「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「神護寺」(じんごじ)

2006年11月24日 17時56分05秒 | 古都逍遥「京都篇」
 ひんやりとした空気に包まれている高尾山麓、周山街道から木々の緑が清々しい谷間に降りると、緑を映して流れ行く清滝川の清流が瑞々しい。清滝川を結界とし、勾配のある参道を息も絶え絶えに登ると、樹齢数百年と思われる楓や檜たちが出迎えの沐浴をしてくれる。
 石段を上り詰めた先に楼門が見える。鎌倉文化の匂いがたちこめる山内は、約20万平方キロ(6万坪余り)といわれ木々の緑におおわれている。秋は紅葉(高尾紅葉)の名所として知られ大勢の人たちが訪れ、紅葉の天ぷらに舌鼓を打つすがたがそこかしこに見られる。

 神護寺は真言宗の山寺で、天応1年(781)僧慶俊を本願とし和気清麻呂(わけのきよまろ・平安京造営の最高責任者)を奉行として草創された愛宕五坊の1つで和気氏の氏寺であった。天長元年(824)、河内の神護寺と併合されて神護国祚(そ)真言寺とした。大同4年(809)空海(弘法大師)が入山、14年間常住し初代住職となる。

 空海は弘仁3年(812)に灌頂(密教で秘法を伝授する重要な儀式)を修した。このとき灌頂を受けた者の名前を空海が控えた記録が寺に残されており、歴名の筆頭に最澄の名がある。空海はその後何度かこの寺で灌頂を修し、神護寺は真言密教の重要な道場となり、平安新宗教の1拠点として栄えた。合併の2年前には最澄が没し、前年には比叡山寺が延暦寺と改称し、同年には東寺を教王護国寺と改め、空海は高野山に移り、空海にかわって弟子の真済(しんぜい)が神護寺に入り、真言密教化をさらに進めて空海の影響力が強大となっていったが、正暦5年(994)、久安5年(1149)と2度の大火により神護寺は衰退する。
 その後、那智の滝をはじめ諸国行場で荒行をつんだ文覚上人が仁安3(1168)神護寺を訪れ、その荒廃を嘆いて再興を大願。寿永3年(1184)、源頼朝の援助を受け復興を果たす。

 平家物語によれば文覚は、管弦が行なわれている席で勧進帳を読み上げ、後白河法皇に寄進を誓願。警護の武士と乱闘を起こし罪を負うが、それにも懲りず寄進を求めたため伊豆に流された。
伊豆流罪5年後の治承2(1178)に赦されて神護寺に帰り、ふたたび後白河法皇に訴え、伊豆流人時代親交を深めた源頼朝の後ろだてもあり、寄進を受けるのに成功し、大規模な伽藍の復興を実現した。
 しかし、応仁の乱(1467~77)で大師堂を残して焼失、その後、天文16年(1547)の兵火によってことごとく炎上した。元和9(1623)龍厳上人のとき、楼門、金堂(現在の毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興、昭和10年(1935)山口玄洞の寄進で金堂、多宝塔が新築され現在の形になった。

 文覚上人は出家前は遠藤盛遠(もりとう)という武士であった。
 芥川竜之介の短編小説「袈裟と盛遠」、衣笠貞之助の映画「地獄門」でも描かれているように、盛遠には、横恋慕をした源渡の妻、袈裟御前に夫を殺してくれと頼まれ、殺してみればそれは実に夫の身代りになった袈裟御前であった。
 愕然とした盛遠、世を儚んで出家したという話が伝わる。弟子には文覚上人を師として生涯離れなかった学僧浄覚上人、栂野尾高山寺を興した明恵上人らがいる。

■楼門:仁王ではなく、四天王のうちの増長天、持国天が安置されている。藤原時代の作 といわれている。

■両界曼荼羅(国宝):現存最古の両界曼荼羅遺品で、空海が中国(唐)長安の青龍寺に て師の恵果より付法の証として授与され、大同1年(806)に日本に持ち帰った。原 本は早くに損傷を受け、空海が転写したと伝わるが、いずれも失われている。
 現在伝わる高雄曼荼羅は、神護寺略記によると、淳和天皇御願により制作されたという。天長年間後半(829-34)の制作になると推定され、当時神護寺に携わっていた空 海がかかわっていたと考えられている。

■平重盛像、源頼朝像、藤原光能像(いずれも国宝):日本の肖像画の代表的傑作とされて いる。

■了々軒:奴葺(やっこぶき)の大屋根に銅板葺の深い庇の八畳広間の茶席で、山口玄洞の寄進。五畳の水屋、四畳半と三畳の控室が付設。

■大師堂:徳川時代初期に再建されたもので細川忠興が造営したといわれる。
 桁行左側面四間、右側面五間、梁間三間という変則的な柱配置を持つ。一重入母屋造柿 葺。内陣は広く、四本柱は外周の柱筋とは無関係に立てられている。後部壁面中央には 桟唐戸を吊った円柱により厨子を入れた小室がつくられている。

■金堂:昭和10年(1935)山口玄洞の寄進で新築。内陣厨子のなかには本尊薬師如 来立像が安置され、薬師如来像は神願寺以来の本尊で平安初期、貞観時代の彫刻の最高 傑作とされる。如来形でありながら三屈法(頭と上半身と下半身を三段に屈折させた、 インド彫刻によく見られる形)をとる日本唯一の仏像例。

■本堂:金堂が再建されるまでここが金堂と呼ばれ、本尊薬師如来像を安置していたが、 現在は毘沙門天立像(重文)が安置されている。元和9年(1623)に始まる江戸時 代の復興期の建築。

■梵鐘:銅鐘(国宝)は三絶の鐘と呼ばれ、日本3名鐘の1つに数えられる。
 金堂を出たら、趣深い杉や紅葉などの木々を通り抜けて、見晴らしよい茶屋の近くへ。
 清滝川を眼下に見下ろし、絵に描いたような景色が広がる。歌謡曲の歌詞にもあったが “とんびがくるりと輪を描く”のも見える。ここでは平安貴族が厄除けの願いを込め  て、瓦を投げたという言い伝えにちなんで、茶屋で2枚100円にて買い求め、見晴ら し台から投げることができる。鳶を追いながら飛んでゆく瓦、なかなか痛快だ。
 なお、毎年5月1日から5日まで、宝物の虫払いが行われ、屋内に広げられる宝物を見 学できる。通常参拝とは別料金。

 所在地:京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町5。
 交通:JR「京都駅」から「高雄方面行」のJRバス約50分「山城高雄」下車、徒歩20~30分。
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「北野天満宮」(きたのてんまんぐう)

2006年11月19日 22時05分04秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこのほそ道じゃ 天神さまのほそ道じゃ・・・」と童歌にもうたわれ、古き時代より親しんできた天神さま、全国つづ浦々に心のよりどころとして祀られているのが、菅原道真の霊を鎮め「神格」として崇めた「社」である。
 この天神さまの宗祀とされる北野天満宮は、国を鎮め守る神として平安時代中期、多治比文子らによって北野の右近馬場に菅原道真の御霊を祀ったのが始まりとされる。

 菅原道真は「和魂漢才」の精神を以って学問に勤し、幼少の頃より文才を表し、朝廷の官吏として活躍した。延喜3年(903)2月25日、無実の罪で大宰府(福岡県)に流された。疑いも晴れぬまま太宰府の配所で無念の死を遂げた。その後、都において疫病が流行り天変地変が襲った。朝廷や民衆は道真の祟りだと恐れ、天暦元年(947)御神霊の慰霊と皇城鎮護の神として北野の地に祀った。

 永延元年(987)一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得た。寛弘元年(1004)の一条天皇の行幸を初めてとし、代々皇室の崇敬を受け、江戸時代には寺子屋の精神的中心として道真の分霊が祀られるなど、「天神様」として親しまれ、以来学問の神様としての信仰は現在に至るまで受け継がれている。

 国宝の指定を受ける本殿は慶長12年(1607)、豊臣秀頼が造営したもので、この時作られた中門、東門、絵馬堂、神楽殿、校倉等も現存している。また、この社殿造営は、豊臣秀吉の遺志であったと伝えられている。
 社殿は八棟造と称され、総面積約500坪の雄大な桧皮葺屋根を戴くその威容は、造営当時そのままに絢爛豪華な桃山文化を今に伝えている。この8棟造りといわれる屋根は日光東照宮にも継承されている。

創建以来、公家や武家さらに商人たちの信仰も厚かったことから当宮には数多くの宝物が奉納され伝えられ、中でも、国宝「北野天神縁起」は数ある同類の内で、根本縁起といわれ、絵巻物の中では特に優れた作品として高い評価を得ている。歴史上貴重な『日本書紀』、それに北野社史など古文書類もおびただしい数にのぼっている。また、明治天皇もご覧になった鬼切と呼ばれる太刀、豊臣秀頼が寄進した堀川国広作の名刀、加賀藩主前田家から50年目毎に大萬燈祭に奉納された刀剣等、さらに京都を舞台として活躍した画家や工芸作家の絵馬・蒔絵硯箱・屏風や茶道具類なども伝存し、収蔵品の幅が広いことを物語っている。またその多くは重要文化財に指定されており、優れた文化遺産を通じて日本の美の伝統に触れるのもよいだろう。
 また境内のいたるところにある牛の像は、菅原道真が亡くなったのが丑の年、丑の日、丑の刻というところから奉納されたもので、この牛の頭をなでると頭が良くなると信じられているところから、いつも人の手で磨かれ、まぶしいほどに輝いている。また梅の名所としても名高く、梅花祭(道真の命日にあたる2月25日)には上七軒の芸妓・舞妓により、艶やかな野点が行われる。また、毎月25日には"天神さん"と呼ばれる縁日があり露店や骨董品店などで賑わいを見せる。

交通:JR京都駅より市バス50・101系統、地下鉄二条駅より市バス
8・55系統。京阪三条駅より市バス10系統。
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「野宮神社」(ののみやじんじゃ)

2006年11月17日 11時15分05秒 | 古都逍遥「京都篇」
 渡月橋から北へ約10分、西に進む細い道を入っていくと竹やぶに入り、さらにしばらく歩くとやがて野宮神社に到着する。

「野の宮 黒木の鳥居傾ぷきて 秋風寒し下嵯峨の里」(尾上紫舟)。

 野宮はその昔、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王(皇女、女王の中から選ばれます)が伊勢へ行く前に身を清めたところ。 (「野々宮神社」とも書くが正しくし「野宮神社」と称する。)
 嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、樹皮のついたままのくぬぎ原木を使用した日本最古の鳥居の様式といわれる「黒木鳥居」と小柴垣に囲まれ平安の風情を今に伝えており、源氏物語「賢木の巻」に美しく描写されている。
 六条の御息所と娘の斎宮の伊勢下向が近づいてきた9月下旬に光源氏は野宮を訪ね、別れの歌を交わす。

「神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがえて折れる榊ぞ」(六条御息所)
「少女子があたりと思えば榊葉の香を懐かしみとめてこそ折れ」(光源氏)

 生き霊となって他の恋人達を呪い殺してまでも愛しぬいた光源氏との別れを、しみじみと歌で綴ったもの。
 野宮の場所は天皇の御即位毎に定められ、この場所が使用されたのは平安時代のはじめ嵯峨天皇皇女仁子内親王が最初とされている。斎王制度は後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶した。その後は神社として存続し、勅祭が執行されていたが、時代の混乱の中で衰退し、そのため後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が下され保護に努めた。
 「斎宮(斎王)」とは、天皇が新たに即位するごとに、天照大神の御杖代(みつえしろ)として伊勢神宮に遣わされた斎王(未婚の内親王もしくは女王)のことで、飛鳥時代の天武天皇の頃にはすでに確立されており、南北朝時代の後醍醐天皇の頃までおよそ660年間、64人の姫君が遣わされていたと伝えられている。

 縁結びや、進学の神様として若い女性や修学旅行生にも人気を集めており、社務所では源氏物語をモチーフにした開運・招福のお守りを1000円で授けている。また、神社周辺の竹は「野の宮竹」と呼ばれており、主に工芸品などに利用されている。

 所在地:右京区嵯峨天龍寺立石町3。
 所在地:京福嵐山駅から徒歩5分、四条河原町より市バス11系で野々宮下車すぐ、阪急嵐山線嵐山駅徒歩12分。
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「滝口寺」(たきぐちでら)

2006年11月15日 00時33分08秒 | 古都逍遥「京都篇」
 滝口寺は、嵯峨の小倉山の麓にある。念仏房良鎮(りょうちん)上人(法然の弟子)によって創建された往生院の子院、三宝寺の旧跡。念仏道場として栄え、往時の境内は広く多くの坊があったと伝えられている。その後、応仁の乱などの戦火で都の多くの社寺が焼失したが、三宝寺は免れていた。しかし、明治維新で廃寺となり隣接する祇王寺の再建に続いて再建された。
 寺名の滝口寺は、平安物語「維盛高野」の巻で語られている滝口入道と横笛に由来する。滝口入道とは、宮中警護に当たる滝口(清涼殿の東北の詰所)の武士・斉藤時頼(さいとうときより)のこと。建礼門院に仕えた横笛と恋に発展したが、父に厳しく叱られたことで自責し仏道修行をしていたのがこの寺。滝口の出家を知った横笛が、自分の真の気持ちを伝えたく尋ねて来たが、会えることなく追い帰されたという悲恋の地。

 滝口寺の表門は、祇王寺の横のなだらかな石段を登り詰めた所。表門を潜り、本堂へ向う石段の途中に「滝口と横笛歌問答旧跡 三宝寺」(「そるまでは恨みしかとも梓弓 まことの道に入るぞ嬉しき」(滝口)。「そるとても何か恨みむ梓弓 引きとどむべき心ならねば」(横笛)。)と刻まれた歌碑がある。

 修行の妨げと追い返された横笛は、泣く泣く都へ帰るが、真の自分の気持ちを伝えるため、近くの石に「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け」と指を斬り、その血で書き記したと伝える石がある。石は苔が覆い、横笛の悲痛な思いを今も留めて。
 滝口入道はその後、高野聖となり元暦元年(1184)、紀州の勝浦においての平維盛の入水に立ち会っている。

 石段をさらに登ることしばらく、視界が広がり本堂となる。本堂の縁に座り庭を眺めると、カエデと竹林がひろがり、秋には見事な紅葉が見られることが想像できる。奥には、竹林に隠れるように滝口入道と平家一門の供養塔が建っている。
 本堂へ上がると滝口入道と横笛の木像が並べて祀られている。鎌倉時代の作で、眼が水晶と聞く。順路に従い、本堂脇の竹林の路を進むと表戸を閉ざした古びた堂と出会うが、それは平重盛を祀った「小松堂」で、さらに進むと表門となる。
 表門のすぐ右奥(表門に向い)に鎌倉幕府を倒した悲運の武将・新田義貞の首塚がある。越前(福井県)で足利尊氏との戦いで討たれた新田義貞の首は、後に京の三条河原で晒しものにされている。それを知った妻・勾当内侍(こうとうのないし)は、夫の首を密かに盗み出しここ嵯峨野に埋葬し、出家して夫を弔い生涯この地で暮らしたという。その勾当内侍の供養塔も傍にある。
 この辺り、祇王寺など名刹が多く紅葉の美しい所ですが、何故か当寺の紅葉が早く色づく。

 「山深み思い入りぬる芝の戸の まことの道に我れを導け」(横笛)

 所在地:京都府京都市右京区嵯峨亀山町10-4。
 交通:JR京都駅より京都バス大覚寺行、嵯峨釈迦堂前より徒歩15分。
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「法然院」(ほうねんいん) 

2006年11月14日 00時57分20秒 | 古都逍遥「京都篇」
正式名称は善気山法然院萬無教寺(ぜんきさん ほうねんいん ばんぶきょうじ)。
鎌倉時代初期(年代不詳)、法然上人が弟子の住蓮・安楽と共に六時礼讃(ろくじらいさん・昼夜6度にわたって阿弥陀仏を礼拝・賛嘆すること。謡曲のように節をつけて念仏する)を唱えた草庵が始まりと伝えられる。

 建永元(1206)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、女官松虫姫・鈴虫姫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。江戸時代初期の延宝8年(1680)、知恩院第38世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂(にんちょう)上人によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。

 浄土宗内の一本山であったが、昭和28年(1953)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となり現在に至っている。通常伽藍内は非公開であるが、毎年、4月1日から7日までと11月1日から7日までの年2回、伽藍内部の一般公開を行っている。
 本堂は延宝9年(1681)5月に客殿造りの堂宇がまず完成し、貞亨5年(1688)再建の時、佛殿と拝殿を別設した。堂内には、恵心僧都作と伝わる本尊阿弥陀如来坐像の他、観音・勢至両菩薩像、法然上人立像、萬無和尚坐像を安置している。本尊前の須弥壇(しゅみだん)上には、二十五菩薩を象徴する25の生花を散華している。本堂正面の石段上にある地蔵菩薩像は、元禄3年(1690)、忍澂上人46歳の時、自身と等身大の地蔵菩薩像を鋳造させ安置したという。

 苔むした趣のある数奇屋風の茅葺の山門をくぐると、緑深い境内へ。両側には白い盛り砂の白砂壇(びゃくさだん)があり、水を表す砂壇の間を通る事は、心身を清めて浄域に入ることを意味している。住職の話では、白砂壇に描く図柄は水の流れとともに、四季の移ろいをも表現しているという。取材の時は水面に落ちる5月雨の波紋が描かれていた。
 白砂壇の右手に講堂があるが、もとは元禄7年(1694)建立の大浴室であった。昭和52年(1977)に内部を改装し、現在は講堂として、講演会・個展・コンサートなどに利用されている。
 方丈は貞亨4年(1687)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(文禄4年・1595建築)を移建したものである。方丈内の狩野光信筆の襖絵(重要文化財・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている(夏期は収蔵庫に保管)。
 方丈庭園は、中央に阿弥陀三尊を象徴する三尊石が配置された浄土庭園で、中興以来、清泉「善気水」が絶えることなく湧き出ている。

 経蔵は元文2年(1737)の建立で、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天像と韋駄天像を安置しており、多数の経典の版木を所蔵している。
 特別公開時期にあたる4月、本堂北側の中庭には、三銘椿(5色散り椿・貴椿・花笠椿)が美的な配置を施して植えられており、鮮やかで気品のある三銘椿が香りを競うごとく咲いている。回廊からのポイントが写真愛好家にとってははずせない。花期は3月下旬から4月中旬。
 非公開期以外でも境内は自由に拝観できるものの、檀家の法要が行われていることが多く、本堂・方丈の方には入れないことが多い。
 小鳥達のさえずりが響く閑静な境内、京の名水が湧く「善気水」の水音も心地よく、四季の花の香りが漂う中、境内奥にある谷崎潤一郎や河上肇など学者・文人のお墓を参るのもよい。

 所在地:京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町。
 交通:JR京都駅から市バス5・17系統で、浄土寺下車、徒歩15分。
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「宝筐院」(ほうきょういん)

2006年11月11日 07時39分52秒 | 古都逍遥「京都篇」
 小さな木戸をくぐると、そこは「紅の世界」が広がっていた。深紅の楓が天地を覆い尽くし、炎に包まれたかと錯覚するほどである。
 そこは、嵯峨野の一角にある小さな寺院。紅葉の美しさに定評のあるこの寺院は、「知る人ぞ知る」といった感じの紅葉寺であったものだが、テレビで紅葉を紹介されて以降、シーズンには列をなす人気スポットと化した。カメラを愛用している人は、三脚・一脚を持っているだけで中には入れてもらえない。

 「宝筐院」は、元は「善入寺」と称して、白河天皇創建の勅願寺で、鎌倉時代まで皇室から住持がでていた。室町初期は衰退していたが、夢窓国師の高弟黙庵禅師が中興してより臨済宗となった。室町幕府二代将軍足利義詮が黙庵禅師に帰依して伽藍は整い貞治五年(1366)に観林寺に改名したが、もとの善入寺に戻した。その翌年に義詮が38歳の若さで世をさって、当院は義詮の菩提寺となり義詮法号をとって宝筺院と改めた。
 応仁の乱以後は、幕府の衰えと共にお寺も衰微し、寺領も横領されるなど、経済的にも困窮していたという。その後、江戸時代の宝筐院は天龍寺末寺の小院で、伽藍も客殿と庫裏の2棟のみとなり、幕末には廃寺となったが、五○数年を経て復興された。

 庭の奥へと進むと「小楠公首塚」がある。
 黙庵は、河内の国の南朝の武将楠木正行(くすのき・まさつら)と相識り、彼に後事を託されていた。正平3年・貞和4年(1348)正月、正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦い討ち死し(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。後に、この話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒め称え、自分もその傍らに葬るよう頼んだという。明治24年(1891)、京都府知事北垣国道は小楠公(楠木正行)の遺跡が人知れず埋もれているのを惜しみ、これを世に知らせるため、首塚の由来を記した石碑「欽忠碑」を建てた。向かって右が楠木正行の首塚、左が足利義詮の墓。墓前の石灯籠の書は富岡鉄斎によるものである。

 また、楠木正行ゆかりの遺跡を護るため、高木龍淵天龍寺管長や神戸の実業家の川崎芳太郎によって、楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興が行なわれた。旧境内地を買い戻し、新築や古建築の移築によって伽藍を整え、屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦を用い、小楠公ゆかりの寺であることをしめした。大正5年に完工し、古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を本尊に迎え、主な什物類も回収され、宝筐院の復興がなった。その後、更に茶室が移築され、現本堂が新築された。
 書院から本堂の南面は、白砂・青苔(杉苔)と多くの楓からなる回遊式の枯山水庭が広っている。本堂の西側、かつての仏殿跡一帯は真竹の竹林で、清楚な環境に包まれている。(昨秋の綴り)

 所在地:右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1 
 交通: 市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」、徒歩3分、JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」駅、徒歩10分、阪急電鉄嵐山線(京都線)「嵐山」駅、徒歩20分。
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「無鄰菴」(むりんあん)

2006年11月09日 10時28分57秒 | 古都逍遥「京都篇」
京都五山の別格と位置づけられた南禅寺の参道沿いの水路を永観堂に向かって、北に上がって岡崎の方向に西に歩を向けると、人目につきにくい「無鄰菴」としるした表示板が目に入る。やや入り組んだところにあるため、ほとんどの観光客が通り過ぎてしまうほどの隠れた名所となっているのが、明治の元勲、山県有朋の別荘であったこの庵である。
 元々は高瀬川を開削した豪商角倉了以が建造した別邸であったが、後に山県有朋が買い取り、無鄰庵と名付けたものである。

 無鄰菴を名高くしたのは、ここの洋館で1903年に、日露戦争直前の外交方針を決めるため山県有朋をはじめ、政友会総裁伊藤博文、桂太郎首相、小村寿太郎外相が集まり、世にいう「無鄰菴会議」が開かれた所からである。
 庭内には母屋、茶室、洋館が並び、その洋館の2階にある「無鄰庵会議室」は見学が許されているが、窓は閉め切られ、薄暗く、写真撮影も許可されているがフラッシュは禁止されている。
 作庭は、疎水を取り入れた庭づくりには定評がある小川治兵衛の手によるもので、曲線を描いて疏水の水を引き入れた池泉廻游式である。1941年に京都市に寄贈され、51年には明治時代の名園として国の名勝に指定された。
 京都の古い作庭法を嫌っていた山県は、全体の構成をはじめ、かなりの細部にわたって指示を出したと伝えられている。その1つに、小川治兵衛を主屋1階の(茶室は非公開)
部屋に呼び、「正客になったつもりで床の前に座りよく庭を見るがよい」と
言ったとか。

 小堀遠州が好んで作庭した、枯山水や蓬莱山をいただく池泉廻游式の宗教的な印象はなく、どちらかというと日本の原風景を漂わせるのどかな田園風景のような作法がとられている。東山を借景とし、その山すそから小川のせせらぎとなって、田畑の間を流れてきた光景を醸し出している。おおらかで飾り気のない自然美に溢れている。新緑の頃か紅葉の時節に訪ねられると一層、その作庭の意図を偲ぶことができるであろう。

 所在地:京都市左京区南禅寺草川町31。
 交通:地下鉄東西線蹴上駅より北西へ徒歩7分。
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「嵐山」(あらしやま)

2006年11月08日 07時36分34秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都の名勝といえば「嵐山」と誰もが答えるほど全国に知られている所。
 私も春、秋に一度は訪れ写真撮影を楽しむのだが、あまりの観光客の多さに、駐車場の確保が難しく敬遠しがちになった。
 しかしながらスケールの大きい風景と流麗な大堰川は疲れた心を充分に癒してくれることは間違いない。春は桜、夏は鵜飼舟と川面の涼風、秋は紅葉、冬は純白の衣をかけた嵐山の雪景色、四季折々の景観は日本を代表する名勝地であろう。

 京都府下の亀岡市から川下り舟が出るが、嵐山に入るまでを「保津川」といい、「保津川下り」として知られている。小舟を浮かべ湖のような穏やかな一帯を「大堰川」といい鵜飼が繰り広げられる。渡月橋を越えると「桂川」と名を変え、悠久の流れを大阪湾までそぎ込む。途中、石清水八幡宮で知られる八幡市付近で宇治川と木津川と合流し淀川となる。

 さて、嵐山の歴史を紐解いてみることにしよう。
 嵐山地域は川向いの嵯峨野にくらべ静かに発展していった地域だった。松尾山、嵐山の山麓は桂川右岸沿にまで広がっていたために、上地は狭く荒れていた。「山城名跡巡行志」によれば、罧原の堤から西を眺めた文に「北は愛宕山、小倉山、亀山、嵐山、松尾山、その山麓に天龍寺、法輪寺、松尾、月読の社あり。そのほか諸村の民家、前に大堰川を横たえ、春は花、秋は紅葉、月の夜、雪の朝、風景尤勝たり」と書かれている。諸村の民家を結ぶ街道は嵐山から御陵まで山添に帯状に南北に細い道が一本あるだけで、村落は殆んどは西部の山地にそうように集っていたようだ。
 桂に渡し舟があったように、嵐山と嵯峨野を連絡路として渡し舟が嵐山にもあり、丹波、嵐山、嵐山から嵯峨野と連絡路として重要な地域でもあったのだ。更に物の流通として丹波亀岡方面から荷は嵐山に下された。嵐山の舟つき場(嵐山川港)は、いわゆる旅篭にまじり高級旅館もあったようで、各部屋に「三味線」がそなえつけてあったとも言われている。川に川魚、山に茸をはじめ山菜が豊富であった。更に街道を南に下っていくと、嵐山と松尾の中程に「衣手の森」があり、春は花、秋は紅葉が乱舞していたとも言われ、嵐山一帯は山紫水明の景観を今日に残している。

 嵐山に来て一度は渡るのが「渡月橋」(とげつきょう)であろう。
 この渡月橋は、仁明天皇の承和年間(834~48)の平安初期に道昌僧正が現在の渡月橋より200m程上流の辺に橋を架けた。当時この橋を葛野橋とか法輪寺橋ともいわれたようで、天龍寺10景の1つに数えられていた。橋は朱丹に塗られ東北河畔より嵐山一角の風光を眺望する、すぐれた景勝を展開していたという。
 それから時を経て400数十年後、亀山上皇が月が渡るのをみて渡月橋と名付けたと伝わる。この時の亀山御殿は嵐山大堰川(おおいがわ)もその庭と眺め、橋も庭先と考えられていようだ。
 天龍寺造営後、夢窓国師が更に大きな橋に架け替えたが、応仁の乱で焼失した。後、慶長年間に嵯峨の富豪である角倉了以(すみのくらりょうい:1554~1614) が保津川(ほづがわ)を開いた時に現在の所に架け替えた。角倉了以は豊臣秀吉に安南国(今のベトナム)との貿易を許され莫大な利益を上げたことで知られている。

 明治10年頃の渡月橋の変遷をみてみると、渡月橋は山から切り出したままの丸太材でつくられている。丸太の橋脚、竹の欄干で付近は雑木林や竹やぶが広がっている。橋は小さく重い荷物をつんだ牛馬は通る事は出来なかったほどで、渡し舟にたよっていたと書かれている。現在の中の島公園は当時石ころだらけの河原だったようだ。
 明治四十年頃になって現在の橋や中の島公園の原形がつくられた。桜の木や松の木を埴えたのもこの頃である。
 平安時代以前に、古代の京都を開拓したのは朝鮮半島の新羅(しらぎ)からの渡来民である秦氏一族である。農耕、土木、養蚕、機織りの技術を伝え、古代京都に新しい文化をもたらし、千年の都をつくる基礎づくりをした集団であったことが考古学では知られてい
るところである。秦氏とは、このような高度な技術を持っていた集団の一族で、五世紀後半に渡来してきたといわれている。
 秦氏は、京都・太秦という土地を中心に、農耕・機織などの労働を中心とした実力豪族として、その姿が残されている。
 桓武天皇の遷都(平安京)も、この秦一族の影響があったも言われており、一族の財力と土木技術などが平安京を唯一の都に育てたとも伝えられている。

 今日、この地に新たな温泉を堀り上げ、遠来の観光客が訪れるようになり、新名所となって賑わっている。嵐山温泉として人気がある旅館は、渡月橋のたもとにある「花筏」や、渡月亭、ホテル嵐亭、辨慶、一休、渡し舟で大堰川を遡る隠れ宿の嵐峡館などに人気がある。

所在地:京都府京都市右京区。
 交通:JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」または阪急嵐山線「嵐山駅」下車。
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「落柿舎」(らくししゃ)

2006年11月03日 18時44分51秒 | 古都逍遥「京都篇」
 嵯峨野の小倉山のふもとにひっそりと佇む庵がある。軒先の柿の木の枝に、茜色をした実が茅葺きの庵と絶妙な調和をなしていた。
 落柿舎は、やはり秋が似合う。

「柿主や 梢はちかき あらし山」

 庭内にこの句碑が立てられているが、松尾芭蕉の門人で、"蕉門十哲"の1人とされる「向井去来」の句である。去来は本名・兼時、通称・平次郎といい、慶安4年(1651)に生まれ(父は長崎の儒医)、宝永元年(1704)9月10日、54歳で没す。芭蕉の門を叩いたのは30歳半ばである。

 落柿舎の名由来は、江戸時代、ある商人が同庵に実る柿を買う約束をしたところ、大風(多分台風)のため一夜にして柿の実が全て落ちたとあり、その故事にちなんで付けられたもの。

 「五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡」(芭蕉)

 芭蕉は、元禄2年から3たび落柿舎を訪ねており、元禄四年には18日間滞在している。その折のことが「嵯峨日記」(宝暦3年刊行)にみることができ、同句も最尾に記されてある。
 高浜虚子も当舎を訪ねており、「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり」と詠んだ。
 そう、去来の墓は同舎の裏側、二尊院へ通じる小径右側に人目を忍ぶがごとき佇んでいる。 庵には訪ね来る人たちが、思い思いの俳句を読み投句している。人と去る晩秋は、ことの外、風情を醸し出す庵である。

 交通:京都バス「嵯峨小学校」下車5分、JR嵯峨の線(山陰線)「嵯峨嵐山」下車徒歩20分、阪急嵐山線「嵐山」下車、徒歩40分。
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「法住寺」(ほうじゅうじ)

2006年11月02日 11時25分16秒 | 古都逍遥「京都篇」
 三十三間堂の南に下ると中国風の門を構えの寺が目に入る、ここが後白河法皇の離宮・法住寺殿であったところである。
 法住寺は、永延2年(988)右大臣藤原為光が花山天皇の妃となっていた娘の死後、その邸宅を寺としたのが始まりと伝えられているが、長元5年(1032)に焼失し再建されずにいた。跡地に後白河法皇が永暦元年(1160)離宮・法住寺殿を造営し、ここに住んで天皇5代に亘る34年の長い院政を布いた。
隣接する三十三間堂(蓮華王院)は、当時は広大な法住寺殿の敷地内に、平清盛が造営した御堂の1つであった。しかし寿永2年(1183)に木曽義仲に襲撃されて殿舎が焼失した。その際、不動明王が身代わりとして後白河法皇を救ったとする伝承が有り、堂内に「身代わり不動」が祀られている。

 後白河法皇は建久3年(1192)に崩じられ、遺体は「蓮華王院東法華堂」に葬られて御陵を護持するため、建久8年(1197)源頼朝によって再建された。
 現在の後白河天皇陵は、法住寺の東側に位置する法華堂(江戸時代再建)であり、後白河法皇木像を安置している。また法住寺の中にもその複製が祀られている。また、赤穂浪士が仇討成就を祈願したことより、47士の像があり、12月14日の討ち入りの日には「義士会法要」が行われている。

 平安末期の貴族中山忠親の日記によれば、この御所は十余町(約1万平方メートル)の土地を地あげし、その域内にあった80有余の堂舎をことごとく破壊して建設したというからその広大さがうかがい知れる。
 本尊の阿弥陀如来立像(来迎印)は、親鸞聖人(範宴の頃)の作といわれ、女人禁制の比叡山西塔から、東山渋谷の仏光寺に下山したが、明治から法住寺に鎮座する事になった。また親鸞聖人そば喰いの坐像御影は、比叡山から、六角堂に毎夜通われた頃(建仁元年)、天台座主が衆僧と共に蕎麦を食したとき、その蕎麦の振る舞いを身代わりになり食べたという伝説持つ像である。

 後白河法皇は一際風流に長けて、今様を好んだといわれ、取材の折、幸い私ひとりであったこともあり、説明をしてくれた住職の奥様が法皇が詠まれた和歌を今様で歌ってくれた。なかなかの美声でお上手、思わず拍手を送り「アンコール」というと、もう一首歌ってくれた。なかなか気さくな奥様であった。

 所在地:京都市東山区三十三間堂廻り町655。
 交通:市バスで博物館・三十三間堂前または東山七条・京阪電車七条下車すぐ。
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