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「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「松花堂」(しょうかどう)

2006年06月20日 07時08分17秒 | 古都逍遥「京都篇」
京・茶懐石をコンパクトにした「松花堂弁当」の発祥地として知られる、史跡「松花堂」は洛南の最南、男山八幡の麓にある。松花堂は江戸時代初期に、この東に位置する石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の社僧として名をはせた「松花堂昭乗」(1582~1639年)ゆかりの地である。
 門を入ると緑とせせらぎが心地よく向かえてくれる。園内一円を竹林が包み込み静けさを漂わせて、晩冬は椿、初春は梅、春は桜のほのかな香りが風にそよぐ。
 庭園は25000㎡と広く、内園と外園にわかれ、内園は昭乗が晩年に隠棲するために建てた草庵「松花堂」や書院などがあり、苔庭や枯山水の築山がそれを囲んでいる。外園は小堀遠州が建てた茶室、宗旦好みの茶室などが竹林の間に間に佇む。竹は約40種類、椿約200種類が植栽されており、春夏の深緑、秋の紅葉など四季を通じて風雅が楽しめる。私が訪れた時は、松花堂茶室の笹の茂みに彼岸花が咲き乱れていた。

昭乗垣(しょうじょうがき)
洛北の名刹「光悦寺」にある「光悦垣」と共に知られる風雅な垣根が史跡「松花堂」を囲むこの松花堂の近くに「桜公園」があり、花びらが風に吹かれて、松花堂にひらひらと舞い落ちる様は雅やかな「夢」に包まれるようだ。
外園の西北にひっそりと「女塚」がある。この塚の悲しい物語は謡曲「女郎花」(おみなえし)で謡われ語り継がれている。

 男山の山麓に住む小野頼風と深い仲にあった美しき都女が、足の途絶えた頼風を案じ訪ねて行くと、頼風はすでに他の女性と睦ましい関係にあった。
 恨み悲しみにくれた都女は、月が満ち、そして欠けるまで夜毎泣き続けた。「このまま生きていては、いとおしい頼風様をただ恨みに思い続けて年老いていかなければなりませぬ。恋しい人の心を私の胸に閉じ込めたまま、私は命を絶ちましょう」
 都女は、頼風の住む男山の裾に流れる川に身を投じた。脱ぎ捨てた山吹色の衣はやがて朽ち、そこに金色の女郎花が悲しげに咲き、川面の風になびいていた。
 頼風は、女郎花の哀れなる姿に心を痛め、「私をさほどに慕ってくれた都女を、ただ独りにさせてはなるものや」と、後を追って入水した。村人たちは、この二人を哀れに思い「女塚」「男塚」を造り、成仏を祈ったのである。
 「女塚」は、松花堂の片隅に残り、「男塚」は、なぜかこの地より数キロ離れたところに、朽ち果てた姿で忘れ去られている。

 京都府八幡市
 京阪八幡・京阪くずは・JR松井山手・近鉄新田辺・JR京田辺から、京阪宇治交通バス「大芝」下車すぐ。





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「二寧坂・産寧坂」(にねんざか・さんねんざか)

2006年06月18日 08時10分09秒 | 古都逍遥「京都篇」
 日本には坂をモチーフにした歌が多く見られる。坂と歌…そこには日本の四季を感じさせるものや、恋にやぶれメランコリーな気分で坂を登っていく女の後姿、陽だまりの中、桜の花びらがひらひらと舞い散る情景も歌になる。そして、そぼ降る雨の坂もロマンチックを醸し出す。長崎のオランダ坂などはそのような雰囲気だろうか。桜を想い浮かべると「桜坂」という流行歌があった。恋に似合う歌となると東京の「乃木坂」、横浜の「野毛坂」なんかがいい。幼きころの思い出に誘う坂は「柿の木坂」だろう。

 京都では、東山界隈に風情ある坂道が多い。清水寺へ向かう参道にある一念坂(一年坂)や二寧坂(二年坂)、そして産寧坂(三年坂)。この界隈は坂の両側に二階建ての低い虫籠格子の家々が軒を連ね、しっとりとした趣を醸し出し、舞妓さんのだらりの帯姿が似合う通りでもある。
 そんな京情緒あふれる街並みを好んでか、二寧坂には画家の竹久夢二が住んでいた。大正六年のこと、東京に残した恋人の彦乃をこの坂の家で待ち焦がれた。翌年、彦乃は京都を訪れ、高台寺近で共に暮らした。しかしそれもつかの間、病いに倒れ、彦乃は東京へ戻り恋は終焉を迎えた。

 二寧坂から清水方面につづく少し急な石段の坂が産寧坂だ。三年坂でなく「産寧坂」と称するのは、安産の祈願所として知られる清水寺の子安観音への参道で、「産むは寧(やすき)坂」として呼ばれていたからでもある。また、坂上田村麻呂が坂道を開いた大同3年(808)年にちなむものだとか諸説さまざまだ。
 坂の途中には、坂本龍馬ら幕末の志士が隠れ家として使った「明保野亭」が残されている。当時、二階の部屋から京都の町が一望でき、追手の行動が眼前に見えることから密談を交わすにはふさわしい場所だった。
 清水坂から分かれて下る46段の石坂。この産寧坂から円山公園まで続く道を「二寧坂」、さらに下河原までの道を「一念坂」と呼んでいる。
 二寧坂の由来は、清水寺への参道である三寧坂の手前の坂という意味で、この名が通り名となった。「ここでつまづき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えがあるが、「坂道は気をつけて…」という警句が語り伝えられたものと思われる。「坊日誌」によると、「宝暦8年(1758)桝屋喜兵衛が、お上の許可を受けてここを開拓屋地と為す」とあり、以来この付近は桝屋町と称する。転ばぬように安産であるようにというおまじないだろう、「瓢箪(ひょうたん)」を身につけておくと厄除けにご利益があると伝えられ、産寧坂、二寧坂には瓢箪を商いにしている店が目に入る。

 一念坂のいわれは定かではないが、八坂塔から清水参道の最初の坂であるところから一念を祈願する初めの坂ということなのだろうと想像する。
 一念坂は余り観光客たちには知られず、馴染みをなくしているのは、おそらく石塀小路が隣接するためではなかろうか。
 石塀小路が作られたのは大正時代のこと。料亭や旅館が建ち並ぶ静かな落ち着いた空間。地元では「いしべこじ」と呼んでいるもので、石畳の道の曲線や、板塀の雰囲気、格子戸の入り口に飾られた気の利いた花や飾り物などが絶妙な調和を見せているからでもあろう。

 春の夜、最近始められた「花街灯」の灯りが水打ちされた石畳に映える風情は、若者たちのロマンスを駆り立てる演出にもなっている。石塀小路にある田舎亭(宿泊も可能)は、NHKの朝の連続小説ドラマ「オードリー」の舞台となった場所でもある。かつては有名映画監督や小説家が良く利用したという。産寧坂を登る手前を少し東に入り辻地蔵を過ぎると、推理小説で名を馳せた故・山村美紗の邸宅がある。

 忘れてはならない坂がもう一つ、清水焼発祥の地として知られる「五条坂」で、「茶碗(ちゃわん)坂」として親しまれている。東山山麓に向かう傾斜が登り窯に適した地形であったため、最盛期にはたくさんの窯が立ち並んでいたという。現在は山科に「清水焼団地」を作り、窯元は当地へ移っている。
 五条坂を南に入ると陶芸家・河井寛次郎の記念館がある。ここには清水焼の名手、五代清水六兵衛から譲り受け、寛次郎によって数々の造形美を生み出した登り窯が展示されている。
 京都の雨という歌があるが、一念坂から石塀小路、二寧坂そして産寧坂界隈はその雨がしごく似合うところであろう。
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「木屋町」(きやまち) 

2006年06月17日 07時22分52秒 | 古都逍遥「京都篇」
 浅瀬をくだるせせらぎも清々しく、四季折々の自然と歴史をとどめながら今も昔も変わらずに流れる高瀬川、その流れに寄り添って桂小五郎と菊松が逢瀬を楽しんだ木屋町通りが、南北に細長く続いている。
 木屋町通りは最初は樵木町(こりきまち)と呼ばれていた。その名が示すように材木や薪などが高瀬川を使って運び、周辺には木、薪炭などを扱う商家が多く建ち並び軒を連ねていたいたことから、東岸の道が「木屋町通り」と呼ばれるようになった。江戸初期・慶長16年(1611)に、京の豪商・角倉了以により人工の河・高瀬川が開削され、二条から五条まで運河を造り、京都の経済水運として活躍し木屋町は賑わいをみせた。
 四条河原町や祇園の繁華街に近いにもかかわらず街の喧噪からはほど遠く、木屋町通りを挟んで西に高瀬川、東に鴨川を控えて落ち着いた佇まいをみせている。この通は日本最初の路面電車(チンチン電車)が走った通りで、平安遷都1100年記念事業の内国勧業博覧会の会場へのアクセスとして、琵琶湖疎水による発電電力を使って走らせた。

 三条大橋の西詰めには幕府の制札場があり、そこに長州藩の罪状が記された。高札は何度も川に投げ捨てられ、新選組がその監視を命じられている。
 木屋町通りを三条に上ると、池田屋事変の際に土方隊が乗り込んだ旅館「四国屋」があった場所に出るが、現在は金茶寮という料亭になっており、木屋町通りに面した入り口には「吉村寅太郎寓居跡」・「武市瑞山寓居跡」の碑もある。
 さらに北へ木屋町通り御池上る、二条間に出ると、鴨川に添って木屋町通りを流れる高瀬川の船だまりとして港の役割をした「一之舟入」跡がある。付近には、明治維新に活躍した桂小五郎の像や長州藩邸跡、桂小五郎・幾松寓居跡(木屋町御池上ルの東側、現在は料理旅館「幾松」になっている)、大村益次郎遭難碑、佐久間象山遭難碑などがある。
 佐久間象山は、幕府の雇士として上洛し、開国を唱える一方で公武合体を説いた。攘夷派の標的となり暗殺された翌朝、象山の首は三条河原に晒された。また、大村益次郎が襲われたのは明治2年9月、木屋町の宿で鍋を囲んで仲間と歓談していたところを刺客に襲われた。刺客は、長州人大楽源太郎の客分である神代直人らであった。大村は傷を負い、高瀬川から一之舟入から舟に乗せられ、大阪まで運ばれた。傭い外国人である蘭人ボードウィンの治療を受けるが甲斐もなく死去した。

 新選組を一躍有名にした池田屋事変の舞台となった池田屋跡は、三条河原町の東側、河原町通の北側にあり、現在はパチンコ屋になっている。
池田屋石碑の寄贈者は佐々木フサで、池田屋は維新後、佐々木氏に買い取られて旅館として営業されていた。
 三条河原町の一つ手前(南)の通り(通称「龍馬通り」)の北側に酢屋(海援隊屯所跡)ある。幕末当時の酢屋は土佐藩出入りの材木商。龍馬が近江屋に移るまで酢屋の二階に潜伏していて、海援隊の屯所となっていた。
 現在、二階はギャラリーになっており、毎年、龍馬が亡くなった33歳より若い人を対象に、「龍馬への手紙」を募集し、毎年11月15日の龍馬の命日に龍馬の遺品と共にを一般公開している。

 高瀬川沿い、旧立誠小学校の前に立つ土佐藩邸跡の碑がある。当時はこの一帯が土佐藩邸であったそうで、蛸薬師通りには「土佐稲荷」もある。
 慶応3年(1867)11月、坂本龍馬が暗殺された近江屋は、四条通りと三条通りの中程にあり、今では旅行会社になっており、前に設置された石碑のみが歴史を伝えている。
 木屋町通り蛸薬師下った東側には、勤王の志士の本間精一郎が土佐藩士武市半平太の謀計により岡田以蔵により暗殺された遭難之地として石碑が立っている。

 所在地:京都市右京区木屋町。
 交通:JR京都駅から市バス17、295系統で河原町五条・四条河原町下車。
 阪急電鉄河原町駅下車東へ、京阪電鉄四条駅下車西へ徒歩5。

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「高瀬川」(たかせがわ)

2006年06月13日 21時35分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
高瀬川は、慶長16年(1611)に方広寺大仏殿(慶長9年に焼失)の再建のため、豊臣秀頼の命により豪商角倉了以・素庵父子によって資材運搬用に開削された。一説には、徳川家康が豊臣家の資力を削減させるために行わせたとされている。この川で用いる舟を高瀬舟といった。
 高瀬川運河は角倉家に委託された慶長19年から大正9年の長きにわたって、角倉家の経営のもとで京都の経済ルートの中心的役割を果たした。
 二条から五条にかけて七つの船入り(荷物の積みおろしをするための船だまり)があり、川筋に並んだ問屋は隆盛をきわめたといわれている。そのうち、起点・二条の一之船入跡は国の史跡として保存されている。
 現在、高瀬川沿いは夜のネオン街として若者やサラリーマンたちに親しまれており、新選組に登場する月形半平太の「月さま、雨が」という名台詞が似合う風情は見ることもできない。毎年9月23日には、地元の人たちによって「高瀬川舟まつり」が開かれ、川に浮かぶ高瀬舟の試乗も行われている。
 
 起点となる取水口は、東一条通付近にある鴨川の堰の横に位置し、取水された「みそそぎ川」はしばらく鴨川の河川敷の下を流れた後、丸太町通を過ぎたあたりで姿を現し、二条通南側で高瀬川と分岐する。
 高瀬川と分岐したみそそぎ川は一部鴨川に水を落とし、ゆっくりと南へくだり、京都の繁華街の中心地の鴨川河原のそばを静かに流れていく。
 また、分岐点南側から松原通付近まで、夏になると納涼床がみそそぎ川に設けられ、京の夏の風物詩になっている。納涼床は江戸時代にまでさかのぼることができる京都の伝統的町衆文化で、かつては鴨川に設けられていたが、大正期の河川改修で設置先がみそそぎ川に変更された。
 四条通を過ぎたあたりになると鴨川の河原も閑散とし、みそそぎ川も目立たぬように五条大橋そばで鴨川へと帰っていく。そしてみそそぎ川から分岐した高瀬川は、高瀬川源流庭苑へと流れる。同庭苑は高瀬川開削に携わった角倉了以の旧別邸にあった庭園で、現在は「がんこ高瀬川二条苑」(飲食店)になっており、別邸庭園の頃にはモデル撮影会などでも使われ、私も2度ほど撮影に出向いたことがある。この庭苑を抜けると高瀬川は一之舟入跡(いちのふないり)に出る。
 
 一の舟入から高瀬川は木屋町通に沿って南に向かって流れ、五条通に続く。五条通を過ぎると木屋町通沿いに流れ、生活に溶け込んだ素朴な川の姿となり、新幹線・JR線の線路をくぐると、高瀬川は普通の都市河川の光景となる。

 所在地:京都府京都市中京区。
 交通:京阪本線三条駅下車、徒歩10分、市バス「河原町御池」下車、徒歩5分。
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「京都府立植物園」(きょうとふりつしょくぶつえん)

2006年06月11日 18時21分30秒 | 古都逍遥「京都篇」

 京都市北部の平坦地に位置し、東は比叡山、東山連峰を望み、西に加茂の清流、北は北山の峰々を背景とした景勝の地にある「京都府立植物園」は、京都府開庁100年記念として、大正6年(1917)に着工し、同13年1月1日に一般有料公開された。

 戦後、昭和21年(1946)から12年間連合軍に接収され、昭和36年(1961)4月、憩いの場、教養の場としてその姿を一新し、再び公開した。再開後も園内整備事業を推進し、昭和45年(1970)に「日本の森」を、56年には、「洋風庭園」を造成した。最近では平成4年(1992)4月に「観覧温室、「植物園会館」を竣工、12月には「北山門」を完成するなど、名実ともに日本の代表的な植物園となっている。

 園内の南半分には、正門付近の一年草を中心とした四季の草花が鑑賞できる正門花壇、世界の熱帯植物の生態系に基づき、一巡すると熱帯の数々の植生が鑑賞できる観覧温室、さらにはバラを中心とした造形花壇、噴水や滝のある沈床花壇よりなる洋風庭園などの人工的な造形美で構成されている。 これに対し、園の北半分には、園内唯一の自然林であるなからぎの森や日本各地の山野に自生する植物をできるだけ自然に近い状態で植栽した植物生態園、およびその周辺地域は、わが国の風土に育まれ、古くから栽培されてきた桜、梅、花菖蒲などの園芸植物や竹笹、針葉樹などを植栽した日本の森として、より自然
的な景観を形づくっている。また、北西部には宿根草・有用植物園などがあり、園内には約12000種類、約12万本の植物が植えてある。

 中でも私が好きな所は「なからぎの森」。
大小四つの池に囲まれた、なからぎの森は古くから、流れ木の森ともいわれ、ここ下鴨の地に残された山城盆地の植生をうかがい知ることのできる園内唯一の貴重な自然林です。ニレ科の落葉樹であるエノキ、ムクノキ、ケヤキの古木やシロダモ、カゴノキ、シイ、カシ類の常緑樹が混生する森の特徴が見られる。春の芽出しの美しさ、緑陰の涼しさ、秋の紅葉、冬木立の静寂さなど落ち着いた森の雰囲気は入園者の憩いの場、思索の場となっている。
 森の広さは約5、500平方㍍で、中ほどには、この地域の鎮守の森の社であり、また京都の伝統産業である西陣織の神を祀った半木神社の小さな社がある。また、池の周りはカエデ類が多く、池に映えた色彩は非常に美しく、特に秋の紅葉は水辺に紅の影を映しこみ美しい静寂をかもし出す。

 入園料は一般200円、高校生150円、小・中学生80円。

 所在地:京都市左京区下鴨半木町。
 交通:JR京都駅(阪急「烏丸」駅)から地下鉄「北山」駅 又は「北大路」駅下車、京阪出町柳から市バス1号系統・京都バス「植物園前」下車。

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「円山公園」(まるやまこうえん)

2006年06月10日 19時00分19秒 | 古都逍遥「京都篇」
 円山公園は、明治19年(1886)に造成された京都市で最も古い公園で、 当時、西洋の公園では噴水が必須の設備となっていたところ、日本では必要な水圧と水量を継続的に確保することが技術的に困難であった。
 京都市では、疏水工事の技術責任者として活躍し、完工後東京の工科大学(東大の前身)に移っていた田辺朔郎教授に疏水の水を利用した噴水工事の可能性の検討を依頼し、明治24年に現地調査を実施した結果、第一疏水の第3トンネル西口から円山公園の枝垂桜までの25m落差を利用し、1.6kmの距離を鉄製配管でつなぐ設計を行い、明治43年(1910)疏水を活用した近代庭園の造園家として注目されていた小川冶兵衛に造園設計を依頼した。そして、大正2年の大改修工事で、明治44年に完成した第二疏水を水源とした池泉回遊式庭園を造園した。

 祇園祭のときに特に賑わう「八坂神社」の西楼門(四条通りの東端)から入り、右手の参道を少し進むと「本殿」があり、その奥の「斉殿」横を抜けると、円山公園の枝垂桜の巨木が出迎えてくれる。この枝垂桜は2代目で、初代は樹齢200余年、根廻り約4m、高さ約12mにも及び、明治中頃には盛観を極めたという。昭和22年(1947)に枯死し、現在は、15代佐野藤右衛門が昭和初年に初代の種子から育て、昭和24年(1949)に寄贈したもので、正式な名は「一重白彼岸枝垂桜」という。
 そのすぐ裏手に有名な瓢箪池があり、右側の小さい池に前述の噴水がある。左手にある大きい池には、水鳥が遊んでいる。両池のつなぎ目に架かる橋を渡り、東に向かう散策道には桜や楓の木が適当な間隔で植えられており、その道の左側を幅広い渓川がゆるやかな傾斜を持って瓢箪池に向かって流れている。さりげなく流れる渓川は川幅4~5mあり、大小の石が川底に配置されており、せせらぎの音を楽しめるようになっている。

 渓川の流れに逆行して東に進むと滝口に出合う。このあたりは、円山六坊址といわれるところで、南北朝時代に国阿上人によって再興された時宗安養寺の塔頂があり、古くから風雅を愛する遊客が多く、明治維新後は洋風旅館や温泉で賑わったが明治末年に消失、今は数軒の料亭が点在しており、歴史を刻んだ遺物も多く残っている。

 京都市では2003年から、春の風物詩を演出する行事として「京都・花灯路」と題する、東山の夜の散策コースを新たに作り、寺院・商店等とも協力し清水寺・高台寺・円山公園・知恩院・青蓮寺を結ぶ約2kmの散策路を数多くの花の一輪挿しと路地行灯で飾った。円山公園では、小川のせせらぎ一面を約2000本の青竹の灯篭で満たし、石畳に映る灯火に古都の情緒があふれている。

所在地:京都市東山区円山公園
 交通:京阪電車四条駅より徒歩5分、阪急電車河原町駅より徒歩10分。
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「祇園新橋」(ぎおんしんばし)

2006年06月09日 21時34分35秒 | 古都逍遥「京都篇」
 花街祇園の北に位置する新橋は、祇園社(現八坂神社)の門前町として開け、江戸時代には芝居や人形浄瑠璃の小屋が建ち並んだという。茶屋町として開発された祇園新橋界隈には、江戸末期から明治初期にかけての高級な町家が、柳並木の石畳の道沿いに洗練されたたたずまいを見せている。新橋通に面した区画は、紅殻格子が美しい茶屋様式の町家の表側の町並み。一方、白川に面した区画は、簾のかかった川端座敷など茶屋の裏側ともいえる町並みが続き、並木や石畳と調和して風情がある。

 歴史は290年ほどさかのぼるが、江戸時代の正徳3年、知恩院の山門から西へ縄手通りまで道が作られ、このとき白川の下流に橋をかけ、新橋と呼ぶようになる。道筋には祇園六町がつくられ、以来、江戸時代の町民文化の浮世草子、浄瑠璃、歌舞伎、音曲の舞台となった。
 祇園地区は茶屋町として形成され、祇園六町のうち新橋通りを中心とした東西約160メートル、南北約100メートルの範囲が「伝統的建造物保存地区」に指定されている。
 建物は切妻造・桟瓦葺・平入、2階建で、元治2年(1865)の大火直後に建てられたものである。1階に格子をつけ、2階は座敷となって正面に縁を張り出して「すだれ」を掛け、いわゆる京都らしい景観をみせている。
 石畳の道の北側に柳の木、南側に桜や梅、牡丹、紫陽花、芙蓉などが植えてあり、四季折々の花を楽しむことができる。春には夜桜の下、舞妓さんが観桜・桜まつりの初日にサービスで姿を見せてくれて、気さくに写真撮影に応じてくれる。

 明治期の歌人、吉井勇は人生の大半を京都ですごし、特に祇園を愛でていたようで、「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕のしたを 水のながるる」と自分の古稀を祝って詠んだとされる歌が碑に刻まれている。
 映画やテレビドラマでよく登場する巽橋(たつみばし)は、白川通りから切り通し通りに入れるように架かっている。この橋の周辺は祇園の中の祇園と言ってもいいほど情緒がある。滑らかな小川のせせらぎに柳のしなやかな枝が水面をなでるように清めている。この橋を渡ると辰巳神社(たつみじんじゃ)がある。辰巳の方角(南東)を守るために作られた社であるが、大阪ミナミの「水かけ不動」と同様に、祇園町にかかわる人たちのシンボル的な神社となり、芸子さんや舞妓さんたちを中心にした祇園芸能に関連する人たちから親しまれている。春には枝垂れ桜が、御茶屋の簾、白川のせせらぎ、秋には紅葉が舞う祇園町の小社・辰巳神社には、いつもお参りの人が絶えない。 

 所在地:京都市東山区新橋花見小路西入る元吉町。
 交通:市バス・祇園停留所、徒歩5分、京阪電車・四条駅、徒歩10分。
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