「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「奈良町」(ならまち)

2011年02月18日 07時16分28秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 猿沢の池畔の南西端から細い道を南に進む。この道は、古くは上ツ道(上街道)と呼ばれて、長谷寺詣でや
お伊勢参りで賑わった。200メートルほどで奈良町に入る。奈良町は、もともとが元興寺(がんごうじ)が荒廃して、その境内に人が住み始めて発展した地域だ。「奈良町」は正式には無く元興寺の旧境内一帯を、地元の人たちは昔から奈良町と呼んでいた。見どころは元興寺を中心にして、東西・南北、約500メートル四方の狭い地域に集中しており、要所要所には道標が整備されているので迷うことは無い。

 都市としての形成は平城京の外京として多くの社寺が置かれたことに始まったとされている。長岡京遷都後も、東大寺や春日大社、興福寺のお膝元として都市機能を維持した。
 中世以降、元興寺旧境内に様々な産業(筆、墨、刀、酒、醤油など)が発展し、江戸期には有力商工業都市として発展していく。奈良奉行による17世紀末の調査で、人口3万5千人を数えていたことが残されている。

 古い街並みが現存しているのは、京都と同じく第二次世界大戦の空襲を免れたことによるもので、戦後は旧市街地として栄え、1990年4月、奈良市の都市景観条例に基づき「奈良町都市景観形成地区」(面積約48.11ha)の指定を受ける。(発掘調査では平城京以前の古墳も発見されている)

 20世紀後半には地域住民による町屋保存活動が活発化し、1984年には(社)奈良まちづくりセンターが設立され、町屋の原型を保ちつつ飲食店や雑貨店などが現代風に整備され、細かく入り組んだ路地を歩きながら歴史的風情を楽しむ観光客で賑わうようになった。奈良の伝統的な民家を再現した格子づくりの家々は、江戸時代の商家の暮らしぶりを知ることができる。昔は家の間口の広さで税が課されたので、入口部分は狭く、その分、奥へ細長く延びる造りになっている。
 家の中の随所に工夫がされており、格子部分は外部からの目隠しに、さらに通風と採光を考えた中庭の吹き抜けや、収納を兼ねた箱階段など生活の知恵が生かされている。

 奈良町のシンボル的存在でもある「庚申堂」(こうじんどう)は町の中心にあり、「庚申さん」と呼ばれ市民に
親しまれている。庚申信仰の奈良の拠点で、青面金剛像を祭祀する祠である。また、青面金剛の使いの猿を型どったお守りは、魔除けとして、町内の家々の軒先に吊るされている。大きいのが大人、小さいのが子どもとされ、家族構成に合わせて吊るされている。また、町内から転出した家族の分の猿は、庚申堂に預けられて、転出者と町との精神的な絆を保っているという。町内の住民の災いを代わりに受けることから、「身代わり猿」と呼ばれ、また、背中に願い事を書いて吊るせば願いが叶うとされ、「願い猿」とも呼ばれている。

 庚申縁起に見える伝承によれば、文武天皇代に疫病が流行した時に、元興寺の護命僧正が祈祷していると、1月7日になって、青面金剛が現われ、「汝の至誠に感じいったので、悪病を祓おう」と言って消え去った。その後、間もなく悪病がおさまった。その感得の日が「庚申の年」の「庚申の月」の「庚申の日」であったとされ、以来、息災に暮らすことを念じて人々が講を作って供養したと伝えられている。毎年3月の第2日曜と11月23日に、「庚申まつり」が行なわれ、参拝者に大根とこんにゃくの田楽がふるまわれる。

 なら工芸館(入館無料)は、奈良の伝統工芸である一刀彫、赤膚焼(あかはだやき)、乾漆、古楽面(こがくめん)、筆、墨、鹿角細工、奈良晒(さらし)など、工芸師たちの技術の粋を集めた作品が展示されており、手軽に買える作品もある。
 奈良町資料館(同)は、館長の自宅を改造し、奈良町の保存を目的として1985年に開館。館長が収集した、江戸時代から明治・大正にかけての看板や生活用品などの民俗資料や仏像や骨董品などが展示されている。特に 興味深いのは、商品そのものを型どった江戸時代の絵看板。大根のかたちをした八百屋の看板や、そろばんの型の寺子屋の看板など、字が読めなかった人にも一目でわかるよう工夫されている。

 所在地:奈良市西新屋町
 交通:JR奈良駅・近鉄奈良駅から南へ徒歩10~15分。
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「飛鳥京跡」(あすかきょうあと)

2011年02月01日 17時23分46秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 飛鳥京跡は、六世紀末から七世紀後半まで飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする都市遺跡で、「日本書紀」などに記述される宮殿のほか朝廷の支配拠点となる政治都市であったといわれ、祭祀施設、生産施設、流通施設などから構成されている。

 「伝飛鳥板蓋宮跡」(でんあすかいたぶきみやあと)を中心に、「川原寺跡」「飛鳥寺跡」「飛鳥池工房遺跡」「飛鳥京跡苑池」「酒船石遺跡」「飛鳥水落遺跡」などの諸遺跡があり、いまだ数多くの未発見の遺跡や遺構も存在しているという。
 遺跡の全体は判明していないが、「飛鳥板蓋宮」は皇極・斉明天皇の二代の天皇、飛鳥浄御原宮は天武・持統天皇の二代の天皇がそれぞれ使用しており、当時の宮は天皇一代限りという考えはなく、何代もの天皇が使用していたということから、飛鳥京は後の歴代遷宮、いわゆる一代ごとに移動する宮都から固定した宮都(藤原京)へと変化する転換点であったという。

 発掘調査は1959年から始まり、調査が進んでいる区域では、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかっている。概要としては、Ⅰ期、Ⅱ期、Ⅲ期の三期に分類され、各期の時代順序と「日本書紀」などの史料と照らし合わせてそれぞれ、Ⅰ期が飛鳥岡本宮(630~636年)、Ⅱ期が飛鳥板蓋宮(643~655年)、Ⅲ期が後飛鳥岡本宮(656~660年)、飛鳥浄御原宮(672~694年)の遺構であると考えられており、Ⅲ期の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮については出土した遺物の年代考察からかなり有力視されている。

■「飛鳥岡本宮」
 舒明天皇は629年1月に即位し、翌年10月、飛鳥岡(通称:雷丘)のふもとに遷宮、岡本宮と称した。6年後(636年)に本宮は火災で焼失し、舒明天皇は田中宮(現:橿原市田中町)へ遷った。

■「飛鳥板蓋宮」
 7世紀中葉に皇極天皇が営んだ皇居で、一般には飛鳥板蓋宮と呼称されている。明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられている。
 642年1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、蘇我蝦夷(そがのえみし)に命じて新宮殿が建設された。645年6月「乙巳の変」が起こり、皇極天皇の眼前で中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を斬殺した大化改新の舞台となったところとしても知られている。
 これにより皇極天皇が退位、事件の真の首謀者と目される軽皇子(かるのみこ)が即位し孝徳天皇となるが、天皇は難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置いた。
 654年10月孝徳天皇が難波宮で没すると、皇極上皇は板蓋宮において再び即位し、斉明天皇となった。この年、板蓋宮は火災に遭い焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。
 板蓋宮の由来は、屋根に板を葺いていたことに由来すると言われており、当時は草葺き・茅葺き・藁葺き一般的であったことから、板葺きは珍しかったようだ。

■「後期飛鳥岡本宮跡」
 内郭は東西152-158m、南北197mで南北の2区画に分かれており北区画の方が広く一辺約151mの正方形である。井戸、高床建物、廊状建物の建物が多く川原石が敷かれている。南区画の方は20×11.2mの大規模な建物跡が確認されている。

■「飛鳥浄御原宮跡」
 大殿の周辺は南北100m以上、東西約100mの掘立柱の塀で囲まれている。外郭の外側からは「辛巳年」(かのとみ/681年)「大津皇子」「大来」等と書かれた墨書木簡が出土している。「大来」は大友皇子の姉の大来(伯)皇女の名といわれることから、この最上層の遺構は天武天皇の飛鳥浄御原宮にともなうものであると考えられている。

■「飛鳥京跡苑池」
 「伝飛鳥板蓋宮跡」の北西に隣接した庭園遺構で、1999年の発掘調査で確認されており、藤原京以前に宮都に付随した苑池が営まれていたという。

■「飛鳥池工房遺跡」
 1998年に「富本銭」の鋳造が確認され、鋳型やバリ銭、鋳棹などが出土したことから、飛鳥宮の工房群と推察されている。

 参考文献:文化庁編『発掘された日本列島2004』(朝日新聞社刊/2004年6月)

 所在地:高市郡明日香村岡。
 交通:近鉄橿原神宮前駅よりバスで岡天理教前下車、徒歩5分。
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