「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「薬師寺」(やくしじ)

2011年12月31日 00時06分40秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 法相宗(ほっそうしゅう)の大本山「薬師寺」は、奈良県奈良市西ノ京町にある名刹で、南都七大寺のひとつに数えられている。本尊は薬師如来、1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
 創建は天武9年(680)、天武天皇が菟野讃良皇后(うののさららひめみこ/後の持統天皇)の病気平癒のため発願し建立された。6年後完成せずして天皇が崩御し、続いて即位された皇后(持統天皇)によって本尊開眼、更に文武天皇の御代に至り、文武2年(698)、発願より18年の歳月が費され、飛鳥の地、藤原京において七堂伽藍の完成を見た。当時は南都七大寺の一つとして、その大伽藍はわが国随一の荘美を誇り、なかでも裳階(もこし)を施した金堂や塔のたたずまいの美しさは「龍宮造り」と呼ばれて、人々の目を奪った。養老2年(718)に平城遷都に伴い現在の場所に移転。造営は大同3年(808)頃まで続いた。しかし、天禄4年(973)の火災と享禄元年(1528)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。当時の建造物は東塔のみが現存した。

 名物管長として知られた高田好胤(こういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、享禄元年に焼失した金堂は昭和51年(1976)に、西塔は昭和56年(1981)に、中門は昭和59年(1984)に、平成3年(1991)には回廊の一部がそれぞれ復元され、平成15年(2003)には大講堂も有縁の人々の写経勧進によって復元され、法相宗の始祖玄奘三蔵を祀る玄奘三蔵院伽藍も落慶した。この私もこれに一役買った。毎月1回写経に通いかれこれ4年間続けた。写経は1000円だった。

 玄奘三蔵院は玄奘三蔵のご頂骨を真身舎利とし、平山郁夫画伯が30年の歳月をかけて、玄奘三蔵の歩んだ道をたどり描いた壁画が配されている。基本設計の段階で50枚以上の図面に7年の年月を要したという。中央の重層八角堂に頂骨と像を安置し、その奥に絵殿を建て礼堂から同時に礼拝できるようになっている。

 白鳳時代の偉容を今日に伝える東塔(国宝)と再建された西塔。この二つの塔は一見六重の塔に見えるが、実は三重の塔。これは各層に裳階といわれる小さい屋根があるためで、この大小の屋根の重なりが律動的な美しさをかもし出し「凍れる音楽」という愛称で親しまれている。

 東塔の東側にある建物が「東院堂」(国宝)で、養老5年(721)に皇女吉備内親王が母元明天皇の一周忌にあたって創建したと伝えられている。現在の建物は鎌倉時代後期の弘安8年(1285)に再建されたものだという。桁行7間(24.270m)、梁行4間(11.759m)、入母屋造り、本瓦葺きで、もとは南面だったものを、享保15年(1733)の修理の際に、いまのように西面させたもので、奈良地方における鎌倉時代の仏堂の代表的なひとつにあげられている。

 中門は、天禄4年(973)の火災により仁天王像と共に焼失した。寛和2年(986)に復元されたが康安年間では地震による倒壊・再建を経て、享禄元年(1528)の兵火により再度焼失したまま復興をみることはなかったが、昭和59年に写経勧進により復興復元された。

 南門は永正9年(1512)に再築されたが、現在の門は江戸時代に元の西門を創建当時の南門の礎石の中心部に移築したものである。切妻造の四脚門で、かつての平城京、六条大路に面していたという。

 金堂の北、大講堂の横を通り、東僧坊の北東に向かうと、寺宝を収蔵・展示するために、建てられた大宝蔵殿・衆賓館がある。毎年4月29日~5月5日には、春の大宝蔵殿特別開扉、10月8日~11月10日の大宝蔵殿特別開扉では、吉祥天画像(国宝)をはじめ、寺宝の経文などが特別公開される。

 国宝指定の「銅造薬師三尊像」(奈良時代)の中尊は「薬師如来」、脇侍に「日光菩薩」(にっこうぼさつ)と「月光菩薩」(がっこうぼさつ)を配している。中尊像の台座には、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国などに淵源をもつ葡萄(ぶどう)唐草文、異国風の人物像、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)などの意匠があしらわれている。

 大講堂内にある仏足石は、仏陀(釈迦)の足跡を刻んだもので、側面に長文の銘があり、黄書本実(きぶみのほんじつ)が唐で写し持ち帰った仏足跡を文室真人智努(ぶんやのまひとちぬ)が夫人の追善のために写させたもので、天平勝宝5年(753)の作と知られる。

 所在地:奈良市西ノ京町457。
 交通:近鉄難波、京都から快速急行または特急で大和西大寺で乗り換え、各駅停車天理行きまたは橿原神宮前行きに乗車。西ノ京駅下車すぐ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「神武天皇陵」(じんむてんのうりょう)」

2011年12月17日 18時38分53秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 橿原神宮に隣接した、畝傍山の北東に「神武天皇陵」(正式名「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)」)がある。人気の少ない静かな御陵は荘厳な雰囲気に包まれている。日本書紀によると、神武天皇は「初代天皇」とされており、神武天皇元年1月1日(紀元前660)に即位、神武東征によって日本の礎を作り127歳で崩御されたという。
 即位の日が、西暦で紀元前660年2月11日にあたることから「建国記念の日」(以前の「紀元節」)と定められた。

 御陵の入り口から約300メートルほどの砂利道が続いており、砂利のきしむ音も心地よく凛とした静けさに溶け込む。
 この日は人の姿も無く静まり返っていた。

 鳥居の前に立っても、御陵全体を見渡すことができなとほど広大で、周囲約100メートル、高さ5・5メートルの八稜円形となっており、幅約16メートルの周濠がめぐらせてある。鳥居の先にも玉砂利がきれいに掃き清められており、すがすがしい中にも荘厳な雰囲気に包まれている。
 『延喜式』によると、御陵は、平安の初め頃には、東西一町、南二町の広さであった。貞元2年(977)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在も分からなくなっていたという。

 江戸元禄時代に陵墓の調査が行われ、歴代天皇の墓を決めて修理する事業も行われた。その時神武天皇陵に指定されたのが、畝傍山から東北へ約700メートルの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった。しかし畝傍山からいかにも遠いことや山上ではなく平地にあることから別の説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。 

 その後、丸山という説も出てきて、これが最有力説であったが、神武陵は文久3年(1863)にミサンザイに決まり、幕府が1万5千両を出して修復したという。

 毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し奉幣を行なっている。

 所在地:奈良県橿原市大久保町洞。
 交通:近鉄「畝傍御陵前駅」から、徒歩約10分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「玄賓庵」(げんぴあん)

2011年12月17日 18時33分31秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 日本最古といわれる「大神神社」から徒歩15分ほどのところにある「玄賓庵」、ひっそりとし
た小寺だが、世阿弥の作と伝わる謡曲「三輪」の舞台となった由緒ある古刹で、重要文化財に指定されている「不動明王坐像」なども安置されている。山の辺の道を散策しながら立ち寄るにはちょうどよく、万葉集でも詠まれた「狭井川」が静かに流れるのどかな風景を楽しみながら歩くのもよい。

 玄賓庵は9世紀ごろに僧・玄賓が隠棲した庵が始まりとされ、山岳仏教の寺院として三輪山の
檜原谷にあったが、明治時代の神仏分離により現在地へ移された。

 額田王が近江遷都の際に詠んだ歌、「味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の山際にい隠るまで 道の隈(くま)い積もるまでに つばらにも見つつ行かむを しばしばも見放けむ山を 情(こころ)なく 雲の隠さふべしや」(万葉集)。三輪山への思い伝わってくる歌だが、現地に立ってみると歌に込められた思いが胸にくる。

 さて、謡曲「三輪」の物語を要約して紹介すると、『大和国三輪山の麓に庵室をかまえている玄賓僧都のもとへ、毎日樒と閼伽の水を持って来る女がいた。一度素姓を尋ねてみようと玄賓が待っていると、やがて女は訪れ、秋の夜寒をしのぐ衣を賜り給えと請う。玄賓が快く衣を与え、その住居を問うと、女は「我が庵は三輪の山本恋しくは訪い来ませ杉立てる門」の古歌をひき、杉立てる門を目印においでなさいと言い残して姿を消す。玄賓が女の言葉を頼りに草庵を出て、三輪明神の近くまで来ると、不思議なことに二本の杉に先程女に与えた衣が掛かっており、その裾に一首の歌が書いてある。それを読んでいると、杉の木陰から声がして、女姿の三輪明神が現れる。そして和歌の徳を讃え、三輪山の杉にまつわる昔話を聞かせ、天照大神の岩戸隠れの神話を物語り、神楽を奏でるが、夜明けと共に消えて行く。』
(「宝生の能」平成9年10月号「謡蹟めぐり三輪」より引用)

 本堂には、「木造不動明王坐像」(藤原時代)や、阿弥陀如来像・大日如来像、玄賓像などが祀られている。
 所在地:奈良県桜井市大字茅原373。
交通:JR三輪駅から徒歩30分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「榮山寺」(えいさんじ)

2011年12月17日 18時28分03秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 音無川(吉野川)を眼下に望む榮山寺は山号は学晶山(がくしょうさん)と称し、藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで栄華を誇った。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「榮山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。
 創建は養老3年(719)藤原武智麻呂(むちまろ)によるといわれている。古来は「前山寺」あるいは「崎山寺」と呼ばれ、いつの頃からか「榮」の字が当てられた。「崎」とは岩が川の瀬に張り出したところ、そこには美しい澱みができ、瀬音が消え、吉野川を「音無川」と呼ぶようになったという。

 当寺には特筆すべきものも多く、法隆寺夢殿とともに奈良時代を代表する国宝「八角堂」や、宇治平等院の鐘とともに「平安三絶」の鐘に数えられている梵鐘は、表面の銘文は撰者が菅原道真で筆者が小野道風と伝えられる。本尊は薬師如来 吉野川は大台ヶ原に源を発し、その澄んだゆたかな水は歳月をこえて尽きることなくとうとうと流れている。その清流と景観美により、昭和47年には榮山寺から上流25kmが「県立吉野川津風呂自然公園」に指定されており、沿岸には高岩、芝崎、ナメラなど奇岩景勝の場所が多く点在している。

 八角堂(国宝)は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝えられている。武智麻呂の墓は当初は佐保山(奈良市街地北部の丘陵地)にあったが、天平宝字4年(760)、榮山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764)までの五年間と推定されている。正倉院文書(もんじょ)に天平宝字7年(763)12月20日付の「造円堂所牒」(ぞうえんどうしょちょう)という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。

 梵鐘は、延喜17年(917)の作と言われている。京都の神護寺、宇治の平等院の鐘と共に「平安三絶の鐘」としても知られており、4面に菅原道真撰で、小野道風の書と伝えられる陽鋳の銘文が施されている。藤原武智麻呂の五世の孫である藤原道明と道明の伯父の橘澄清によって寄進されたもので、当初は山城道澄寺にあったという。道澄寺は藤原道明と橘澄清の名の1字ずつを取って寺号としたもので、寺は京都市伏見区深草直違橋(すじかいばし)に現存する。

 本堂前に据えられている弘安7年(1284)の銘がある石灯籠は、栄山寺型と呼ばれ、造立当初の姿をよく残しているという。

 所在地:奈良県五條市小島町503。
 交通:JR五條駅から西阿田行きバス約15分、「栄山寺前」下車徒歩すぐ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「室生龍穴神社」(むろうりゅうけつじんじゃ)

2011年12月11日 11時12分36秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 室生寺の東方約1キロメートルほどの山間に、樹齢千年とも言われる杉や檜の巨樹が林立する中に鎮座する「室生龍穴神社」がある。神域には龍穴と呼ばれる洞穴があって、いまでも雨乞いの行事が行われている。「室生山年分度者奏状」に、天応元年(781)には勅使や国司が龍穴神に派遣されて、請雨・止雨の祈祷がなされたとあり、室生寺よりも古い存在であったことがわかる。

 石造りの鳥居の前に立つと神門のような大杉が二本構えており、その奥は日暮れ時のような薄暗で冷気に身が包まれる。鳥居をくぐると目に入るのが「連理杉」いわゆる「夫婦杉」で、二本の根が互いに絡み合い睦み合っており、神木として祀られている。水のない小川の神橋を渡ると大きな狛犬が睨みを利かせ、巨樹が脇をかためたその先に拝殿が見える。拝殿の裏側にさほど広くない空間があって石鳥居とその参道の奥に瑞垣に囲まれた濃い朱塗の本殿がある。その近くにまては行けないが砦を思わせ構えが印象的だ。

 当社の前を流れる室生川は、宇陀川、名張川、木津川となってやがて大阪湾へと至るが、当社はこれらの川の水源に鎮座する祈雨・止雨神として、古来国家的にも崇敬の篤い神社で、祭神は、高?神(たかおかみのかみ)あるいは善女(ぜんにょ)で、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)、大山祇命(おおやまづみのみこと)、水波能賣命(みずはのめのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)、埴山姫命(はにやまひめのみこと)が合祀されている。明治初年の神仏分離までは、室生寺の本地仏の鎮守としてその支配下にあり、その祭祀も主として仏式で行われたという。

 当社の裏手から渓流沿いに約7~800メートルほど登ると岩窟があり、竜王の籠る洞窟として竜穴と呼ばれて古くから請雨祭祀の行われた所である。承平7年(937)に書かれた「室生山年分度者奉状」に、室生寺と当社のことが記されており、『件の竜王を以って伽藍の御法神となせ、旱災ある毎に、竜王の穴地に臨み、甘雨を祈るに、祝言未だ訖らざるに、霖雨いよいよ降り、五穀忽ちに茂る』とある。

 龍穴に到着する前に天岩戸と呼ばれる巨石がある。一枚岩が真っ二つに断ち割られたようで、そしめ縄で結ばれており、伊勢二見の夫婦岩のような神秘的な景観である。吉祥龍穴のある谷には一筋の川が流れており、その上流には招龍瀑と呼ばれる滝が見える。夏でもひんやりとしており下界の猛暑などしばし忘れさせてくれる。

 所在地:奈良県宇陀市室生区室生1297。
 交通:近鉄大阪線室生口大野駅から奈良交通バス血原橋方面行きで20分、竜穴神社前下車すぐ。無料駐車場もある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする