「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「鹿王院」(ろくおういん)

2006年12月30日 07時42分00秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「嵯峨に来て思ふは遠き君のこと 秋の女と呼ぶ人のこと」(吉井勇)

 竹林の参道が美しい鹿王院は、臨済宗の禅寺。もとは、泰暦2年(1380)、足利3代将軍義満の師でもあった春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が、義満24歳のときに長寿を願って建てた宝幢禅寺(ほうどうぜんじ)鹿王院の開山塔院だった。春屋妙葩は夢想疎石の高弟、中国にまでその名をとどろかせた禅僧で、天竜寺、南禅寺、東福寺、相国寺の住持を歴任し、禅宗寺院を統括する初代の僧録に任命され、政治面でも大きな力を発揮していたようだ。

 山門から中門までは天台烏薬(てんだいうやく)の銘木が茂り、苔も綺麗な参道。山門には義満の筆による「覚雄山」、客殿には「鹿王院」の扁額が掲げられている。客殿、本堂、舎利殿は廊下で結ばれていて、舎利殿には源実朝が宋から将来した仏牙舎利を収めた多宝塔が安置されているという。この舎利殿を中心に本庭が広がり、嵐山を借景に三尊仏が配された枯山水庭園である。日本最初の平庭式の枯山水庭園といわれ、鹿王院は臨済宗の単立寺院であるだけに、やはり禅宗独特の雰囲気がある。
 特に目立つものがある訳ではないが、石と苔と奥行きのある庭が広がり、それまでの平安仏教に基づく浄土庭園とは趣が異なるようだ。

 瓦を埋め込んだ土塀に挟まれた山門の奥は紅葉、松等の木立が振りかかった鬱蒼とした参道。両脇に苔に覆われ、左脇には竹林が見え静寂が保たれていた。客殿は障子戸が閉まり外観のみで、その右側に舎利殿があり、前には樹高5m程の三角形の端正な樹形をした樹齢400年のモッコク。
 客殿の奥、黒い平瓦の回廊を進むと本堂、応永鈞命絵図、釈迦如来坐像、十大弟子像等が安置されていた。応永鈞命絵図は応永33年(1426)作の原本を元禄年間に模写したもので、嵯峨一帯の絵地図とのこと。釈迦如来(像高50cm程)、十大弟子像(40cm程)は運慶の作と伝わるもので壇上に安置されている。

 本堂の奥、舎利殿には1m四方の厨子が安置されていた。厨子の内部には多宝塔があって、その中に仏牙舎利(釈迦の歯)が収められているという(非公開)。扉・側壁の金箔は所々剥落していたが、斗組の龍の彫刻の彩色は鮮やかだった。厨子の周囲には四天王像。仏牙舎利の上の天蓋に描かれた丸い龍の図も鮮やかだった。仏牙舎利の背後には涅槃図、堂の周囲には掛軸が16幅掛けられている。

 所在地:京都市右京区嵯峨北堀町24。
 交通:京福電車嵐山線「鹿王院」下車徒歩5分、市バス11系統「下嵯峨」下車、徒歩3分。
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「由岐神社」(ゆきじんじゃ)

2006年12月28日 07時32分49秒 | 古都逍遥「京都篇」
 鞍馬寺の仁王門を入るとロープウェーの乗り場がある。片道100円、僅か3~4分足らずでの行程であるが、終点で降り鞍馬寺の本堂への参道となる。奥の院を巡り下山は徒歩にすると、出発点となった仁王門にほど近いところに、今回案内する「由岐神社」がある。早い話が、ロープウェーに乗らず鞍馬寺の本堂へ向かうと初めに当社と出会う。

 徒歩で登れば当社を経て鞍馬寺本堂、そして奥の院を経由して下山すると2時間~3時間のコースとなる。登りはたっぷり汗をかいて「よいよい」気分だが、下山のときは、さすがに膝が笑い出す。もう一つの手立ては、下山を奥の院から木の根道を「貴船」へと下り、叡山電鉄貴船口から出町柳に向かうことができ、こちらのルートの方が登山気分にひたれる。だが、女性の一人歩きは危険だから奨めたくはない。また獣(熊など)も出没することがあるから注意を要する。

 さて、由岐大明神は御所に祀つられていたが、天慶元年(938)に都の大地震、天慶2年には平将門の乱(天慶の乱)と相次ぐ世情不安に、当時の朱雀天皇の詔により天慶3年(940年)の9月9日御所の北方にあたる鞍馬に地に天下泰平と万民幸福を祈念し遷宮された。遷宮の時、京の鴨川に生えていた葦で松明を造り道々には篝火を焚き神道具を先頭に行列の長さ10町(1km)という国家的一大儀式により勧請された。
鞍馬の住民はこれに感激し、この儀式と由岐大明神の霊験を後生に伝え守ってきたのが火祭りの起源とされている。その後豊臣秀吉の信仰もあつく、慶長12年には豊臣秀頼によって本殿と拝殿を再建、特に拝殿は中央に通路をとった割拝殿という珍しい拝殿で、桃山時代の代表的建造物として国の重要文化財に指定されている。

 祭神は国を治め、人民の生活の道を教えになり、特に医薬の道を授けた医薬の祖神とされている。二柱神共に、天上神である皇孫に国土の統治権を献上され(国譲り)の大業を成し遂げられたことから事業の守護神と仰がれるようになり、会社経営の隆昌を祈念する人々の信仰があつい。

 当社の例祭である「鞍馬の火祭」は、京都三大奇祭の一つで、午後6時、神振の合図「神事に「まいらっしゃれ」の合図で鞍馬の各戸に積み重ねられた篝(エジ)が一斉に点火され、幼少年が小松明を担いで練り歩き、次第に燃えさかる大松明を担いだ青年たちがこれに加わり、「サイレイ、サイリョウ」を繰り返して囃しながらねり歩く。
 8時頃に菊・桐・蝶・葵・鳳・百足・寺の鉾や鎧を着た武者が出てくると、山門前には大小の松明を担いだ若者が集合してひしめき合い壮観の頂点に達する。やがて合図の太鼓と共に青葉の精進竹に張った注連切りの儀が行われ、大松明は石段の所に殺到し一箇所に焼き捨てられる。御輿の前で神幸の儀があり八所大明神の御輿から参道を下りる。
 女性が参加することもこの祭りの異色の一つで、神輿の綱を引くと安産がになると昔から伝えられていることから若い女性が多い。
 山門を下ったところから御輿は車に乗せられ鞍馬町を巡幸されて旅所に戻ったところで御輿は再び担がれて神楽、神楽松明が境内をまわり安置され、午前零時頃に祭りが終わる。当社の狛犬は虎である。鞍馬に毘沙門天を拝したのが寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻だったことから、お守りは「あうんの寅」を授けている。

 所在地:京都市左京区鞍馬本町1073  
交通:JR京都駅からバス、京阪電鉄出町柳下車、叡山電鉄出町柳駅に乗り換え鞍馬線下車、徒歩15分。


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「六波羅蜜寺」(ろくはらみつじ)

2006年12月21日 00時38分18秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「祇園精舎ノ鐘ノ声、諸行無常ノ響アリ。沙羅双樹ノ花ノ色、盛者必衰ノ理
ヲ顕ス。驕レル人モ不久。春ノ夜ノ夢尚長シ。猛キ者モ終ニ滅ヌ…」(平家物語)。

 六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。
 当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、観音像を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮めたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月3日間授与している)
 現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりと伝えられる。

 上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだという。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。

 源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。
 現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。
 なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8000基が出土し、当寺は藤原、鎌倉期の宝庫と言われている。

 第60代醍醐天皇の皇子で、若くして5畿7道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称した。再び諸国を遍歴し、一切経をひもとき、教義の奥義を極める。天暦2年(946)叡山座主延勝より大乗戒を授かって光勝の照合を受けた。森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱え、人々から「市の聖」と呼ばれた。
 上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったという。定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、瓢をたたき、法曲を唱し、寒い夜もいとわず京中を巡行して衆生の能化につとめた。定盛は上人の遺風を伝えて茶筌を作り、これを世に広め、子孫は有髪の姿に黒衣をまとって踊り、念仏しながら瓢をたたいて市中を徘徊した。これが今六斎念仏として伝わっている。 当山の空也踊躍念仏はさらにその源流と伝えられている。

 当寺に安置される重要文化財は実に豊富で、たび重なる兵火をのがれ、藤原・鎌倉期の木像彫刻を代表とする名宝が数多く安置されている。

◇十一面観音立像 藤原時代(国宝) ◇増長天立像 鎌倉時代(重文)
◇薬師如来坐像 藤原時代(重文) ◇地蔵菩薩坐像 鎌倉時代(重文)
◇地蔵菩薩立像 藤原時代(重文) ◇吉祥天女像 鎌倉時代(重文)
◇多聞天立像 藤原時代(重文) ◇閻魔大王像 鎌倉時代(重文)
◇広目天立像 藤原時代(重文) ◇弘法大師像 鎌倉時代(重文)
◇持国天立像 藤原時代(重文) ◇空也上人像 鎌倉時代(重文)
◇平清盛坐像 鎌倉時代(重文) ◇運慶坐像 鎌倉時代(重文)
◇湛慶坐像 鎌倉時代(重文)

 この他、重要有形民族文化財では、
◇泥塔 ◇皇服茶碗 ◇版木
◇萬燈会関係用具2千百余点などがある。当寺を訪ねる折は、藤原・鎌倉時代の匠の美を鑑賞されるとよい。

「空也上人立像」鎌倉時代(重要文化財)、「平清盛坐像」鎌倉時代(重要文化財)はともに、運慶の四男康勝の作。胸に金鼓を、右手に撞木を、左手に鹿の杖をつき、膝を露に草鞋をはき、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承のままに洗練された写実彫刻である。
 経巻を手にしたその風姿は平家物語に描かれている清盛の傲慢さは全くなく、仏者としての気品を覚える。一門の武運長久を祈願し、朱の中へ血を点じて写経した頃の太政大臣浄海入道清盛公の像である。

 では最後に六波羅蜜寺の意味、6つの教えをご紹介しておこう。

□「布施」:布施行にとって最も大事なことは応分の施しをした時、その施しをした事 を心に止めず、その対象を求めないことである。もちろん布施は物質のみではない。

□「持戒」:道徳・法律・条令等は、時代によって人が作り、現代ますます複雑になって
いく。我々は常に高度な常識をもち如何なることにも対処できるよう自らを戒めることである。

□「忍辱」:仮に辱めをうけても、本当に耐え忍ぶならば、苦の多い現代に生かされてい
る事がわかり、すべての人の心を心とする、仏の慈悲に通ずる。

□「精進」:不断の努力である。人はそれぞれ立場、立場で努力し誠心誠意を尽くすこと
である。

□「禅定」:静かな心で自分自身を客観的に見ることである。

□「智慧」:助け合い、ルールを守り、耐えしのび、はげみ、自己をみつめ、苦楽を乗り
越えて、どちらへもかたよらない中道を、此の岸から彼の岸へ(菩薩へ)。

 交通:JR京都駅市バス206系統で清水道下車、徒歩7分。京阪電車五条駅下車、徒 歩7分


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「法輪寺」(ほうりんじ)

2006年12月15日 08時08分44秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「難波より 十三まゐり 十三里 もらひにのほる 智恵もさまざま」

 江戸時代の中頃から広まった本尊虚空蔵菩薩に縁が深い旧暦3月13日に行われる十三参りで知られる「法輪寺」は、およそ1800年前、中国や朝鮮との文化交流が盛んになり始めた頃、すでに現在の寺域に三光明星尊を奉った「葛野井宮(かずのいぐう)」であった。
 秦の始皇帝の子孫、融通王の一族が産業、芸術の繁栄、安全守護の一族祖神として信仰があった「虚空蔵尊」と深い因縁のあるこの「葛野井宮」を訪ねて渡来、農業、製糸、染織を営んだ。一族は秦氏族と呼ばれ、一族の守護繁栄の祖神として崇敬していた「葛野井宮」を中心として発展することを祈り、その名をもとにこの地域を「葛野(かずね)」と呼んだ。
 奈良時代に入り、元明天皇(和銅6年・713年)が行基菩薩に命じて堂塔を建立、「木上山葛井寺(もくじょうざんかづのいでら)」と称し勅願所とした。

 弘法大師の高弟・道昌僧正(どうしょう)が、承和年間(834年~847年)に大堰川を修築し、橋を架け船筏の便を開き、虚空蔵尊像を葛井寺に安置。清和天皇の貞観10年(868)「法輪寺」と改めた。
 また、亀山上皇(1274~1287年)が、「くまなき月の渡るに似たり」として、通称「法輪寺橋」を渡月橋と命名した。

 JR京都駅から京都・市バス、嵐山バス停下車南へ200㍍。
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【蓮華寺】(れんげじ)

2006年12月10日 12時30分20秒 | 古都逍遥「京都篇」
 白川通りを北上し、花園橋を右折して大原方面へ向かうと蓮華寺がある。奥まった所で目立たないために訪ねて来る人は少なかったのだが、「京都の秋」というガイド番組で紹介されるやいなや、大勢の人たちが立ち寄る寺となったものの、就学旅行の拝観は受け付けていない。
 私が、蓮花寺をはじめて訪ねたのはかれこれ30年ほど前になろうか。京都の隠れ寺、侘寺を散策して、参道や庭の片隅を彩る野花、茶席に添える花を写真に収めて歩いていたころだ。当寺の敷石の傍にも都忘れ、シランなど私好みの野花の被写体が多く見られ、その一角に「蓮花寺型燈篭」が佇んでいる、スリムで形容の美しい燈篭だ。
 当寺は、元西八条塩小路あたりにあった古寺で、寛文2年(1662)加賀前田家の家臣・今枝民部近義が祖父・今枝重直の菩提となすため当地に移し再興した天台宗派寺院。
 再興にあたって石川丈山、狩野探幽、木下順庵、隠元禅師、木庵禅師など当時の文化人が協力。そのためか、小造りながら随所随所にその形態を残している。庭は池泉式庭園(江戸時代初期)。一目で視野に入るほどの池なのだが、右に亀石、左に鶴石、対岸の森は蓬莱山を象徴している定番構造ではあるが、紅葉のシーズンはそれは極楽浄土の世界を彩る。安井寂勇住職に話を伺うと、本尊は阿弥陀如来で鎌倉時代の作。本堂に安置されている螺鈿(らでん)厨子は15世紀初期のもので狩野探幽が原画を描いたものという。

 交通:京都バス大原方面行き上橋(かんばし)下車、叡電叡山本線三宅八幡下車すぐ。
 
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「黄檗山萬福寺」(おうばくさん まんぷくじ)

2006年12月07日 12時32分34秒 | 古都逍遥「京都篇」
 総門の前に立つと、古代中国にタイムスリップしたかのような幻想におそわれる。中央の屋根を高くし、左右を一段低くした中国の牌楼式を用いた漢門が威風堂々とそびえ立っている。これを入り裏から見上げると、中央上部に円相が型取られており、風水的モチーフの一つ「白虎鏡」がある。 
山内へと進むと菱形に並べられた石條の参道が縦横に走る。これは龍の鱗をあらわすもので、禅寺ではよく見かけるものだが、ここのはその帯が長い。 本堂正面に木造金箔の布袋坐像(寛文3年・1663作)が威厳を放っている。布袋は名を「契此(かいし)」といい、南北朝末後、梁の高僧で、定応大師と号していた。布袋は弥勒菩薩の化身といわれ本山で弥勒仏として祀られている。

 本堂(大雄宝殿)は日本で唯一最大のチーク材を使った建築物で、寛文8年に建立。本尊は釈迦如来像、正面入り口に魔よけとされる桃の彫り物を施した「桃戸」、左右に「円窓」、上層の額「大雄寶殿」は隠元の書による。本堂内部の須弥壇の上にある額「真空」は、明治天皇の御筆によると聞く。

 萬福寺は、1654年中国福建省から渡来した隠元禅師(1592-1673年)が、後水尾天皇や徳川4代将軍綱公の尊崇を得て、1661年に開創された代表的な禅宗伽藍の寺院。ここには、木庵禅師の弟子、鉄眼道光が12年の歳月をかけ、民人の寄進を乞うて諸国を行脚。その寄進によって製作された大蔵経の版木56、229枚が宝蔵院に収められている。この物語が映画化され、中村賀津雄が扮する鉄眼、鉄眼を支援する石浜朗の名演に涙を流したものだった。  

 交通:京阪電鉄宇治線、JR奈良線黄檗下車、徒歩5分。
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「神泉苑」(しんせんえん)

2006年12月01日 17時02分24秒 | 古都逍遥「京都篇」
 延暦13年(794)桓武天皇が平安京の造営にあたり、大内裏の南の沼沢を拓いて設けられた苑池で、常に清泉が湧き出すことから「神泉苑」と名づけられた。当時は南北499m、東西200mに及ぶ広大な庭園で、平安京大内裏の中央部の泉水池を、朝鮮から移住した秦一族が当時の文明の粋を集めて風景式庭園に仕立てあげたと伝えられている。秦氏は平安遷都には土木技術や資金面においても甚大な支援をしており考古学ではよく知られている。
 苑内には、大池、泉、小川、小山、森林などの自然を取り込んだ大規模な庭園が造られており、敷地の北部には乾臨閣を主殿とし、右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などを伴う宏壮な宮殿が営まれていたという。
 小野小町が景観の美しさを讃えた歌を詠み、空海が降雨祈願を奉じ、後白河さんの頃に祗園祭の縁起が生まれ、静御前と義経が出会った神泉苑は、古都の歴史の根幹に関わっていたと言っても過言ではない。
 この御池に法成橋という赤い橋があり、願いを1つして橋を渡り、善女竜王社に祈ると叶うと言われている。
 平安京が風水に基づいて建設された事は有名で、神泉苑はその風水とも非常に関わりがあり、天皇の遊興の場としてだけではなく、大地の気の流れを都に取り込むための場所であったといわれており、霊場としても重要な位置を担っていた。歴史に残る天長元年(824)の旱魃(かんばつ)の折、淳和天皇の勅命によって弘法大師(空海)が神泉苑にて雨乞いの祈祷をし、京の都に雨を降らせたという。

 この時、天竺(インド)から勧請(かんじょう=呼び寄せ)したのが善女龍王という祈雨の神で、それ以降、善女龍王は神泉苑に住むうようになり、善女龍王を祀るお堂が建てられた伝わる。また、源義経と静御前との出会いで有名な善女龍王社前の舞台、雨乞いの際、99人の白拍子が舞っても雨が降らず、ちょえど100人目の静が舞を奉納した後、雲湧き出し大雨が降った。後白河法皇から「日本一の白拍子」と褒められたという。このとき、静御前と義経は神泉苑の池のほとりで出会ったと伝えられている。

 平安時代にはまだ河川の氾濫などが頻繁で、しばしば疫病が起こったため、死者の御霊を慰めるための御霊会が神泉苑で行われていた。疫病の発生する時期に盛んに行われ、鉾を立てて神泉苑の池にくりこみ厄払いをしたとのことですが、これが後世、鉾を車に付けて飾りを施し、京の都を練り歩くという祇園祭として発展していく。
 その後、神泉苑は、二条城築城の際にその敷地の多くが縮小されたが、現在でも境内の風景に残る池や木々の緑に、この地に広がっていた平安時代の風雅の様が窺える。
 もう1つ伝説を紹介しておくと、五位鷺(ごいさぎ)の由来だが、醍醐天皇が神泉苑に行幸になったときに鷺が羽を休めていた。
 帝は召使いにあれを捕らえて参れと仰せられた。召使いが近づくと鷺は飛び立とうとした。召使いが「帝の御意なるぞ」と呼びかけると鷺は地にひれ伏した。帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を賜った。
 以降、鷺は「五位鷺」と呼ばれるようになったという。
 無形民俗文化財に指定されている神泉苑大念仏狂言は、壬生狂言の流れを汲み、壬生狂言と三条台若中からの奉仕出演と、神泉苑住職および総代役員の三位一体となった協力によってはじめられた。
 現在では毎年、5月1日より4日間(神泉苑祭期間中)、神泉苑境内の狂言堂において執行奉納され、一般公開をしている。
 神泉苑狂言の演目は30種ほどあり、宗教物、世話物、太刀物など種々である。各演目とも出演者は面をつけ無言で、金鼓、太鼓、笛の囃子に合わせて演じることから、「カンデンデン」と俗称するようにもなった。
 
 所在地:京都府京都市中京区御池通神泉苑町東入ル
 交通:市営地下鉄二条城前駅三番出口徒歩すぐ、JR「二条」駅下車徒歩10分。
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