「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「光雲寺」(こううんじ)

2006年03月23日 20時57分15秒 | 古都逍遥「京都篇」
 禅林寺永観堂を東に入り哲学の道の起点に立ち、銀閣寺方向に北に上がって進むと、ほどなくして疎水をはさんで右手に京風の建物「叶匠寿庵」(和菓子)が見えてくる。
 その先の左手(西)に市街が遠望できる場所があり、眼下に寺院が見える。そこの所に
大正4年6月建立、御水尾天皇・東福門院勅願所「光雲寺」と刻まれた石碑と階段がある。これを下りると「光雲寺」へと通じる。普段は非公開となっており、このたび24年ぶりに公開(2005)されると知り取材に訪れた。
 当寺は、臨済宗南禅寺の塔頭で、霊芝山(れいしざん)と号し、臨済宗南禅寺派に属する。南禅寺北ノ坊とも呼ばれる。
 寛文年間(1661頃)後水尾天皇および中宮東福門院(二代将軍徳川家忠の娘和子)が南禅寺り英中禅師に帰依したことから、もと摂津の国難波にあった安国寺を、明暦3年(1657)英中禅師によって再興された当寺を、寛文4年(1664)に東福門院の援助を受けて英中禅師により現在地に移され復興した。
 二代将軍徳川家忠の娘・和子(後水尾天皇の中宮)は13歳で入内し、朝廷幕府関係の円滑化に貢献したことで知られる。当寺は邇(くにの)宮家の菩提所となり、寺の背後には後水尾天皇々女顕子内親王の墓、門前北には久邇宮家の墓がある。境内は創建時は広大であったらしく、火災にあい、また明治の初めの変革により縮小された。
 重厚な唐様建築の仏殿(法堂)は創建当時のもので、桁行き三間、梁行き三間の身舎(みや)の四周に裳階(もこし)を配す。内部は中央に須弥壇おき、東福門院の念持仏・釈迦如来尊像が祀られ、左右に阿難(あなん)、迦葉(かしょう)の二尊者東福門院の坐像を安置している。
 絹本著色「東福門院像」は、およそ200年前に描かれたものとは思えないほど彩色が良く保存され見事なものである。
 鐘楼は寛文11年(1671) の建造で、柱に転びをつけている。仏殿と鐘楼は、京都市指定有形文化財に指定されている。室町時代に活躍した明兆が描いたという羅漢図など、数多くの寺宝も公開された。
 また書院前には琵琶湖疏水をたたえた池泉式庭園は、昭和2年(1927)造園家として活躍した7代目小川冶兵衛(植冶)晩年の作庭で、流れや池の護岸石組にその作風がよく現れている。冶兵衛が、好んで用いる様式の東山を背景とした比較的小さい庭園で、滝口から池へのやや広い流れの中に小振りの石が配置され、渓流の雰囲気をかもしだしている。庭園の植栽としてイロハ紅葉、皐月、ツツジ、ドウダンツツジ、杉、沈丁花、百日紅、杜若など冶兵衛の特徴的な樹木草が用いられており、背後には哲学の道の桜並木が借景となっていた。
 また、沢飛びには灯篭などの石造品が用いられ、周辺との調和をはかり、加藤清正が朝鮮から招来した名品「瑪瑙の手水鉢」(めのうのちょうずばち)が二基が書院の縁先に配置されている。大きな円柱型の方は、少しわかりにくいから注意深く見てはいかが。手水鉢は一度、徳川家の手に渡り、のちに東福門院より光雲寺に寄進されたものだそうだ。

 所在地:左京区南禅寺北ノ坊町
 交通:京阪電鉄丸太町駅から市バス93、204、または三条駅から市バス5で東天王 町下車、徒歩約5分。
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