花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

白い花が咲く頃に

2018-03-29 | 日記・エッセイ


その季節が来たなとふと思い知らされ、そして何時の間にか月日が経つうちに忘れてしまっている。毎年、三月も終わりになる頃、医院駐車場に各種の白い花が咲き並ぶ時節が到来する。冒頭写真は左から、木瓜、利休梅、馬酔木の花である。さて積読宣言の舌の根も乾かぬうちの憩いの読書、白氏文集を紐解けば、社会批評を扱った白居易の諷諭が面白い。その中に質朴な白牡丹の花を詠った《白牡丹詩》という詩がある。白い花づくしとして末尾にその全詩を掲げた。

《白牡丹詩》の真骨頂は、「始めて知る、正色無く愛悪は人情に随ふことを。豈に唯だ花のみ獨り爾らんや。理は人事と幷ぶ。君看よ、時に入る者は紫艷と紅英なるを。」にある。その詩意は以下の通りである。
-----始めて知った、世間には確固とした美の標準などはなく、人々の好き嫌いは感情のままに決まるものだということを。花の事だけではなく、その理(ことわり)は人間(じんかん)の全ての事象に言えることだ。ほら見るがいい、時流に乗って世に華めく輩どもは、どれもこれも “人そばえの花”の紫や紅の花ばかりじゃないか。

正色無くの「正色」は絶対的な美の標準を意味する。『荘子』斉物論篇、「四者孰知天下之正色」(四者孰(いず)れか天下の正色を知らん)のくだりを踏まえ、良し悪しの人の判断があくまでも相対的なものであることが詠われている。
 虚白相向かつて生ずの「虚白」は、同じく『荘子』の人間世篇にあり、
「聞以有翼飛者矣、未聞以无翼飛者也。聞以有知知者矣、未聞以无知知者也。瞻彼闋者、虚室生白、吉祥止止。」(有翼を以て飛ぶ者を聞くも、未だ無翼を以て飛ぶ者を聞かざるなり。有知を以て知る者を聞くも、未だ無知を以て知る者を聞かざるなり。彼の闋(けつ、ここでは空)を瞻(み)る者は、虚室に白を生じ、吉祥も止まるところに止まる)と記されている。
 その意味を辿れば、翼(作為的な計らい)で飛ぶ者があっても、翼を持たない自然体で飛ぶという者は聞かず、知恵を巡らせて物事を捉える者があっても、知恵という分別を離れて捉えるという者のはなしは聞かない。ひたすら心を空にし虚室である心であるならば、其処には自ずから“純白”が生まれて良き事が聚合する次第となる、である。白牡丹に無為自然の心映えの人が対峙すれば、「之に對すれば心も亦た靜かに、虚白相向かつて生ず」となり、清々しく妙なる共振現象が起きるのであろう。
 自宅の庭には鳳丹皮の薬用牡丹を含む五株の牡丹を植えている。牡丹の別名、穀雨花の時節を来月に控えて、葉叢に覗く蕾は日一日と膨らんできている。

白牡丹詩 和錢學士作    白居易

城中看花客、旦暮走營營。素華人不顧、亦占牡丹名。
閉在深寺中、車馬無來聲。唯有錢學士、盡日遶叢行。
憐此皓然質、無人自芳馨。衆嫌我獨賞、移植在中庭。
留景夜不暝、迎光曙先明。對之心亦靜、虛白相向生。
唐昌玉蘂花、攀玩衆所爭。折來比顏色、一種如瑤瓊。
彼因稀見貴、此以多為輕。始知無正色、愛惡隨人情。
豈惟花獨爾、理與人事幷。君看入時者、紫艷與紅英。


城中花を看る客、旦暮(たんぼ)走ること營營たり。
本華は人顧みざれども、亦た牡丹の名を占めたり。
閉ざされて深寺の中に在り、車馬來る聲無し。
唯銭學士(せんがくし)の盡日(じんじつ)、叢を遶つて行く有るのみ。
憐れむ此の皓然の質、人無けれども自ら芳馨。
衆は嫌へども我獨り賞し、移し植ゑて中庭に在く。
景を留めて夜暝(くら)からず、光を迎光えて曙に先づ明らかなり。
之に對すれば心も亦た靜かに、虛白(きよはく)相向かつて生ず。
唐昌の玉蘂花(ぎょくずいか)、攀玩(はんぐわん)して衆の爭ふ所なし。
折り來つて顏色を比すれば、一種瑤瓊(えうけい)の如し。
彼は稀なるに因つて貴ばれ、此は多きを以て輕んぜらる。
始めて知る 正色(せいしょく)無く、愛惡(あいを)は人情に隨ふことを。
豈に惟だ花のみ獨り爾(しか)らんや、理は人事と幷(なら)ぶ。
君看よ 時に入る者は、紫艷と紅英なるを。

参考文献:
岡村繁著:新釈漢文大系97「白氏文集 一」, 明治書院, 2017
金谷治訳註:岩波文庫「荘子 第一冊 内篇」, 岩波書店, 1975