「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「即成院」(そくじょういん)

2007年07月26日 12時34分50秒 | 古都逍遥「京都篇」
 楊貴妃観音像で知られる古刹・泉涌寺総門の左手にある即成院は、「往生要集」を著した比叡山の僧・恵心僧都(源信)によって正暦3年(992)建立された「光明院」を始まりとしているが、現在は京都・東山にある総本山御寺泉涌寺の塔頭(たっちゅう)寺院で真言宗泉涌寺派準別格本山である。

 平安時代後期に、関白藤原頼通の三男・修理大夫(すりだいぶ:「宮中の修理・造営などを司る役所である修理職(すりしき)の長官」)橘俊綱が、伏見の里に広大な山荘を営み、その山荘中に阿弥陀堂を建立、極楽浄土の世界を築き、寛治初年(1087)に光明院を「持仏堂」として移築、成就院または伏見寺と称した。

 橘俊綱は歌合せ、歌会を催したほどの歌人で、伏見長者とも呼ばれ、風流人として一世を風靡したといわれている。また、関白・藤原頼道は道長の長子で宇治殿とも言われ、政務には51年も携わったという実力者であった。道長より受け継いだ宇治殿(宇治の別荘)を平等院として建立しようとしたのは、永承7年(1052)のことである。

 明治初年の廃仏毀釈の影響で即成院は明治5年(1872)にいったん廃寺となり、仏像は泉涌寺に引き取られた。明治2年(1887)に泉涌寺大門付近に仮堂が建設されてようやく復興し、明治32年(1899)には泉涌寺塔頭の法安寺と合併、明治35年(1902)には、大門前から総門近くの現在地に移された。明治44年(1911)には阿弥陀如来及び25菩薩像が「法安寺」の所有として重要文化財(当時の国宝)に指定された。「即成院」の寺号が復活するのは昭和16年(1941)のことである。

 重要文化財の木造阿弥陀如来及び25菩薩像26体は、本堂内のひな段状の仏壇に四段に分けて安置されている。
 阿弥陀如来の左右には亡者を乗せるための蓮台を捧げ持つ観音菩薩像と合掌する勢至菩薩像が位置し、その他の23体の菩薩像の多くは楽器を演奏する姿で表わされる。阿弥陀如来と25体の菩薩が、亡者を西方極楽浄土へ導くさまを表現したもので、この種の像は絵画作品としては多数作られているが、等身大の立体像で表わしたものは珍しい。
 26体のうち、阿弥陀如来像を含む11体のみが平安時代の作で、残りの15体は江戸時代の補作であるとされ、平安彫刻の様式を忠実に模して作られているという。

 ここには、ちょっとミステリアスな菩薩の大行列の法会がある。
 尊の阿弥陀如来が極楽浄土の世界から現世に来迎し、衆生を浄土に導く姿を現したもので、本堂を極楽浄土に、地蔵堂を現世になぞらえ、その間に高さ2㍍、長さ50㍍の仮設橋が架けられ、本堂から修験修を先頭に稚児が地蔵堂に供物を運んでお練りは始まる。やがて一山の僧侶が総出仕の読経の中、菩薩面を被り、金襴の衣装をつけた稚児25人が本堂を出発、修験衆の法螺、来迎和讃にあわせて橋の上を練って、本堂から地蔵堂まで25菩薩が還る。再び本堂に戻ると観世音・勢至両菩薩の舞が繰り広げられる。

 「与一鏑を取ってつがひ、よつぴいてひやうど放つ」――。(平家物語)

 当院は別名那須与一さんと呼ばれ、与一ゆかりの寺として有名である。源平盛衰記等で親しまれている那須与一は、現在の栃木県下野の生れ、源義経の命により出陣の途中、都まできた時俄に病にかかり動けなくなった。そこに当院の本尊阿弥陀如来の霊験あらたかなるを聞いて参篭し、病気平癒の祈願の結果 、忽ち本尊の利益が顕われて平癒した。
 与一は報恩の為堂宇を再建し、本尊を念持仏として、小像に刻み、甲の中に納め出陣した。

 特に屋島の戦では平家が軍船上に一竿を建て、竿頭に日の丸の扇を掲げ、これを射よとの挑戦に、義経は与一に射落とすことを命じた。与一は馬を海中に乗り入れたが大浪小浪に驚き荒れ狂い、狙いを定めることが出来なかった。そこで一心不乱に本尊阿弥陀如来の冥助を念じたところ利益が顕われ、馬も鎮まり、扇面 をめがけて矢を放てば美事その要を射て平家の水軍敗退の因を完遂した。

 与市はこの戦功によって丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五州を受領、下野守に任官し、御礼言上の為上洛参内した。帰途伏見桃山即成院に参篭、武道を捨て入道し、小庵を結び朝暮信心怠らずお守りした。その後病を得て文治5年8月8日逝去。特に年34才であった。境内の巨大な石造宝塔は与市の墓である。

 所在地:京都市東山区泉涌寺山内町28。
 交通:JR東福寺駅・京阪電鉄東福寺下車、徒歩10分。JR京都駅から市バス208系統で泉涌寺下車、徒歩12分。






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丹波景徳山「安国寺」(あんこくじ)

2007年07月19日 08時15分25秒 | 古都逍遥「京都篇」
 ちょっと遠出をして綾部市にある古寺を訪ねてみようと、国道27号線を走っていると昼時となり、持参のお結び弁当を頬ばりながら快適に車を走らせていると、お目当ての「安国寺」の案内標識が目に入った。

 安国寺は足利尊氏を祀ってある由緒ある寺で、正暦4年(993)頃恵心僧都62才の制作である子安地蔵菩薩を安置して光福寺としたのが創まりで、上杉重房の外護を受け上杉家の氏寺として発展の途に登り、上杉頼重の息女清子が足利貞氏と結ばれ当山の地蔵菩薩に祈願すること7日、行満る暁、星を呑むとの夢をみて懐妊し、嘉元3年(1305)上杉氏所領内の光福寺々内塔頭の常光寺に於いて尊氏公を安産し、その後は足利家からの帰依も受けるようになり南北朝のはじめ足利尊氏が弟直義とともに夢窓国師の勧めに従い、国土安穏泰祈願並びに元弘以来の戦死者供養のため、暦応2年(1339)全国2島
66ヶ国に安国寺を建立するにあたり、暦応4年3月(1341)円派の仏師豪円作の釈迦三尊坐像を本尊として丹波の安国寺を創立する。 

 室町幕府を開いた足利尊氏は、この上杉荘(安国寺町)で誕生したと伝えられている。ここ綾部は、尊氏の生母清子の実家上杉氏の発祥の地であり、その氏寺である景徳山安国寺には、産屋の跡やその傍らに産湯の井戸が残されています。また、安国寺境内には、今も母清子と妻登子の墓と並んで、尊氏の墓が祀られている。尊氏は、夢窓疎石の勧めで南北朝の争乱に殉じた人々の霊を供養するため、全国六十余州に安国寺利生塔を建立し、その筆頭に丹波安国寺を置き京都十刹の寺格を得て、丹波、越後、日向等全国に荘園を領し、一時は塔頭16、支院28を持ち繁栄した。現在でも、安国寺は国の重要文化財、府、市指定文化財の仏像や古文書等を数多く所蔵している。

 本尊釈迦三尊坐像(重文)は、本寺正面の仏殿(本堂)に安置され、宝髻をゆいあげて宝冠を載かれ衲衣を付け、胸には瓔珞の飾り、手には禅定の印を結んでいる。仏師豪円の作で、脇立文珠菩薩、普賢菩薩と共に大作である。

 木像地蔵菩薩半跏像(同)は、平安時代初期、恵芯僧都61才の時の作と伝えられ、尊氏公の母君が祈願して嘉元3年(1305)足利尊氏を安産したという、それ以降子安延命地蔵尊として信仰厚く、一千年来毎年4月29日には大法要が行われる。
 開山頂相三幅(京都府指定文化財)は、開山天庵妙受禅師の肖像画で3幅とも室町初期弟子が描いた。

 安国寺周辺の道は「京街道」と呼ばれ、かつては陣屋が置かれ京都と舞鶴、天橋立方面に行き交う人たちであふれていたという。足利尊氏が産湯を使ったとされる井戸は、安国寺の参道沿いにある。

 所在地:京都府綾部市安国寺町寺ノ段1
 交通:JR京都から山陰本線で約1時間(特急)梅追駅下車、大阪から福知山線、山
陰本線で約1時間50分(特急)。車では、京都から国道9号線京都縦貫道、国道27号線で約80km。
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「二条陣屋」 (にじょうじんや)

2007年07月11日 23時22分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
 江戸初期建築の町家で、上洛の際、滞在する屋敷を持たない大名のために、江戸初期寛文10年(1670)に建てられた宿舎で、大名の安全を確保するため、大広間の天井に武者溜(むしゃだまり)を設けたり、落とし階段や抜け穴などが随所に隠されていたりする、数寄屋造りが特徴的で、建物は外部がすべて土蔵造りとなった防火建築になっており、天明8年(1788)の大火でも無事だったという。

 内部の大座敷には明畳をあげると能舞台となる能の間、茶室、部屋全体を苫船に見立て天井を屋形船様に造った蘇鉄の間など、24室ある各部屋にはそれぞれ抜け穴・落し階段・釣梯子など忍者屋敷さながらの工夫・意匠が凝らされている。主に西国大名が使用したという。

 数寄屋造・書院造を折衷した特異な町家建築で主屋と土蔵2棟が国の重要文化財に指定されている。陣屋(小川家)は、大宮通を二条城から少し南に下がったところにある。民家なので見学は予約制となっており、突然行っても入れてくれない、入場は高校生以上。電話または往復はがきで、〒604-8316 京都市中京区大宮通御池下ル西側小川平太郎宛て。 料金1000円(高校生800円)、丁寧な説明を受けながすべてを見学するのには1時間ほどかかる。

 交通:JR京都駅から市バス9・50・101号系統「二条城前」下車、阪急電鉄四条河原町駅から市バス12号系統「堀川御池」下車、徒歩8分。
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「清閑寺」(せいかんじ)

2007年07月05日 08時11分03秒 | 古都逍遥「京都篇」
 清水寺から15分ほど静かな林道を歩くと六条天皇陵の横に、清閑寺がある。

 和歌や古典文学に名高い当寺は、延暦21年(802)に天台宗の寺として創建され、一条天皇の時代に佐伯公行に再興されたという。このとき菅原道真が梅樹で自ら彫ったという十一面観音が本尊として伝わってる。かつては清水寺と並ぶ大寺であったというが、焼失後再建されず、小さな本堂が建つ侘びた古寺となっている。現在は真言宗智山派の寺。

 「平家物語」で名高い小督局(こごうのつぼね)ゆかりの寺としても知られているが、寺伝によれば、小督局が23歳のとき宮中を追われ、ここで出家した。ひっそりと高倉天皇を偲びながらこの地で死んだと伝えている。山中には小督の局を愛した高倉天皇の陵がある。

 また、寺内には西郷隆盛と清水寺住職月照上人が謀議をした茶室郭公亭もある。清水寺から清閑寺へ向かう杉並木の山道は古くから知られた紅葉の名所で、途中にある清水寺塔頭泰産寺(たいさんじ)の子安塔(重要文化財)は、安産祈願で有名。江戸時代初期の再建で、もとは坂上田村麻呂の娘が皇子の誕生を祝って建てたものと伝わっている。この場所からは清水寺が一望でき、境内からの眺望は絶景である。庭の前方に大きな石があり、この位置から扇を開くように京都市街が見える。ちょうど扇の要の位置に当たることから要石(かなめいし)と呼ばれ、この石に願いを掛けると叶うという信仰がある。

 昔は山科方面から京に出るときはこの付近を通り、ここで京の都が見えるので1つの名所になったらしい。
 またこの付近は京都の陶磁器の元祖ともなった場所で、八世初頭に窯ができ、これを発展させた清閑寺窯から清水焼が生まれ、続いて粟田口焼(あわたくちやき・粟田神社に発祥の碑がある)が生まれ、さらにこの2つの流れから京焼が生まれた。

 京焼について少し紹介しておくと、京都の陶器は、天平年間(729~49)に行基(ぎょうき、668~749)が東山の清閑寺に窯を築いたのにはじまると伝えられている。

 江戸時代初期より本格的な作陶がはじまり、三文字屋九右衛門が開いた粟田口焼が粟田焼の起源といわれ、その後、東山一帯の音羽・清閑寺・清水などに築かれた窯は清水焼の起源となった。
 粟田口の窯にはじまる京都の焼物は、金森宗和(かなもりそうわ、1584~1656)の指導のもと、御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(ののむらにんせい、生没年未詳)によって開花。

 仁清は、粟田口で焼物の基礎を、瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学び、また京焼技法である色絵陶器の完成者とも言われている。
 その後、寛永期(1624~44)に入ると、赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは、仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ、これらの作品は後に「古清水」と呼ばれるようになった。

 所在地:京都市東山区清閑寺山ノ内町。
 交通:京阪バス「山ノ内町」下車徒歩3分。
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