「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「聖護院」(しょうごいん)

2007年01月25日 10時33分04秒 | 古都逍遥「京都篇」
 聖護院は寛治4年(1090)白河上皇の勅願で創建された修験宗総本山の門跡寺院。この年、熊野権現へ参詣した白河上皇の先達を、修験僧として知られていた三井寺の増誉が務め、熊野三山へ案内して聖体護持の祈願をした。参詣後に上皇が現在地に1寺を建立、聖体護持から2字を取り「聖護院」の院号と共に増誉に与えたのが起こり。

 修験道は約1300年前、役行者(えんのぎょうじゃ)によって開かれた。
那智の滝で千日間の参籠修行の後、大峰修行をした天台宗第5代座主の智証大師・円珍が、修験道を継承しその後、増誉がこの教えを引き継いでいた。現在の建物は延宝4年(1676)の再建で、宸殿、本堂、書院(国・重文)、北殿があり、書院は御所の一部を移築したものである。宸殿は140面の狩野派の障壁画で彩られており、これらの絵を眺めていると荘厳な雰囲気に包まれ、俗世界から隔絶された気分に浸れる。

 天明8年(1788)の大火で御所が炎上した時、光格天皇がここを仮皇居とし、3年間ここで政務を行った。宸殿には仮皇居当時の上段の間が残っており、ほかに一夜造りの御学問所、御茶室などの遺構が多く残されている。また、安政元年(1854)の御所炎上の時にも、孝明天皇が聖護院を仮皇居としたことから「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定された。
 宸殿の東側にある庭は美しい苔で埋められ、樹齢200年を超す馬酔木(あせび)がある。南の庭は白砂が敷き詰められており、ここは山伏の秘法「採燈大護摩供」が行われる修験道の道場でもある。
 明治時代まで聖護院の周囲はうっそうとした「聖護院の森」が広がっていたので、聖護院は「森御殿」とも呼ばれ、この一帯が大自然に包まれた庭でもあった。また、この森が紅葉すると錦の織物のように美しい景色を創り出すため「錦林(きんりん)」と呼ばれ、今も錦林小学校などの名前として残っている。聖護院の名も地名として残っていて、この付近で生産されていた大根を聖護院大根と言い、参道で売ったのが起こりの聖護院八ッ橋がある。

 八ッ橋の菓子は「聖護院八ツ橋総本店」(屋号「玄鶴堂」)作られ、 屋号の「玄」は、黒谷(京都東山の地名あるいは金戒光明寺の通称)の「黒」を表し、「鶴」は、鶴の鳴き声が琴の音色の似ていることから名付けられた。また「聖護院」は、地名(もしくは聖護院門跡の通称)で、「八ツ橋」は、近世箏曲の開祖といわれる「八橋検校」(慶長19年(1614)生まれ)に由来している。
 歿後4年の元禄2年(1689)黒谷参道の聖護院の森の茶店で、琴の形に似せた干菓子を、「八ツ橋」と名付けて発売したのが、「八ツ橋」の始まりといわれており、その場所が創業の地(現在の本店の場所)である。京土産「八ツ橋」は、近世筝曲の開祖と呼ばれる「八橋検校」に由来している。
 八橋検校は、京都黒谷の金戒光明寺(塔頭・常光院)に葬られ、「鏡覚院殿円応順心居士」と号した。

 所在地: 京都市左京区聖護院中町15。
 交通:JR京都駅より市バス206、熊野神社前下車、徒歩5分。阪急電鉄河原町駅より市バス201・31で熊野神社前下車。

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「龍源院」 (りょうげんいん)

2007年01月18日 07時47分07秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大徳寺南北派の本庵で、文亀2(1502)大徳寺の開山、大灯国師より第八世の法孫、東渓宗牧禅師を開祖として能登の領主畠山義元公、九州の都総督大友義長らが創建した室町時代最古の禅宗方丈建造物。表門、本堂は(ともに重要文化財)創建当時のもの。方丈は庭々に囲まれ、北に枯山水の「竜吟庭」、南の方丈前には「一枝坦」、方丈東側には「東滴壺」というそれぞれおもむきのある庭が配置されている。

 公開宝物には鎌倉時代建長2年(1250)行心作の本尊釈迦如来座像、日本最古の種子島銃、豊臣秀吉と徳川家康が対局した四方蒔絵の碁盤(重要美術品)等がある。また、方丈室中の襖絵「竜の図」も見ておく価値がある。
 さて、「一枝担」庭には樹齢七百有余年を経た山茶花「楊貴妃」が真紅の花を咲かせて有名になったが、樹齢つきて枯れてしまったという。右に「阿の石」左に「吽の石」があり、阿吽の石庭ともいう。この石は昔、聚楽第のものと伝えられている。

 「竜吟庭」の青々とした杉苔は果てしない大海原を現わし、石組が陸地を表現しているそうだ。「東滴壺」は日本最小の石庭、深い悟りの世界に吸い込まれそうな凛とした格調高い石庭である。

 所在地:北区紫野大徳寺町82-1。
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「善法律寺」(ぜんぽうりつじ)

2007年01月11日 15時13分36秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都府下の八幡市に紅葉寺と呼ばれている「善法律寺」があると聞き、ドライブがてら訪ねてみた。早朝とあってまだ誰も参拝者は来ていなかった。というよりは、それほど名の知れたお寺ではなく、訪ね来る人もいないのかも知れない。

 当寺は全国的に知られた石清水八幡宮の男山山麓のふもと、八幡馬場の男山中学校跡地の馬場運動広場南側に、椿や孟宗竹、楓などに包まれ、隠れるように建っている、奈良唐招提寺末である。
 建物は本堂を中心に庫裡、阿弥陀堂、聖天童が配され、その本堂は、内陣を高御倉と呼び、神仏混淆の五間四方の堂で弘安年間(1278~88)に石清水八幡宮の社殿を移して建立したものである。堂の柱がすべて中途で特殊な方法を用いて接いであるのは、耐震の工夫と考えられている。当初の丹朱塗は剥落しているが、純然たる鎌倉様式を伝えていた。

 お寺は石清水八幡宮検校であった善法寺宮清が正嘉年間(1257~58)に私邸を喜捨して創立し、奈良東大寺から実相上人を招いて開山したことに始まる。室町時代には、善法寺通清の娘良子が将軍足利義詮に嫁ぎ、3代将軍義満の母となった。義満は神社信仰に篤く、特に八幡宮を崇敬したため、20数回も八幡を訪れている。以後の義教、義政も繁けく往来し、将軍家と善法寺家との密接な関係が続いた。従って律寺も足利家の庇護を得て隆盛を極めたのである。義満の母・良子は善法律寺へ自分の好きな紅葉の樹ををたくさん寄進したという。秋には深紅の葉が境内を染め、別名「紅葉寺」と呼ばれ、親しまれている。

 本堂に安置されている本尊の八幡菩薩(僧形八幡)は、明治元年に神仏分離が行われるまで石清水八幡宮の祭神とされていたものである。等身彩色の座像は、左手に宝珠、右手に錫杖を持っている。脇仏は不動・愛染の二明王で、本尊とともに鎌倉時代の作である。また、奥殿には石清水八幡宮の宿院頓宮にあったという宝冠阿弥陀(南北朝時代)や千手観音菩薩立像(鎌倉時代)等寺宝は多い。境内の放生池畔には鎌倉時代の五輪塔もある。
かつて大乗院にあったものとされる五輪石塔や石地蔵が池のほとりに並んでいる。

 所在地:八幡市八幡馬場28。
 交通:京阪電鉄本線・八幡市駅下車、徒歩10分。
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「等持院」(とうじいん)

2007年01月07日 08時00分32秒 | 古都逍遥「京都篇」
 新しき年に入り、暖かな陽気が続いていたある日、京都に思いがけず雪が降り出した。そうだ、京都の雪景色を紹介しようと思い立ち、降る雪、積もる雪が似合うところは、と頭に浮かんだのがこの等持院であった。雪景色の撮影機材を車に積んで衣笠山の麓までやってきたものの、「はて、雪はいずこに…」、その気配さえなかった。

 雪の等寺院を選んだのは、村田珠光や世阿弥らとともに茶道を興した、足利義政好みの藁葺の茶室「清漣亭」に降る雪を想像してのことだった。衣笠山を借景に、その横に竹林を配し、控え目な侘しいたたずまいを見せる茶室に積もる雪、この風景は義政ならずとも私も好きだ。
 残念ながら雪景色を写真にすることはできなかった同院は、暦応4年(1341)、足利尊氏が夢窓国師に依頼し衣笠山の南麓に創建した。室町時代は義満の金閣寺、義政の銀閣寺と並ぶ足利時代の象徴的寺院であり、当院は禅宗10刹の筆頭に上げられており、足利15代・230余年の歴代将軍の菩提所となっている。歴代将軍の像が安置され、徳川家康像もある。庭園は夢窓国師作と伝えられる3大名園の1つである。心の字を象った幽邃の苑池・心字池、その池を囲む四季折々の花々、まさに「夢想」の心境である。
 本堂は元和2年(1616)福島正則が妙心寺塔頭海福院から移築、広縁の心地よい鴬張りの音が一足ごとに心にしみる。

 交通:市バス50系で、立命館大学前下車、徒歩10分。




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「豊国神社」(ほうこくじんじゃ)

2007年01月04日 08時22分55秒 | 古都逍遥「京都篇」
 戦国の武将たちが神として祀られている神社は各地方にも見られ、最も有名なのが、“東照大権現”として知られる徳川家康を祀る栃木県日光の「東照宮」(ユネスコ・世界文化遺産)であろう。そして、徳川家康の前に天下統一を果たし、今日でも大阪では“太閤さん”として親しまれている関白豊臣秀吉も「豊国神社」として祀られている。甲府には「信玄神社」、山形には「上杉神社」と、名を馳せた武将たちは、その地域地域で崇拝され続けている。

慶長3年(1598)に63歳で亡くなった秀吉は、後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神を賜った。秀吉の遺骨は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られた。翌年勅命により太閤坦に日本最初の権現造りで結構壮麗、雄大な社殿の造営が成された豊国社の遺跡であり、明治31年豊太閤300年祭に当たり豊国会の手によって大改修が行なわれ諸殿宇が完備された境域七万坪余、古くから桜、紅葉の名所として知られ、多くの人が訪れる。

 本社境内には桃山風造りの宝物館(大正14年開館)があり、豊太閤にゆかり深い宝物が公開されているが、主な物とすれば豊国祭礼図屏風(狩野内膳筆・重文)や与二郎鉄燈籠(辻与二郎作・重文)、等約80点が常設展示されており、太閤秀吉と桃山文化の関わりを学ぶことができる。鉄燈籠は重要文化財で、豊国神社の両脇に立てられ、荘厳な威風を漂わせている。
 豊太閤大仏造営に当たり、21ヶ国に巨石の提供を求め、俗に「石狩り」といわれた。諸大名が競って自領の名石を運びその大きさ等も争ったと伝えられ蒲生石、蜂須賀小六の泣石などの名も残っている「豊公大石垣」の、延長約900㍍が現存している。

 社の正面石段下の30㍍ほどした所の小丘陵上にある五輪塔は、奇怪な伝説をもつ「耳塚」として知られている。文禄慶長の役に総大将加藤清正が首級の代わりに鼻を持ち帰ったものを、異人とはいえ、兵士の霊を厚く弔うべしとして葬り御身塚と云われた、いつしか訛って「耳塚」と呼ばれるようになったという。
 社殿の前の格子壁には、太閤秀吉の出世物語にあやかろうと、瓢箪を象ったお札に願いを掛けて吊るされていた。私も、願掛けにあやかった。

 交通:JR京都駅、市バス三十三間堂前下車、北に300㍍、徒歩5分。
 
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「愛宕神社」(あたごじんじゃ)

2007年01月02日 11時14分04秒 | 古都逍遥「京都篇」
 愛宕神社は、標高924mの山城と丹波の国境にあり、全国に約900社を数える愛宕神社の根本社として、京都市最高峰の霊山である愛宕山上に鎮座する。古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られ、京都府内はもとより近畿地方を中心に全国から参拝者が絶えない。
 その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~04)に修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立。その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えるが正確な史実は不明である。源氏物語の愛宕聖は、愛宕山の修験者といわれている。
 早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く、9世紀頃には比叡山・比良山等と共に7高山の1つに数えられた。

 平安時代に近衛天皇が亡くなった後に、院政を行っていた鳥羽法皇が天皇の甥である重仁親王を擁立しようとしたところ、親王の父である崇徳上皇が藤原頼長に命じて愛宕神社で呪詛を行わせて天皇を呪い殺したという噂が広まり、これに激怒した法皇は重仁親王の代わりに後白河天皇を即位させ、これがきっかけに保元の乱が発生したとされている。

 神仏習合の時代には本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、境内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していたが、明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っている。
 尚、本地仏であった勝軍地蔵は神仏分離の際、金蔵寺(京都市西京区大原野)に移され現在も大切にお祀りされている。平成15年9月28日、愛宕神社御鎮座1300年祭が執り行われた。

 天正10年(1582)5月、徳川家康が武田の旧領である駿河の国加増の御礼言上のため、安土城に登城するに際し光秀はその接待役を命じられた。しかし、数日にしてその役を解かれ、備中高松城攻めをしている羽柴秀吉の応援を命ぜられたので、軍備を整えるため坂本城を経て丹波亀山城に入った。
 5月27日戦勝祈願のため愛宕神社に参籠し、本能寺の主君信長を攻めるべきかの心の
揺れからか吉凶を占うため籤を2度3度引いたという。翌日、同神社西ノ坊で連歌師里村紹巴らと連歌の会を催した。発句を光秀が詠み、脇句を威徳院の行祐法印、第三句を連歌師の里村紹巴がつけた。全9名で100韻を詠み(愛宕百韻)、書き留めた懐紙を神前に捧げた。
 このとき詠んだ光秀の冒頭の句が、「時は今 あめが下しる 五月哉」であり、時は土岐に、あめ(雨と天)が下しるは天下を支配するに通じ、織田信長の襲殺を秘めた句として知られている。

 登り口は何ヵ所かあるが、清滝からの道が表参道、他に月輪寺からの道、首なし地蔵からの道、水尾からの道などがある。清滝の登り口から10合目が愛宕神社で約4キロ。
所要時間は2時間から2時間半を要しきつい山道である。健脚は歩くのだが、ここまでバスがきており、駐車場もあって車で来ることもできる。

 明治期には参詣道の途中にいくつか茶店があり、休憩する者や名物の土器(かわらけ)投げで賑わったという。「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都のほとんどの家庭の台所に貼られており、飲食店の厨房や会社の茶室などにも貼られていることが多い。

 所在地:京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1。
 交通:JR京都駅より京都バス清滝行(約1時間)、清滝より山頂まで徒歩。
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