「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「恵美須神社」(えびすじんじゃ)

2006年09月29日 17時06分47秒 | 古都逍遥「京都篇」

 京都ゑびす神社は西宮・大阪今宮神社と並んで日本三大ゑびすと称され、「えべっさん」の名で親しまれている。
 起源は約800年前土御門天皇の建仁2年(1202年)、栄西禅師が建仁寺建立にあたり、その鎮守として最初に建てられた。
 「ゑびす様」と言えば「商売繁盛の笹」をイメージされますが、ゑびす信仰の象徴とも言える笹は元来京都ゑびす神社独自の「御札」の形態が広まったもので、笹は縁起物の松竹梅の竹の葉で「節目正しく真直に伸び」「弾力があり折れない」「葉が落ちず常に青々と繁る」といった特徴から家運隆昌、商売繁盛の象徴となった。

 御祭神としている八代言代主大神(やえことしろぬしのおおかみ)・大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)を、主祭神として祀ってあるのは当神社だけで、正面から入ったこの鳥居は、全国的にも珍しい京都産の白川石で出来
ており、1本の白川石で造られた建造物としては、京都でも最大のものといわれ、同じ白川石で出来た恵比須神像は江戸時代の作と伝わる。
 京都「恵美須神社」独自の祭礼であった「ゑびす講」は、江戸時代初期になると日本全国に広がりをみせるが、それは呉服を中心とした京・近江の商人の「渡り商い」(行商)によるものとみられている。

 渡り商い人達は、江戸を中心に、全国で商いをしていたが、旧暦の9月20日の頃に京に戻り「ゑびす神」に旅の無事と商売繁盛のお礼参りしていた。
 渡り商人たちは、年末・年始を京都、近江で過ごし、商いの準備をして、1月の「十日ゑびす」に神社へお参りして、無事な商いと商売繁盛を祈願して、再び行商に出たと言われている。現在でも京都の呉服商の老舗などでは、この風習を守り、家内に「ゑびす神」像を奉り、神職を招いて「ゑびす講」をお参りをしている。
 京都独自の風習であったものが、渡り商いの商人たちにより全国に広がり、その土地の風習と融合して、今日各地で行われる「ゑびす講」となった。

 所在地:京都市東山区大和大路通四条下ル小松町125。
 交通:京阪電車四条駅下車、徒歩6分。阪急電車河原町駅下車徒歩10分。
 JR京都駅バス17・205系統で河原町松原バス停徒歩約5分。
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「伏見稲荷大社」(ふしみいなりたいしや)

2006年09月27日 23時39分37秒 | 古都逍遥「京都篇」
 毎年お正月の初詣で、明治神宮、成田山新勝寺、川崎大師に次ぎ四番目にランキングされ、参拝者数も240万人にものぼる伏見稲荷大社は、商売繁盛の神社として知られ、通称「おいなりさん」と言って人々に親しまれている。そして神格として「狐」が祀られているのもご周知のこと。

 古来から由緒ある神社には神の使いとして動物が祀られていることが多く、伊勢神宮の鶏、春日大社の鹿、日吉大社の猿、八幡宮の鳩というふうに、それぞれの動物が神格として尊ばれている。しかし、お稲荷さんの狐は、単なる神使ではなく、眷属(けんぞく)といって神様の一族のような資格を与えられており、そのため当社の狐は稲荷神そのものだと思い込んでいる人も多い。
 お稲荷さんと狐がこのような親密な関係をもつに至った由来については、いくつかの説があるが、そのなかで最も定説となっているのが、稲荷の神が「食物の神」つまり御饌神(みけつかみ)であることから、その「みけつ」が転じて御狐(おけつね)・三狐(みけつね)になったという。あるいは、稲荷神がのちに密教の荼枳尼天(だきに-てん=夜叉の類)と本迹(ほんじゃく)関係を結んだことを重視し、荼枳尼天のまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説も重んじられている。

 全国に約4万もあるといわれる稲荷社の総本社でもある「伏見稲荷大社」は、京・大阪の商いの神として古くから信仰が篤い。稲荷大神の鎮座に関する最も古い記録とされているのは、『山城国風土記逸文伊奈利社条』で、これには鎮座年代は出ていない。
 ここのところを社務所で尋ねると、「『秦中家忌寸(はたのなかつえ いみき)など遠祖伊呂巨(具)秦公』の時代に、社を興した者が『伊呂巨(具)秦公』であったことが明記されています。この伊呂巨(具)について、『稲荷社神主家大西(秦)氏系図』によれば、『秦公、賀茂建角身命24世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒』と記されています。
 これに和銅4年という年代が出ていますが、この年に鎮座になった由縁として、この頃全国的に季候不順で五穀の稔りの悪い年が続いたので、勅使を名山大川に遣わされて祈請させられたときに神の教示があり、山背国の稲荷山に大神を祀られたところ、五穀大いに稔り国は富み栄えた、この祭祀された日こそが和銅4年の2月初午であった、との伝承があります。これは全くそのとおりだと言えない面もありますが、唐突にこの日が伝承されたのではなく、やはり同氏族の間に何らかの明記すべき由縁があったものと推測されるのですが、それがどのような事象であったのか今のところはわかっていません。」と説明してくれた。

 さて、伏見稲荷大社の石段を上がり、楼門をくぐると右手にこじんまりとした神社、東丸(あづままろ)神社がある。祭神は荷田東丸である。 荷田東丸は、稲荷社祠官、羽倉家の生まれで、僧契沖に始まる近世国学(和学・倭学)を発展させて、「万葉集、古事記、日本書紀」研究の基礎を作った。門下に賀茂真淵がおり、続く本居宣長、平田篤胤と共に国家の四大人といわれた。晩年、東山に倭学校創立を志したが、実現せずに没した。元禄15年(1702)赤穂浪士の討ち入りに、吉良邸の見取り図を作って渡したといわれているが(紀伊郡誌)、荷田東丸が吉良上野介の古典の個人教授をしていたからとも伝えられている。
 本殿は重要文化財で、応仁の乱頃のもので「打越流造」と呼ばれ、屋根が美しく雄壮な曲線を描いている。本殿からさらに進んで階段を登ると、大きな鳥居がいくつにも重なってトンネルのようになっている参道となる。この参道は途中から千本鳥居となって二手に分かれるが、ともに奥の院へ続いている。映画ドラマなどの撮影にもよく登場する赤鳥居である。
 奥の院から稲荷山を登っていくと、熊鷹社、三辻、そして展望の良い四辻を経て、一の峰、二の峰、三の峰と多くの神蹟があり、これらをお詣りする「お山巡り」の起点でもある。
 奥の院から10㍍ほど登ると腰やひざの病に信仰のある「根上り松」がある。朱色の鳥居の間に見え隠れする桧林や、左手下の谷間を眺めながらさらに進むとやがて石段となり、これを登ると「熊鷹社」に着く。右手に「お塚」と呼ばれる石碑群が目につくが、これは稲荷神を崇敬する人が奉納したもので、山全体でその数は1万以上もあるといわれている。
 「熊鷹社」の背後には池があり、通称「熊鷹池」とか新池」とか「谺(こだま)ヶ池」と呼ばれている。池に向かって柏手を打ち、その谺が帰ってきた方向に、願い事が叶うという言い伝えが、「谺ヶ池」の名を生んだ。 さらに進むと三辻を経て、四辻に至る。四辻は眺望も良く、四ッ辻茶屋や仁志むら亭で一服する参拝者も多い。

 門前は歴史のある店が多いが、JR稲荷駅前の料理旅館玉屋は、元和初年(1616)開業の老舗で、明治2年の頃桂小五郎も食事したという。 「稲荷さんけい道」の道標は、明治28年7月稲荷新道建設に功績のあった土井柾三が立てたものである。
 
 交通:京都駅から市バス南5号系統稲荷大社前下車。京阪電車では伏見稲荷駅下車。
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「八大神社」(はちだいじんじゃ)

2006年09月26日 21時43分24秒 | 古都逍遥「京都篇」
名刹・詩仙堂のすぐ傍にある「八大神社」はほとんど人の訪れがない。
 NHK大河ドラマ「宮本武蔵」で再び脚光を浴びた京都、その武蔵の人生にとって欠かすことができないドラマが、一乗下り松での吉岡一門との決闘と巌流島での巌流・佐々木小次郎との決闘であろう。

 「武蔵が一乗下り松に立って多数の敵にまみえた日のまだ朝も暗いうちに、彼は、死を期したこの危地へ来る途中で、八大神社の前で足を止めて、『勝たせたまえ。きょうこそは武蔵が一生の大事。』と彼は社頭を見かけて祈ろうとした。拝殿の鰐口へまで手を触れかけたが、そのとき彼はどん底からむくむくわいた彼の本質が、その気持ちを一蹴して、鰐口の鈴を振らずに、また祈りもせずに、そのまま下り松の決戦の場所へ駆け向ったという。『我れ神仏を尊んで神仏を恃まず。』と残したその信念は、その折ふと心にひらめいた彼の悟道だったに違いない。」(吉川英治「随筆 宮本武蔵」より)。

 武蔵が決闘をした下り松は、朽ち果て、その幹の一部が祀られている。武蔵の銅像は平成14年初秋、大河ドラマの人気に当て込んで製作されたものである。神社は、永仁2年(1294)勧請、祇園八坂神社と同神に坐し、皇居守護12神の1つとして都の北東隅表鬼門に位置し建立された。後水尾天皇、霊元天皇、光格天皇などが修学院離宮行幸の際に立ち寄り、世の信仰を集めた。
 社頭「篇額」は寛永20年(1643)2月、石川丈山の筆による。

 交通:JR京都駅から市バス5、特5で一乗下り松町下車、徒歩10分。





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「八坂神社」(やさかじんじゃ)

2006年09月23日 09時36分31秒 | 古都逍遥「京都篇」
 初春、隣接する知恩院の除夜の鐘を聞きながら八坂神社に初詣。無病息災を祈願すると細縄を買い求め、その細縄の先に神火を頂いて、火が消えぬようにくるくると回しながら家に戻り、その火を種火として火をおこし、お正月の餅を焼き雑煮を作る、という風習が今も続く初春の風物である。八坂神社は京都では三社(石清水八幡宮、賀茂〈上・下〉神社)の1つに数えられており、その由緒と歴史は3社と称されるにふさわしい。

 八坂神社すなわち祇園さんの御祭神は、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)、クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)、ヤハシラノミコガミ(八柱神子神)を祀っている。
 日本神話でも知られる、スサノヲノミコトは、ヤマタノオロチ(八岐大蛇=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらしたとある。素戔嗚尊は、『古事記』では「須佐之男命」、『日本書紀』では「素戔嗚尊」と表記されており、神話では天照大神の弟神として語られている。

 社伝によれば平安建都(794年)の約150年前、斉明天皇2年(656)と伝えられている。都の発展とともに、日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3000の分社が日本各地にある。初め「祇園社」「感神院」などと称したが、明治維新の神仏分離にともなって、「八坂神社」と改称された。
 平安京建都以前より八坂神社のある東山一帯はひらけた場所で、渡来人であった八坂造(やさかのみやつこ)一族が住したところであった。「八坂の塔」で有名な法観寺も平安京以前の創建で、八坂造の氏寺ではなかったかともいわれている。

 八坂神社を世に有名にしているもう1つの事実は、同社の祭礼である「祇園祭」であろう。
 そもそも祇園祭の始まりは、平安時代のはじめ頃、都に疫病が流行して、多くの人々が死に絶えた。この災厄の発生を政治的に失脚して処刑された人の怨みによる崇りであろうと考え、初めはこの御霊を祀ったようだが怒りは治まらず、より強い神仏が求められた。この怨霊(御霊)を退散せしめることができるのは、素戔嗚尊のような、偉大な神格の神に頼るほかないと、祇園社に祀られているこの神に祈った。
 怨霊は御霊(ごりょう)といい、これを退散させる祭りを御霊会(ごりょうえ)と称し、貞観7年(865)6月7日にも行われたことが「三代実録」に記されており、また「祇園社本縁録」にも祇園社の名が記されている。神泉苑に矛六六本を立て、祇園社から神輿を送ったとされ、これが祇園祭のはじめであるとされている。

 国の重要文化財に指定されている本殿は、かつて別棟であった2つの建造物1本殿と拝殿1とを1つの屋根で覆ったもので、他に類例のない建築様式であることから、「祇園造り」とよばれている。
 本殿の建築についての文献上の初見は、『二十二社註式』所引の承平5年(935)6月15日の太政官符で「神殿五間檜皮葺一宇」「天神、婆利女、八王子」「五間檜皮葺礼堂一宇」とあり、本殿と礼堂(現在の拝殿)が別棟であることが記されている。
 元徳3年(1331)に描かれた同社の古図(国指定重要文化財)に、現在の姿の本殿が描かれており、古図の原本は寛和2年(986)のものであることから、本殿建築が「祇園造り」の様式になったのは、承平5年(935)から寛和2年(986)の間とされている。
 現在の本殿は、明応元年(1492)に再建されたものが正保3年(1646)に焼失したあと、承応2年(1653)10月より工事が始まり、同3年11月に竣功した。

 交通:京阪電車四条駅より徒歩5分、阪急電車河原町駅より徒歩10分。
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「日向大神宮」(ひむかいだいじんぐう)

2006年09月21日 21時04分38秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都最古の宮と称されており、古くは日向宮、日向神宮、粟田口神明宮、日岡神明宮とも称し社殿は神明造で、内宮、外宮が奉斉され「京の伊勢」として名高く昔は東海道を往来する旅人たちの道中の安全祈願、伊勢神宮への代参として多数参拝があったいう。また、神社の入口の一の鳥居のところが粟田口(京の七口の一つ)に当たり、弓屋、井筒屋、藤屋という京では有名な茶屋があって、旅人たちの送り迎えが行われ賑わいをみせた。周囲の山は神体山で、日御山(ひのみやま)、神明山(東山三十六峯の一山)と称し、神域には桧、杉の老樹が繁茂し、桜、つつじなど四季を通じて楽しめ、特に秋の紅葉は隠れた名所として人気がある。

 社伝によれば、当宮は、第23代顕宗天皇(485-487:古墳時代)の御代に筑紫日向の高千穂の峰の神蹟を移して創建されたと伝えられる。清和天皇は「日向宮」の勅額を賜い、醍醐天皇は延喜の制で官幣社に列された。応仁の乱の兵火で社殿並びに古記録が焼失したが、松坂村の農、松井藤左衛門によって仮宮が造営、禁中より修理料を賜り社殿が再興された。後陽成天皇(在位1586-1611)は内宮・外宮の御宸筆の額を賜り、文化6年(1809)に外宮、同7年には内宮の遷宮に際し、光格天皇が御神宝を寄進している。
 清和天皇の貞観年間(859-77)に疫病が流行した際、当宮に勅願が行われ、「この宮地に湧き出る清泉の水を汲んで万民に与えよ」との神のお告げがありそのようにすると疫病がおさまったとある。
 建武の戦乱中、新田義貞公は、戦勝を祈願され良馬と太刀一身を奉納したと伝わる。慶長年間には、徳川家康から神領として加増され、社殿の改造が行われている。

 境内の鳥居をくぐると、社務所に神楽殿、そして外宮、一段高くなって最も奥に内宮が見渡せるこじんまりとした境内。内宮本殿は桁行正面一間、背面二間、梁行二間の神明造の建物で、屋根にはV字に見える千木(ちぎ)、鼓のような堅魚木(かつおぎ)が載せられている。外宮もほぼ同じ神明造で、堅魚木の数が一本少なく七本で、内宮の千木が内削ぎなのに対し、外削ぎという特徴がある。またその奥に岩のトンネル「天の岩戸」あり、その脇道の山道を行くと、南禅寺の裏手の奥の院に出る。人気(ひとけ)が少なくなんとなく背筋がゾクッとするような感じで怖い。
 毎年10月16日に外宮大祭、17日に内宮大祭が行われている。内宮大祭は神嘗祭にあたる祭りで、収穫に感謝し、御酒と御饌(供物)を奉じ、祭典では御神楽や人長舞が奉納される。

 所在地:京都市山科区日ノ岡一切経谷町29。
 交通:京都市営地下鉄蹴上駅1番出口、徒歩15分。
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「天龍寺」(てんりゅうじ)

2006年09月18日 20時42分25秒 | 古都逍遥「京都篇」
 昨年11月も終わりに近づいた頃、古都逍遥の取材を兼ねて紅葉狩りに嵐山、嵯峨野界隈を訪ねた。昨年の紅葉は、各地とも遅く始まり、随一の紅葉の名所として全国的に知られた嵐山の木々の色づきはあまりよくなかった。
 渡月橋東詰めの交差点を右に行くと美空ひばり記念館があり、その少し先に臨済宗天龍寺派の大本山「天龍寺」がある。3連休の後とあって人出はやや減っていたものの、そこは名勝嵐山とあって観光客が大勢押しかけていた。

 当寺は暦応2年(1339)吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏が夢窓国師を開山として創建した。この地は、檀林皇后(嵯峨天皇の后)が開創した檀林寺のあったところで、後に後醍醐上皇の仙洞御所・亀山殿が営まれた。創建以来、1356年をはじめ8回の大火に見舞われ、今日の多くは明治期に再建された。

 庭園の「曹源池」は夢窓国師によって造られ国の特別史跡名勝第一号の指定を受け、1994年に世界文化遺産に登録されている。圧巻は平成九年に法堂の天井に描かれた加山又造画伯の八方睨みの「雲龍図」(特別拝観)で、直径九㍍の円形の中に、まるで生きているかのような躍動感にあふれている。庭内の「百花苑」の紅葉は竹林を背景に日本の美、ここにありという景観である。

 交通:京福電鉄嵐山駅より徒歩2分、またはJR嵯峨嵐山駅より西へ、阪急嵐山駅より北へ徒歩10分。
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「石清水八幡宮」(いわしみずはちまんぐう)

2006年09月17日 08時01分59秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都・京阪電鉄四条(出町柳始発・いずれの駅からでも急行で)駅から急行に揺られて30分ほどで八幡市駅に着く。ケーブルに乗って静かに男山八幡山上へと向かうと、車窓からは、桂川、木津川、宇治川の大河が眼下に見え、その三川が合流し淀川となる起点が望める。西に目を転じれば、豊臣秀吉と明智光秀の天下分け目の合戦で知られる天王山がこんもりと見える。

 終点の山上に降り立つと凛とした霊気に包まれた森と竹林に覆いつくされる。足利尊氏も戦勝祈願をし陣を張ったと伝えられるこの石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、清和天皇の貞観元年7月15日、豊前の国(大分県)宇佐八幡大神の「吾れ都近き石清水男山の峰に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙って、木工寮允良基が六宇の寶殿を建立し、翌2年4月3日神璽を奉安し創建した。

 全国に八幡社は約4万社を数えるといわれるが、石清水八幡宮は九州の宇佐神宮、関東の鶴岡八幡宮とともにわが国の歴史上、極めて重要な地位を占めており、京都、いわゆる平安京では第一の神社としての地位を得ていた。
 神社のある男山は、京都の南西・裏鬼門にあたっており、宮中、武家からも篤い信仰が寄せられていた。

 石清水八幡宮の社号は、今なお男山の中腹に涌き出ている霊泉“石清水”に因んだもので、そのほとりには八幡三所大神が男山にお鎮まりになる以前、すでに「石清水寺」という山寺が存在したといわれている。社号は明治初年に“男山八幡宮”と改称されましたが“石清水”の社号が創建以来の由緒であることから、大正7年に再び「石清水八幡宮」と改称された。

この男山には、樹齢600~700年とも言われる楠木の大木が数多くある。御文文庫の楠木は、男山に現存する最大のもので、高さ30m、根回り約18mもある。
本殿左右にある楠木は、楠木正成によってけ建武元年(1334)に植えられたと伝えられている銘木である。

 境内より下がった広場に、エジソン記念碑がある。1879年に発明王、トーマス・アルバ・エジソンが炭素白熱電球のフィラメントの材料として、この地に生える竹の繊維が最も優れているとし、炭素白熱電球の実用化に成功した。1929年に伝統発明50周年を記念して記念碑が建立された。
 展望台に行けば、谷崎潤一郎の文学碑が立っている。大山崎から橋本(旧橋本遊郭、映画・鬼龍院花子の生涯(主演・夏目雅子)で花子が生涯を閉じた遊郭)へ渡る淀川の中洲が、小説「蘆刈」の舞台となり、男山と月の描写には幻想的な世界をかもし出していた。

 交通、京阪電鉄で八幡市駅下車、ケーブルで山上へ。
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「壬生寺」(みぶでら)

2006年09月15日 19時49分00秒 | 古都逍遥「京都篇」
 壬生寺は慈覚大師円仁の誕生した聖跡として知られる律宗別格本山で地蔵院、宝幢三昧寺または心性光院と称し、本尊は地蔵菩薩立像で壬生地蔵とも呼ばれ、境内の千体仏塔には千体の地蔵菩薩が螺旋状に並んでいる。

 起源は壬生寺縁起によると正歴2年(991年)に三井寺の僧快賢が仏師定朝に三尺の地蔵菩薩像をつくらせ、これを本尊として五条坊門壬生の地に一宇を建立し、寛弘2年(1005)に堂供養を行ったという。その後に白河天皇が訪れて地蔵院の号を与えた。健保元年(1213)に平宗平が現在地に移して伽藍を建立したが焼失したため、宗平の子の政平が再興して地蔵院を改め宝幢三昧寺とした。
 正安年間(1299~1302)に円覚十方上人道御が融通大念仏を修し、浄財を募って堂宇を修復した際、大念仏の法要に境内で猿楽を演じたのが、現在の「壬生狂言」の起源といわれている。
 地蔵信仰と融通念仏が結合し、寺は栄えたものの中世末期に一時衰退した。
 後、江戸時代の貞享3年(1686)日光山輪王寺の門跡天真親王が日光への道すがら慈覚大師の旧蹟が荒廃しているのを嘆き時の壬生城主三浦壱岐守直次に命じて大師堂を建立し、飯塚(現小山市)の台林寺をその側に移建して別当とした。
 幕末の文久2年(1862)大師一千年遠忌に当り日光山輪王寺跡慈性法親王により大師堂の改修が行われ、大正2年(1913)大師1050年遠忌には、輪王寺門跡彦坂大僧正の元に、壬生町信徒報恩会を組織し、大師堂の側に東京上野の寛永時天台宗学問所(旧勧学寮)を本堂として移建し大正5年新たに壬生寺を創立した。

 壬生寺でよく知られているのが新選組であろう。
 新選組は文久3年(1863) 3月、ここ壬生の地において結成された。 
 慶応3年(1866)頃の記録によると、新選組は毎月4と9のつく日を壬生寺境内での兵法訓練の日にしていたらしく、寺のすべての門を閉じて参拝者を締め出し、境内で大砲を打ち続けたという。 
 参拝者は減り、大砲の振動で寺各所の屋根瓦や戸障子が破損したと伝えられている。
 一方、一番隊組長・沖田総司が境内で子供達を集めて遊んだり、近藤勇をはじめ隊士が壬生狂言を観賞したり、相撲興行を壬生寺で行い、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料理し、力士に振る舞ったという逸話も当寺に残っている。
新選組は慶応元年2月に西本願寺に屯所を移転する。
なお、壬生寺正門北には現在も八木邸、前川邸という新選組屯所跡が、当時のままの形で残っている。寺の正門前の坊城通りを北へ、和菓子老舗「京都鶴屋」の奥に八木邸がある。この八木邸において新選組が組織された。
 前川邸は坊城通り綾小路の東南角にあり、 現在は「田野製袋所」となっている。前川邸には八木邸を屯所としてから程無く、分宿するようになった。
 主な建造物を紹介すると、大念佛堂(重要文化財)は、安政3年(1856)の再建で、狂言堂とも呼ばれ、この建物の二階部分で 壬生狂言が演じられる。本舞台、橋掛かり以外に能舞台には見られない「飛び込み」や「獣台」などの特異な構造をもつ建物である。阿弥陀堂は、平成14年(2002)の再建で、阿弥陀如来三尊像(阿弥陀、観音、勢至)を安置。阿弥陀堂の奥に、壬生塚(新選組隊士墓所)がある。

 千体仏塔は、平成元年(1988)に建立。塔の石仏は明治時代、京都市の区画整理の際に各地から集められた。室町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など1000躰が、ミャンマーのパゴダに似て円錐形に安置されている。鐘楼は嘉永4年(1851)の再建で、嘉永元年(1848)に鋳造されたものである。
 五仏錫杖頭(重要文化財)や列仙図屏風(長谷川等伯筆・重要文化財)、室町時代の作を含む190点の狂言の仮面などの寺宝を今に伝え、年間法要や700年の伝統を持つ壬生狂言(重要無形民俗文化財)は絶えることなく行われている。
 壬生狂言(壬生大念仏狂言)は、鎌倉時代より壬生寺に伝わる京の伝統芸能で、壬生寺の中興の祖、円覚上人が仏の教えを庶民にわかりやすく説くためパントマイムで伝道したのが始り。鉦・太鼓・笛の囃子に合わせてすべての演者が白布で頭と顔を包み仮面をつけて一切「せりふ」を用いず無言で演じられる。毎年4月21日~29日、秋にも3日間境内の狂言堂で行われる。

 所在地:京都市中京区坊城仏光寺北入る。
 交通:JR京都駅烏丸中央口から26・28系市バスで「壬生寺道」下車。阪急電鉄大宮下車、四条通りを西へ400m、坊城通りを南へ200m。
    
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「吉田神社」(よしだじんじゃ)

2006年09月12日 17時53分11秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都大学の近くに在る吉田神社は、京都大学の前身である旧制3高の寮歌「逍遥の歌」の中でも歌われている。
 「紅もゆる丘の花 早緑匂ふ岸の色 都の花に嘯けば 月こそかゝれ吉田山」(明治38年)。

 当神社は、京都の表鬼門で(裏鬼門は壬生寺)、全国の神々を一堂に祀ってある「太元堂(たいげんどう)」が在ることで古くから京都に人々の信仰があつい。 
 清和天皇貞観元年4月(859)中納言藤原山蔭(ふじはらやまかげ)が春日の四神を勧請(かんじょう)し、平安京の鎮守神として吉田山に創建したもので、奈良の春日大社、京都西山の大原野神社と共に藤原氏の氏神三社の1つとされた。

 永延元年(987)一条天皇の行幸をはじめ正暦2年(991)大社の1に列せられ、堀河天皇嘉承元年(1107)四度官幣に預る等、皇室の崇敬極めて厚く、殊に神職吉田兼倶が吉田神道を創設し、後土御門天皇文明16年(1484年)斎場所(さいじょうしょ)大元宮(だいげんぐう)を造営した。また、後陽成天皇天正18年(1590)勅によりて八神殿を社内後方に奉遷し、吉田兼見奉仕して鎮魂祭(ちんこんさい)を行い、慶長14年(1609)神祇官代として伊勢例幣使(れいへいし)の儀礼を修め、明治四年まで継続したが翌5年八神殿の神璽を宮中神殿へ鎮座した。
 末社の神龍社の祭神は大元宮の創始者の従二位卜部兼倶朝臣(うらべかねとも)で、後柏原天皇永正8年2月19日(1511)77歳で死去、同10年2月鎮祭、明治13年末社に定められた。

 『徒然なるままに、日暮らし硯に向かいて、心に映りゆく由無し事を、 そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂おしけれ』で知られる「徒然草」の著者である吉田兼好(「卜部兼好・うらべ かねよし」(1283~1350)もこの吉田家の一門。卜部家はその名前の通り、占いにより朝廷に仕えた名家で、兼好の家系は代々吉田神社の神官を務めていた。
 兼好が仕えた後宇多天皇は後醍醐天皇の父で、文永の役・弘安の役という国難を亀山上皇・北条時宗とともに乗り切った。
 徒然草を世に出した時期は、まさに鎌倉幕府が滅亡への道をたどっていた、乱世であった。当社は兼好の100年後に吉田兼倶が出て独特の吉田神道(唯一神道)を成立させた。
 この他、料理の神・山蔭神社、お菓子の神・菓祖神社、海運守護の神・三社、吉田地域の氏神・今宮社、神楽岡地域の氏神・神楽岡社、商売繁盛の神・稲荷社、学問の神・天満宮社などが祀られ、ここだけでさまざまなお願いごとができるほどである。

 2月2日から3日間続く吉田神社の節分祭は、吉田神道の創始者・吉田兼倶が室町時代に始めて以来続く伝統ある行事。同社の追儺式は「鬼やらい」とも呼ばれ、2日18時から本殿前で行われる。黄金4ツ目の仮面をつけ盾と矛をもった方相氏が松明などをもった舎人を多数従え、鬼を追いながら境内を3巡する。青・赤・黄の3匹の鬼は見物の子供たちを「ガオー」と驚かしながら逃げるという素朴でユ-モラスな行事。3日午前8時から節分大祭。23時からは本殿前で「火炉祭」が始まり、積みあげられた古札に火が入れられる。この火にあたると1年間無病息災で過ごせるといわれ、終夜賑わう。

 所在地:京都市左京区吉田神楽岡町30番地。
 交通:京阪電鉄出町柳駅下車、徒歩20分。またはJR京都駅市バス206系統、京大 正門前下車、徒歩5分。










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「美山町」(みやまちょう)

2006年09月09日 12時27分14秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都は良き都である。近代化された街並と1200年にもおよぶ歴史をとどめる景観、そして一歩郊外に出れば田園や山紫水明の山河の美しさが心を癒してくれる風景が古都を包み込み、渾然一体とした中で見事に調和を保っている。

 山紫水明をとどめているその1つに私が愛する「美山町」がある。
 美山町は、京都府のほぼ中央にあり、豊かな緑と、清らかな水の流れを持つ自然美豊かな農山村地域である。集落の入り口には昔懐かしい赤い郵便ポストが出迎えてくれ、故郷に帰ってきたように落ち着けるアプローチである。
 この地に原始古代より人が住み、美しい山と川を守り続け、古い伝統と歴史を経て今日にいたっている。古くは越前と美濃を結ぶ要衝として栄え、中世には信仰文化が花開いた地域でもある。戦国時代には、動乱の中に自治村落を形成し、村民の固い絆によって守り続けられ、近世への道をだどってきた。

 昭和30年に大野郡芦見村、羽生村、上味見村、下味見村と足羽郡下宇坂村、上宇坂村の6ヵ村が郡境を越えて合併し足羽郡美山村となり、その後、昭和39年に町制を施行して現在の美山町となった。福井市の東部にあり、東は大野市、南は池田町、北は永平寺町および上志比村とそれぞれ接しており、総面積は約340平方km、京都府内の町村で一番大きな町である。飯降山、白椿山、剣ヶ岳などの800~900㍍級の山々に囲まれ、由良川が町の中央部を流れている。

 川に沿って建てられた民家のうちおよそ250棟は、昔ながらの茅葺民家で、特に北集落は茅葺民家が多く残っており、自然景観と、茅葺民家がうまく調和して、日本の農村の原風景とも言うべき風情を呈している。
 集落での茅葺建築数は岐阜県白川村荻町・福島県下郷村大内宿に次ぐ全国第3位となっている。その他の伝統技法による建築物群を含めた歴史的景観の保存度への評価も高く、平成5年12月、国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けている。春夏秋と季節の花が茅葺民家を包み彩りを添え、冬には2㍍ほどの雪が積もり、深々とした中に凛とした水墨画を見る思いである。

 のんびりと散策しながら是非立ち寄ってもらいたいのが、茅葺の里のシンボルである「美山民俗資料館」である。火災で焼失したが平成14年10月16日に再建されもので、農村文化の資料が豊富に展示され往時の暮らしぶりをうかがい知ることができる。入館料300円。食事と休憩には「自然文化村かじか荘」がいい。田舎の旬の食材をふんだんに使った郷土料理を出し、施設内には、松鉱石を使った薬石風呂・炭埋風呂に加え、季節によって「バラ風呂」が用意され女性に人気を得ている。
 地元で採れた蕎麦を使った十割手打ちそばが味わえる「食事処きたむら」は、茅葺屋根の素朴な佇まいの雰囲気で、旅の思い出を創造してくれる。

 美山の名水として親しまれている「神田の水」は、由良川の源流から湧き出たもので、この天然水を使い「美山の水とお茶」を商品化して売り出しており、お土産にいかがなものだろう。すこし足を伸ばして「唐戸渓谷」を散策されるといい。大小さまざまの奇岩、巨石に波しぶきをたたきつける清流が見事な景勝地で、春は一面の緑とツツジ・シャクナゲ、秋は紅葉と、四季を通じて人々の心を和ませ、自然の雄大さは北桑十景に数えられている。

 7月14日には、祇園社の神楽(田歌)が行われる。
八坂神社の例祭で、農産物の豊作を願って奉納される芸能で、天狗・鬼・ひょっとこ・お多福・爺などが、「かぐら」「さんぎり」「にぎまくら」3曲を披露しながら行列する。地域に根ざす伝統文化を知ることができ、観光客もこの時期、多く訪れる。(参考:美山町観光協会資料)

 所在地:京都府北桑田郡美山町大字島小字往古瀬23番地。
 交通:JR京都駅からJRバスで(90分)、周山で下車し美山町営バスに乗り換えて(55分)美山町下車、徒歩すぐ。またはJR山陰本線で(特急55分・普通90分)和知駅下車、美山町営バスに乗り換え(38分)美山町下車。
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