「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「志賀直哉旧邸」(しがなおやきゅうてい)

2010年05月21日 10時11分40秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 白樺派の文豪「志賀直哉」が住んだ文化遺産となっている旧居(敷地435坪)を訪ねてみた。
 志賀直哉は大正14年(1925)京都の山科から奈良の幸町の借家に居を移した。かねてから憧れていた奈良の古い文化財や自然の中で、仕事を深めて行きたいという願望によるもので、昭和三年には自ら設計した邸宅を高畑裏大道に造り、翌四年移り住んだ。
 数寄屋造りに加え洋風や中国風の様式も取り入れており、洋風サンルームや娯楽室、書斎、茶室、食堂を備えたモダンで合理的な建物であった。

 高畑裏大道の一帯は、東は春日山の原始林、北には春日の社を透して飛火野の緑の芝生が展開する静かな奈良の町の中でも特に風光明媚な屋敷町であり、新薬師寺や白毫寺にも近いという土地柄から、やがて多くの文化人がこの家に出入することになる。武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄、若山為三、小川晴暘、小林多喜二、桑原武夫ら白樺派の文人や画家・文化人がしばしば訪れ、文学論や芸術論などを語り合う一大文化サロンとなり、いつしか高畑サロンと呼ばれるようになる。書斎や二階の客間からは若草山や三蓋山、高円山の眺めが美しく、庭園も執筆に疲れた時に散策できるように作られていた。

 鎌倉に移り住むまでの10年間をここで家族と共に過ごし、「暗夜行路」のほか「痴情」、「プラトニック・ラブ」、「邦子」等を執筆した。
 直哉が転居した後は、厚生年金の保養施設「飛火野荘」として長く使用されていたが、昭和53年6月24日、学校法人奈良学園が買収、セミ七―ハウスとしていたが、老朽化により改築計画が持ち上がると保存を望む声が全国的に高まり、学園は奈良文化女子短期大学セミナーハウスとして保存する一方、一般にも公開した。
 書斎は六畳間の洋式だが、天井は数奇屋風で葦張り、すす竹、なぐりのはり等の調和が風情が風情をかもし出している。ここには子どもたち等も入れなかったという。
 白樺派の精神を生かしたと言われる六畳の茶室は、数奇屋大工・下島松之助の作で、にじり口は、障子3枚で大きく中央に炉が切ってあり、数奇屋風で各区画の造りが異なる天井がとても優美である。
 食堂は約二〇畳、サンルームは約十五畳あり、数奇屋風と西洋風と中国風を調和させた美しい部屋である。サンルームの天窓(当時はガラス)が大きく明るく周囲は葦張り。窓の上の横木が左右のバランスを工夫され、東側壁面の柱・横木の美的表現がすばらしい。

《志賀直哉》
 明治16年(1883)2月20日-昭和46年(1971)10月21日宮城県石巻市生まれ。祖父の直道は旧相馬中村藩主相馬家の家令を勤め、古河財閥創始者古河市兵衛と共に足尾銅山を開発、相馬事件にも係わった。志賀直道は祖父。父直温は総武鉄道や帝国生命保険の取締役を歴任して明治期の財界で重きをなした人物で、第一銀行石巻支店に勤務していた時に生まれ、3歳より上京し祖父母のもとで育てられた。
 学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学英文科入学。1908年ごろ、7年間師事した内村鑑三の下を去り、キリスト教からも離れる。国文科に転じた後に大学を中退。1910年に学習院時代からの友人武者小路実篤らと、文芸雑誌『白樺』を創刊。

 所在地:奈良県奈良市高畑大道町。
 交通:JR・近鉄奈良駅より奈良交通市内循環バス「破石町」下車徒歩5分。
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「岡寺」(おかでら)

2010年05月05日 07時59分21秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 明日香村にある「やくよけ霊場」として信仰のある「岡寺」を訪ねてみた。
 内大臣中山忠親が書いたといわれている『水鏡』(鎌倉初期)の書き出しに、『つつしむべき年にて、すぎにし きさらぎの初午の日、龍蓋寺へ まうで侍り…』とあり、厄年(つつしむべき年)の時の二月(きさらぎ)の初午の日に岡寺へお参りするとよいと書かれてように、岡寺への厄除け詣りはすでに当時より定着していたことから、日本でも最も古い厄よけ霊場といわれる由縁でもある。

 小高い丘の上にあるため勾配のきつい石段を登り鮮やかな朱塗りの仁王門(国宝・重文/1612年建立)をくぐり抜け、シャクナゲの花などを見ながら短い石段を上ると、どっしりと落ち着いていた雰囲気の「本堂」が見える。本堂の建築には、1805年から30年以上もかかったという。

 この日は、境内のシャクナゲ(約3千株)がほぼ満開、おまけに牡丹も咲き始めているなどラッキーな取材となった。飛鳥を一望できる丘の上に建てられているため、本堂の周囲は鬱蒼とした森になっており、それだけで修験者の気分になったような気がする。

 「岡寺」は、法名は「龍蓋寺(りゅうがいじ)」、院号は「真珠院(しんじゅいん)」、山号は「東光山(とうこうさん)」、そして通称「岡寺」といういろんな呼び名をもった由緒ある古刹である。詳しい創建は判明しておらず、寺伝によると約1300年前に、天智天皇の勅願によって「義淵僧正」(ぎえん・ぎいん=生年不詳/奈良時代)が建立したことになっている。若い頃に天智天皇に引き取られ、岡宮で草壁皇子とともに育てられた後、この地を与えられ岡寺を建立したとある。

 義淵僧正は、日本の法相宗の祖とされる人物で、門下には東大寺創建に尽力した「良弁」や「行基」などがおり、江戸時代までは法相宗の本山「興福寺」の末寺だったが、それ以降「長谷寺」の末寺となり、真言宗豊山派に属するようになった。本堂前にある「龍蓋池(りゅうがいいけ)は、この地を荒らし農民を苦しめていた龍を義淵僧正がその法力をもって封じ込めたことからその名が付いたといわれており、当寺に現在まで続く「やくよけ」信仰の所以のひとつとも言われている。昔から池の中にある「蓋」である石を揺らすと雨が降るという言い伝えが残っている。「龍に蓋をした池」という言い伝えから法名に「龍蓋寺」と付けられたのもうなづける。

 本堂中央には、日本最大の塑像(土でできた像)の本尊「如意輪観音座像(重文)」が鎮座している。像高4.85m、白っぽい色合いの巨大仏で、東大寺の銅製の大仏、長谷寺の木造の十一面観音と並んで、「日本三大仏」の一つにあげられている。当初、左足を踏み下げて坐る「半跏像」(現在は結跏趺坐(あぐら型))だったそうだ。塑像ならではの素朴で暖かさのようなものを感じる。

 見所のひとつでもある「三重宝塔」は、文明4年(1472)に倒壊、昭和61年(1986)に514年ぶりに再建されたもので、小ぶりな塔だが高貴な気配を漂わせている。軒先には「琴」が吊るされており珍しい形体である。毎年、10月の第3日曜日の一度だけ内部が公開される。

 本堂の脇に立つ「開山堂」は、前面はガラス張りになっていて、阿弥陀三尊像が安置されている。元は「多武峰妙楽寺(今の談山神社)」より移築されたお堂で、元は護摩堂だったそうだ。
 国宝「義淵僧正坐像」は、奈良時代に作られたもので開祖・義淵僧正の肖像で我が国古代の僧形彫刻を代表する名作の一つと言われている。

 この他の宝物を紹介すると、「如意輪観音 半跏思惟像」(重文)奈良時代。元々の岡寺の本尊で後に弘法大師が現在の本尊を造った時に胎内に納めらたと伝わる「釈迦涅槃像」(重文)鎌倉時代。現存する涅槃像は圧倒的に絵画が多く等身大の彫像は大変珍しく貴重な作例。「天人文せん」(重文)白鳳時代、国内でもほとんど出土の例はなく、大変貴重な遺例。(せん=粘土を成形したタイル状の焼物)

 山内を森林浴をしながら巡ると小腹がすいてきたところに、岡寺名物「やくよけぜんざい」(5百円)の張り紙が目に入り厄払いにと立ち寄った。何でも小豆の持つ赤色は密教では大事な色とされていて、このぜんざいを周囲の方にふるまうことで、みんなの厄除けとなるのだとか、せっかくのご利益、五臓六腑に大切に蓄えておこう。

 所在地:奈良県高市郡明日香村岡806。
 交通:近鉄「橿原神宮前駅」より、奈良交通バス「岡寺」下車、徒歩10分。
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