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「上御霊神社」 (かみごりょうじんじゃ)

2006年03月22日 23時10分48秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都は映画、テレビの舞台に多く登場し、読者の皆さまにも馴染み深い場所が映像に中で見られることだろう。
 撮影場所として使われる筆頭が嵯峨「大覚寺」、東山「南禅寺」、祇園新橋「辰巳神社」、御室「仁和寺」、八幡木津川「流れ橋」であろう。
 ところが観光で訪れる人たちがあまり知らない撮影の名所が「上御霊神社」である。
 京都御所の今出川御門から同志社大学の間を北へ抜けて行くと相国寺に突き当たる。寺域を抜けて少し北へ、曲がりくねった路地を歩くと当社がある。
 当社は、平安遷都にあたり延暦13年(794)桓武天皇が平安京の守り神として早良親王(崇道天皇)の神霊を祀ったのが始まりとされている。当時天変地異や疫病の流行があいつぎ、それは高貴の人々の祟りであるとされ、その人々の御霊を丁重に祀ることによって、災いをなくそうという御霊信仰が盛んになった。そしてその祭りを御霊会(ごりょうえ)といい、京都の夏祭りの多くは御霊会だが、当社の祭礼はその発祥である。

 歴史の長い京都には多くの怨霊が存在し、それらを鎮める祠もまた数多く、中でも特に強い怨霊を八つ祀る神社として知られる。そしてこの八霊を指して八所御霊とも呼ばれている。長岡京遷都に関連して起こった藤原種継暗殺事件に関わったとして幽閉され死去した廃太子早良親王。平城天皇即位に際して謀反の疑いを受け自殺した伊予親王と、その母の藤原吉子。皇太子恒貞親王を擁して謀反をはかり、伊豆に流された橘逸勢。これに続いて謀反の罪に問われ同じく伊豆に流された文室宮出麻呂。九州に左遷後反乱を起こして殺された藤原広詞。この六座の祭神と吉備真備と菅原道真の二座神を勧請した八祭神が、八所御霊として今も祀られている。

 また当社は、京の町を焼き尽くした応仁の乱の発端の地としても知られている。
 当社において、畠山政長と畠山義就のいとこ同士の衝突で始まり、東軍と西軍に2分された戦乱が京の町々、多くの由緒ある寺社を焼き尽くすことになる。応仁の乱の西軍の陣地となったことから、この界隈を「西陣」と称するようになり、京都の代表的織物、西陣織はこの地域の名前から由来している。
本殿は享保18年(1733)、内裏賢所御殿の遺構を昭和48年に復原したもので、四脚門(南門)は伏見城のものを移築したと伝えられている。楼門(西門)は寛政年間(江戸中期)に再建された。絵馬所は宝暦年中(江戸中期)内裏賢所権殿を絵馬所に造り改めたもので、皆川淇園(きえん)、小林雪山など著名な画師の作品がかけられている。
 西門を入った左手に「半日は神を友にや年忘れ」と刻まれた句碑があるが、松尾芭蕉が元禄3年(1690)に当社を参詣した折に奉納したとされている。

 さて、「上」とあるからには「下」もある訳で、下御霊神社は御所の南東の所にある。
「下御霊神社」は、大同2年(807)藤原仲成の陰謀の犠牲となり川原寺に幽閉され自殺した桓武天皇第三皇子伊予親王と、その母藤原吉子の霊を慰めるため、承和6年(839)出雲路に創建された。上御霊神社とともに皇室の産土神として崇められる。現在地に移ったのは豊臣秀吉の都市改造によるもので天正18年(1590)のことである。本殿は、寛政2年(1790)宮中の賢所御殿を移築した。また表門は皇居の建礼門を移したものという。
 さて、映画・テレビドラマとして登場する場面を少し紹介しておくと、長七郎天下ご免! では初回の「日本晴れ大江戸囃子」で、祭礼の神田明神として使われ、暴れん坊将軍吉宗評判記「16勝負に散った恋」では、富岡八幡宮として使われている。水戸黄門31「商売繁盛笹もってこい」では、兵庫の柳原蛭子神社として設定され、裏手と稲荷が、えべっさんの混雑を避けて話す老公の場面に使われてた。

 所在地:京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495番地。
 交通:市バス37系統出雲路俵町徒歩10分。
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