「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「小督局」(こごうのつぼね)

2006年06月29日 12時29分15秒 | 古都逍遥「京都篇」
 嵐山の渡月橋に立ち、ふと耳を澄ませると大堰川のそよ風にのせて「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か・・・」と奏でる琴の音が聞こえてくるような幻想に陥る。そう、この調べは謡曲「想夫恋」で知られる「小督局」と「高倉天皇」の悲恋の物語に登場する。

 『平家物語』巻六によれば、小督局は桜待中納言藤原成範(しげのり)の娘で宮廷一の美貌、琴の名手とも云われた。
 局は高倉天皇の寵を得たが、中宮建礼門院の実父平清盛ににらまれ、嵯峨に身を隠すことになった。天皇は北面の武士、弾正少弼源仲国(だんじょうしょうひつ みなもとなかくに)に密命をくだし、小督局の行方を求め、さ迷い歩いた。
 そして8月15日、仲秋の明月の夜であった。
 「琴の名手小督は必ずや琴を奏するに違いない」、そう思った仲国は嵯峨野へと向った。一方、嵯峨野にひっそりと暮らす小督は、帝の愛に思いを馳せつつ琴を爪弾いていた。月光に映える嵯峨野を琴の音を頼りにやって来た仲国の耳に、「想夫恋」の調が届く。訪ねあてた仲国に、小督は会うことを拒むが、帝の文を渡すと、涙に暮れた…。

 帰途につく仲国に、小督は名残惜しんで酒肴を勧める。仲国は小督を慰め舞を舞うと、返書を懐に帝の元へと急ぐのだった。
 「もしやと思い、ここ、かしこに、駒を駆けよせ、駆けよせて…」と地謡の謡う「駒之段」。これは月光冴え渡る初秋の嵯峨野の原を、駿馬に打ち跨った仲国が、琴の音を頼りに小督を探すという叙情豊かな舞で、能の名場面である。

 宮中に戻った小督は再び高倉天皇の寵愛を受けたが、中宮徳子より先に天皇の子供を宿したことがさらに清盛の怒りを招く結果となり、清盛は小督の髪を剃り出家させてしまう。
 傷心の高倉天皇はさらに安徳天皇に皇位を奪われ若干二十一歳で世を去った。
 天皇が葬られたのは清閑寺に近い場所で、小督はその近くに庵を結んで生涯にわたり天皇の菩提を弔い四十四歳で死去したといわれている。

 高倉天皇と小督の悲恋物語は、室町時代の謡曲「小督」に採り上げられ、後世まで広く世の関心と同情を集め、哀れに思った人々が、この地に小督塚を作ったと伝えられている。琴きき橋跡、この石標は小督の弾く「想夫恋」(「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か」)を仲国が聞いたと伝える橋跡を示すものである。
 渡月橋のたもとの木立に囲まれた碑文には、「一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の駒」と記されてある。

 元禄4年(1691)落柿舎に杖をとどめた俳聖松尾芭蕉は、嵯峨の名所旧跡を探訪し、小督塚にも詣でた。その頃、嵯峨には小督の遺跡というのが3ヶ所もあって、ここはそのうちの一つだと「嵯峨日記」に記している。
 しかもその墓といういうのは墓石はなく、ただ桜の木が一本植えてあるだけであったのを見て、
 「うきふしや竹の子となる人の果」と局の末路を哀れんでいる。
 渡月橋北詰より大堰川の左岸(北側)に沿い、亀山公園へ行く中程にあり、椋の老樹の根もとに小五輪石塔を置いて小督局の塔と称している。
 小督塚の近くに「小督庵」と彫られた立派な石があり、数奇屋風の家が建っている。ここが小督が隠れ住んだ庵かと思い違いするほどだが、奥にのれんをかいま見ることができ、琴の音も聞こえて来る、ここは京料理の店「小督庵」。
 高倉膳、小督膳などメニューがあり、ミニ会席で7000円ほどからあるが、抹茶(菓子付き1000円)を飲みながら庭園を楽しむこともできる。

 では、この界隈の見所も紹介しておこう。
【嵐山城跡】
 大悲閣の背後、嵐山の山頂にあたり、足利管領細川政元の家臣、香西又六元長が永正年間(1504~21に築いた城だが、城柵程度のものであったと伝えられている。山頂を取り囲んで、6つの曲輪址と土畳若干が残っている。

【戸無瀬滝】
 櫟谷神社より100メートル余り、岩にせかれて三段になって流れ落ちている滝で、天竜寺の正西背後にあたる。
 仙洞亀山殿造営のとき「戸無瀬の滝もさながら御墻の内にみえて」と『増鏡』に記されており、後嵯峨上皇の目を楽しませたようだ。

【千鳥ケ淵】
 これよりよりさらに400メートルほど先に、断崖にのぞんで深い淵となったところがある。往生院に滝口入道を訪ねた横笛が、相見ることがかなわなかったのを嘆き、この淵に身を投げたところと伝わる。

 所在地:京都府京都市右京区。
 交通:JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」または阪急嵐山線「嵐山駅」下車、徒歩15分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「勝林院」(しょうりんいん)

2006年06月24日 21時16分41秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「苔の上(へ)をまろぶがごとく流れゆく 呂律(ろりつ)の里の阿弥陀の聲明(しょうみょう)」(平井乙麿)

 "京都大原三千院 恋につかれた女がひとり…" デュークエイセスが歌ったこの歌で、静かだった大原に大勢の人が訪れるようになった。その昔、人気の少なかった時分、よく訪れたものだった。だが、この地を訪ねながら三千院や寂光院こそ巡るものの、そのほかの名刹は、ついついこの次にと見送ってばかりいた。
 古都逍遥を綴りはじめたのを機会に、勝林院を訪ねたみた。
 三千院の総門に向かって左手の方向に少し坂を下ると大原女が一人歩いてくる。「こんにちは、このご近所の方ですか」と話し掛けると、観光に来られた方が貸衣装を着込んでの散策だった。

 「苔の上をまろぶがこどくながれゆく…」の歌碑が山門を入って左手に佇んでいた。この歌の通り当院は呂律の寺・聲明の寺なのだ。
聲明は仏教歌なのだが、中国仏教の古典儀式音楽で「聲明音律」として、慈覚大師(第三代天台宗座主)がこれを学び持ち帰って比叡山で伝承した。
 その後九代目の弟子・寂源が長和2年(1013)、その道場を大原に移し、名を魚山と号して大原魚山流声明の根本道場として建立し、栄えた。
 法然上人を招き論義して以来、「大原問答」が行われ、昭和初期三千院宸殿ができるまで続いた。本堂は総欅造り、華麗さはないが見事な彫り物に目を奪われた。
 
 本堂前にある古池は、さながら芭蕉の「古池や 蛙飛びこむ 水の音」を想わせるような静けさが漂っていた。その池面にしだれた小木の枝に、天然記念物に指定されている「もり青蛙」の卵が、餅飾りのように無数にくっ付いていた。案内人の小坊主さんもおらずお掃除の叔父さんが黙々と堂周りを掃いていた。ふと、放浪の画家・山下清画伯の姿を思い浮かべてしまった。そこには小さな里山の、古寺の癒しの空間があった。
 
 交通:京都駅から市バス大原方面行き、大原下車徒歩20分。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「金戒光明寺」(こんかいこうみょうじ)

2006年06月22日 00時18分46秒 | 古都逍遥「京都篇」
 幕末に京都守護職会津藩の本陣が置かれことでも知られている紫雲山黒谷金戒光明寺は、法然上人がはじめて草庵を営んだ地である。15歳で比叡山に入山、承安5年(1175)43歳の時、山頂の石の上で念仏を唱えた時、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから この地に草庵をむすび、浄土宗最初の寺院となった。

 西山連峰、黒谷の西2㌔の京都御所、西10㌔の小倉山を眺み、山門、阿弥陀堂、本堂など18もの塔頭寺院が建ち並ぶ。なかでも、蓮池院(れんちいん)熊谷堂(くまがいどう)は、一の谷の合戦で平敦盛(たいらのあつもり)の首をとった熊谷直実(くまがいなおざね)の住房跡として知られる。
 ここは西山連峰中もっとも低い鞍部になる。彼岸の中日のころは真赤な夕陽が静かに沈むのが拝める京都盆地唯一の場所である。
 御影堂(大殿)内陣正面には、宗祖法然上人75歳の御影(座像)を奉安している。 火災による焼失後、昭和19年に再建となったもので、堂内の光線と音響に細部の注意がこらされて昭和時代の模範建築物といわれている。
 阿弥陀堂は、慶長10年(1612年)豊臣秀頼により再建。当山諸堂宇中最も古い建物である。恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納められてあることから「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称されている。
 南禅寺の三門を思わせる三門は、万延元年(1860年)の完成。桜上正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がある。
 京都では珍しい吉備観音が安置されており、1200余年前、遣唐使吉備真備が中国から持ち帰った栴薩を刻んで吉田寺に安置されたが、同寺が廃寺となったため当山境内に移したと伝えられる。
 背後の山腹の墓地を登り詰めたところに、文殊菩薩と三重の塔がある。古く、黒谷の西にあった中山文殊が、江戸時代初期徳川秀忠公菩提の為に建立の三重の塔(日本三大文殊塔の1つ)に安置されている。この本尊の文殊菩薩と脇士の像は運慶の作。

 当寺と関わりの深い会津藩、新選組のことを少し触れておこう。
 幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久2年(1862)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
 文久2年閏8月1日、会津藩主松平容保(かたもり)は江戸城へ登城し、14代将軍徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられ、役料5万石・金3万両を与えられた。松平容保は家臣1千名を率い文久2年12月24日三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした会津正規兵の行軍が一里余りも続いたという。

 当寺が本陣に選ばれた理由として、3点があげられている。

1.、徳川家康は、直割地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとした。黒谷には大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には高麗門が城門のように建てられた。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。

2.御所まで約2㌔、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点までは1.5㌔の下り、馬で走れば約5分、人でも急げば15分で到着できる要衝の地であった。

3.約4万坪の大きな寺域により1千名の軍隊が駐屯できた。本陣といっても戦国時代の野戦とは違い野宿ではなくきちんとした宿舎が必要であった。黒谷には大小52の宿坊があり駐屯の為に大方丈及び宿坊25ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されている。

 新選組と会津藩の関係は、幕府が文久2年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。
 近藤・芹沢の浪士隊は、黒谷の会津藩預かりとして京都に残ったが、武家伝奏より「新選組」の命名とともに市中取締の命を受けた。
 現在の当寺は、昭和9年に御影堂・大方丈が火災により焼失してしまったが、その他の建物は往時のままである。山上墓地北東には約300坪の敷地に「会津藩殉難者墓地」が有り、文久2年~慶応3年の5年間に亡くなった237霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀る慰霊碑(明治40年3月建立)がある。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に3カ所に分けられ22霊祀られている。会津松平家が神道であった関係で7割ほどの人々が神霊として葬られている。

 また、会津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客・会津小鉄」の墓もある。会津小鉄は本名上阪(こうさか) 仙吉といい、会津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組の密偵として大活躍をした。しかしながら、会津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分200余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷会津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。

所在地:京都府京都市左京区黒谷町121。
交通:京阪電気鉄道丸太町駅下車、徒歩15分。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「松花堂」(しょうかどう)

2006年06月20日 07時08分17秒 | 古都逍遥「京都篇」
京・茶懐石をコンパクトにした「松花堂弁当」の発祥地として知られる、史跡「松花堂」は洛南の最南、男山八幡の麓にある。松花堂は江戸時代初期に、この東に位置する石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の社僧として名をはせた「松花堂昭乗」(1582~1639年)ゆかりの地である。
 門を入ると緑とせせらぎが心地よく向かえてくれる。園内一円を竹林が包み込み静けさを漂わせて、晩冬は椿、初春は梅、春は桜のほのかな香りが風にそよぐ。
 庭園は25000㎡と広く、内園と外園にわかれ、内園は昭乗が晩年に隠棲するために建てた草庵「松花堂」や書院などがあり、苔庭や枯山水の築山がそれを囲んでいる。外園は小堀遠州が建てた茶室、宗旦好みの茶室などが竹林の間に間に佇む。竹は約40種類、椿約200種類が植栽されており、春夏の深緑、秋の紅葉など四季を通じて風雅が楽しめる。私が訪れた時は、松花堂茶室の笹の茂みに彼岸花が咲き乱れていた。

昭乗垣(しょうじょうがき)
洛北の名刹「光悦寺」にある「光悦垣」と共に知られる風雅な垣根が史跡「松花堂」を囲むこの松花堂の近くに「桜公園」があり、花びらが風に吹かれて、松花堂にひらひらと舞い落ちる様は雅やかな「夢」に包まれるようだ。
外園の西北にひっそりと「女塚」がある。この塚の悲しい物語は謡曲「女郎花」(おみなえし)で謡われ語り継がれている。

 男山の山麓に住む小野頼風と深い仲にあった美しき都女が、足の途絶えた頼風を案じ訪ねて行くと、頼風はすでに他の女性と睦ましい関係にあった。
 恨み悲しみにくれた都女は、月が満ち、そして欠けるまで夜毎泣き続けた。「このまま生きていては、いとおしい頼風様をただ恨みに思い続けて年老いていかなければなりませぬ。恋しい人の心を私の胸に閉じ込めたまま、私は命を絶ちましょう」
 都女は、頼風の住む男山の裾に流れる川に身を投じた。脱ぎ捨てた山吹色の衣はやがて朽ち、そこに金色の女郎花が悲しげに咲き、川面の風になびいていた。
 頼風は、女郎花の哀れなる姿に心を痛め、「私をさほどに慕ってくれた都女を、ただ独りにさせてはなるものや」と、後を追って入水した。村人たちは、この二人を哀れに思い「女塚」「男塚」を造り、成仏を祈ったのである。
 「女塚」は、松花堂の片隅に残り、「男塚」は、なぜかこの地より数キロ離れたところに、朽ち果てた姿で忘れ去られている。

 京都府八幡市
 京阪八幡・京阪くずは・JR松井山手・近鉄新田辺・JR京田辺から、京阪宇治交通バス「大芝」下車すぐ。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「二寧坂・産寧坂」(にねんざか・さんねんざか)

2006年06月18日 08時10分09秒 | 古都逍遥「京都篇」
 日本には坂をモチーフにした歌が多く見られる。坂と歌…そこには日本の四季を感じさせるものや、恋にやぶれメランコリーな気分で坂を登っていく女の後姿、陽だまりの中、桜の花びらがひらひらと舞い散る情景も歌になる。そして、そぼ降る雨の坂もロマンチックを醸し出す。長崎のオランダ坂などはそのような雰囲気だろうか。桜を想い浮かべると「桜坂」という流行歌があった。恋に似合う歌となると東京の「乃木坂」、横浜の「野毛坂」なんかがいい。幼きころの思い出に誘う坂は「柿の木坂」だろう。

 京都では、東山界隈に風情ある坂道が多い。清水寺へ向かう参道にある一念坂(一年坂)や二寧坂(二年坂)、そして産寧坂(三年坂)。この界隈は坂の両側に二階建ての低い虫籠格子の家々が軒を連ね、しっとりとした趣を醸し出し、舞妓さんのだらりの帯姿が似合う通りでもある。
 そんな京情緒あふれる街並みを好んでか、二寧坂には画家の竹久夢二が住んでいた。大正六年のこと、東京に残した恋人の彦乃をこの坂の家で待ち焦がれた。翌年、彦乃は京都を訪れ、高台寺近で共に暮らした。しかしそれもつかの間、病いに倒れ、彦乃は東京へ戻り恋は終焉を迎えた。

 二寧坂から清水方面につづく少し急な石段の坂が産寧坂だ。三年坂でなく「産寧坂」と称するのは、安産の祈願所として知られる清水寺の子安観音への参道で、「産むは寧(やすき)坂」として呼ばれていたからでもある。また、坂上田村麻呂が坂道を開いた大同3年(808)年にちなむものだとか諸説さまざまだ。
 坂の途中には、坂本龍馬ら幕末の志士が隠れ家として使った「明保野亭」が残されている。当時、二階の部屋から京都の町が一望でき、追手の行動が眼前に見えることから密談を交わすにはふさわしい場所だった。
 清水坂から分かれて下る46段の石坂。この産寧坂から円山公園まで続く道を「二寧坂」、さらに下河原までの道を「一念坂」と呼んでいる。
 二寧坂の由来は、清水寺への参道である三寧坂の手前の坂という意味で、この名が通り名となった。「ここでつまづき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えがあるが、「坂道は気をつけて…」という警句が語り伝えられたものと思われる。「坊日誌」によると、「宝暦8年(1758)桝屋喜兵衛が、お上の許可を受けてここを開拓屋地と為す」とあり、以来この付近は桝屋町と称する。転ばぬように安産であるようにというおまじないだろう、「瓢箪(ひょうたん)」を身につけておくと厄除けにご利益があると伝えられ、産寧坂、二寧坂には瓢箪を商いにしている店が目に入る。

 一念坂のいわれは定かではないが、八坂塔から清水参道の最初の坂であるところから一念を祈願する初めの坂ということなのだろうと想像する。
 一念坂は余り観光客たちには知られず、馴染みをなくしているのは、おそらく石塀小路が隣接するためではなかろうか。
 石塀小路が作られたのは大正時代のこと。料亭や旅館が建ち並ぶ静かな落ち着いた空間。地元では「いしべこじ」と呼んでいるもので、石畳の道の曲線や、板塀の雰囲気、格子戸の入り口に飾られた気の利いた花や飾り物などが絶妙な調和を見せているからでもあろう。

 春の夜、最近始められた「花街灯」の灯りが水打ちされた石畳に映える風情は、若者たちのロマンスを駆り立てる演出にもなっている。石塀小路にある田舎亭(宿泊も可能)は、NHKの朝の連続小説ドラマ「オードリー」の舞台となった場所でもある。かつては有名映画監督や小説家が良く利用したという。産寧坂を登る手前を少し東に入り辻地蔵を過ぎると、推理小説で名を馳せた故・山村美紗の邸宅がある。

 忘れてはならない坂がもう一つ、清水焼発祥の地として知られる「五条坂」で、「茶碗(ちゃわん)坂」として親しまれている。東山山麓に向かう傾斜が登り窯に適した地形であったため、最盛期にはたくさんの窯が立ち並んでいたという。現在は山科に「清水焼団地」を作り、窯元は当地へ移っている。
 五条坂を南に入ると陶芸家・河井寛次郎の記念館がある。ここには清水焼の名手、五代清水六兵衛から譲り受け、寛次郎によって数々の造形美を生み出した登り窯が展示されている。
 京都の雨という歌があるが、一念坂から石塀小路、二寧坂そして産寧坂界隈はその雨がしごく似合うところであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「木屋町」(きやまち) 

2006年06月17日 07時22分52秒 | 古都逍遥「京都篇」
 浅瀬をくだるせせらぎも清々しく、四季折々の自然と歴史をとどめながら今も昔も変わらずに流れる高瀬川、その流れに寄り添って桂小五郎と菊松が逢瀬を楽しんだ木屋町通りが、南北に細長く続いている。
 木屋町通りは最初は樵木町(こりきまち)と呼ばれていた。その名が示すように材木や薪などが高瀬川を使って運び、周辺には木、薪炭などを扱う商家が多く建ち並び軒を連ねていたいたことから、東岸の道が「木屋町通り」と呼ばれるようになった。江戸初期・慶長16年(1611)に、京の豪商・角倉了以により人工の河・高瀬川が開削され、二条から五条まで運河を造り、京都の経済水運として活躍し木屋町は賑わいをみせた。
 四条河原町や祇園の繁華街に近いにもかかわらず街の喧噪からはほど遠く、木屋町通りを挟んで西に高瀬川、東に鴨川を控えて落ち着いた佇まいをみせている。この通は日本最初の路面電車(チンチン電車)が走った通りで、平安遷都1100年記念事業の内国勧業博覧会の会場へのアクセスとして、琵琶湖疎水による発電電力を使って走らせた。

 三条大橋の西詰めには幕府の制札場があり、そこに長州藩の罪状が記された。高札は何度も川に投げ捨てられ、新選組がその監視を命じられている。
 木屋町通りを三条に上ると、池田屋事変の際に土方隊が乗り込んだ旅館「四国屋」があった場所に出るが、現在は金茶寮という料亭になっており、木屋町通りに面した入り口には「吉村寅太郎寓居跡」・「武市瑞山寓居跡」の碑もある。
 さらに北へ木屋町通り御池上る、二条間に出ると、鴨川に添って木屋町通りを流れる高瀬川の船だまりとして港の役割をした「一之舟入」跡がある。付近には、明治維新に活躍した桂小五郎の像や長州藩邸跡、桂小五郎・幾松寓居跡(木屋町御池上ルの東側、現在は料理旅館「幾松」になっている)、大村益次郎遭難碑、佐久間象山遭難碑などがある。
 佐久間象山は、幕府の雇士として上洛し、開国を唱える一方で公武合体を説いた。攘夷派の標的となり暗殺された翌朝、象山の首は三条河原に晒された。また、大村益次郎が襲われたのは明治2年9月、木屋町の宿で鍋を囲んで仲間と歓談していたところを刺客に襲われた。刺客は、長州人大楽源太郎の客分である神代直人らであった。大村は傷を負い、高瀬川から一之舟入から舟に乗せられ、大阪まで運ばれた。傭い外国人である蘭人ボードウィンの治療を受けるが甲斐もなく死去した。

 新選組を一躍有名にした池田屋事変の舞台となった池田屋跡は、三条河原町の東側、河原町通の北側にあり、現在はパチンコ屋になっている。
池田屋石碑の寄贈者は佐々木フサで、池田屋は維新後、佐々木氏に買い取られて旅館として営業されていた。
 三条河原町の一つ手前(南)の通り(通称「龍馬通り」)の北側に酢屋(海援隊屯所跡)ある。幕末当時の酢屋は土佐藩出入りの材木商。龍馬が近江屋に移るまで酢屋の二階に潜伏していて、海援隊の屯所となっていた。
 現在、二階はギャラリーになっており、毎年、龍馬が亡くなった33歳より若い人を対象に、「龍馬への手紙」を募集し、毎年11月15日の龍馬の命日に龍馬の遺品と共にを一般公開している。

 高瀬川沿い、旧立誠小学校の前に立つ土佐藩邸跡の碑がある。当時はこの一帯が土佐藩邸であったそうで、蛸薬師通りには「土佐稲荷」もある。
 慶応3年(1867)11月、坂本龍馬が暗殺された近江屋は、四条通りと三条通りの中程にあり、今では旅行会社になっており、前に設置された石碑のみが歴史を伝えている。
 木屋町通り蛸薬師下った東側には、勤王の志士の本間精一郎が土佐藩士武市半平太の謀計により岡田以蔵により暗殺された遭難之地として石碑が立っている。

 所在地:京都市右京区木屋町。
 交通:JR京都駅から市バス17、295系統で河原町五条・四条河原町下車。
 阪急電鉄河原町駅下車東へ、京阪電鉄四条駅下車西へ徒歩5。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「実相院」(じっそういん)

2006年06月15日 11時01分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
 天然記念物に指定されている「モリアオガエル」が生息していると聞いて、愛車を走らせて出かけた。もちろん、取材に行った初春の時期では、モリアオガエルなど見られるものではないと分かっていたが、保護地区以外ではめったに見ることができない貴重な蛙であることから、その存在を確かめておきたいという気持ちもあった。と同時に洛北のさらに奥地にある「実相院」は格式のある門跡寺院であり、明治維新に活躍した岩倉具視の幽棲別邸も近くにある。
 ここを訪ねたのは、久しぶりであった。四季の写真を撮りにきた頃は、モリアオガエルの存在など知る由もなかった。

 実相院は寛喜元年(1229)に洛中の今出川に創建され、大納言鷹司兼基の子静基僧正をその開基とした。現在地に移築されたのは応永18年(1411)。その前身である実相房は園城寺(三井寺)内にあるとされている。書院前の石庭は竜安寺を思わせる見事なもので、比叡山系を望む借景は雄大である。この庭の池にモリアオガエルがいるという。特に私の目を引いたのが、狩野永敬をはじめとする狩野派の124面にもおよぶ見事な襖絵が圧巻であった。現在、修復中のものがあり全てを鑑賞することができなかった。現基から辿れば千年もの歴史をもつ実相院は、格式の高い文化遺産が豊富にあり、古びた院内のそこかしこに見ることができる。

 春は紅糸枝垂桜、秋は石庭を覆う紅葉が自然と溶け合い、訪れる我々をしっとりと包み込んでくれる世界がここにある。テレビCMの背景としても使われていた。

 交通:叡山電鉄岩倉駅より徒歩15分。地下鉄北大路駅前から市バス28で約20分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「十輪寺」(じゅうりんじ)

2006年06月14日 18時44分03秒 | 古都逍遥「京都篇」
 平安時代の歌人で「伊勢物語」の主人公在原業平がその晩年晩年に隠棲し、塩焼きの風流を楽しんだと伝えられる、当地「小塩」の地名はこの故事に由来している。境内の裏山に業平墓、塩竈の跡、飛地境内に汐汲池がある。

 「大原や小塩の山も  けふこそは 神代のことも  思ひ出づらめ」

 秋ともなれば古木の業平紅葉が境内一面を染め、鳳凰が羽を広げているかと見まがうほどである。 洛西の大原野を善峯寺に向かって緩やかな小道を登っていくと人目につきにくい楓の杜に囲まれてひっそりと佇む十輪寺(通称業平寺)。嘉祥3年(850)文徳天皇の御后染殿皇后(藤原明子)の世継誕生を祈願し、その願いがかない、後の清和天皇が誕生した。このことから文徳天皇勅願所となった。その後、藤原北家(花山院家)が帰依し、一統の菩提寺となった。 
 
 創建当時の本堂は応仁の乱で焼失し、寛延3年(1750)に再建された。美しいカーブを描く屋根は鳳輦形という御輿を型どった大変珍しく一見の価値がある。また、内部の天井の彫刻にも独特の意匠が施され文化財に指定されている。 小庭園は三方普感の庭と称し、寛延3年に右大臣藤原常雅公が本堂を再興した折に造成したもので、高廊下、茶室、業平御殿の3ヶ所から形を変えて見ることができ、「心の庭」として地元の人々から親しまれている。 
 春は業平桜が鳳輦形屋根を覆い、秋はオレンジ色の業平紅葉が土塀を彩る。紫陽花の時期もよく、四季折々を楽しませてくれる。

 交通:阪急京都線、東向日駅から阪急バス小塩行、小塩下車。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「高瀬川」(たかせがわ)

2006年06月13日 21時35分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
高瀬川は、慶長16年(1611)に方広寺大仏殿(慶長9年に焼失)の再建のため、豊臣秀頼の命により豪商角倉了以・素庵父子によって資材運搬用に開削された。一説には、徳川家康が豊臣家の資力を削減させるために行わせたとされている。この川で用いる舟を高瀬舟といった。
 高瀬川運河は角倉家に委託された慶長19年から大正9年の長きにわたって、角倉家の経営のもとで京都の経済ルートの中心的役割を果たした。
 二条から五条にかけて七つの船入り(荷物の積みおろしをするための船だまり)があり、川筋に並んだ問屋は隆盛をきわめたといわれている。そのうち、起点・二条の一之船入跡は国の史跡として保存されている。
 現在、高瀬川沿いは夜のネオン街として若者やサラリーマンたちに親しまれており、新選組に登場する月形半平太の「月さま、雨が」という名台詞が似合う風情は見ることもできない。毎年9月23日には、地元の人たちによって「高瀬川舟まつり」が開かれ、川に浮かぶ高瀬舟の試乗も行われている。
 
 起点となる取水口は、東一条通付近にある鴨川の堰の横に位置し、取水された「みそそぎ川」はしばらく鴨川の河川敷の下を流れた後、丸太町通を過ぎたあたりで姿を現し、二条通南側で高瀬川と分岐する。
 高瀬川と分岐したみそそぎ川は一部鴨川に水を落とし、ゆっくりと南へくだり、京都の繁華街の中心地の鴨川河原のそばを静かに流れていく。
 また、分岐点南側から松原通付近まで、夏になると納涼床がみそそぎ川に設けられ、京の夏の風物詩になっている。納涼床は江戸時代にまでさかのぼることができる京都の伝統的町衆文化で、かつては鴨川に設けられていたが、大正期の河川改修で設置先がみそそぎ川に変更された。
 四条通を過ぎたあたりになると鴨川の河原も閑散とし、みそそぎ川も目立たぬように五条大橋そばで鴨川へと帰っていく。そしてみそそぎ川から分岐した高瀬川は、高瀬川源流庭苑へと流れる。同庭苑は高瀬川開削に携わった角倉了以の旧別邸にあった庭園で、現在は「がんこ高瀬川二条苑」(飲食店)になっており、別邸庭園の頃にはモデル撮影会などでも使われ、私も2度ほど撮影に出向いたことがある。この庭苑を抜けると高瀬川は一之舟入跡(いちのふないり)に出る。
 
 一の舟入から高瀬川は木屋町通に沿って南に向かって流れ、五条通に続く。五条通を過ぎると木屋町通沿いに流れ、生活に溶け込んだ素朴な川の姿となり、新幹線・JR線の線路をくぐると、高瀬川は普通の都市河川の光景となる。

 所在地:京都府京都市中京区。
 交通:京阪本線三条駅下車、徒歩10分、市バス「河原町御池」下車、徒歩5分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「京都府立植物園」(きょうとふりつしょくぶつえん)

2006年06月11日 18時21分30秒 | 古都逍遥「京都篇」

 京都市北部の平坦地に位置し、東は比叡山、東山連峰を望み、西に加茂の清流、北は北山の峰々を背景とした景勝の地にある「京都府立植物園」は、京都府開庁100年記念として、大正6年(1917)に着工し、同13年1月1日に一般有料公開された。

 戦後、昭和21年(1946)から12年間連合軍に接収され、昭和36年(1961)4月、憩いの場、教養の場としてその姿を一新し、再び公開した。再開後も園内整備事業を推進し、昭和45年(1970)に「日本の森」を、56年には、「洋風庭園」を造成した。最近では平成4年(1992)4月に「観覧温室、「植物園会館」を竣工、12月には「北山門」を完成するなど、名実ともに日本の代表的な植物園となっている。

 園内の南半分には、正門付近の一年草を中心とした四季の草花が鑑賞できる正門花壇、世界の熱帯植物の生態系に基づき、一巡すると熱帯の数々の植生が鑑賞できる観覧温室、さらにはバラを中心とした造形花壇、噴水や滝のある沈床花壇よりなる洋風庭園などの人工的な造形美で構成されている。 これに対し、園の北半分には、園内唯一の自然林であるなからぎの森や日本各地の山野に自生する植物をできるだけ自然に近い状態で植栽した植物生態園、およびその周辺地域は、わが国の風土に育まれ、古くから栽培されてきた桜、梅、花菖蒲などの園芸植物や竹笹、針葉樹などを植栽した日本の森として、より自然
的な景観を形づくっている。また、北西部には宿根草・有用植物園などがあり、園内には約12000種類、約12万本の植物が植えてある。

 中でも私が好きな所は「なからぎの森」。
大小四つの池に囲まれた、なからぎの森は古くから、流れ木の森ともいわれ、ここ下鴨の地に残された山城盆地の植生をうかがい知ることのできる園内唯一の貴重な自然林です。ニレ科の落葉樹であるエノキ、ムクノキ、ケヤキの古木やシロダモ、カゴノキ、シイ、カシ類の常緑樹が混生する森の特徴が見られる。春の芽出しの美しさ、緑陰の涼しさ、秋の紅葉、冬木立の静寂さなど落ち着いた森の雰囲気は入園者の憩いの場、思索の場となっている。
 森の広さは約5、500平方㍍で、中ほどには、この地域の鎮守の森の社であり、また京都の伝統産業である西陣織の神を祀った半木神社の小さな社がある。また、池の周りはカエデ類が多く、池に映えた色彩は非常に美しく、特に秋の紅葉は水辺に紅の影を映しこみ美しい静寂をかもし出す。

 入園料は一般200円、高校生150円、小・中学生80円。

 所在地:京都市左京区下鴨半木町。
 交通:JR京都駅(阪急「烏丸」駅)から地下鉄「北山」駅 又は「北大路」駅下車、京阪出町柳から市バス1号系統・京都バス「植物園前」下車。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする