「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「正伝護国禅寺」(しょうでんごこくぜんじ)

2007年03月30日 00時02分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
 市営地下鉄北大路駅から徒歩約1時間、街並を離れ畑と民家の中の細い道を歩いて行くと山門が見える。大文字五山送り火の1つ舟山南稜の山腹に有る小寺院で血天井の寺としても知られている。
 鎌倉時代、北条時頼を悟りに導いた中国の僧・兀菴普寧(ごつあんふねい)禅師の法を受け継いだ東巌慧安(とうがんえあん)禅師によって弘安5年(1282)に創建。護国寺の名の通り、元寇の国難に立ち向かうべく、「願わくば神明、国民の五体の内に入り、蒙古の敵を討ち滅ぼさせしめ給い、神は雲となり、風となり、雷となり、国敵を催破せしめられんことを(東巌慧安の祈願文より)」という思いで降伏祈願・国家安泰のためにつくられた。現在の本堂は承応2年(1652)に伏見城から移築されたものである。

 ここに移設された血天井は武将たちの壮絶な最期を窺い知ることができ、涙を誘う。慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いで、東軍と西軍が戦いの火蓋を切ったのは伏見城である。徳川家康率いる東軍の主力が上杉征伐に向かった隙を見計らって、西軍が東軍に攻撃を仕掛けたのが、家康の忠臣・鳥居元忠の居城である伏見城であった。鳥居軍は篭城するも、圧倒的な兵力差の前に2週間で落城、元忠らは自決して果て、城内は凄惨な血の海となった。
 後に家康は供養のため伏見城の床を寺に移されたいわれ、正伝寺の他にも、鷹ヶ峰の麓にある源光庵、三十三間堂の近くにある養源院、大原の宝泉院、宇治の興聖寺にも移設している。

 庭園は江戸初期の枯山水で小堀遠州の作庭、一石も用いず、つつじの刈り込みが基調となっている珍しいもので、七・五・三に配され「獅子の子渡し」とも呼ばれている。
 庭は白塀を配し清楚で落ち着きがある。白塀越しの比叡山を借景に、その稜線をなぞるようにして月が渡っていくという意図で作庭され、別名「月の寺」として知られる。
 「庭は月の光を溜める器、白壁は彼岸と娑婆の境かも知れませんね」という説明を聞きながら、雄大にそびえる比叡山を眺め瞑想に耽った。

 重要文化財指定の本堂は、初めは聚楽第の一部であったものが伏見城の城郭という歴史を経て移築され、堂内には狩野山楽作の襖絵があり重要文化財に指定されている。

 所在地:京都市北区西賀茂北鎮守菴町72。
 交通:JR京都駅より市バス9系統西賀茂車庫行(約40分)、神光院下車、徒歩15分。
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「六道珍皇寺」(ろくどうちんこうじ)

2007年03月23日 13時32分21秒 | 古都逍遥「京都篇」
 建仁寺の塔頭寺院で、閻魔大王像を祭る閻魔堂もある。毎年8月7~10日には六道詣りが行われ、盆に帰ってくる精霊を迎える鐘を撞こうと多くの人が訪れる。山門の碑には六道の辻と刻まれている。六道の辻は現世とあの世の境と云われ、実際の辻は石碑の西側に位置する辻になる。

 六道珍皇寺は、永暦年間(782~806)に慶俊の開基といわれているが、空海説や小野篁説はじめ諸説があり、本尊は最澄作の薬師如来で臨済宗建仁寺派の寺。
 この付近はかつて死者を鳥辺野(とりのべ)へ葬送する際の野辺送りの場所で、六道の辻と呼ばれ、この世とあの世の境といわれていた。
 平安時代、この地域一帯は、埋葬地となっていた、飢饉や天災で死んだ人々の死体が捨てられ、地獄のような光景が広がっていたという。そのような人々の魂がこの場所に渦巻いていると考えられ、昔の人はあまり近寄らなかったようだ。

 本堂の後に有名な井戸があり、平安初期の学者・歌人としても名高い小野篁(おののたかむら・802~52年)が、死んだ母親に会うために、あの世に通じるというこの井戸を利用し、夜になると井戸から冥土(あの世)に通い、閻魔王庁で裁判を手伝って、夜が明けると娑婆(この世)に戻ってきたと伝えられている。
 閻魔堂には小野篁作と伝わる閻魔大王像と等身大の小野篁像が合祀されている。重文の本尊薬師如来や地獄絵等の寺宝の拝観には事前申込みが必要。
 (六道とは仏教用語で、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」という、6つの世界を指す。)

「泣く涙雨と降らなむ渡り川 水まさりなば帰りくるがに」(悲しみにたえきれず泣く私の涙よ、雨となって降っておくれ。あの世との境の渡り川の水かさが増したら、妹は渡ることができなくなる。そして再び、この世に帰ってくるように<京都産業大学小林一彦教授(国文学)>)

■「迎え鐘」
 一般的な梵鐘ではなく、ここの鐘は建物の中に封印されています。しかも「押す」のではなく「引く」ことで音を出させる。一説に、梵鐘の下は地中深く(=地獄まで)続いているといい、ややこもったような音色が、「はるか冥土」まで達しているような雰囲気を抱かせる。

■「幽霊飴」
 昔、六道珍皇寺の門前に一軒の飴屋があった。
 ある夜表の戸を叩く音で出てみると青白い女が1人。「えらい夜分にすみませんが、飴を1つ売っていただけませんか」と一文銭を出して言う。次の日もまたその次の日も、同じように一文銭を出して買っていく。それが六日間続く。
 「あれは、ただもんではない。明日銭持ってきたら人間やけど持ってこなんだら、人間やないで」「なんでですねん」「人間、死ぬときには、六道銭というて三途の川の渡し銭として、銭を六文、棺桶に入れるんや。それを持ってきたんやないかと思う」
 7日目女はやはりやってくるが、「実は今日はおアシがございませんは、飴をひとつ…」と言う。「よろしい」と銭なしで飴を与えてそっと後をつけると、二年坂、三年坂を越えて高台寺の墓原へ入っていく。そして、1つの塔婆の前でかき消すように消える。
 掘ってみるとお腹に子を宿したまま死んだ女の墓。中で子が生まれ、母親の一念で飴で子を育てていたのである。この子、飴屋が引き取り育て後に高台寺の坊さんになったと言う。
 母親の一念で一文銭を持って飴を買うてきて、子どもを育てていた。それもそのはず、場所が「コオダイジ(子を大事=高台寺)。(米朝ばなし『上方落語地図』講談社文庫より)

 所在地:京都府京都市東山区東大路通松原西入ル北側小松町595。
 交通:JR京都駅市バス206系、清水道下車徒歩4分。京阪電車五条駅、徒歩15分。
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「清滝」(きよたき)

2007年03月16日 01時10分51秒 | 古都逍遥「京都篇」
観光名所として名高い「化野念仏寺」からさらに坂を登って行くと、「愛宕(おたぎ)念仏寺」が左手に見え、その先にポッカリ空いた小さなトンネルが見える。トンネルには「清滝遂道」と書かれており、信号機が設置されているが、それは車1台が通れる幅しかないからで交互通行となっている。

 このトンネルが清滝に通じているが、出口は見えないため、初めてなら一人で歩くのはためらわれるほど心細い。コツコツと、自分の足音がミステリックに反響して、出口の明かりが見えるまではスリルがある。トンネルを抜けると雪国だった…というのは小説のこと、秋だと清滝の絶景なる紅葉樹林に遭遇する。
 愛宕山(あたごさん)の南東麓に位置するこの清滝は、愛宕神社の鳥居前町として起こり、春は桜、初夏の新緑、夏の清流、秋は紅葉、冬の雪景色と四季を通じて自然を楽しめるところだ。
 清滝は、愛宕神社への参詣者が清滝川で水垢離(みずごり)をとる場所であった。清滝は地名で、清滝という名の滝は存在しない。
 愛宕山の東すそを緩やかな曲線を描いて流れる清滝川。高雄と栂尾と槙尾、俗に「三尾」と呼ばれる紅葉の名所を結ぶこの川は、紅葉の便りを運んでくる。清滝を境に下流の保津川までを金鈴峡とよび、そこにかかる金鈴橋は紅葉を楽しむ絶好のスポットである。この渓流沿いの遊歩道は、ホタル生息地でもあり、景観もよく京都で最も人気のあるハイキングコースとなっている。
 また、清滝川の清流を渡る渡猿橋は、愛宕山への参道に架けられた橋である。

この地は渓谷美に優れ、古くから歌人達が訪れ、多くの作品を残している。

「清滝の瀬々の白糸冬来れば 染むる木の葉の錦をぞ織る」(家隆)

「清滝や波に散り込む青松葉」(芭蕉)

渡猿橋がいつごろ架けられたのかは明らかではないが、橋名は、平安末期文覚上人(もんがくしょうにん)が修行のため空也滝へ行く途中、この近くで猿が連なって木からぶら下がり、魚を取るのを見たことに由来するという。

 橋たもとに木造旅館「ますや」の看板。楓の木が渓流に面した旅館を包みこんでいる。「旅館ますや」は、いまでは清滝唯一の旅館になった。愛宕参りの茶店から始まったもので300年の歴史があるという。
 このような昔の旅篭のような造りの旅館は秘境の温泉地でも少なくなり、各地より多くの人たちが訪れているとのこと。大福帳のかかる土間に、古びた「三高生逍遙の宿」の額が掛けられている。当時、第三高等学校(現京都大学)の学生たちが、高尾から清滝経由で嵯峨野へ「清遊」と称する紅葉狩りのハイキングに出かけたという。その縁でますやは三高生が通った。田宮虎彦、梶井基次郎、織田作之助など三高出身の作家が滞在したという。
 与謝野晶子が鉄幹と歌会を開いたのもこの宿。徳富蘆花が失恋の心をいやすため、読書の日々を過ごしたという部屋もある。窓から見下ろす清滝川と部屋の柱、板廊下はよき時代の風情を留めている。

 所在地:住所:京都市右京区清滝。
 交通:JR京都駅から京都バス72系統「清滝」下車、京阪電鉄三条駅から京都バス62系統「清滝」下車、ともに徒歩約10分。
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「今宮神社」(いまみやじんじゃ)

2007年03月09日 00時41分02秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大徳寺に北接し、疫病の神として知られている今宮神社は、正暦5年(994)舟岡山に三神をすまわせていたのを、長保2年(1000)に一条天皇の疫病除のため、現社地に移された。境内にある疫(えき)神社は今宮神社創建以前から鎮座していたといわれ、疫病よけの社として有名で、神社の名称である「今宮」とは、この疫神社に相対して名付けられた言われている。祭神は、大国主命・事代主命・稲田姫命を祀り、社殿は1902年(明治35)の再建で、社の多くは明治時代の再建である。

 今宮神社のある紫野(むらさきの)の地は、平安京の大内裏に接した船岡山の東北一帯の地にあたり、昔から洛北七野(ななの)(内野、北野、平野、萩野、蓮台野、紫野、上野)の1つで、朝廷の禁野(しめの)として御猟または遊覧の野原であったと伝えられている。
 毎年4月の第2日曜日に行われる「やすらい祭り」は疫病除けの祭で、行列の花傘の下に入ると病気にかからないといわれている。またこの祭りは、太秦の牛祭・鞍馬の火祭とともに京都三奇祭の1つになっている。

 今宮神社を参拝すると食べずには帰れない「あぶり餅」がある。
 東門を出た所に「あぶり餅」を売る軒のれんの店が向かい合い、江戸時代の社頭風景の名残を漂わせている。
 股に分かれた竹串に、きな粉をまぶしたお餅を親指の先ほどの大きさにちぎって刺し、炭火で焼いて味噌だれをかけたものがこのあぶり餅は、1人前15本で500円で、舌鼓を打つのもご利益のおかげだろうか。

■玉の輿(たまのこし)祈願
 「玉の輿」という言葉の由来は江戸時代に京都・西陣の八百屋の娘・お玉が第3代将軍・徳川家光に見初められ、後の5代将軍・徳川綱吉(つなよし)を産み、世継の母として絶大な権力を持った桂昌院(けいしょういん)となったことから、玉の輿と言われるようになった。
 桂昌院(1627~1705)は、京都の多くの寺院の建立に尽力し、西陣も盛りたてた。今宮神社は西陣の氏神にあたることから、お玉にちなんだ「玉の輿」お守り(800円)を販売している。

■阿呆賢さんの霊跡
 参道の左手前に、小さな石が安置された祠がある。この石は両手で持てるほどの小さな石で「阿呆賢(あほかん)さん」と呼ばれており、説明版には「今宮の奇石」と書かれてある。この石を手でなでて、自分の体の悪い部分をさすれば、その悪い部分が治癒されるといわれ「神占石」の別称がある。
 また、この石を軽く3回たたいて持ち上げてみると非常に重くなり、今度は願い事を唱えて優しく石を3度さするとそこで石がとても軽くなったら、その願いことは成就する「重軽石」とも呼ばれている。

 所在地:京都府京都市北区紫野今宮町21。
 交通:阪急河原町駅、京阪四条駅から市バス46、今宮神社前下車。
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石峰寺 (せきほうじ)

2007年03月02日 00時24分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
 百丈山石峰寺は、伏見稲荷大社の南に続く低い丘陵地帯の中腹に位置する禅寺で、正徳3年(1713)黄檗宗第六世賜紫千呆(せんがい)禅師により建立された。平安中期の武将源満仲が摂津多田郷に建立した石峰寺が起源とされている。

寛政年間に画家伊藤若冲が当時に草庵を結び、禅境を好み仏世の霊境を化度利益する事を願い、七代蜜山和尚の協賛を得て安永の半より天明初年まで前後10年余をかけて裏山に五百羅漢を作った。若冲の五百羅漢は磊落な筆法にて下絵を描き石上に彫らせたもので釈迦誕生より涅槃に至るまでを中心に釈迦の一代記を描いたもので、長年の風雨を得て丸み、苔寂び、その風化を伴い表情や姿態に一段と趣を深めている。 尚、羅漢山の西に若冲の墓と書画に秀でた貫名海屋の筆塚がある。

 羅漢とは釈迦の説法を聞き世人より供養される者を言うのであるが、釈迦入滅後その教えを広めた数多の賢者を賛嘆する意味で宗・元時代より五百羅漢の作成が見られる。日本でも室町時代以後この五百羅漢の作成が見られる。その表現は、虚飾のない表情の中に人間性と美を描き、釈迦誕生より涅槃に至るものを中心とし菩薩、羅漢を安置したものである。
 明治以後荒廃していたが、大正15年(1915年)と昭和54年(1979年)に罹災し、現在は本堂、竜宮門などを残すのみである。現在の本堂は昭和60年(1985年)の再建である。
 伊藤若冲は江戸時代中期,正徳6年(1716)2月8日京都の高倉錦小路南東角にあった青物問屋「桝屋」に長男として生まれた。
 名前は代々伊藤源左衛門を名乗り、店の名は屋号と名前から「桝源」といった。40歳の時に弟に家督を譲り、隠居して絵に専念した。
 号の「若冲」は、「老子」の中の「大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも」の一節から採られており、「完成されたものはどこか欠けたように見えるが使っても尽きることがない」との意で、若冲の芸術観をよく現しているといえる。

 石仏群は、「天上天下唯我独尊」と姿を示す釈迦誕生仏から始まり、出山釈迦、25菩薩来迎石仏や18羅漢石仏、釈迦説法の群像、托鉢修行の羅漢〔羅漢(托鉢)〕の群像、釈迦涅槃の場面、賽の河原(賽の河原地蔵)と続いていく。その数は約500体(寺説)で、大きさは2㍍~数10㌢で、表情・姿態はいずれも奇抜軽妙である。「果蔬涅槃図」の作者が原画を描いた石仏群らしい洒脱な石仏群である。
 北条五百羅漢、山野五百羅漢や香高山五百羅漢などと比べると、石や岩の美しさ生かしているとは思えないが、釈迦の一代を描いた絵巻物として見たとき、その素朴さがかえって魅力的ともいえる。

 所在地:伏見区深草石峰寺町26。
 交通:京阪電車深草下車、徒歩約5分。JR奈良線稲荷下車、徒歩約8分
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