「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「金戒光明寺」(こんかいこうみょうじ)

2006年03月10日 18時44分47秒 | 古都逍遥「京都篇」
 幕末に京都守護職会津藩の本陣が置かれことでも知られている紫雲山黒谷金戒光明寺は、法然上人がはじめて草庵を営んだ地である。15歳で比叡山に入山、承安5年(1175)43歳の時、山頂の石の上で念仏を唱えた時、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから この地に草庵をむすび、浄土宗最初の寺院となった。
 西山連峰、黒谷の西2㌔の京都御所、西10㌔の小倉山を眺み、山門、阿弥陀堂、本堂など18もの塔頭寺院が建ち並ぶ。なかでも、蓮池院(れんちいん)熊谷堂(くまがいどう)は、一の谷の合戦で平敦盛(たいらのあつもり)の首をとった熊谷直実(くまがいなおざね)の住房跡として知られる。

 ここは西山連峰中もっとも低い鞍部になる。彼岸の中日のころは真赤な夕陽が静かに沈むのが拝める京都盆地唯一の場所である。
 御影堂(大殿)内陣正面には、宗祖法然上人75歳の御影(座像)を奉安している。火災による焼失後、昭和19年に再建となったもので、堂内の光線と音響に細部の注意がこらされて昭和時代の模範建築物といわれている。
 阿弥陀堂は、慶長10年(1612年)豊臣秀頼により再建。当山諸堂宇中最も古い建物である。恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納められてあることから「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称されている。
 南禅寺の三門を思わせる三門は、万延元年(1860年)の完成。桜上正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がある。
 京都では珍しい吉備観音が安置されており、1200余年前、遣唐使吉備真備が中国から持ち帰った栴薩を刻んで吉田寺に安置されたが、同寺が廃寺となったため当山境内に移したと伝えられる。
 背後の山腹の墓地を登り詰めたところに、文殊菩薩と三重の塔がある。古く、黒谷の西にあった中山文殊が、江戸時代初期徳川秀忠公菩提の為に建立の三重の塔(日本三大文殊塔の1つ)に安置されている。この本尊の文殊菩薩と脇士の像は運慶の作。

 当寺と関わりの深い会津藩、新選組のことを少し触れておこう。
 幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。
文久2年(1862)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
 文久2年閏8月1日、会津藩主松平容保(かたもり)は江戸城へ登城し、14代将軍徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられ、役料5万石・金3万両を与えられた。松平容保は家臣1千名を率い文久2年12月24日三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした会津正規兵の行軍が一里余りも続いたという。
 当寺が本陣に選ばれた理由として、3点があげられている。

1.徳川家康は、直割地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとした。黒谷には大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には高麗門が城門のように建てられた。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。

2.御所まで約2㌔、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点までは1.5㌔の下り、馬で走れば約5分、人でも急げば15分で到着できる要衝の地であった。

3.約4万坪の大きな寺域により1千名の軍隊が駐屯できた。本陣といっても戦国時代の野戦とは違い野宿ではなくきちんとした宿舎が必要であった。黒谷には大小52の宿坊があり駐屯の為に大方丈及び宿坊25ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されている。

 新選組と会津藩の関係は、幕府が文久2年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。近藤・芹沢の浪士隊は、黒谷の会津藩預かりとして京都に残ったが、武家伝奏より「新選組」の命名とともに市中取締の命を受けた。
 現在の当寺は、昭和9年に御影堂・大方丈が火災により焼失してしまったが、その他の建物は往時のままである。山上墓地北東には約300坪の敷地に「会津藩殉難者墓地」が有り、文久2年~慶応3年の5年間に亡くなった237霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀る慰霊碑(明治40年3月建立)がある。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に3カ所に分けられ22霊祀られている。会津松平家が神道であった関係で7割ほどの人々が神霊として葬られている。
 また、会津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客・会津小鉄」の墓もある。
会津小鉄は本名上阪(こうさか) 仙吉といい、会津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組の密偵として大活躍をした。しかしながら、会津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分200余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷会津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。

所在地:京都府京都市左京区黒谷町121。
交通:京阪電気鉄道丸太町駅下車、徒歩15分。

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