「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「高台寺」(こうだいじ)

2006年03月31日 23時02分56秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都らしいさを探訪するに、最もふさわしいところが高台寺界隈ではなかろうか。祇園をそぞろ歩きながら建仁寺を経て東山安井から高台寺参道へと向かう。八坂の塔、石塀小路、南に下れば二年坂から産寧坂、清水へと。北へ歩を返すと八坂神社、智恩院、三条へと行く。
 私は、最も京都らしい高台寺界隈が好きで、時折、訪れる。特に小雨の日は、石塀小路から高台寺の雨に濡れた石畳の感じが好きである。月形半平太が「春雨じゃ濡れて参ろう」と言った粋な台詞が似合う所だ。
 当寺は、東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北にあり、豊臣秀吉の没後、その菩提を弔うために北政所・ねね(秀吉の妻)が慶長11年(1606)に徳川家康の援助を受けて開創した。
 ねねは出家して高台院湖月尼と号し、寛永元年7月(1624)に建仁寺の三和和尚を開山として迎え高台寺と号した。
 現在残っているのは開山堂、霊屋(おたまや)、傘亭、時雨亭、表門、観月台などで重要文化財に指定されている。
 霊屋には秀吉とねね木坐像が安置され、須弥壇や厨子には、華麗な蒔絵が施され、高台寺蒔絵と称され桃山時代の漆工芸術の粋を集めている。見所は多いが開山堂と霊屋を結ぶ階段が龍の背(鱗)に似ていることから「臥龍廊」(がりょうろう)と名づけられている。霊屋から見下ろすと、正に巨大な龍に見える。目立てした白砂に浮かぶ春の枝垂桜、秋の紅葉も絶景だ。

 交通:JR京都駅より市バス、東山安井下車、徒歩約5分。
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「高山寺」(こうざんじ)

2006年03月30日 11時28分40秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大寒の頃、この関西にも雪が舞った。京都の雪景色をと思い取材に出かけたものの、雪のかけらもなく京都盆地はひっそりとし、底冷えが身体を震わせていた。等持院を後にして、嵐山を抜け周山街道に入り高尾山麓へと回った。この地は栂尾(とがのお)と称し、古刹の栂尾山高山寺がある。
 ここはデュークエイセスのヒット曲「女ひとり」(永六輔作詞・いずみたく作曲)の2番の歌詞、
『京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた女がひとり 大島つむぎにつづれの帯が
 影を落とした石だたみ 京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた女がひとり』で知られている。

 裏参道の駐車場に車を置き、清滝川のせせらぎを耳にしながら山道を登ると、宝亀5年(774)光仁天皇の勅願によって開祖された同寺の古い山門が出迎えてくれた。
 建永元年(1206)後鳥羽院よりこの地を拝領し、華厳宗興隆の道場となすべく、奈良東大寺尊勝院の学頭を務めた明恵上人(1173~1232年)によって再興された古寺は、幾たびかの兵火で諸堂のことごとくを焼失。学堂の「石水院」だけが残り、鎌倉時代初期の寝殿造りの優雅な姿は世界文化遺産に指定されている。
 境内には巨大な杉・檜や老松、楓などの樹木が茂り、「華厳浄土」にふさわしい自然美の景観を今なおとどめている。特に秋の紅葉は絶句するほどの美観で、大勢の人たちが訪れる。

 石水院には、「鳥獣人物戯画巻」全四巻が国宝の指定を受け展示されている。第一、第二巻は平安時代後期の作とされ、第三、第四巻は鎌倉時代の作といわれている。筆者は鳥羽僧正と称されいるが定かではない。中学時代の社会科の教科書、図画の教科書で見たのが初めてであったが、その元がここにある。
 また、この地に宇治茶の初めとされる茶畑が現存しいる。お茶は平安時代初期、栄西禅師が中国からお茶の種を持ち帰り、筑前国博多に植えたとされ、その後の各地の寺院を中心に茶が植えられて、栽培が広がったと伝えられているが、明恵上人が栄西から種をいただいたものを、この栂野尾高山寺内に植え栽培した、これが宇治茶の始まりとされている。

 所在地:京都市右京区梅ヶ畑栂尾町。
 交通:JRバスで栂ノ尾下車、徒歩5分。
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「高桐院」(こうとういん) 

2006年03月29日 18時31分33秒 | 古都逍遥「京都篇」
 敷き紅葉で知られる大徳寺搭頭・高桐院。ここは戦国時代の武将で、“利休七哲”の一人とうたわれたもある細川忠興(三斎)が父の藤考(幽斎)の菩提所として、慶長6年(1601)に創建。
 細川忠興は茶人としても優れた人物であったらしく、利休と親交があったこともあって、高桐院の書院は利休の邸宅を移築したという。利休風の茶室「松向軒」は、豊臣秀吉が催した北野大茶湯の際、北野天満宮に設けられた茶席を模したしたものだそうだ。土壁つくりなのに金色に輝いている。壁の色が黄土だからだそうだか、これがなかなか美しい。開口部からの採光が巧みで、光りにこだわりを感じる。
 書院「意北軒」は、千利休の屋敷の広間を移築したと伝えられる。質素でかつどことなく高貴な気品を醸しだしている。寺宝の李唐筆「絹本墨画山水図」二幅は南宋初期山水画の名作で国宝。
 客殿の西にある庭は細川家代々の墓所となっており、そこに建っている石灯篭が、三斎とガラシャ夫人(明智光秀の娘)の墓塔となっている。これはもともと利休秘蔵の灯篭で、豊臣秀吉と三斎公の二人から請われて、利休はわざと裏面三分の一を欠いて疵物と称して秀吉の請を退け。後に利休割腹の際、あらためて三斎公に遺贈されたもので、墓塔銘を「無双」といい別名「欠灯篭」という。

 この寺院は数度訪ねたことがあり、表門から鍵の手になった敷石道の参道は静寂が漂う。雨時は蛇の目傘に下駄の歯音が似合い、秋はシルエットのカップルにはらはらと舞い散る紅葉が似合うところでもある。
 茅葺の庵を背景に青葉、紅葉の写真を撮る人たちを多く見かける、古都の定番と化した四季折々の風雅がある。
 私は「意北軒」から眺める紅葉の庭がとても好きだ。秋には毎年のように訪ね、三斎公が生前愛好した鎌倉時代の美しい石灯篭をあしらって、苔むす庭に落葉した紅葉をアクセントに写真を撮る。

 袈裟形のおつくばいについて説明しておくと、この浄水盤は加藤清正公が朝鮮王城羅生門の礎石を持ちかえり、細川三斎公に贈ったもので、三斎は、灯篭とともに愛用し熊本・江戸間の参勤交代にも持ち歩いていたと伝えられている。

 所在地:北区紫野大徳寺町80。
 交通:市バス大徳寺前下車、徒歩約5分、地下鉄烏丸線「北大路」駅から徒歩15。
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「何有荘」(かいうそう)

2006年03月26日 21時22分26秒 | 古都逍遥「京都篇」
 およそ100年ぶりに公開した何有荘(かいうそう)は、正式には大日山法華経寺幸福寺何有荘と称し、東山を借景とし京都市内を一望できる6千坪を有するスケールの大きな庭園を有する私邸である。琵琶湖疎水の一番水を引き込んで、明治28年(1895)貴族院議員・稲畑勝太郎が、小川治兵衛(植治)に命じて作庭させた小堀遠州流庭園で名高い。
 元々は南禅寺の700年もの歴史を持つ塔頭だった。幕末の動乱で焼失していた三門再建のため、当時の南禅寺館長・正因庵住職が自身の塔頭を、稲葉産業の創始者でもあり、日本に映画を持ち込んだ男としても知られる稲畑勝太郎に売却した。彼は外国官僚を迎えるための迎賓館とすべく譲り受けたもので、小川治兵衛に作庭させ「和楽園」と命名した。
 彼の死後、昭和28年に宝酒造の中興の祖と称される大宮庫吉が譲り受け、禅の言葉から取って「何有荘」と命名した。

 「これの家を 何有荘とぞ名づけたる 何もあるなしのわがこの心」

  表門を入ると武田五一設計(京都市役所などを設計)の和洋折衷の洋館が目に飛込んでくる。その先の 清流にかかる石橋を渡ると右手に飛泉門と名付けられた編笠門がある。この門をくぐると右手に伊藤博文の直筆と伝わる「神泉亭」の額がかかった立礼席として建てられた神泉亭があり、東山を取り込んだ広大な庭が広がっている。
 大池は琵琶湖疎水より3つの滝が注ぎこまれ、心字型に造られた。岩島、沢渡石が配され、蓮や菖蒲が施されている。瑞龍の滝は落差30㍍もあり、楓の葉蔭からながれ落ちる姿は美しい。池畔の小径を奥のほうに進むと、明治天皇が使用されたという茶室龍吟庵「残月亭」がある。
 また池の周りにはさまざまな苑路があり、鐘楼、連珠滝、水車を眺めながら散策できる。さらに斜面を登っていくと周りの景色が刻々と変わり、やがて山上の芝生広場へと導かれる。頂の草堂からは京都の市街地や北山、西山の連山が望め、また南禅寺の三門も見下ろせて、正に絶景かなである。
 面白いのは、展望台の下にトンネルの入口がある。その洞窟風のトンネルは明治天皇専用門、つまりお成り道だったそうで、草堂の内部並びに何有亭の外側の疎水、哲学の道へ通じている。

 知られざる京都の穴場中の穴場、築山林泉回遊式庭園は小川治兵衛の作庭らしく疎水をふんだんに取り入れ、17種類におよぶ紅葉と17種類の苔を見事に取り合わせている。随所に茶室、池の飛び石、木々草花の植栽と隅々まで工夫が行き届いている。拝観料が1000円ということもあってか、100年ぶりの公開にもかかわらず拝観者は少なく、自由散策が許されていることから、俳句の一句でも詠みながらのんびりと散策が楽しめる所だった。

 京都市左京区南禅寺福地町46
 地下鉄東西線「蹴上」駅下車、徒歩5分。市バス南禅寺・永観堂バス停下車、南へ徒歩 5分。
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「光明寺」(こうみょうじ)

2006年03月25日 21時18分33秒 | 古都逍遥「京都篇」
 洛西のはずれ、西に松の緑に彩られた善峯、小塩の連峰を帯び、南に伏見、右に長岡京、左に大原野を擁して、春は桜、秋は紅葉の景勝地として知られる光明寺。総門から薬医門を経て玄関に通じる紅葉のトンネルと御影堂北側の黄色に真紅の照り映える紅葉の美しさは京都随一の名勝地であり、また、大覚寺、仁和寺とならび映画のロケ地としても知られている。
 大原野に茂る竹林の葉音を聞きながら緩やかな紅葉のトンネルをそぞろ歩けば、それだけで文豪気取りになれる。西山浄土宗の総本山である当寺は、承安5年(1175)3月、法然上人が43歳の時、ここ粟生野で初めて念仏の法門を説いた立教開祖の地。源平合戦で知られる熊谷次郎直実(熊谷蓮生・れんせい)法師が、戦いに明け暮れた我が身の罪を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ね、その弟子となり、諸国行脚の後にこの地に戻り、寺を建立したのが光明寺の発祥である。 御影堂は入母屋瓦葺総けやき造り一八間四面。22年の歳月をかけて宝暦3年(1753)に再建された。御影堂の右側にある阿弥陀堂に祀られている阿弥陀如来立像は、約800年ほど前、光明寺の前身・三昧院を建立した際、熊谷蓮生が近江の国・堅田にある浮御堂から譲り受けたものを法然上人が開眼供養したものと伝えられている。 白州に一八個の石を配した信楽庭も見所。

京都府長岡京市粟生西条ノ内26-1。
交通:阪急京都線、長岡天神駅下車、光明寺方面行きバス、光明寺下車。






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「光雲寺」(こううんじ)

2006年03月23日 20時57分15秒 | 古都逍遥「京都篇」
 禅林寺永観堂を東に入り哲学の道の起点に立ち、銀閣寺方向に北に上がって進むと、ほどなくして疎水をはさんで右手に京風の建物「叶匠寿庵」(和菓子)が見えてくる。
 その先の左手(西)に市街が遠望できる場所があり、眼下に寺院が見える。そこの所に
大正4年6月建立、御水尾天皇・東福門院勅願所「光雲寺」と刻まれた石碑と階段がある。これを下りると「光雲寺」へと通じる。普段は非公開となっており、このたび24年ぶりに公開(2005)されると知り取材に訪れた。
 当寺は、臨済宗南禅寺の塔頭で、霊芝山(れいしざん)と号し、臨済宗南禅寺派に属する。南禅寺北ノ坊とも呼ばれる。
 寛文年間(1661頃)後水尾天皇および中宮東福門院(二代将軍徳川家忠の娘和子)が南禅寺り英中禅師に帰依したことから、もと摂津の国難波にあった安国寺を、明暦3年(1657)英中禅師によって再興された当寺を、寛文4年(1664)に東福門院の援助を受けて英中禅師により現在地に移され復興した。
 二代将軍徳川家忠の娘・和子(後水尾天皇の中宮)は13歳で入内し、朝廷幕府関係の円滑化に貢献したことで知られる。当寺は邇(くにの)宮家の菩提所となり、寺の背後には後水尾天皇々女顕子内親王の墓、門前北には久邇宮家の墓がある。境内は創建時は広大であったらしく、火災にあい、また明治の初めの変革により縮小された。
 重厚な唐様建築の仏殿(法堂)は創建当時のもので、桁行き三間、梁行き三間の身舎(みや)の四周に裳階(もこし)を配す。内部は中央に須弥壇おき、東福門院の念持仏・釈迦如来尊像が祀られ、左右に阿難(あなん)、迦葉(かしょう)の二尊者東福門院の坐像を安置している。
 絹本著色「東福門院像」は、およそ200年前に描かれたものとは思えないほど彩色が良く保存され見事なものである。
 鐘楼は寛文11年(1671) の建造で、柱に転びをつけている。仏殿と鐘楼は、京都市指定有形文化財に指定されている。室町時代に活躍した明兆が描いたという羅漢図など、数多くの寺宝も公開された。
 また書院前には琵琶湖疏水をたたえた池泉式庭園は、昭和2年(1927)造園家として活躍した7代目小川冶兵衛(植冶)晩年の作庭で、流れや池の護岸石組にその作風がよく現れている。冶兵衛が、好んで用いる様式の東山を背景とした比較的小さい庭園で、滝口から池へのやや広い流れの中に小振りの石が配置され、渓流の雰囲気をかもしだしている。庭園の植栽としてイロハ紅葉、皐月、ツツジ、ドウダンツツジ、杉、沈丁花、百日紅、杜若など冶兵衛の特徴的な樹木草が用いられており、背後には哲学の道の桜並木が借景となっていた。
 また、沢飛びには灯篭などの石造品が用いられ、周辺との調和をはかり、加藤清正が朝鮮から招来した名品「瑪瑙の手水鉢」(めのうのちょうずばち)が二基が書院の縁先に配置されている。大きな円柱型の方は、少しわかりにくいから注意深く見てはいかが。手水鉢は一度、徳川家の手に渡り、のちに東福門院より光雲寺に寄進されたものだそうだ。

 所在地:左京区南禅寺北ノ坊町
 交通:京阪電鉄丸太町駅から市バス93、204、または三条駅から市バス5で東天王 町下車、徒歩約5分。
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「上御霊神社」 (かみごりょうじんじゃ)

2006年03月22日 23時10分48秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都は映画、テレビの舞台に多く登場し、読者の皆さまにも馴染み深い場所が映像に中で見られることだろう。
 撮影場所として使われる筆頭が嵯峨「大覚寺」、東山「南禅寺」、祇園新橋「辰巳神社」、御室「仁和寺」、八幡木津川「流れ橋」であろう。
 ところが観光で訪れる人たちがあまり知らない撮影の名所が「上御霊神社」である。
 京都御所の今出川御門から同志社大学の間を北へ抜けて行くと相国寺に突き当たる。寺域を抜けて少し北へ、曲がりくねった路地を歩くと当社がある。
 当社は、平安遷都にあたり延暦13年(794)桓武天皇が平安京の守り神として早良親王(崇道天皇)の神霊を祀ったのが始まりとされている。当時天変地異や疫病の流行があいつぎ、それは高貴の人々の祟りであるとされ、その人々の御霊を丁重に祀ることによって、災いをなくそうという御霊信仰が盛んになった。そしてその祭りを御霊会(ごりょうえ)といい、京都の夏祭りの多くは御霊会だが、当社の祭礼はその発祥である。

 歴史の長い京都には多くの怨霊が存在し、それらを鎮める祠もまた数多く、中でも特に強い怨霊を八つ祀る神社として知られる。そしてこの八霊を指して八所御霊とも呼ばれている。長岡京遷都に関連して起こった藤原種継暗殺事件に関わったとして幽閉され死去した廃太子早良親王。平城天皇即位に際して謀反の疑いを受け自殺した伊予親王と、その母の藤原吉子。皇太子恒貞親王を擁して謀反をはかり、伊豆に流された橘逸勢。これに続いて謀反の罪に問われ同じく伊豆に流された文室宮出麻呂。九州に左遷後反乱を起こして殺された藤原広詞。この六座の祭神と吉備真備と菅原道真の二座神を勧請した八祭神が、八所御霊として今も祀られている。

 また当社は、京の町を焼き尽くした応仁の乱の発端の地としても知られている。
 当社において、畠山政長と畠山義就のいとこ同士の衝突で始まり、東軍と西軍に2分された戦乱が京の町々、多くの由緒ある寺社を焼き尽くすことになる。応仁の乱の西軍の陣地となったことから、この界隈を「西陣」と称するようになり、京都の代表的織物、西陣織はこの地域の名前から由来している。
本殿は享保18年(1733)、内裏賢所御殿の遺構を昭和48年に復原したもので、四脚門(南門)は伏見城のものを移築したと伝えられている。楼門(西門)は寛政年間(江戸中期)に再建された。絵馬所は宝暦年中(江戸中期)内裏賢所権殿を絵馬所に造り改めたもので、皆川淇園(きえん)、小林雪山など著名な画師の作品がかけられている。
 西門を入った左手に「半日は神を友にや年忘れ」と刻まれた句碑があるが、松尾芭蕉が元禄3年(1690)に当社を参詣した折に奉納したとされている。

 さて、「上」とあるからには「下」もある訳で、下御霊神社は御所の南東の所にある。
「下御霊神社」は、大同2年(807)藤原仲成の陰謀の犠牲となり川原寺に幽閉され自殺した桓武天皇第三皇子伊予親王と、その母藤原吉子の霊を慰めるため、承和6年(839)出雲路に創建された。上御霊神社とともに皇室の産土神として崇められる。現在地に移ったのは豊臣秀吉の都市改造によるもので天正18年(1590)のことである。本殿は、寛政2年(1790)宮中の賢所御殿を移築した。また表門は皇居の建礼門を移したものという。
 さて、映画・テレビドラマとして登場する場面を少し紹介しておくと、長七郎天下ご免! では初回の「日本晴れ大江戸囃子」で、祭礼の神田明神として使われ、暴れん坊将軍吉宗評判記「16勝負に散った恋」では、富岡八幡宮として使われている。水戸黄門31「商売繁盛笹もってこい」では、兵庫の柳原蛭子神社として設定され、裏手と稲荷が、えべっさんの混雑を避けて話す老公の場面に使われてた。

 所在地:京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495番地。
 交通:市バス37系統出雲路俵町徒歩10分。
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「源光庵」(げんこうあん)

2006年03月21日 23時25分11秒 | 古都逍遥「京都篇」
NHK大河ドラマ「宮本武蔵」でも登場した光悦(津川雅彦)、洛北の鷹峰にその所縁の「光悦寺」がある。4月の第3日曜日には、吉野太夫所縁の「常照寺」と「光悦寺」を結ぶ参道で、吉野太夫ふんする花魁(おいらん)道中が繰り広げられ見物客で賑わう。この2寺の間に曹洞宗「源光庵」が忘れ去られるかのように佇んでいる。 
 山門を入ると大きな石灯篭が一つ威風堂々と立っている。普段あまり訪ねる人がないこの庵、300円の拝観料を支払って堂内に入ると、見事に手入れされた庭が目に飛び込んでくる。私が数年前の秋に訪れて以来、古都逍遥の取材のためにに訪れた頃は、山茶花の花が咲くことろで、白い山茶花がまるで綿雪を散りばめたように花をつけていた。 
 書院からの庭の眺めは、右に4角の「迷いの窓」、左に丸い「悟り窓」があり、2つの窓から額に収まった一幅の絵を見る如き感を覚える。この2つの窓で思い出した。JR東海の「そうだ京都へ行こう」のポスターになったことがあった。 
 余り広くない堂内の天井を見上げると、人足や手の形をしたものがそこかしこに染み付いていた。関が原の戦いの火蓋を切った伏見城の戦いにおいて、鳥居彦右衛門元忠の一党が石田光成軍と壮絶な死闘を演じた血の跡で、後に徳川家康が忠臣を弔うために数箇所に移築した。  本寺は貞和2年(1346)、大徳寺二代徹翁国師により開創。元和7年(1694)、加賀の住人静家居士が建立。

 所在地:京都市北区鷹峰北鷹峰町
交通:JR京都駅より市バス6系統玄琢行き源光庵前下車。

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「建仁寺」(けんにんじ)

2006年03月17日 12時04分54秒 | 古都逍遥「京都篇」
 祇園花街の中に威風堂々とした風格を漂わせている、臨済宗建仁寺派の総本山、建仁寺は、 明庵栄西が、円・密・禅の三宗兼学の寺として建仁2年(1202)に建立、京都で最初の禅寺である。開基は源頼家(1182-1204)。後に純粋の宋風禅の道場となる。応仁、文明の兵火で荒れ、天正年間(1573~92)に安国寺恵瓊によって再興された。
 秘蔵の宝物にも見所が多く、中でも俵屋宗達作「風神雷神図」の二曲屏風一双(国宝:江戸初期)は良く知られている代表作である。その他中国宋代の水墨画の名品もあり、海北友松の襖絵も数多い。友松は挑山時代から江戸初期にかけて活躍した水墨画家で独特の画風を残した。方丈の前庭は枯山水の庭園で東陽坊茶席(豊臣秀吉が北野大茶会のとき東陽坊長盛に造らせた茶席を移築、草庵式二畳台目の茶席)の竹垣は建仁寺垣と呼ばれるもので、掘立て杭に3本の胴縁を渡し割りだけを掻き付けて、同じく割竹の押し縁で押さえ、頭に玉縁を付けている。

 諸堂は中国の百丈山を模したもので、法堂は江戸時代明和2年(1765)に再建され、仏殿は瓦葺き重櫓の、禅宗様仏殿様式。
 勅使門は鎌倉末から室町初期のもので、銅板葺き切妻造り4脚門。平重盛(一説には教盛)の館門を移建した。扉に矢の跡があることから矢立門とよばれている。(重文)
 銅板葺き単層入母屋造りの方丈は、慶長4年(1599)安芸の安国寺から移建したと伝えられている。創建当時は柿葺きだったらしく、本尊は東福門院ゆかりの十一面観音菩薩像が安置されいてる。
 襖絵はもとは海北友松作であったが、再建時に京都国立博物館に寄宅され、現在は橋本関雪(1883-1945)の「生々流転の図」が納められている。
 三門も見事で、望闕楼の扁額がかかる三間二間の二重門、階上内部には観音菩薩像と十六羅漢像が安置されている。大正12年(1923)静岡県の安寧寺から移建した。開山堂(旧護国院)は、開山栄西禅師の入定塔(墓所)。明治初年に大改造が行なわれた。18世紀の客殿は妙心寺塔頭の玉龍院から移築された。

 栄西襌師(1141-1215)について紹介しておこう。
 14歳で出家し比叡山で修行、2度宋に渡り禅を学び、座禅によって悟りを開き、日本に臨済宗を築く。宋から茶の種を持ち帰り、京都の栂野尾や宇治に茶畑を開き栽培させる。「喫茶養生記」=茶の徳をといた著書がある。
 建仁寺では毎年4月20日、栄西の誕生法要(開山降誕法要)に「四頭(よつがしら)茶会」と呼ばれる茶会が開かれる。現在の手前作法とは異なっており、仏前飾りがなされ、立ったまま点茶を行なう茶礼は、禅院茶礼の古い形態(「太平記」「喫茶往来」に述べられている闘茶)だと言われている。 また、文献に見られる佐々木道誉の会や「喫茶往来」の会は立礼形式であり、禅院でも初期は椅子式であったとも推測されている。

 交通:京阪電鉄四条から7分、阪急電鉄四条河原町から歩10分。
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「菩提山・穴太寺」(あなおおじ)

2006年03月16日 21時53分43秒 | 古都逍遥「京都篇」
 夏の盛り、“敵は本能寺のあり”で知られている本能寺の変を起し、信長を討った明智光秀の居城があった亀岡に、地下に手で触れる「涅槃像」があると知り、嵐山観光で名高い保津川下りの発船場となっている亀岡市へと車を走らせた。
 この保津川下りの初船場となっているところにほぼ隣接する休耕田に広大な観光向日葵園があることから、その向日葵の撮影も兼ねてはいたが、あいにく向日葵は今年は休園で、一本の向日葵も見当たらなかった。船下りの観光案内の人に尋ねると「今年はコスモス園に変わるため、向日葵は植えていないとのこと」、どうも1年おきに向日葵とコスモスを入れ替えるらしい。

 お目当てが一つはずれたが、ルポの仕事が本来の目的であることから、さっそく穴太寺へと車を向けた。京都・綾部間を走る縦貫道の高速道路の下をくぐり、湯の花温泉がある方向に出て、ほどなく左折すると当寺の門前に出る。
 なるほど西国21番札所と称されるだけあって、楼門にも威厳が漂っていた。
 創建は古く、慶雲2年(705年)文武天皇の勅命により、大伴古麿が薬師如来を本尊として建立したのがはじまりと伝えられている。
 本堂は、江戸時代に造られた武家屋敷風の陣屋造りで、室内の欄間の彫刻は日光輪王子寺の影響を受け優雅な美しさ。床の間裏には、でんでん返しがあり、見張り部屋や地下牢まであったという。残念ながら確認はできなかった。
 重要文化財に指定されている本尊は観音功徳の伝説を残している由緒ある仏像であるが、昭和43年に盗難にあいいまだ行方不明とのこと。現在の本尊は先代同様に33年毎に開扉される秘仏で、次回は2013年だそうだ。

 取材に応じてくれた当寺の住職夫人が、当寺に伝わる2つの物語を話してくれた。
 薬師如来、聖観世音菩薩の2体を本尊とするようになった理由については、古くから伝説が語り継がれている。
 昔、丹波曽我部の郷、桑田郡に宇治宮成という神仏を信ぜず邪見無慚にして生死無常の理を知らぬ男がいた。それに引き換え慈悲柔和にして深く仏法を信じるその妻が、應和2年、京の都より感世という仏師を呼び、身の丈三尺三寸の聖観音像を刻んでもらう。ところが夫・宇治宮成は観音像を見ても一念慙愧(ざんき・自己に恥じること)の心なく、妻は仏師・感世に詫びとお礼に代えて夫の愛馬を差し出す。ところが宇治宮成はその馬が惜しくなり、下男を先回りさせ、大枝山増井の辺りで帰洛する仏師を弓矢で射殺し馬を取り返す。
 馬を厩舎につないでその観音像の前に立つと、仏師に放った白羽の矢が聖観音の像の胸に矢が刺さり、青蓮慈悲の眼に紅の涙を浮かべていた。宇治宮成は驚愕し、すぐさま矢を抜き懺悔して行いを改め仏門に入り、穴太寺に観音堂を建立し安置したという。仏師・感世は聖観音が身代わりとなって矢を受け無事に帰洛していた。
 そしてもう1つの伝説は、童話としても知られる、安寿と厨子王の伝説で、2人が山椒太夫に捕らえられ、焼け火箸で額を焼かれるが、傷口に仏像を当てると火傷が治り、代わりに仏像の額に傷跡が残った。
 安寿は厨子王を逃がすのだが、この時厨子王をかくまったのが穴太寺だったという。そして後に、厨子王はこの仏像を穴太寺に奉納した。

 さて、当寺を訪ねた目的である大涅槃釈迦像を拝観。この像は推定700有余年前のものと伝わり、いつの頃に彫られたかは定かではないという。檜材の寄木造りで、全国に6体しかないと言われる涅槃像である。
 「撫で仏」と呼ばれ、薄暗い堂の中で涅槃像は、多くの参拝者に撫でられて全身が艶やかに黒光りしている。唯一、参詣者がじかに触れることが出来る涅槃像で、本尊横に静かに横たわっている。
 けがや病気を治したい人は、涅槃像の同じ部分に触れて、お祈りをしながら撫でると、願いを効き入れてくださるという。蒲団がかけられており、その理由を尋ねると、祈願者が病気平癒のお礼にと布団を寄進され、それが掛けられているのだという。全国で六体しかないといういう貴重な涅槃像に触れることが許されている、庶民の心を癒してくれるお寺の慈悲は、嬉しい心くばりである。
 京都府の文化財に指定されている名庭は、作庭時代は定かではないとのことだが、築山西側の池岸に舟付があり、その沖合いに向けて出舟の形式が取られてある。書院から眺めると多宝塔が水鏡に姿を映し、この時期、百日紅の紅の花がその周りを染めている。7月中ごろは蓮の花が池を埋め尽くすという。造庭形式は室町時代の様式が随所に見らる。とくに池の周囲の護岸石組は立派で力強ささえ感じ、桃山風の趣がある。
 穴穂寺とも称されたことのある当寺は、古くから地元で農業に従事する人々の信仰の中心寺院ともなっており、亀山市ののどかな田園風景の中にある。
「かかる世に 生れあふ身の あな憂やと 思はで 頼め十声一声」と詠われる当寺へ一度訪ねてみられるとよい。

 所在地:京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46。
 交通:JR嵯峨野線(山陰本線)亀岡駅から京都交通バス学園大学行・余野行・東別院行などで7分程、穴太寺下車。 徒歩10分。
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