紘一郎雑記帳

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晋作が直面した幕末の動乱「第5部」 紘一郎雑記張

2011-08-12 04:05:22 | Weblog

晋作が直面した幕末の動乱「第5部」 
紘一郎雑記張

海原徹氏 京都大学名誉教授 教育学博士
      吉田松陰や松下村塾研究の第1人者

晋作が総督を罷免されたころ、京都では
薩摩と会津2藩が主導した政変で、
長州藩勢力は京都から一掃され、7郷落となる。

巻き返しを図る長州藩では、大兵を率いて
京都へ攻めあがるべしという進発論と
富国強兵を目指す割拠論に分かれていた。

晋作は割拠論であったが、もっとも藩命に近い
進発論の説得に失敗し、そのまま脱藩
上洛したが、桂小五郎(木戸孝允)に説得され
藩にかえり脱藩の罪で野山獄にはいったのです。

この年の夏、長州藩は禁門の変を
起こして敗走、第1次長州征伐の
幕府軍を迎えたが、ほぼ同じ時期に
英・仏・米・蘭の4国連合艦隊が
馬関海峡に現れたのです。

先の海戦で軍艦など失った長州藩には
戦う余力はなく、停戦和平交渉に
あたったのが、座敷牢で謹慎生活中の
高杉晋作だったのです。
 

交渉で連合艦隊は、莫大な賠償金と
馬関沖の彦島の租借を要求しましたが
晋作は戦い勅命で行なわれたので
長州藩が払うのは筋違いと突っぱね
幕府に要求するように主張したのです。

長州征伐の大軍が迫る元治元年(1864)
晋作は萩を脱出九州に逃れました。
再び馬関に戻った晋作は奇兵隊など
緒隊の同志に働きかけ武力蜂起による
政権奪取を企てました。

 翌年正月、晋作が率いる奇兵隊は
萩城下の正規軍内戦でついに
正論派政治の樹立に成功したのです。

この最大の功労者は晋作でしたが
彼は新政権入りを辞退し引退を宣言
海外遊学をめざしました。

長崎に行った晋作は、イギリス商人の
グラバーに 、今は遊学ではなく、
藩に帰って、体勢を立て直し幕府に
対応すべきといわれ、馬関に帰りました

続きは
高杉晋作「アウトサイダーの生涯」
最終回「第6回」です。