「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「法起寺」(ほうきじ) 

2010年07月17日 22時02分37秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 法隆寺と同じく斑鳩(いかるが)の地にあって、田園地帯に囲まれた法起寺(世界遺産)がぽつんと畑の中に残っている。

 創建は『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘によって判明しており、それによると、推古30年(622)2月22日、聖徳太子はその薨去(こうきょ=親王または三位以上の逝去)に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したといわれている。
その後、舒明10年(638)に福亮(ふくりょう )僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14年(685)には恵施(けいし)僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったとされている。

 平安時代に入り法隆寺の支配化に入り次第に衰微し、荒廃を憂いた当寺の真政圓忍(しんせいえんにん)と弟子たちによって、延宝6年(1678)に三重塔を修復、元禄7年(1694)に講堂を再建、文久3年(1863)に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられていった。

昭和47年(1972)三重塔の解体修理に着手し、50年に完成したのに続いて、五十三年には講堂の修理を行い、57年には重要文化財の十一面観音菩薩像を安置する収蔵庫を新設している。

 寺名は20世紀末頃までの文献では「ほっきじ」と読んでいたが、現在、寺側では「ほうきじ」を正式の読みとしている。これは、法起寺が法隆寺とともに世界遺産に登録されるにあたり、「法」の読み方に一貫性が欲しい、という理由により、高田良信法隆寺管長により、「ほうきじ」を正式とする、という
判断がされたためである。

 高さ24㍍を誇る三重塔(国宝)の創建は慶雲3年(708)で、三重塔としては日本最古である。多くの木造塔は方三間(正側面のいずれにも柱が四本並び、柱間の数が三つになる)が多いというが、この塔は初層・二層の柱間が三間、三層の柱間が二間という特殊な形式になっており、ほぼ同時代の法隆寺五重塔も最上部の五層の柱間を二間としており、法隆寺五重塔の初層・三層・五層の大きさが法起寺三重塔の初層・二層・三層にほぼ等しいことが指摘されている。この塔は中世に大きく改造され、三層の柱間も三間に変更さたというが、昭和の解体修理の際、部材に残る痕跡を基に創建当時の形に復元、あわせて二層と三層の高欄(手すり)も復元している。

 木造十一面観音菩薩立像(重要文化財)、幹部は杉の一材から彫出しており、10世紀後半ごろの作と言われている。本堂に安置されていた本尊であったが、現在は収蔵庫に安置されておりガラス越しに拝観できる。
 銅造菩薩立像(同)、寺伝では虚空蔵菩薩と呼ばれており、全身に火をかぶった形跡がみられる。7世紀後半の作といわれている。

 観光客は法隆寺、中宮寺、法輪寺、法起寺のコースをたどって来る人が多く、田園にある当寺は、まさに斑鳩という古来のイメージが今も漂い、落ち着いた雰囲気で癒される。寺の周辺にはコスモスがかなり多く植えてあり10月中旬頃にはコスモス見物でにぎわう。 ずいぶん昔のこととなったが、ネスカフェのCMでコスモス畑の中を黄色の帽子をかぶった幼稚園児が先生に連れられてるシーンがあったが、ここで撮影されたものである。

 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873
 交通:JR大和時線法隆寺駅下車、奈良交通バスで法起寺下車すぐ。
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「壷阪寺(南法華寺)」(つぼさかでら)

2010年07月10日 07時45分05秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 清少納言の「枕草子」の一節に「寺は壷阪、笠置、法輪」とあるように、平安時代にすでに壷阪寺は霊験あらたかな寺として知られていたが、創建についてははっきりしたことがわかっていない。
 当寺所蔵の「南法花寺古老伝」や「帝王編年記」などは大宝3年(703)の創建とあるが、境内からは藤原宮の時期の瓦が出土しているということからも、創建年を大宝三年とすることに不確実性はないと思われる。
 開基についても弁基、海弁、道基、佐伯姫足子などさまざまな説があるというが、「南法花寺古老伝」にある弁基上人というのが定説となっているようだ。

 山間に建てられた寺なので、立派な伽藍が立ち並ぶといった状態ではなかったと思われるが、「南法花寺古老伝」によると、元正天皇が当寺を深く信仰し、長屋王が水田を施入したという。
 当寺は浄瑠璃や浪花節の「壷坂霊験記」の眼病の効験で知られる。「日本感霊録」に九世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壷阪観音の信仰で開眼治癒したという話があり、すでにこのころから本尊の十一面千手観音は民間の信仰を集めていたことがわかる。
 
 承和14年(847)には長谷寺と共に定額寺となり、貞観8年(866)には香山寺・長谷寺とともに大般若経が転読され、元慶4年(880)には清和太上天皇の病気平癒のため使いが遣わされている。一方、天暦年中に藤原師輔が藤原氏繁栄のために五大堂を建立し、天禄4年(973)には藤原兼家が春日明神のために三昧会を置くなど藤原氏との関係も深まっていったようだ。

 寛弘4年(1007)には藤原道長が高野山参詣の途中、壷阪寺に立ち寄っている。壷阪寺が隆盛をむかえるのは、10世紀終わりの永観年中に子島寺真興が入ってからという。真興は子島流あるいは壷阪流とも呼ばれる真言の一大流派を創立し、壷阪寺は子島寺とともにその根本道場となった。

 嘉保3年(1096)に、大火災をおこし、本堂と本尊の千手観音をはじめ、礼堂・五大堂・宝蔵などが焼失した。すぐに再建が始まり本堂が完成、この時焼け残った本尊の頂上三面が新本尊の頭部に納められたという。続いて礼堂・三重塔婆・灌頂堂・食堂・経蔵などが次々に建てられていった。 嘉承2年(1107)には弥勒堂ができ、源知房を願主とする阿弥陀像が安置されいてる。

 承元5年(1211)再び火災に見舞われ、大門と二躯の金剛力士像・高蔵・地主明神の社・僧坊十一宇が焼失した。本堂と塔は無事であった。その後、大門は笠置寺の貞慶が、地主明神の拝殿は山僧が合力して再建。
 1467年に応仁の乱が勃発、文明2年(1470)、南朝の遺臣が小倉宮の王子を擁して紀伊に挙兵し壷阪寺に入った。
 この王子は翌年には西軍の山名宗全らによって京都に迎えられたが、それまでの間、寺に滞在したらしい。
 江戸時代になると高市郡四条村と十市郡膳夫村に50石の朱印地を配せられている。

 「円通記」によると、慶長・元和の頃、高取城主本多利朝が、その後本多氏にかわって高取城主となった植村家政も寛永年間に諸堂を修理している。因幡堂や仁王門はこの修理の時に建てられた。しかし寛文年中には高取城との間に境界線をめぐる争いがあり、寺地が失われた。
 境内には十三院があったようだが、明治初年の廃仏毀釈によって大門坊・宝珠院二院を残して廃絶し寺は荒れはてた。明治十六年に保存金が支給され、以降大正時代、昭和初期まで寺の様子はよくわからない。

 当寺には石仏をはじめ石を掘って作造したものが多く、居ながらにして、小乗仏教、タイやインドの仏教様式が見てとれる。中でも目を見張るのが、昭和53年(1983)に開眼した、高さ20㍍を誇る「大観音石像」である。
 この開眼法要のときそれと知らず初めて当寺を訪ねたのだが、そこに至る道路は大渋滞、大勢の人々が一大法要を見ようと列をなし山内を埋め尽くしていた。この像はインド救ライ事業に対する感謝としてインドから贈られたもので、中央インドカルカラの3億年前の古石を用い、延べ人数約7万人の石工達の協力で4年7ヶ月の歳月をかけ完成したものであった。

 この年は田中角栄ロッキード裁判で東京地裁が懲役4年の判決を下し、大韓航空機襲撃事件があった。
 このほか、1999年に「大涅槃石像」(8㍍)が安置され、2007年には「大釈迦如来石像」(15㍍)が開眼している。

 所在地:奈良県高市郡高取町壷阪3番地。
 交通:近鉄吉野線「壺阪山」から、奈良交通バス「壷坂寺前行き」終点下車。

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「霊山寺」(りょうせんじ)

2010年07月02日 18時17分58秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 世界のバラの花を集めた「バラ園」の寺として全国的に知られている「霊山寺」は、真言宗大本山の寺院で山号を登美山(とみさん)または鼻高山(びこうさん)と称し、奈良市の西郊、富雄川の支流湯屋川をはさんで南北両側の丘陵上にある。幾度の戦乱にも巻き込まれず、いにしえの面影を残している古刹である。

 伝承によれば、神亀5年(728)聖武天皇の皇女(後の孝謙天皇)は、病に苦しんでいたが、天皇の夢枕に現れた鼻高仙人が、登美山の薬師如来の霊験を説いたので天皇は僧・行基を登美山につかわして祈願させたところ、皇女の病が平癒したので、天平6年(734)行基に命じて寺社を建立。その2年後(736)に来日したインド僧正・菩提僊那(=ぼだい・せんな、東大寺大仏の開眼供養の導師を務めた)が、登美山の地勢が故郷インドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることから霊山寺と名付け、聖武天皇から「鼻高霊山寺」の扁額が下賜されたという。

 中世には北条時頼、徳川家康、豊臣秀吉も帰依したほか徳川時代には場幕府の朱印寺として寺勢21坊を数えるなど栄えたといわれているが、明治の廃仏毀釈以後は衰退した。
 伽藍をみると、境内東側の正面入口には一般の仏教寺院と違い、門でなく朱塗りの鳥居が立つが、信仰の中心となっている大弁才天堂への入口を示すものである。鳥居をくぐって道の右側にはバラ庭園、天龍閣(食事宿泊施設)、大弁才天堂、黄金殿、白金殿などがあり、奥の石段上に国宝の本堂が建つ。道の左側には仙人亭(喫茶軽食)、薬師湯、ゴルフ練習場などがある。

 本堂は入母屋造、本瓦葺きで 国宝に指定されており、棟札に弘安6年(1283)の建築と記され鎌倉時代和様仏堂の代表作とある。
 堂内の厨子も本堂と同時期の作で、厨子内に毎年秋に公開される秘仏の本尊の薬師三尊像(重要文化財)が安置されており、治暦2年(1066)の造立という。厨子の左右には二天(持国天・多聞天)像と十二神将像(各重文)が、外陣には大日如来坐像と阿弥陀如来坐像(同)が安置されている。 本堂の手前に鐘楼(重文)があるが、これも本堂と同時期の建築という。

 高さ17㍍を有する檜皮葺き造りの三重塔(重文)は、谷をはさんで本堂とは反対側(南側)の斜面上にあり、初層内部の来迎壁(仏壇背後の壁)の表裏や長押には剥落や退色が少なく美しい五大明王図、仏涅槃図などの極彩色壁画が描かれている。本堂背後の山腹を登ると十六所神社(重文)があり、南北朝時代の建立で霊山寺の鎮守社であったそうだ。

 寺内には薬草と鉱泉を用いた薬師湯殿があるが、約1300年前、右大臣小野富人(通称鼻高仙人)が薬草湯屋を建て、薬師如来を祀って諸人の病を治したことに由来するという。薬師湯は昭和57年に改装され、アロエ、どくだみ湯などが入湯料600円で楽しめる。

 広大な庭園には、200種類2千株のバラが毎年咲き誇り、四季の花や緑も美しい。また、天平期の食膳を模した「天平ご膳」や京風の「鼻高懐石」、女性限定の「レディース懐石」のほか、バラの季節には「薔薇弁当」やバラのアイスとジュースも登場し、参拝と行楽と一日楽しめるところだ。

 所在地:奈良市中町3879。
 交通:近鉄奈良線富雄駅より奈良交通バス8分、霊山寺バス停下車すぐ。
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