花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

リングに上がれば│紫式部日記

2024-04-11 | 日記・エッセイ

中国安徽省産、鳳丹皮の薬用牡丹、令和六年の初花

ものもどきうちし、「われは」と思へる人の前にては、うるさければものいふことももの憂くはべり。ことにいとしも、もののかたがた得たる人はかたし。ただ、わが心の立てつるすぢをとらへて、人をばなきになすめり。
 それ、「心よりほかのわが面影を恥づ」と見れど、えさらずさし向かひ、まじりゐたることだにあり。「しかじかさへ、もどかれじ」と、恥づかしきにはあらねど、「むつかし」と思ひて、呆(ほ)け痴(し)れたる人にいとどなり果ててはべれば、「かうは推しはからざりき。『いと艶に、恥づかしく、人見えにくげに、そばそばしき様して、物語好み、よしめき、歌がちに、人を人とも思はず、妬たげに見おとさむもの』となむみな人々いひ、思ひつつにくみしを、見るにはあやしきまでおいらかに、異人(ことひと)かとなむおぼゆる」とぞ、みな言ひはべるに、恥づかしく、「人にかう『おいらけもの』と見おとされにける」とは思ひはべれど、ただ、「これぞわが心」と慣らひもてなしはべる有様、宮のおまへも、「『いとうちとけては見えじ』となむ思ひしかど、人より異(け)にむつましうなりにたるこそ」とのたまはするをりをりはべり。くせぐせしく、やさしだち、恥ぢられたてまつる人にも、そばめたてられではべらまし。

(小谷野純一訳注:笠間文庫「紫式部日記」, p160-162, 笠間書院, 2013)

わたしこそピカイチと人をこき下ろし鼻息荒い人は、キモくてうざいからものを言うのも億劫になる。確かに御尤もと申し上げるべき、その自慢げにぶら下げた能書き通りの人なんか滅多にいやしない。ひとり勝手な基準をもとにあんたはアカンと裁いているだけ。などとつらつら思いながら、本心とは真逆の顔をしれっと晒している自分もなかなかの玉やけど、しょうがないやんと独り言ち人と向かい合っていることもある。ほらあの有様と言われまいと努めるのは、何か言われるのが恥ずかしいからやない。また面倒臭い成り行きに帰結するのが御定まりやから。 
 そのような次第で、うすぼんやりに立ち振る舞っていたら、
「このような御方とは思いませんでしたわ。思わせぶりの恥ずかしがりや風で、なんとなく冷ややかで近寄りがたく、物語や風流をお好みになる様で、何かあれば歌をお詠みになり、人を人ともお思いにならず、嫉妬深く相手を見下しておられるお人だと、ほんとに嫌味な方ねと皆で噂しておりましたのよ。でもお会いしたら奇妙なまでおっとり風で別人かと思いましたわ。」と口々に言ってくるので、他人からお花畑の天然と侮られる、この事こそが恥ずかしいと忸怩たる思いで苦笑するしかない。
 こちらが掛け値なしの本性でございますとまやかし韜晦してきた仕業は、中宮様におかれても、
「とても気を許して接することは無理な人だと思っていましたが、他の人よりも親しくなりましたね」と仰せ頂く折々がある。中宮様からも一目置かれている、色々と癖のある優雅ぶる女房達からも、弾かれないようにすべきと考えているこの頃。-----気を置くからやない。只々色々と煩わしいから。(拙訳)

《蛇足の独り言》式部の言葉はおまゆうで内面は漆黒の闇、迎え撃つ女房の言葉もいけずな褒め殺しに溢れる。真に「おいらけもの」であったならば一日で居場所が消滅する、優雅な魑魅魍魎が跋扈する丁々発止の闘争社会である。