京・茶懐石をコンパクトにした「松花堂弁当」の発祥地として知られる、史跡「松花堂」は洛南の最南、男山八幡の麓にある。松花堂は江戸時代初期に、この東に位置する石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の社僧として名をはせた「松花堂昭乗」(1582~1639年)ゆかりの地である。
門を入ると緑とせせらぎが心地よく向かえてくれる。園内一円を竹林が包み込み静けさを漂わせて、晩冬は椿、初春は梅、春は桜のほのかな香りが風にそよぐ。
庭園は25000㎡と広く、内園と外園にわかれ、内園は昭乗が晩年に隠棲するために建てた草庵「松花堂」や書院などがあり、苔庭や枯山水の築山がそれを囲んでいる。外園は小堀遠州が建てた茶室、宗旦好みの茶室などが竹林の間に間に佇む。竹は約40種類、椿約200種類が植栽されており、春夏の深緑、秋の紅葉など四季を通じて風雅が楽しめる。私が訪れた時は、松花堂茶室の笹の茂みに彼岸花が咲き乱れていた。
昭乗垣(しょうじょうがき)
洛北の名刹「光悦寺」にある「光悦垣」と共に知られる風雅な垣根が史跡「松花堂」を囲むこの松花堂の近くに「桜公園」があり、花びらが風に吹かれて、松花堂にひらひらと舞い落ちる様は雅やかな「夢」に包まれるようだ。
外園の西北にひっそりと「女塚」がある。この塚の悲しい物語は謡曲「女郎花」(おみなえし)で謡われ語り継がれている。
男山の山麓に住む小野頼風と深い仲にあった美しき都女が、足の途絶えた頼風を案じ訪ねて行くと、頼風はすでに他の女性と睦ましい関係にあった。
恨み悲しみにくれた都女は、月が満ち、そして欠けるまで夜毎泣き続けた。「このまま生きていては、いとおしい頼風様をただ恨みに思い続けて年老いていかなければなりませぬ。恋しい人の心を私の胸に閉じ込めたまま、私は命を絶ちましょう」
都女は、頼風の住む男山の裾に流れる川に身を投じた。脱ぎ捨てた山吹色の衣はやがて朽ち、そこに金色の女郎花が悲しげに咲き、川面の風になびいていた。
頼風は、女郎花の哀れなる姿に心を痛め、「私をさほどに慕ってくれた都女を、ただ独りにさせてはなるものや」と、後を追って入水した。村人たちは、この二人を哀れに思い「女塚」「男塚」を造り、成仏を祈ったのである。
「女塚」は、松花堂の片隅に残り、「男塚」は、なぜかこの地より数キロ離れたところに、朽ち果てた姿で忘れ去られている。
京都府八幡市
京阪八幡・京阪くずは・JR松井山手・近鉄新田辺・JR京田辺から、京阪宇治交通バス「大芝」下車すぐ。
門を入ると緑とせせらぎが心地よく向かえてくれる。園内一円を竹林が包み込み静けさを漂わせて、晩冬は椿、初春は梅、春は桜のほのかな香りが風にそよぐ。
庭園は25000㎡と広く、内園と外園にわかれ、内園は昭乗が晩年に隠棲するために建てた草庵「松花堂」や書院などがあり、苔庭や枯山水の築山がそれを囲んでいる。外園は小堀遠州が建てた茶室、宗旦好みの茶室などが竹林の間に間に佇む。竹は約40種類、椿約200種類が植栽されており、春夏の深緑、秋の紅葉など四季を通じて風雅が楽しめる。私が訪れた時は、松花堂茶室の笹の茂みに彼岸花が咲き乱れていた。
昭乗垣(しょうじょうがき)
洛北の名刹「光悦寺」にある「光悦垣」と共に知られる風雅な垣根が史跡「松花堂」を囲むこの松花堂の近くに「桜公園」があり、花びらが風に吹かれて、松花堂にひらひらと舞い落ちる様は雅やかな「夢」に包まれるようだ。
外園の西北にひっそりと「女塚」がある。この塚の悲しい物語は謡曲「女郎花」(おみなえし)で謡われ語り継がれている。
男山の山麓に住む小野頼風と深い仲にあった美しき都女が、足の途絶えた頼風を案じ訪ねて行くと、頼風はすでに他の女性と睦ましい関係にあった。
恨み悲しみにくれた都女は、月が満ち、そして欠けるまで夜毎泣き続けた。「このまま生きていては、いとおしい頼風様をただ恨みに思い続けて年老いていかなければなりませぬ。恋しい人の心を私の胸に閉じ込めたまま、私は命を絶ちましょう」
都女は、頼風の住む男山の裾に流れる川に身を投じた。脱ぎ捨てた山吹色の衣はやがて朽ち、そこに金色の女郎花が悲しげに咲き、川面の風になびいていた。
頼風は、女郎花の哀れなる姿に心を痛め、「私をさほどに慕ってくれた都女を、ただ独りにさせてはなるものや」と、後を追って入水した。村人たちは、この二人を哀れに思い「女塚」「男塚」を造り、成仏を祈ったのである。
「女塚」は、松花堂の片隅に残り、「男塚」は、なぜかこの地より数キロ離れたところに、朽ち果てた姿で忘れ去られている。
京都府八幡市
京阪八幡・京阪くずは・JR松井山手・近鉄新田辺・JR京田辺から、京阪宇治交通バス「大芝」下車すぐ。