「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

 「御髪神社」(みかみじんじゃ)

2009年07月31日 20時54分20秒 | 古都逍遥「京都篇」
 四季を通じて訪れる者が絶えない京都・嵯峨嵐山。百人一首で有名な小倉山を美しく映す嵯峨野小倉池のほとり、亀山天皇御陵の近くに理容の業祖・藤原釆女亮政之(ふじわらうねめのすけまさゆき)を祭神として称え祀った御髪神社がある。

 西暦1200年代人皇90代亀山天皇の御代に藤原鎌足の末孫で、皇居の守護職(武士)であった北小路左衛尉藤原基春卿の三男・藤原采女亮政之(うねめのすけまさゆき)は、基春卿死後の弘安4年(1281)に鎌倉に住まいを移し、建武2年(1335)4月17日に歿したが、功績があったとして従五位を賜っている藤原采女亮政之が、髪結職の起源とされる所以を伝承史料・職分由緒書で紐解くと、「亀山天皇の御代(1209~74)に、皇居の宝物守護にあたる武士であった藤原基晴卿は、御預かりの宝剱・九王丸紛失の責任から、三男・采女亮政之とともに、当時、蒙古襲来で風雲急を告げる下関に居を構え、髪結業を営み探索を続けた。これが髪結職の始めなり」とあり、由緒に「髪は人間の最上部に位置し、御神より賜わった美しい自然の冠です。御髪神社は理容・美容等の髪や化粧に携わる業の始祖を祭神とする日本唯一の神社です」と記されているように、御髪神社は髪の御神徳をもつ唯一の神社として、理美容関係者のほか、多くの人びとから厚く信仰されてきた。

 境内には、願いごとをしながら切った髪を納めると御利益があるとされる「髪塚」があり、献納された髪は日々神官により祈拝を受け、献納されている。合格祈願で髪を納める学生も居るとのことで、若者たちの参拝も多いとのこと。また、毎年春・秋の御大祭日には業祖神奉祭と髪供養が行われる。

 所在地:京都市右京区嵯峨小倉山田淵山町10-2。
 交通:嵯峨観光鉄道、トロッコ嵐山駅前。JR京都駅から山陰本線「嵯峨嵐山駅」下車、徒歩15分。京福嵐山線「嵐山駅」下車、徒歩8分。阪急嵐山線「嵐山駅」下車、徒歩25分。
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広徳山「慈受院」(じじゅいん)

2009年07月23日 09時39分42秒 | 古都逍遥「京都篇」
 織物の街、西陣の堀川寺之内に佇む慈受院は、足利四代将軍・義持の正室・日野栄子(慈受院浄賢竹庭尼大禅師)が、亡夫の遺言により、天皇家の菩提を弔うため正長元年(1428)に建立したといわれている。その後、宮家、摂関家から住持し、また伏見宮息女も入寺した由緒ある門跡寺院で、創建当時は天皇家を弔うことから「薄雲御所」または「烏丸御所」、「竹の内御所」と呼ばれていた。境内の毘沙門堂には、日本三体随一といわれる毘沙門天像が祀られている。
 現在の地へと移ったのは最近の事で、大正8年(1919)に同じく比丘尼御所の一つであった総持院を併合して、この地に再興した。

 天皇家に関係する寺院として非公開を続けていたが、源氏物語ゆかりの寺として平成20年、源氏物語千年紀を記念して4月26日から5月6日まで本邦初公開となり、拝観料800円を志納して拝観。

 狩野探幽直筆の「花鳥図金屏風」のほか、全長30メートルの及ぶ藤原鎌足の涯を描いた「大織冠(たいしょくかん)絵巻」(上下二巻)は金泥で彩色され、唐の皇帝の后(きさき)となった鎌足の娘から贈られた宝珠を、鎌足と竜王が争奪する“大スペクタクル”を描き、さすがに迫力がある。また、1200年以上にわたって伝わる聖武天皇正室・光明皇后の髪の毛を、横糸として編みこんだ光明真言髪織「経文」や羽柴秀吉の書状、源氏物語ゆかりの寺宝(明石・須磨図屏風)などがある。

 書院の前には苔に覆われる枯山水の庭がしっとりとして美しい、入寺した皇女たちがその寂しさを癒したであろうあせびの花が咲いている。樹齢千年以上といわれる楠の古木が歴史の風格を物語っている。応仁の乱、宝永の大火、蛤御門の変など幾度も大火に見舞われ伽藍は灰燼に帰しているが、不思議にもこの古木だけが残ったという。今も皇室との結びつきは深く、美智子皇后が下賜された「侘びすけ椿」が奥庭にある。

 所在地:京都市上京区寺之内通堀川東入百々町540。
 交通:京都市営地下鉄、今出川からすぐ。JR京都駅から市バス9号系統で堀川寺之内下車すぐ 。
駐車場は無い。通常非公開。
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「千本ゑんま堂」(せんぼんえんまどう)

2009年07月14日 07時42分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
 光明山歓喜院「引接寺」は本尊に閻魔法王を祀っていることから、通称「千本ゑんま堂」として親しまれている。
 開基した小野篁(おののたかむら)(802~53)は、百人一首の歌人として知られるが、この世とあの世を行き来する神通力を持っていたとされ、昼は宮中に、夜は閻魔法王に仕えたと伝えられている。
 あるとき小野篁は、閻魔法王より塔婆供養と迎え鐘を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える法儀「精霊迎えの法」を授かり、この地をその根本道場として自ら閻魔法王の姿を刻み朱雀大路頭(現西陣の西北千本通り)に建立した祠(ほこら)が当堂の初めとされている。また、この地は「化野」「鳥辺野」と並び、篁が定めたと伝わる平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたり、現在も周辺からは多くの石仏群が出土している。当堂から蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、この辺りには何本も無数にあったことから「千本」の地名が残ったといわれている。

 その後、寛仁元年(1017)藤原道長の後援を得た比叡山恵心僧都源信の門弟・定覺上人がここを「諸人化導引接仏道」の道場にするため「光明山歓喜院引接寺」と命名し、仏教寺院として開山した。ちなみに「引接」とは「引導」と同じ意味で、人々を導くという意味を持つ「諸人化導引接仏道」からといわれる。
 現在の閻魔法王(高さ2.4m、幅2.4m木製)は長享2年(1488)に作られたもの。
 
 ところで、ゑんまは地獄の支配者のように思われているが、人間を三悪道には行かせたくない為、怒りの表情で地獄の恐ろしさを語り、嘘つきは舌を抜くと説いている誠実で温かな仏である。

 5月に演じられる無形民俗文化財の「千本ゑんま堂狂言」は、壬生狂言、嵯峨大念仏狂言と並んで京の3大狂言の1つとされ全国的に名高い。他の2つが無言であるのに対して、ここの狂言は有言(セリフが有る)の仮面喜劇として広く知られている。寛仁年間(1017-21)定覺上人が教言として始めたのが起こりで、現在「千本ゑんま堂大念佛狂言保存会」によって演じられている。

 公演で最初に演じられる「えんま庁」と「芋汁」のみが笛・太鼓の囃子にのって無言で演じられる。鉄杖を持った鬼・不思議な力がある巻物を持った善人の亡者・閻魔法王・帳付(記録係)が登場するというもの。天正10年(1583)織田信長が上杉謙信に下された狩野永徳筆の洛中洛外図屏風の中にも、この「えんま庁」が描かれている。
 公演は5月1日~4日行われ、1・2日は夜のみ、3・4日は昼夜2回。見学所要時間は1演目につき約30分、見学無料。

 このほかの見どころは、紫式部の供養塔の傍らにある後小松天皇から下賜されたといわれる境内の「普賢象桜」(ふげんぞうさくら)が見事で、花の芯から双葉の芽が出て、それが普賢菩薩が乗っている象の牙の形に似ているところから名付けられたといわれている。遅咲きの八重桜で、散るときは花びらが散るのではなく、椿のように花冠ごと落ちる不思議な桜である。なんでも、花冠のまま落ちる散り様が、さながら斬首される囚人の姿に似てるため、中世の所司代は、この花を獄舎の囚人に見せ、仏心を起こさせたとも伝わっている。応永15年(1409)、後小松天皇の薦めで当山を参詣した将軍・足利義満は、境内に咲き誇ったこの桜に感服し、50石の知行米を与えたといるほどの銘木だ。現在の樹は、佐野藤石衛門の寄進。開花は4月下旬。

 境内の西北隅に紫式部の供養塔(高さ6m、幅・奥行き1.85m/花崗岩)が建立されている。南北朝時代の至徳3年(1386)圓阿上人の勧進により建立と刻銘がある。紫式部のあの世での不遇な姿を見て成佛させんがために建立した伝えられており、「十重塔」としても珍しく重要文化財にも指定されている。

 所在地:京都市上京区千本通蘆山寺上ル閻魔前町34番地。
 交通:市バスで千本鞍馬口下車、徒歩約2分。



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「長岡宮跡」(ながおかぐうあと)

2009年07月07日 07時38分46秒 | 古都逍遥「京都篇」
 幻の都といわれていた長岡京を訪ねた。延暦3年(784)から10年間しか続かなかった都の大内裏跡。
 桓武天皇が奈良からこの地へ都を移したが、不祥事の続出や天災のため、延暦13年(794)平安京に再び遷都し、長岡京は荒廃し「幻の都」とも称された。

 長岡京は、山城国乙訓郡(現在の向日市、長岡京市、京都市西京区)にあり、近年の発掘調査により平城京の条坊制を踏襲しながらも官衙(かんが)の配置や規模には独自性を有し、平安京の造営に少なからず影響を与えた大規模(東西4Km南北5Km)な都であることが判明している。

 大極殿跡・小安殿跡は昔から「大極天(殿)」とよばれ早くから注目されていたが、昭和34年・36年に発掘調査され、その規模がようやく解明された。
 大極殿跡は、基壇(コンクリートの凹凸が基壇の裾を示している)は、東西41.4m、南北21.6mあり、南側3ヶ所、北側2ヶ所に階段を設け、北側中央に削られてしまっているが、その規模は聖武天皇の難波宮大極殿とほぼ同じで、難波宮式の瓦が多く出土することから大極殿は難波宮から移築されたものと考えられている。

 大極殿の北側には小安殿という建物が建てられ、東西31.2m、南北13.5mあり、北側3ヶ所、南側二ヶ所に階段が設けられている。建物は 柱の根石から東西7間 南北2間の切妻造りで柱間は4.25mの等間隔であったことが判っているようだ。(コンクリートの円盤は柱の位置を復原したもの)

 小安殿は長岡宮で初めて設けられたといわれ、それまでの都と違って内裏が大極殿から独立したため天皇が大極殿に御す時の休憩所として機能したようだ。
 これらの建物は 周囲を回廊で囲われ、北には昭慶門(しょうけいもん)、南には閤門(こうもん)が設けられ、大極殿院を構築している。大極殿の南には東西四堂ずつの建物を配する朝堂院があり重要な儀式や外国使節のもてなしはここで行われたという。

 平成9年(1997)の発掘調査で、「宝幢」(ほうどう)を建てた柱の掘形が発見されている。宝幢は、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、長さ約9mの大柱の上に、青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)の四神の絵がはためき、鳥・日・月の華やかな飾り物が付けられる。宝幢は、天皇の権威を象徴するものであった。
 即位式と、元旦に盛大に行われる「朝賀の儀式」でのみ、大極殿の前に七本の宝幢が建てられるとのこと。

 延暦13年、都は葛野郡に移され平安京となり、長岡宮の大極殿や小安殿も解体されて平安京に運ばれた。
 以後 1200年近く、この地は「大極天(殿)」という地名だけが残った。 
 昭和40年(1965年)には国の史跡に指定され、現在このように公園として保存活用されている。
 発掘された木簡などの遺物は、向日市文化資料館に展示されている。

 所在地:京都府向日市鶏冠井町。
 交通:阪急電鉄西向日駅下車、徒歩8分。
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