花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

実業と虚業

2017-11-12 | 日記・エッセイ


BS朝日で現在放映中の《五木寛之の百寺巡礼》は欠かさず視聴している番組で、本年4月20日の放映は奈良県、秋篠寺参詣の旅であった。かつて週刊現代に連載の『青春の門』を初めて拝読して以来の好きな作家である。以下の書き起こしは秋篠寺にて「伎芸天」に捧げる思いを発露なさったくだりである。現代の代表的な作家、文化人のお一人である氏の、大家でありながら御自身の立ち位置をなおも探り続け、携わってこられた生業の存在意義を厳正かつ謙虚に見定めようとなさる姿勢に襟を正す思いがした。   

「ものを表現してゆく人間に呼びかけてゆく、大丈夫だよと肩を叩いて下さる様なそういう暖かいものを感じますね。ですから人間には色々な仕事がある。歌を歌う仕事もある。絵を描く仕事もある。焼物を焼こうという仕事もある。そういう仕事というのは、田んぼを耕してお米を作ったり、ビジネスをしたりする仕事とはちょっと違うのですよね。ものを生産する仕事ではないのです。エンターテイメントなどと言いますけれど、人々を慰藉するものというか、そういう仕事をしている人間というのは、何処かこういうことをしてお天道様に申し訳ないという気持ちがものを作っている人間にはきっとありますよ、全ての人間に。ふっと心弱くなってこんな自分でいいのだろうか。いいのだよ、君達のやっていることはそれでいいのだよ、世の為人の為、何か少しでもそれを慰めたり励ましたり出来るのだったら大事なことだよ、と無言でおっしゃって背中をぽんぽんと叩いていいのだよと、そう言う風に言って下さっている気がしますね。」

そして中野孝次著『ハラスのいた日々』の中にも本書の本題とは外れるが、「物を書く」ということに言及された一節があった。『ハラスのいた日々』は子犬の頃から育て慈しんでこられた一匹の愛犬ハラス(縄文柴らしい)と作者との、心温まる交流の日々が切々と綴られた良書である。ちなみに著者の『実朝考~ホモ・レリギオーズの文学』は深く感銘を受けた愛読書の一つである。

「----毎朝、勤めに出ないで呑気に犬など散歩させているおれは、この人たちの目にはどんな者にみえているのだろうな。
 実社会でそれぞれなんらかの「実業」に就いているに違いない人たちの流れにむかって歩いてゆくことには、いつまでたってもある抵抗があり、物を書くという営みを「虚業」というふうに意識せずにはいられなかった。」

(文春文庫『ハラスのいた日々』, p195, 文藝春秋, 1990)

功成り名をお遂げになった後、銀幕、舞台、書斎などの外に足を踏み出して(軸足は外さずに)、声高に政治的発言・活動をなさってゆかれる方々をお見受けする。インフルエンサー(influencer)である我こそが世論形成者(opinion leader)たらむという、絶対の自負心や使命感がおありなのであろう。あるいは自らが歩んできた世界を何処か「虚業」と感じて「実業」への一発逆転をはからんとする勇み足であるのか、はたまた豊かな文化芸術、学問の担い手である自分達の営為こそが「実業」であって、以外の粗雑で野蛮な実社会の生業が「虚業」であるとお考えの選良意識が根底におありなのかもしれない。

さて我が身を振り返ってみれば、医業は実業か虚業なのか。医師という仕事にも様々な形態があるものの、形のあるものを生産する仕事とも言えず、形のないものを表現する仕事とも異なっている。エンターテイメントは業務の中心ではないが、人々の慰藉という要素は臨床医に必要かつ不可欠である。
 日常診療において、回復・治癒に至って頂けなければ、当然、不安・不満がつのる。それならば回復・治癒に至れば100%の満足を得て頂けるかといえば、必ずしもそうではない。身体は治ったけれども、心が置き去りにされたとお感じになった場合が後者のケースである。医学(西洋医学)は元来、自然科学の範疇に含まれるが、自然科学的側面からの理解に終始していたら市井の臨床医は勤まらない。必ずしも単純な理論や理屈では割り切れない複雑系の人の心を汲み取り掬い上げる、御釈迦様の三十二相に含まれる「手足指縵網相」(しゅそくしまんもうそう)の如きものが確実に臨床の現場では求められる。御釈迦様に遥かに及ばない人間の指間にも水掻き様の薄く皮膚が張った部分(interdigital web)がある。その様な痕跡らしきものしかない現し身の凡医は、ただひたすらお人の機微に対するセンサーを磨き意識して努めるより他に道はない。