花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

万緑の三渓園

2018-06-28 | アート・文化


第119回日本耳鼻咽喉科学会・学術講演会(5月30日~6月2日)が横浜で開催された。会期の合間を縫って会場のパシフィコ横浜からタクシーで約20分、以前から訪れたいと願いながら機会を逸していた名勝三渓園に伺った。三渓園は、生糸関連の事業を営み、横浜の近代化に多大な貢献をした大実業家で数寄者、原富太郎(号、三渓)が、明治三十九年、私邸の庭を市民に広く公開なさった名園である。庭園内には国の重要文化財建造物に指定された多くの歴史的建造物が点在する。

静謐な一画には、原三渓の業績、自筆の書画、下村観山、横山大観、速水御舟などのゆかりの作家作品を展示する三渓記念館があり、学会会場の喧騒から離れて昼の一時、お茶を一服頂戴した。幼い頃に目にした海岸近傍の景観は失われたと申されたタクシーの運転手さん、広い園内で道に迷った時に誘導して下さったボランティアガイドの方、本日伺ってきましたと申し上げた際のホテルスタッフの皆様、何の方からも原三渓を敬愛し、三渓園を大切に思っておられる気持ちが伝わって来た。





記念館で求めた『三渓園100周年 原三渓の描いた風景』の「三渓園関連資料・文献」新進芸術家への支援・交友の章には、横山大観著『大観自伝』に収載されている、画伯の硬骨漢、面目躍如たる言葉が紹介されていた。原三渓は芸術保護の一環として若い芸術家への支援、育成を行なうとともに、取集した美術品を手に取れるような形で公開し、比較研究や自己研鑽を可能せしめる文化サロンとしての場を提供なさった。そして関東大震災で被災した横浜復興のために私財を投げ打ち、以降は古美術購入をおやめになったという。
 何を為す、為したは勿論である。そして同じく、その時に何を為さず、為さないと決したかという選択にも、御人の立ち姿が如実にあらわれる感がある。



「このころのこと、岡倉先生は東京に出て、原富太郎さんと会われお話合いがありました。金持ちのことですから、美術奨励のために前途のある人を保護してやらないかということでご承諾になって、下村・安田・今村・前田・小林、この五人が原さんから毎年いくらかずつ研究費をもらい生活していました。
 後々のことになりますが、岡倉先生がお亡くなりになり、五浦にのこっていた下村君も五浦を引きあげ、横浜の原さんの邸宅に住むようになりました。そのころ、私も原さんからしきりにお誘いを受け、盛んに横浜に来いというものですから、お尋ねして1か月も泊っていたことがあります。その時、自動車で、あの方の所有地をずっと見て回りましたが、「今歩いて来たところでどこかあなたの気に入ったところはないか」と言ってくれました。しかし、私は、どうも前からお金持ちにそういうふうに金を出されてやるということを、あまりかんばしくないと思っていましたからすっぱりお断りしてしまったのです。私は後から誘いを受けたのですが、そんなわけでした。もちろん菱田君はもう亡くなっておりませんでした。」(大観自伝, p108-109)

参考資料:
財団法人 三渓園保勝会編:「三渓園100周年 原三渓の描いた風景」, 神奈川新聞社, 2006
青柳恵介編:別冊太陽 特別記念号「101人の古美術」, 平凡社、1997
横山大観著:講談社学術文庫「大観自伝」, 講談社, 1981
横山大観著:「大観画談」, 日本図書センター, 1999

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