「部屋住みとは-------江戸時代 下級武士の家では 次男以下の男は婿にいく以外には 道はなく それもかなわぬ場合には 部屋住みとなり 厄介者として 一生を送るほかなかった」(果し合い・冒頭字幕)
《果し合い》は時代小説の名手、藤沢周平原作、2015年制作の時代劇ドラマである。主人公の庄司佐之助は、兄、次いで甥が家督を継いだ下級武家の部屋住みとして離れ家に一人暮らす老武士である。唯一大叔父と呼び親しんでくれる血縁は甥の娘の美也だけであった。ある命日に美也を伴い左之助が向かった先は、雑草に覆われ苔生した自然石一つの墓石である。謂れを尋ねた美和に、私もいずれこの下に入るだろうと答える。その後にもう一つ寄って行こうかと辿り着いた先の、遥かに立派な石塔は手向けの香華なく静まっている。これらは佐之助がかつて別れを告げた女性達の墓所である。
佐之助は、婿養子となる縁組が決まっていた二十歳の時、婚礼直前の果し合いに勝つも負った手傷で跛行の身となる。この顛末で破談となった先の許嫁、牧江に「私と夫婦にならずにあなたは幸せなのですか。」と駆け落ちを懇願されるも、新たな穏やかな縁組が彼女の幸福と思い定めて、佐之助が約束の場所に行くことはなかった。しかし婿を迎えた一年後、牧江は心の病で夭折する。部屋住みの弟を憐れんだ兄は、床上げ(隠し妻)として百姓の娘みちを娶らせる。「短い間でしたが、あなたと一緒に居られてみちは幸せ者です。」と今際に告げて彼女もまた早世する。
「どうせ生きているのか死んでいるのかわからぬ身じゃ」と呟く佐之助の生涯に、突如、風雲急を告げる事態が生じる。藩の番頭を務める上士、縄手家嫡男の達之助が縁組を断られた事を遺恨に、美也と相思いの松崎信次郎を斃すべく果し状を突きつけたことを知ったのである。私も行きますと取りすがる美也に向かって「ばかめ!女子供の出る幕ではないわ」と、これ迄の飄々とした顔貌を一変させて大喝する。佐之助は夜の河原に駆けつけ無用な果し合いはやめなされと諭すが、達之助は爺と悪罵して挑発的な態度を崩さない。佐之助は遂に鯉口を切り、斬り込ませた極限に鞘から一刀を抜き放つ。その渾身の居合抜刀は、武家社会の一隅にこれを舎(す)つれば即ち藏(かく)るであった大叔父の真骨頂である。
助太刀の任を果し、手負いの信次郎を介助して無事帰還した佐之助は、その夜半、駆け落ちの旅立に二人を送り出す。戸口に佇み見送る頬を滂沱として涙が流れ落ちる。美也の前途に暗翳を投じる禍根は断った。泥の様な一夜の眠りから目覚めた翌朝、「私庄司佐之助儀、甥の娘、美也の縄手達之助一党より被り候恥辱を雪がんと争いを為し、怨みを買い昨夜果し合いの申し出を受け達之助を討ち取り候。この罪咎如何なる御裁きであろうとも謹んで御受け致し候。切腹も覚悟の上にて御座候。」と雄渾な筆先で大目付に差し出す上申書をしたためた後に、陋屋の何処に仕舞われていたのか、皺一つない裃の正装に身仕舞する。それから庭に出て、白菊を牧江に次いで黄菊をみちにと摘み、今そちらに行くからなと語りかけた二輪の菊花を懐に収める。再び囃子が入るエンディングは、全ての事を成し御用屋敷に続く道を一人進み行く佐之助の姿である。身の果てを見定めた顔には一点の曇りもない。大叔父、庄司佐之助は行く処に行き着いたのである。
佐之助にかかわる女性群、美也、牧江とみちの三人の女性との心の交流は、原作(新潮文庫『時雨のあと』に収載)よりも遥かに細部に亘り映像化されている。儚い縁を結んだ二人の女性に語りかけながら二輪の菊花を摘む挿話、己の遅疑逡巡がゆえに薄幸な最期を迎えた牧江を眼前の美也に重ねた胸懐を吐露する、「どうあろうとも、おまえの二の前だけはさせぬ」という独白、床上げとしての過酷な一生を強いたみちを看取る末期の交感、これらは何れもドラマの映像にしか見出せない。それにしても、人に見せぬまま、また仮に語るとも真意が伝わる事はない、心の深奥に収めて泉下に携えてゆかんとする所懐は、時代を越えてどの様な人生にもあるに違いない。
美也に対する大叔父としての柔和な慈愛が春風の様に観る者の心に伝わって来る中、彼が遂に幸せに出来なかった二輪の花への悔悟が重低音に響く。そして紛う方なく《果し合い》に野太く流れ、終章に向かい高まりゆく主旋律は、庄司佐之助が体現する武士道の美学である。新渡戸稲造は『武士道』で、林子平の学則における言葉、「義は勇の相手にして裁断の心なり。道理に任せて決定して猶予せざる心をいうなり。死すべき場合に死し、討つべき場合に討つことなり。」を挙げている。その時その場所で機に臨み変に応じ、規矩準縄に随いて何を截断し何を為すべきかを、彼等は幼年より鍛えられ骨の髄まで叩き込まれる。そしてまことに得たりし花であれば、老木になるまで花は散らずに残る。
繰り返し挿入される平家物語、敦盛最期のモティーフは、同じく親子ほどの年の開きがある佐之助と達之助との間の一騎打ちに重なる。恐れるに足らない軽輩、“時代遅れの爺(ジジイ)”と佐之助を嘗め切った達之助は、去就を弁えない、生死の関頭に立った経験もない“今どきの若造”である。まさなうも敵に後ろを見させ給ふものかな、返させ給へと、扇を挙げて招いた熊谷次郎直実の呼びかけに潔く取って返し、汝が為にはよい敵ぞ、たがとくとく首を取れと怯懦の念なく宣った、其の上のやさしき(優雅な)上臈、平敦盛の面影などは微塵もない。「あはれ、弓矢を取る身ほど口惜しかりけるべきものはなし」と心に留めるところがあった直実は、その後出家に至る道を進む。一度生を得て滅せぬもののあるべきか。時代は下り、吹毛用い了(おわ)りし時、直実ならぬ佐之助の胸に去来したものは果たして何であったろう。
最後に思うのは、名優、仲代達也が演じた大叔父、庄司佐之助の風貌を拝して脳裏に浮かんだ、日本近代彫刻の雄、高村光雲作の《老猿》である。木彫りの《老猿》は、岩を右手に掴み、左に逃した大鷲の羽を握り座して揺るがず、頭上の虚空を眼光鋭く見据える老いた猿の造形である。魂の奧処から脈打つ気迫を全身に漲らせ、文字通り裸の身一つで大鷲と闘い抜いた老猿の風体を、私はかつて東京国立博物館で初めて目にしてその場に立ち尽くした。本来、野性の獣が生きるとはそういうものである。