「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「二月堂」(にがつどう)

2010年12月27日 22時08分09秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 「お水取り」で有名な「二月堂」(重要文化財)は東大寺の境内にあるお堂で、良弁(ろうべん)僧正の高弟実忠(じっちゅう)の草創によるものと伝えられ、天平勝宝5年(752)に建立されている。
 治承4年(1180)平清盛の五男重衡(しげひら)による「南都焼打」事件により東大寺をはじめほとんど堂宇が焼失したが、二月堂は寛文7年(1667)の修二会中に堂内から出火し焼失。2年後の堂文9年(1669)に徳川家綱によって再建された。
 「お水取り」は正式には「修二会」(しゅにえ)と称し、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正の高弟、実忠和尚によって始められ、以来一度も途絶えることなく続けられ、今年(平成23年)で1260回目を数える。

 法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われるが、元々は旧暦の2月1日から行われていたもので、2月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになった。また二月堂の名もこのことに由来している。「修二会」は、正しくは「十一面悔過」(じゅういちめんけか)といい、十一面観世音菩薩を本尊とし、「天下泰平」「五穀豊穣」「万民快楽」などを願って祈りを捧げ、人々に代わって懺悔(さんげ)の行を勤める。
 行中の3月12日深夜に、「若狭井」(わかさい)という井戸から観音さまに供える「お香水」(おこうずい)を汲み上げる儀式が行われる。また、行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、大きな松明(たいまつ)に火がともされる。練行衆が内陣をかけまわる達陀(だったん)という妙法が広く知られおり、毎年テレビニュースでも放映されているほどだ。達陀は、1から14日まで毎日上堂され、お水取りが終わると、奈良に春が訪れるといわれ多くの人々に親しまれている。

 二月堂の前には大きな一本杉があるが、その由来は歌舞伎にもなっており興味深い。
 それは、良弁が幼いころ金色の鷲に攫(さら)われ、一本杉の上で育てられ、それを義淵(ぎえん)僧正が助けたという伝説に由来する。
 「良弁杉由来」は、東大寺縁起をもとに明治期に作られた浄瑠璃で、歌舞伎では明治20年(1887)2月の彦六座が初演とあるが、この時は『三拾三所花野山』という作品の一部として上演されたもので、独立して上演されるようになったのは、大正期以降のことだという。

 物語のあらすじは、
 『近江国(滋賀県)の志賀の里の領主・水無瀬左近元治は菅原道真の家臣だったが、筑紫で流罪になり、そこで亡くなった道真の後を追って殉死する。残された妻・渚の方が、忘れ形見の子供・光丸を連れて夫の墓参りに行った時、大きな山鷲が幼い子供を攫って飛び去ってしまう。
 攫われてから30年という月日が経ったある日、東大寺の良弁大僧正は春日大社へ参拝し、その帰りには二月堂のそばにある杉の大木へ拝礼。杉の木のそばに来てみると、木の幹に一枚の張り紙があった。その傍らにいた老婆に尋ねると自分が張ったという。
 その紙には、子供の頃に良弁自身に起こった事と同じ事が書かれてあった。老婆は自分の子供が大鷲に攫われた顛末を語り泣き伏す。良弁は老婆に深く同情し、「何か身に付けさせた物はないのか」と聞くと、小さな金色の観音像をお守り袋に入れて持たせたという。すると、良弁は幼い頃から肌身離さず持っていたお守り袋を取り出して見せる。道真から拝領した香木(こうぼく)を包んでいた錦を、渚の方が縫い直して我が子に持たせた守り袋であった。こうして、30年ぶりに親子は巡り合えた・・・。』

 良弁は持統3年(689)に生まれ、宝亀4年(773)に入滅した奈良時代の華厳法相の僧。東大寺の開山に尽力した百済系渡来人の子孫。天平勝宝4年(752)大仏開眼、同年初代別当となる。近江または相模の出身と伝えられ、義淵(ぎえん)に師事して学び、大安寺の僧の審祥(しんじょう)によって中国から伝えられた華厳宗を、審祥を講師に研究をした。幼名を「光丸」といい、父の水無瀬左近は朝廷に仕え、辞したのち志賀(滋賀)
に移り住みほどなく病死した。

 所在地:奈良市雑司町406-1。
 交通:近鉄奈良駅から徒歩20分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「法華寺」(ほっけじ)

2010年12月10日 07時49分35秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 大和三門跡に数えられる古刹で、もと藤原不比等の邸宅を、不比等の没後、娘の光明子(光明皇后)がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりと言われている。正しくは法華滅罪寺(ほっけめつざいのてら)と称し、七堂伽藍を備えて隆盛を極めたという。
 発掘調査によると、奈良時代の法華寺の境内は平城宮東宮の東に接し、北は一条条間路、南は二条条間路、東は東二坊大路、西は東一坊坊間路を境として、南北三町、東西二町に及んでいたようだ。
 創建当初の金堂や講堂は、現・法華寺南門のさらに南に位置し、金堂の南に中門、その南には東西両塔があったことがわかっている。さらに、境内南西部には天平宝字3年(759)から翌年にかけて建立された阿弥陀浄土院があった。阿弥陀浄土院は、丈六の阿弥陀三尊像を本尊とし、『続日本紀』によれば、天平宝字5年(761)、光明皇太后の一周忌がここで営まれている。

 当寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたようで、治承4年(1180)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたという。鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)は、建仁3年(1203)法華寺の堂宇や仏像を再興し、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊(えいそん)によって本格的な復興がなされた。
 その後、明応8年(1499)と永正3年(1506)の兵火や慶長元年(1596)の地震で東塔以外の建物を失い、現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601)頃、豊臣秀吉の側室淀殿が片桐且元を奉行に任じ復興させたものである。なお、数々の被災をまぬがれていた東塔は宝永4年(1707)の地震で倒壊した。

 本堂(重要文化財)は本瓦葺き寄棟造。堂内厨子に天竺(インド)の仏師・問答師が光明皇后の姿を模してつくった伝えられている本尊十一面観音像(国宝)が安置されているが、実際は平安時代初期の作と見られている。彩色や金箔を施していない素木像で、髪、眉、ひげなどに群青、唇に朱、白目に白色を塗り、瞳、肩に垂れる髪、冠や腕釧などに銅板を用いるほかは、木肌の美しさを生かした素地仕上げとなっている。両手首から先や天衣の遊離部分など、ごく一部を別材とするほか、頭・体の主要部から、蓮華座の中心部分、その下の心棒まで一木造で平安時代彫刻を代表する作品の一つとされている。目鼻立ちがくっきりとした顔つきやふくよかな体つきは天平美人を彷彿とさせる。

 鐘楼(重要文化財)は鬼瓦に慶長7年(1602)の刻銘があり、形式や細部からみてその頃の再興と考えられている。二層建てとし上層に鐘を吊る「袴腰付き鐘楼」で、上層に縁や高欄を設けない珍しい形式だという。
 横笛堂は滝口入道との悲恋の物語で有名な横笛が出家後に住んだといわれている。護摩の灰を粘土に混ぜて形を作り、文様彩色を施した愛らしい犬形のお守りでも知られている。

 国の名勝に指定されている庭園は江戸時代初期につくられたとされ、奥書院の南の池を中心に展開する主庭園がある。御所の庭を客殿と共に移築したと伝えられる庭園で、世にこれを「仙洞うつし」といっている。
 この庭園は総面積五百坪に及ぶ広大な庭でへの字形に渡された土橋を境に、西方は広い池となっている。昔はその西堤に物見台があったという。
 正面には枯滝を表わす立石があり、ここから流れ下る谷川の様子を一面に敷きつめた玉石で象徴している。ここを中心として水をたたえた長い池が連なっている。対岸の小高い丘は椿・樫・山茶花が高生垣の背景となっている。その前方には低い潅木がところどころにうずくまっている。水際の粗い石組にも古い池の面影をとどめている。
 池の手前は白砂が敷きつめられ、すがすがしい思いがする。書院の縁の中央から庭に続く飛石の配置にも工夫がこらされていて、向うに進むにつれて石の高さや大きさが次第に逓減していくように配されている。庭園の細部の石組にもこうした特徴が認められることは、御所の作庭と相通ずるところがある。
 なおこの主庭の築地塀で仕切られた平庭がある。ここは客殿の中庭になっていて縁に優雅な勾欄がとりつけられ、ささやかながらもよくまとまった庭である。(パンフレットから)
 100本の椿をはじめ、めずらしい法華寺蓮・にんじん木等約750種の花木・草花があり、1年を通し四季おりおりの花々が鑑賞出来るようになっている。


 所在地:奈良県奈良市法華寺町882。
 交通:JR大和路線奈良駅・近鉄奈良駅から奈良交通バス(西大寺駅・航空自衛隊行き)「法華寺」下車すぐ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「不退寺」(ふたいじ)

2010年12月03日 10時42分30秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 奈良市街北部に位置する法蓮町にある真言律宗の寺院で山号を金龍山と称する。寺伝によれば、大同4年(809)平城天皇が譲位してのち隠棲し「萱の御所」と称したのが始まりとされ、その後平城天皇の皇子である阿保親王、さらに阿保親王の五男である在原業平が暮らしたという。

 業平朝臣が伊勢参宮のおり、天照大神より御紳鏡を賜わり「我れつねになんじを獲る。なんじ我が身を見んと欲せばこの神鏡を見るべし、御が身すなわち神鏡なり。」との御神勅を得て霊宝となし、承和14年(847)、詔を奉じて旧居を精舎とし自ら聖観音菩薩立像を作り本尊として安置し、父親王の菩提を弔うと共に、衆生済度の為に「法輪を転じて退かず」と初願し、「不退転法輪寺]と号して、仁明天皇の勅願書となった。略して不退寺(業平寺)と呼び、南都十五大寺の一つとして、法燈盛んであったという。その後時代の推移と共に哀頽したが慶長7年(1602)寺領50石を得て、一時寺観を整え南都に得意な存在を示した。別名「業平寺」とも呼ばれている。

 寺の近辺からは平安時代前期の古瓦が出土しており、創建がその頃までさかのぼることは認められるが、中世以前の沿革はあまり明らかでないという。
 一木彫で胡粉地に極彩装飾を施された1.9㍍の本尊聖観音菩薩立像や、平安時代中期の作という五大明王像をはじめ、本堂などの建造物も重要文化財に指定されている。舎利厨子は現在奈良国立博物館に寄託されており、厨子内に安置されていた五輪塔形舎利容器は1952年に盗難に遭って未だに行方不明という。

 南門は鎌倉時代末期、正和5年(1317)の建立で、切妻造・本瓦葺。冠木上には笈形調の装飾が見られる。
昭和9年(1934)の修理時、多くの墨書銘が確認されている。

 本堂は室町時代前期の建立で寄棟造・本瓦葺造りで、正面中央に虹梁を配する様式の初見例とされる。
鎌倉時代のものと伝わる多宝塔は、「大和名所図絵」によれば、寛政年間には檜皮葺きの上層部があったが、明治に入ってからの廃仏毀釈の中で取り払われ、現在は第一層のみが残っている。5世紀のものと言われている石棺は、ウワナベ古墳付近にて発掘されたもで庫裏北側に置かれている。
 さて、在原業平は六歌仙の一人で、古今和歌集には30首が入っている。また、伊勢物語の主人公とみなされて
いることでも知られている。

 「ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」(百人一首)

 所在地:奈良市法華町517。
 交通:JR大和路線奈良駅・近鉄奈良駅より奈良交通バス(西大寺駅・航空自衛隊行き)一条高校前(不退寺口)下車、徒歩7分。近鉄大和西大寺駅より奈良交通バス(JR奈良駅・白土町行き)不退寺口下車、徒歩7分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする