「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

明日香「石舞台古墳」(いしぶたい)

2010年02月27日 08時18分35秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 明日香地区にある石舞台古墳は、封土(もりつち)の上部がなくなり、巨石(花崗岩)で作られた玄室部の天井石と側壁の上方が露出していて、天井石が平らになっていることから石舞台と称されているが、また、月夜の晩に石(天井石)の上で狐が踊ったことから「石舞台」と呼ばれるようになったとも伝えられている。そんな姿を想像しながら眺めるのも楽しいものだ。

 玄室は、長さ約7.7㍍、幅約3.5㍍、高さ約4.7㍍、羨道は長さ約11㍍、幅2/5㍍。石室内部に排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2、300トンに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれたという。昭和8年(1933)から発掘調査がはじまり、その全貌が明らかになった。

 外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう=大型の古墳に近接する小規模の古墳で、その大型古墳に関連して営まれたとされるもの)であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも七基の横穴式石室が見つかりいずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたってはその周辺にあった古墳を削平し移行したと考えられている。

 被葬者は、古代にこの地で最大の勢力を誇っていた蘇我馬子というのが最も有力な説で、『日本書紀』にも推古天皇34年(626)5月の条に「大臣薨(こう=親王および三位以上の人の死)せぬ。仍(よ)りて桃原墓に葬る」とあり、その大臣とは馬子のことである。

 現在、国の特別史跡となっている。
 石舞台公園の西側に「明日香の夢市」という建物がある。1階が「おみやげ処 明日香の夢市」で2階は「農村レストラン夢市茶屋」となっている。レストランのメニューの中に、「古代米」「飛鳥鍋」「黒米」など、飛鳥らしいメニューがいかにも嬉しい。土産物では、キトラ古墳グッズとか四神グッズだとか地味なものの中に、「あすかルビー」も売っていた。向かい側にある老舗の「あすか野ログハウス」の「古代米ソフトクリーム」が人気だそうで、ひとつ食べてみるとかなりいけてる味だった。入館料250円。

 春、レンゲ、桜の咲くころに訪れると、さらに明日香の里の良さを感じることだろう。

 所在地:奈良県高市郡明日香村大字島庄。
 交通:近鉄橿原神宮前から奈良交通バスで25分、明日香村島の庄下車すぐ。駐車場もある。


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「石上神宮」「いそのかみじんぐう」

2010年02月16日 17時31分00秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 現存する書院が日本住宅建築史上最古という神社があるといこので天理市まで車を走らせた。

 石上神宮の書院は建築史の第一頁に位する本格式の住宅建築といわれ、日本住宅の源流をなす最古の実例として数々の珍しい手法が見られる初期書院造の傑作と評されている。その一つの「義経潜居の間」は室町初期の改築で床棚書院の初期の様式を伝えており、きわめて古風な「後醍醐天皇玉座」 は後年秀吉が花見に際し修理したもので豪華な桃山時代の風格を残した書院でたいへん興味深いものがある。

 神宮は元吉水院と称し今から凡そ1300年前、白鳳年間(650~54)に役行者の創立と伝えられ、布都御魂剣に宿る神霊「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」を主祭神としている。
 明治の初めまで修験道の勢力と共に発展して来たが、明治維新の神仏分離の際(明治8年)神社と改まったものである。当宮は南朝の元宮で、後醍醐天皇を祭神とし当時天皇の忠臣であった楠正成、吉水院宗信法印を合祀している。

 また、当宮は源義経と静御前の悲恋物語としても知られている。
 文治元年(1185) 源義経は兄頼朝の追手を逃れて静御前、弁慶等と共に吉野に潜人し当宮に匿われていたが、しかしすぐに知られるところとなり吉野を離れ奥州へ落ちのびた。
「吉野山 峰の白雪ふみ分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」と歌われたように義経と静の哀しい舞台となった情景が目に浮かぶ。保存されている「義経潜居の間」「弁慶思案の間」など数々の遺物を見ることができる。

 さらに豪華絢爛を誇った太閤秀吉の花見の地としても名高い。
文禄3年 (1594)豊臣秀吉が当宮を本陣として盛大なる花見の宴を催し、徳川家康・伊達政宗・加藤清正・前田利家・宇喜田秀家等が勢揃い、数日間滞在して歌の会、茶会、能の会を開き豪遊、その権勢を示したことは、「年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」の歌で伺い知ることができる。天下をとり春を謳歌した秀吉の威勢が現われている。

 この他、水戸光圀(水戸黄門)直筆の書が保存されており、光圀が大日本史を書くにあたって南北朝の歴史を調べるために「佐々助三郎(助さん)」を吉水神宮に派遣したとあるが、この書状でにその証がみられる。
 また、369年に百済王が倭王に贈ったと伝わる「七支刀」(しちしとう/国宝)」が所蔵(非公開)されており、古代日朝関係を解明する手がかりとなっているという。飛鳥時代から、当時の有力な豪族で軍事面を司っていた「物部氏」(もののべし)の総氏神として繁栄し、大和朝廷の武器庫としての役割も担っていたことから残されていたのだろうという。
 1300年ごろの建造という「摂社出雲建雄神社拝殿(せっしゃいずもたけおじんじゃはいでん)」は国宝に指定されているが、廃寺となった内山永久寺から1914年に移築されたものだそうだ。両脇が板張りで、中央は土間になっており、建物の中央がやや上がっているが、これは馬道(めどう)という造りだそうだ。「楼門」は重要文化財、本殿は禁足地となっているため見ることができない。

 深い歴史の中にほんわかとする光景を境内にみることができる。なぜかニワトリたちが雄々と闊歩しているのだ。話をきけば20数年ほど前に誰かが捨てていったものだったそうだが、現在は神の御遣いとして大事に扱われているのだそうだ。

 所在地:奈良県天理市布留町384。
 交通:天理駅から奈良交通バス「石神神宮前」下車すぐ。
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「談山神社」(たんざんじんじゃ)

2010年02月04日 09時51分22秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 談山神社は桜と紅葉の名所ともなっている多武峰(とうのみね)にある神社で、祭神は藤原鎌足(談山大明神・談山権現)。神仏分離以前は寺院であり「多武峯寺」という名称であった。

 寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇6年(678)長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥とされる。その2年後に講堂(拝殿)を建立し妙楽寺と号した。大宝元年(701)十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(本殿)を建立し聖霊院と号した。

 談山神社の名の由来ともなった歴史に残る「大化の改新」が行われた所としても名高い。
 西暦7世紀(舒明・皇極二代の天皇)の頃、蘇我蝦夷と入鹿の親子の勢力は隆盛を極め、独裁的政治で国を支配していた。この頃、中臣(藤原)鎌足はそれに不満を擁き、国の正しい有り方を考えていた時、折りしも飛鳥の法興寺(飛鳥寺)で蹴鞠の会が催され、中大兄皇子(天智天皇)に出会うことが出来、西暦645年5月、2人は多武峯(談山神社裏山)で密かに談合(大化の改新)を行った。後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことから「談山神社」と呼ばれるようになったと伝えられている。

 平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた。
 天正13(1585)豊臣秀吉により、郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座。同18年(1560)帰山を許された。その後衰退していたが、徳川家康により復興され朱印領は三千石余であった。明治2年(1869)に僧徒が還俗し談山神社と改称された。

 見どころを紹介すると、談山神社のシンボル的な存在となっている十三重塔(重要文化財)は、室町時代(678年)に父・藤原鎌足の追福のために、長男・定慧と次男・不比等によって建立された。現存の塔は、享禄5年(1532)の再建で、木造十三重塔としては、世界唯一のものという。唐の清涼山宝池院の塔を模して建てられたと伝えられており、高さは約17㍍、屋根は伝統的な檜皮葺き。

 本殿(重要文化財)は、もと聖霊院、大織冠社、多武峰社とも称し 三間社隅木入春日造のけんらん豪華な様式で知られている。社殿全体は極彩色 模様や、花鳥などの彫刻によって装飾されており、大宝元年(701)に建立され、現存は嘉永3年(1850)に建て替えられた。朱塗り極彩色で美麗名高く日光東照宮はこれをモデルとして造られたという。
 また、国宝に指定されている「粟原寺三重塔伏鉢」(おうばらでらさんじゅうのとうふくばち)は、三重塔や五重塔などの最上部に立つ「相輪」の部材の一つで銅で作られている。和銅8年(715)の年号を含む刻銘があるという。現在奈良国立博物館に寄託している。

 当社は大和路の代表的な紅葉の名所としても知られ、シーズンともなれば全国からツアーなどで大勢の観光客が押し寄せる。凛とした十三重塔が赤や黄色のモザイク模様の木々に囲まれる景観は、3D映像の世界にいざなわれた思いがする。
 古事にちなんで桜や紅葉と共に春秋に行われる「けまり祭」も有名で一見の価値がある。8名で一座を組み、それぞれ古式ゆかしい装束に身を包み、鞠を蹴り、次々に渡しては受け合う古典的遊技は雅の世界を楽しませてくれる。

 所在地:奈良県桜井市多武峰319。
 交通:近鉄大阪線・JR桜井線にて桜井駅下車。桜井駅南口より奈良交通バス談山神社行、終点で下車徒歩3分。

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