大量虐殺でもないし処刑もない。軽犯罪扱いだ。
民族史観パラダイムの中での大量虐殺政策の二つ目は、朝鮮人の若者の徴兵がある。徴兵制度に関しては朝鮮半島で反対する暴動が一切起きていない。日本では徴兵制度導入の黎明期に血で血を洗う大規模な暴動が起きたのと対照的である。朝鮮における特別志願兵制度は、陸軍は1938年、海軍は1943年に施行され、1944年から徴兵検査が開始されるが、終戦で前線へは配備されていない。戦争協力は徴集された朝鮮人の一般市民が満州や朝鮮、日本の工場や鉱山ではたらいたことであると述べている。
戦場に行っていないし、暴動も起っていないので大量虐殺でもない。日本に居住していた朝鮮人が被爆や空襲に遭ったことは、日本による虐殺とは呼べないだろう。
経済面で言えば、朝鮮総督府は朝鮮人から土地を収奪していない。土地調査事業の後に不当に日本人に土地が渡ったこともない。むしろ小作人の生活を安定させ、自作農化を援助した。
もっとも嫌われている2人の総督の功績も検証している。寺内正毅初代総督と第7代南次郎総督。寺内は李氏朝鮮時代の改革を手掛けた。崩壊寸前の支配階級のエリート層を日本の職業的な官僚層に置き換え、公衆衛生の向上、旧弊な文化的慣習の排除、税制の合理化を企てた。こうした目標達成のため日本が使った手段は、当時の帝国主義列強の世界基準にかなうものだった。言論の自由を制限し警察権を強化して朝鮮のナショナリズムを抑圧した。それでも欧米の植民地に比べれば、強制収容所もなく強制労働もなく大規模な飢饉もおこしていない、しごく穏健な政策だった。むしろ朝鮮近代化のためにインフラストラクチャーを大々的に行った。以来朝鮮では建築ブームが続いた。
南の時代は同化政策が強化され、戦時体制が敷かれた。1939年の創始改名では朝鮮人の家庭の84%が日本名を取得したが、総督府は朝鮮の戸籍を日本の戸籍と同じ仕組みにして行政手続きを合理化しようしたもので、日本名への変更について強制も口出しもする意図はなかった。また朝鮮人男子の徴兵制度確立に成功した。南の時代には行政職を広く朝鮮人に開放した。朝鮮人の地方知事を増やし、産業部長職と内務部長職の過半数に朝鮮人を任命し、警察署長職を朝鮮人に開放した。地方議会に予算その他を決定する権限を与えていた。南は全国の小学校に通う生徒数を2倍に増やした。
著者は次の言葉で35年間の朝鮮統治を締めくくる。
もちろん、本研究は朝鮮において日本が行ったことを取り繕うことを意図してなされたものではない。だが、一方でわれわれは、日本による朝鮮統治を可能な限り客観的に検証した本研究の結果を通して、朝鮮・韓国系の人々が往々にして極端に偏見に満ち、反日的な歴史の記憶をあえて選択して記憶に留める傾向を、可能なことなら少しでも緩和するお手伝いをするべく努力してきた。その中でわれわれ二人にとって非常に印象的だったのは、朝鮮の近代化のために、日本政府と朝鮮総督府が善意をもってあらゆる努力を惜しまなかったという事実だった。だから日本の植民地政策は、汚点は確かにあったものの、同時代の他の植民地保有国との比較において、アモス氏の言葉を借りて言うなら、「九分どおり公平almost fair」だったと判断されてもよいのではないかと愚考するしだいである。
外務省は最近ユーチューブに日韓条約締結以後の韓国への無償有償援助の推移をアップしたという。そうであるなら、朝鮮併合時の朝鮮半島への投資額の推移もアップするべきではないか。朝鮮半島のインフラストラクチャーにかけた予算は膨大で、総督府の予算の大半は借金で賄われていた。「朝鮮の福祉は本国の日本人の犠牲の上に成り立っているようなものだ」という日本人の学者の言葉を引用しているぐらいだ。また驚いたと言うか危険なことだと思ったことは、アメリカの外交官が韓国出身で、まさにこの民族史観的な考え方で対日、対韓外交の最前線にたっているという具体的な指摘だ。この民族史観がアメリカも東北アジアも席巻しているということは、外交的に初めから敗北しているようなものだ。
しかし、植民地近代化論を唱える、何人かの韓国人の学者の存在は、嬉しいことである。日韓関係に明るい希望を抱かせるものだ。しかし民族史観を否定することは彼らが社会的なバッシングを受け社会的な地位を追われることにつながる。残念だがこれが韓国の現状だ。
こういう地道な研究によって真実が明らかにされることは日本人として感謝に堪えない。