楊貴妃観音像で知られる古刹・泉涌寺総門の左手にある即成院は、「往生要集」を著した比叡山の僧・恵心僧都(源信)によって正暦3年(992)建立された「光明院」を始まりとしているが、現在は京都・東山にある総本山御寺泉涌寺の塔頭(たっちゅう)寺院で真言宗泉涌寺派準別格本山である。
平安時代後期に、関白藤原頼通の三男・修理大夫(すりだいぶ:「宮中の修理・造営などを司る役所である修理職(すりしき)の長官」)橘俊綱が、伏見の里に広大な山荘を営み、その山荘中に阿弥陀堂を建立、極楽浄土の世界を築き、寛治初年(1087)に光明院を「持仏堂」として移築、成就院または伏見寺と称した。
橘俊綱は歌合せ、歌会を催したほどの歌人で、伏見長者とも呼ばれ、風流人として一世を風靡したといわれている。また、関白・藤原頼道は道長の長子で宇治殿とも言われ、政務には51年も携わったという実力者であった。道長より受け継いだ宇治殿(宇治の別荘)を平等院として建立しようとしたのは、永承7年(1052)のことである。
明治初年の廃仏毀釈の影響で即成院は明治5年(1872)にいったん廃寺となり、仏像は泉涌寺に引き取られた。明治2年(1887)に泉涌寺大門付近に仮堂が建設されてようやく復興し、明治32年(1899)には泉涌寺塔頭の法安寺と合併、明治35年(1902)には、大門前から総門近くの現在地に移された。明治44年(1911)には阿弥陀如来及び25菩薩像が「法安寺」の所有として重要文化財(当時の国宝)に指定された。「即成院」の寺号が復活するのは昭和16年(1941)のことである。
重要文化財の木造阿弥陀如来及び25菩薩像26体は、本堂内のひな段状の仏壇に四段に分けて安置されている。
阿弥陀如来の左右には亡者を乗せるための蓮台を捧げ持つ観音菩薩像と合掌する勢至菩薩像が位置し、その他の23体の菩薩像の多くは楽器を演奏する姿で表わされる。阿弥陀如来と25体の菩薩が、亡者を西方極楽浄土へ導くさまを表現したもので、この種の像は絵画作品としては多数作られているが、等身大の立体像で表わしたものは珍しい。
26体のうち、阿弥陀如来像を含む11体のみが平安時代の作で、残りの15体は江戸時代の補作であるとされ、平安彫刻の様式を忠実に模して作られているという。
ここには、ちょっとミステリアスな菩薩の大行列の法会がある。
尊の阿弥陀如来が極楽浄土の世界から現世に来迎し、衆生を浄土に導く姿を現したもので、本堂を極楽浄土に、地蔵堂を現世になぞらえ、その間に高さ2㍍、長さ50㍍の仮設橋が架けられ、本堂から修験修を先頭に稚児が地蔵堂に供物を運んでお練りは始まる。やがて一山の僧侶が総出仕の読経の中、菩薩面を被り、金襴の衣装をつけた稚児25人が本堂を出発、修験衆の法螺、来迎和讃にあわせて橋の上を練って、本堂から地蔵堂まで25菩薩が還る。再び本堂に戻ると観世音・勢至両菩薩の舞が繰り広げられる。
「与一鏑を取ってつがひ、よつぴいてひやうど放つ」――。(平家物語)
当院は別名那須与一さんと呼ばれ、与一ゆかりの寺として有名である。源平盛衰記等で親しまれている那須与一は、現在の栃木県下野の生れ、源義経の命により出陣の途中、都まできた時俄に病にかかり動けなくなった。そこに当院の本尊阿弥陀如来の霊験あらたかなるを聞いて参篭し、病気平癒の祈願の結果 、忽ち本尊の利益が顕われて平癒した。
与一は報恩の為堂宇を再建し、本尊を念持仏として、小像に刻み、甲の中に納め出陣した。
特に屋島の戦では平家が軍船上に一竿を建て、竿頭に日の丸の扇を掲げ、これを射よとの挑戦に、義経は与一に射落とすことを命じた。与一は馬を海中に乗り入れたが大浪小浪に驚き荒れ狂い、狙いを定めることが出来なかった。そこで一心不乱に本尊阿弥陀如来の冥助を念じたところ利益が顕われ、馬も鎮まり、扇面 をめがけて矢を放てば美事その要を射て平家の水軍敗退の因を完遂した。
与市はこの戦功によって丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五州を受領、下野守に任官し、御礼言上の為上洛参内した。帰途伏見桃山即成院に参篭、武道を捨て入道し、小庵を結び朝暮信心怠らずお守りした。その後病を得て文治5年8月8日逝去。特に年34才であった。境内の巨大な石造宝塔は与市の墓である。
所在地:京都市東山区泉涌寺山内町28。
交通:JR東福寺駅・京阪電鉄東福寺下車、徒歩10分。JR京都駅から市バス208系統で泉涌寺下車、徒歩12分。
平安時代後期に、関白藤原頼通の三男・修理大夫(すりだいぶ:「宮中の修理・造営などを司る役所である修理職(すりしき)の長官」)橘俊綱が、伏見の里に広大な山荘を営み、その山荘中に阿弥陀堂を建立、極楽浄土の世界を築き、寛治初年(1087)に光明院を「持仏堂」として移築、成就院または伏見寺と称した。
橘俊綱は歌合せ、歌会を催したほどの歌人で、伏見長者とも呼ばれ、風流人として一世を風靡したといわれている。また、関白・藤原頼道は道長の長子で宇治殿とも言われ、政務には51年も携わったという実力者であった。道長より受け継いだ宇治殿(宇治の別荘)を平等院として建立しようとしたのは、永承7年(1052)のことである。
明治初年の廃仏毀釈の影響で即成院は明治5年(1872)にいったん廃寺となり、仏像は泉涌寺に引き取られた。明治2年(1887)に泉涌寺大門付近に仮堂が建設されてようやく復興し、明治32年(1899)には泉涌寺塔頭の法安寺と合併、明治35年(1902)には、大門前から総門近くの現在地に移された。明治44年(1911)には阿弥陀如来及び25菩薩像が「法安寺」の所有として重要文化財(当時の国宝)に指定された。「即成院」の寺号が復活するのは昭和16年(1941)のことである。
重要文化財の木造阿弥陀如来及び25菩薩像26体は、本堂内のひな段状の仏壇に四段に分けて安置されている。
阿弥陀如来の左右には亡者を乗せるための蓮台を捧げ持つ観音菩薩像と合掌する勢至菩薩像が位置し、その他の23体の菩薩像の多くは楽器を演奏する姿で表わされる。阿弥陀如来と25体の菩薩が、亡者を西方極楽浄土へ導くさまを表現したもので、この種の像は絵画作品としては多数作られているが、等身大の立体像で表わしたものは珍しい。
26体のうち、阿弥陀如来像を含む11体のみが平安時代の作で、残りの15体は江戸時代の補作であるとされ、平安彫刻の様式を忠実に模して作られているという。
ここには、ちょっとミステリアスな菩薩の大行列の法会がある。
尊の阿弥陀如来が極楽浄土の世界から現世に来迎し、衆生を浄土に導く姿を現したもので、本堂を極楽浄土に、地蔵堂を現世になぞらえ、その間に高さ2㍍、長さ50㍍の仮設橋が架けられ、本堂から修験修を先頭に稚児が地蔵堂に供物を運んでお練りは始まる。やがて一山の僧侶が総出仕の読経の中、菩薩面を被り、金襴の衣装をつけた稚児25人が本堂を出発、修験衆の法螺、来迎和讃にあわせて橋の上を練って、本堂から地蔵堂まで25菩薩が還る。再び本堂に戻ると観世音・勢至両菩薩の舞が繰り広げられる。
「与一鏑を取ってつがひ、よつぴいてひやうど放つ」――。(平家物語)
当院は別名那須与一さんと呼ばれ、与一ゆかりの寺として有名である。源平盛衰記等で親しまれている那須与一は、現在の栃木県下野の生れ、源義経の命により出陣の途中、都まできた時俄に病にかかり動けなくなった。そこに当院の本尊阿弥陀如来の霊験あらたかなるを聞いて参篭し、病気平癒の祈願の結果 、忽ち本尊の利益が顕われて平癒した。
与一は報恩の為堂宇を再建し、本尊を念持仏として、小像に刻み、甲の中に納め出陣した。
特に屋島の戦では平家が軍船上に一竿を建て、竿頭に日の丸の扇を掲げ、これを射よとの挑戦に、義経は与一に射落とすことを命じた。与一は馬を海中に乗り入れたが大浪小浪に驚き荒れ狂い、狙いを定めることが出来なかった。そこで一心不乱に本尊阿弥陀如来の冥助を念じたところ利益が顕われ、馬も鎮まり、扇面 をめがけて矢を放てば美事その要を射て平家の水軍敗退の因を完遂した。
与市はこの戦功によって丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五州を受領、下野守に任官し、御礼言上の為上洛参内した。帰途伏見桃山即成院に参篭、武道を捨て入道し、小庵を結び朝暮信心怠らずお守りした。その後病を得て文治5年8月8日逝去。特に年34才であった。境内の巨大な石造宝塔は与市の墓である。
所在地:京都市東山区泉涌寺山内町28。
交通:JR東福寺駅・京阪電鉄東福寺下車、徒歩10分。JR京都駅から市バス208系統で泉涌寺下車、徒歩12分。