「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「南禅寺」(なんぜんじ)

2006年08月31日 12時04分25秒 | 古都逍遥「京都篇」
 臨済宗南禅寺派総本山、瑞龍山太平興国南禅禅寺は、京都五山(天龍寺・建仁寺・相国寺・東福寺・万寿寺)の上に位置する「五山之上」という格式を誇る名刹として内外に知られている。
 当寺は正応4年(1291)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創された。
 亀山法皇といえば、蒙古来襲の国難に立ち向かったことで知られている。
 国難が去った正応2年(1289年)、上皇は離宮禅林寺殿で落飾(出家)し、法皇となり、離宮(現南禅院)を建立。ほどなく離宮に妖怪な事が起こり、妖怪祓いの護摩を焚いたりしたが治まらず、無関禅師は雲衲(修行僧)を迎え、坐禅・掃除・勤行と、禅堂そのままの生活を送ると、妖怪な事は終息してしまった。このことから、法皇は禅師の徳をたたえて帰依し、正応四年離宮を禅寺とし、ここを基として大伽藍が造営され南禅寺が形成されていく。

 足利義満の時、五山制度の中で五山を超える禅宗寺院最高の寺格を受け、五山文化の中心となった。
 応仁の乱以降は衰退したが、江戸初期に崇伝が金地院を移入して再興をはたし、多くの文化財を今に伝えている。
 伽藍は西を正面とし、背後には東山、勅使門(重要文化財)は慶長度の内裏日御門を移築したもの。
 三門は(1628年、重要文化財)、五間三戸二階二重門の規模で左右に山廊をもち、禅宗(唐)様からなる三門正規の形式で、寺院を代表する正門であり禅宗七堂伽藍(勅使門、山門、仏殿、法堂、方丈、鐘楼、経堂、浴室)の1つ。山門とも書き、仏道修行のさとりの内容を示す空門、無柏門、無作門をも意味している。楼閣には宝冠釈迦如来を本尊とし、西側に十六羅漢が祀られ、天井には鳳凰、天女図、周囲の装飾は、狩野探幽守信、絵所土佐法眼徳悦の筆により「五鳳楼」と呼ばれ、別名「天下竜門」とも称され、日本三大門の1つとされている。
 開創当時のものは永仁3年西園寺実兼の寄進によって創立され、ついで応安年間新三門に改築されたが文安四年の火災で焼失しました。

 三門が天下に名高いのはそのスケールだけではなく、歌舞伎「楼門五三の桐」で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな、春の眺めは値千金とは小さなたとえ この五右衛門の目からは値万両」と見栄を切るくだりは、ここが舞台となっていることからでもある。当時、高い建物がなかったであろうことから、この三門からの眺めはさぞ絶景なるかなが窺い知れる。普段は拝観禁止で、春・秋に一般公開されている。

 方丈(桃山期、国宝)は大方丈と小方丈からなり、大方丈は天正度の内裏清涼殿を移築したもの。平面は六室に分かれ、中央南の御昼の間は清涼殿時代に昼の御座であった御帳の間の別称を残しており、広縁の欄間彫刻、天井、板扉の形式とともに近世宮室建築の姿を伝えている。内部の障壁画(重要文化財)は124面を数え、桃山前期の狩野派の手になるとされています。また、小方丈は伏見城の遺構といわれ、内部に探幽筆といわれる「群虎図」(重要文化財)40枚があり、「虎の間」と呼ばれていまる。
 大方丈前面の庭園は俗に「虎の子渡しの庭」と呼ばれ、小堀遠州の作と伝えられている。寺宝として南禅寺創建の経緯を記した「亀山天皇宸翰禅林寺御起願文案」(1299年、国宝)、開山の頂相「大明国師像」(重要文化財)などがある。

 法堂は開堂等法式行事の行なわれる場所で、内部には中央に釈迦如来像、獅子に騎った文殊菩薩、象王上の普賢菩薩の三体が祀られ、一面の敷瓦に巨大な欅の大円柱が林立しており、荘厳そのものである。天井には今尾景年画伯畢生の大作といわれる幡竜が画かれている。
 勅旨門は、寛永18年(1641)明正天皇より拝領した御所「日の御門」である。勅使の来山か、住持の晋山等に限って開かれる。 文化財のうち、襖絵以外は一般公開していない。

 境内に古びた赤煉瓦造りの水路がある。映画、テレビドラマでもたびたび登場するこの疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路である。滋賀県大津市で取水され、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上迄の区間である。疏水の工事は1881年に始まり、90年に竣工した。
 疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業、潅漑用水、防火用水などであった。ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、89年に蹴上に発電所が建設され、91年には送電を開始した。
 赤煉瓦のアーチを思わせる水道橋は、南禅寺の古めかしと紅葉に彩られ、今では一種の美を湛えている。
 塔頭のうち南禅院は亀山天皇の宸影をまつる檀那塔であるため、別格に扱われ、また以心崇伝が住した金地院には重要文化財建築や寺宝が多く、天授庵には「細川幽斎像・同夫人像」など、聴松院には「細川蓮丸像」、牧護庵(法皇寺)には「約翁徳倹像」の重要文化財絵画があり、これらの塔頭もあわせて拝観するとよい。

所在地:京都市左京区南禅寺福地町
交通:地下鉄京阪蹴上駅1番出口から徒歩10分。
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「南禅院」(なんぜんいん)

2006年08月30日 07時25分21秒 | 古都逍遥「京都篇」
 世界的にも名刹として知られる南禅寺の奥に足を進め、疎水をくぐり短い階段を上がったところに南禅寺の発祥の地である「南禅院」が佇む。
 鎌倉時代の中頃、文永元年(1264)亀山天皇はこの地に風光明媚を賞されて離宮禅林寺殿を営んだ。その後、天皇は深く禅宗に帰依して、正応2年(1289)、離宮で出家して法皇となり、正応4年(1291)離宮を寄附して禅寺とし大明国師を招いて開山したもので、亀山天皇離宮の遺跡となっている。

 諸堂は、明徳4(1393)年の火災で焼失し、北山御所の寝殿を賜って再興されたが、再び応仁の乱で鳥有に帰した。現存の建物は元禄16年(1703)5代将軍徳川綱吉の母、桂昌院の寄進によって再興され、総桧の入母屋造こけら葦である。内陣中央には亀山法皇木像(重要文化財)が安置され、襖絵は狩野養朴とその子如川随川の筆になる水墨画である。庭園の東南隅には亀山法皇の遺言により、分骨を埋葬した御陵がある。

 庭園は離宮当時の面影を残し、鎌倉時代末の代表的池泉廻遊式庭園で、周囲を深い樹木で包まれた幽邃閑寂の趣は格別である。作庭は夢窓国師といわれ、早くから天龍寺庭園、苔寺庭園とともに京都の3名勝史蹟庭園の1つに指定されている。向かって左の奥に滝口の石組は組まれ、これに続く上池は曹源池と呼ばれ竜の形につくられ中央に蓬莱島があり、池には心字島が設けられている。
記録によれば、築庭当初には、吉野の桜、難波の葦、竜田の楓などが移植され、井出の蛙も放たれたと記されており心静に鑑賞する庭園である。
 亀山天皇が禅に帰依し、離宮を禅寺として寄付したのは、都に疫病が流行、諸坊に命じ護摩を焚いて祓おうとしたが治まらず、高名な大明国師を迎え鎮めるように命じたところ、禅師はただ静かに坐念しているだけであった。しかし、不思議なことに怪異鎮まったという伝説がある。
 1昨年、300年ぶりに修復されて公開された瑠璃燈が見ものであった。深い眠りから解き放たれた「瑠璃燈」は南禅寺発祥の地といわれる南禅院の御霊(みたま)屋に安置されてある亀山法皇坐像前の天蓋(てんがい)として取り付けられたもので、(財)美術院国宝修理所で修復した結果、総数15万個のビーズを銅線でつないだ直径約1㍍の八角形の「縷縷燈」で、まるで孔雀が羽を広げたかのように美しい。
 六角宮殿形の釣燈籠は、上面三方に散蓮弁形の煙出孔を透かし、頂に金銅二重菊座切子頭の釣金具を装着してある。火袋は長押を巡らして各間とも上下三区に分け、上区は横、中区は縦に銅線を使って碧色の瑠璃玉を連綴し、各々横連子、簾障子風につくり、中区のうち2つを観音開き扉として、金銅素文の蝶番を付けている。

 所在地:京都府京都市左京区南禅寺。
 交通:地下鉄東西線「蹴上」駅下車、徒歩7分、市バス「南禅寺・永観堂道」下車、徒歩10分
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「藤森神社」(ふじのもりじんじゃ)

2006年08月27日 16時15分08秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都で名の知れた紫陽花の名所は、第一が宇治の三室戸寺、そして伏見鳥羽の戦いで新選組が陣を置いた所に近い「藤森神社」であろう。花の頃ともなれば、紫陽花の花か人の頭か分からなくなるほど境内は人で埋め尽くされる。
 藤森神社は、社伝によれば、神功皇后摂政3年(203)、この地に纛旗(とうき)を立て、塚を造り兵器を納め祀ったのが祖とされ、一説には 紀氏の祖神が祀られているとも伝えられている。
 蘇我氏の権勢の強い時代、この地を本拠としていた紀朝臣家はその風下にたっていたが、新興勢力の秦氏を押さえていたようである。しかし、大化の改新で蘇我氏の勢いが失われ紀氏も衰えを見せはじめ、この一帯は秦氏の支配する所となった。

 延暦13年桓武天皇より弓兵政所の宝称を授け遷都奉幣の儀式が行われた。
東殿は天平宝字3年(759)藤尾の地に鎮座。永亨10年(1438)藤森に合祀。淳仁天皇天平宝字3年深草の里藤尾の地に祀られ同時に舎人親王に対して崇道盡敬天皇と追贈した。
 藤尾の地は今の伏見稲荷の社地であったが、永亨10年後花園天皇の勅により将軍足利義教が山頂の稲荷の祠を藤尾の地に遷し、藤尾大神を藤森に遷座し東殿に祀られ官幣の儀式が行われたという。
 舎人親王は持統、文武、元明、元正、聖武の五朝の国政に参与し養老4年(720)には日本書紀を撰し、また、弓矢蟇目の秘法を伝えられ文武両道にすぐれていたことから皇室藤原一門の崇敬厚く、貞観の年(860)清和天皇の宝祚を奉って官幣の神事が行われた。これが深草祭(現藤森祭)の初めである。
 西殿は延暦19年(800)塚本の地に鎮座。延応元年(1239)深草小天皇へ遷座、文明2年(1470)藤森へ合祀。早良親王は光仁天皇の第二皇子で天応元年(781)4月1日皇太子にたたれた。当時陸奥では伊治大領皆麿が謀反して朝命に服さず勢力を増してきたので、親王は立太子と同時に征討将軍として直ちに軍勢を催し当神社に詣で戦勝を祈願し、出陣しようとしたところこれを伝え聞いて畏怖、たちまち乱は平定したという。延暦4年(785)事に座して淡路に流される途中死去した。

 不幸にして亡くなった伊豫親王、井上内親王の御霊が鎮まらないので淳和天皇の天長3年(826)正月5日に勅して、二柱の御魂を塚本の宮に合祀し官幣の御儀があった。西殿に祀られる三柱の神は斯く荒御魂神であられ朝廷の崇敬も厚かった。
 天喜3年(1055)9月、隣地法成寺より火を失して塚本の宮も類焼したが、白河天皇勅して大納言能信奉行して承暦元年(1077)12月に再建。
 建久3年(1192)後鳥羽天皇菅原故守をして官幣の儀があり。延応元年(1239)には藤原道家が塚本の宮を深草極楽寺南の地に遷して小天皇と称し祀った。その後、応仁の乱に社殿が兵火にあったため、小天皇の宮を藤森に遷して西殿に祀った。 
 本殿は宮中賢所の建物を正徳2年(1712)に下賜されたもので、現存する賢所としては最古のものである。その他重要文化財八幡宮社、大将軍社等の建造物がある。
 本殿東方の石垣で囲まれた高壇に巨樹の切り株に注連縄が巻かれている「旗塚」があるが、これは八幡信仰の名残である。紀氏が石清水八幡を祀っていたので、武神として取り入れたのであろう。または紀氏に使えた秦氏が持ち込んだものとの説もある。
 塚の上には「いちいの木」があり、今は枯れた株となっているが、かつては「いちの木さん」と呼ばれて腰痛にご利益があったようで、新選組局長の近藤勇も腰痛に悩まされて足しげく「いちの木さん」に通っていたという話も伝わっている。本殿脇に「不二の水」と名づけられた湧き水があり、戦国時代には勝運を授ける水としてご利益があるとされていた。伏見の銘酒を生む地下水でもある。

 藤森祭は毎年5月5日に行われているが、この祭は、菖蒲の節句発祥の祭として知られ、各家に飾られる武者人形には、藤森の神がやどると伝えられる。この日、勇壮な駈馬神事が行われ、さまざまな馬上妙技が披露される。
 6月15日には紫陽花祭が行なわれ、3、500株の紫陽花が咲き乱れる。

 所在地:京都市伏見区深草鳥居崎町609。
 交通:京阪電車「墨染駅」下車徒歩5分、JR「藤森駅」下車徒歩5分。
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「東本願寺」(ひがしほんがんじ)

2006年08月23日 18時47分45秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都というよりも日本全国で知られている本願寺は、元々は東山の麓の大谷にあって、親鸞聖人の遺骨と御影像を六角の小堂に納め、「廟堂」(びょうどう) 「御影堂」(ごえいどう) と称していた。
 その敷地に居住して御影に給仕し、堂をまもる役は、親鸞の息女・覚信尼の子孫に委ねられ、後に親鸞の曾孫・覚如上人(1270~1351)は、「本願寺」と改め、その住持についた。
 親鸞の教えを広く庶民の信仰にまで広めた第八代・蓮如上人(れんにょう・1415~99)の頃、大谷に五間四面の御影堂と三間四面の阿弥陀堂があったが、延暦寺衆徒が襲って破却した。その後、蓮如は越前吉崎に堂舎を建て、京都山科、大坂石山と本願寺を移した。

 織田信長の死後、一向一揆の対策のため、豊臣秀吉は本願寺に京都七条堀川の地を与え、1591年、御影堂と阿弥陀堂が移築整備された。1602年、徳川家康は本願寺第12代・教如上人に現在地の東六条に寺地四町四方を寄進、ようやくここに東本願寺が誕生した。東本願寺は正式には真宗本廟(しんしゅうほんびょう)といい、「真宗大谷派」の本山である。
 東本願寺の両堂は江戸時代、四度の火災にあい、現在の建物はすべて明治期になってから再建されたもので、御影堂は明治28年(1895)に再建された世界最大の木造建築で、親鸞聖人の御真影が安置されている。正面の長さ76㍍、側面58㍍、高さ38㍍で瓦の枚数が何と175、967枚にも及ぶ。阿弥陀堂(あみだどう)も明治28年に再建されたもので、本尊阿弥陀如来を中心に、北脇壇には親鸞聖人の御真影を安置し、南脇壇に蓮如上人の御影が掛けられている。
 この二堂の再建工事が明治13年10月に始まったが、巨大な用材を搬出する際、死傷
者が続出したり、引き綱が切れたりした。そこで信者をはじめとする多くの女性たちが黒髪を切り、それに麻を寄り合わせて編み「毛綱」を作った。この祈りが天に通じたのか、それからの工事は順調に進み見事に完成させたという。その「毛綱」(長さ110㍍、太さ40㌢、重さ1㌧)が今も保存されている。

 京都三大門の1つである御影堂門(大門)は、明治44年(1911)に再建、楼上の正面には真宗本廟の額が掲げられている。堂内には、中央に釈迦如来、左に阿難(あなん)尊者、右に弥勒菩薩の三尊像が安置されている。
 東本願寺は正式には真宗本廟(しんしゅうほんびょう)といい、「真宗大谷派」の本山で、宗祖・親鸞聖人(1173~1262)が説いた真実の教えに生きんとする真宗門徒の帰依処(きえしょ)で、道を求める人々の根本道場となっている。

 親鸞上人と真宗再興の祖といわれる蓮如上人について少し触れておこう。
 親鸞上人は、平氏一門が栄華をきわめていた承安3年(1173)、宇治にほど近い日野の地に生まれた。
 父は日野有範(ありのり)。身分の低い公家であったが、のち隠棲(いんせい)した。母は、源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)であると伝えられていますが、定かではない。
 一方、蓮如上人は応永22年(1415)、存如上人(本願寺第7代)の長男として、京都・東山大谷の地で生まれる。当時の本願寺は参詣の人も少なく、さびれた状況であった。17歳の時、青蓮院で得度。上人は親鸞聖人の著書「教行信証」などをとおして求道と勉学に励む。
 43歳の時、父・存如が亡くなり本願寺第8代を継職。その後、近畿・北陸・東海などの地域で教化活動をして、念仏者を次々と生みだしていく。寛正6年(1465)51歳の、比叡山延暦寺の衆徒らによって、大谷本願寺が破却される。蓮如上人は、近江の堅田・金森の地を転々とし、文明3年(1471)、越前吉崎に坊舎を建立。この地で、
庶民にわかりやすくつづった「御文(おふみ)」によって民衆を教化した。後に山科本願寺で真宗再興に尽くし、85歳で生涯を終える。

 所在地:京都市下京区烏丸通七条上る。
 交通:JR京都駅より徒歩5分、京阪電鉄七条駅より徒歩15分。

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「東寺」(とうじ)

2006年08月20日 18時19分01秒 | 古都逍遥「京都篇」
 古都・京都の象徴として知られている東寺の五重塔は、天長3年(826)弘法大師(空海)の創建にはじまるが、天災、火災などによって4回も焼失している。
 現在の塔は寛永21年(1644)徳川家光の寄進によって竣工、現総高55㍍、現存する古塔の中で最も高く、純和様の容姿を守り初重内部の彩色の落ち着きなど、江戸初期の秀作と賞されている。

 朝焼け、夕焼に映える五重塔のシルエットは、京都庶民におよばず訪れる人々に大きな感動を与えている。
 延暦13年(794)桓武天皇が、動乱の奈良から長岡京を経て平安京に都を遷し、羅城門の東西にそれぞれ大寺を設置。東寺が本格的に活動を始めたのは弘法大師の造営以後で、高野山を大師の修禅道場として開き、東寺はその修行によって得られた「利他行」の実践教育の場として広められた。「祈りなき行動は妄動であり、行動なき祈りは妄想である」との信念を貫き、水なき所に池を掘り、橋なき所に橋をかけ、道なき所に道をつけ、食の乏しき者には食を得る方法を教え、病む者のために良医となる道を歩んだ“行動派”
で、同時期の最澄・伝教大師とは異なった道を歩んだ。

 東寺の金堂(国宝)に安置される薬師三尊と十二神将は桃山時代の大仏師康正の名作で密教的な信仰の形を留め、講堂内の大日如来をはじめとする立体曼荼羅は平安時代(一部は後作)前期を代表する密教像の秀作。

 交通:JR京都駅から近鉄奈良線で東寺駅下車、徒歩5分。
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「天得院」 (てんとくいん)

2006年08月16日 10時42分09秒 | 古都逍遥「京都篇」
 鮮やかな新緑に包まれた東福寺通天橋。橋を渡ると緑なす海原の中を歩いているような錯覚すら覚える。秋には絶景なるかなの紅葉に覆われる。通天橋のたもとにある天得院が、特別拝観を行っていると知り訪ねてみた。

 臨済宗東福寺の塔頭の1つである当院は、正平年間(1346~70)東福寺第30世、無夢一清禅師が開創した。慶長19年(1614)に文英清韓(ぶんえいせいかん)長老が住持となったが、清韓は、豊臣秀頼の請に応じ方広寺の鐘名を撰文したことで知られている。だが、その銘文中の「国家安康、君臣豊楽」の文字が徳川家を呪詛するものとして家康の怒りを招き、寺が取り壊されれる運命となった。現在の堂宇は天明9年(1789)に再建された。

荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の句碑がある。庭園内は初夏の頃より土塀に沿って100㍍ほどにわたり桔梗や萩が花を咲かせ、霧島ツツジも色を添える。秋は楓が赤く色づき、白とピンクの山茶花の垣根が色を競う。
 苔に覆われた庭園には、田舎の民家の庭のように雑然と草花が茂っている。
その頓着のない景観と花々とが旨く溶け合っているという感じが妙に心を癒してくれるのだ。セラピー的というか、利休好みの「花は野にあるように」という「あるがままに」の自然を堪能できる空間である。堂内いたるところに京都の写真家水野克比古氏撮影の花の写真が飾られているが、これは少々興醒めの感がある。
 普段は隣接地に幼稚園を営んでおり、幼児たちの楽しげな声が東福寺内に響き渡ってくる。
 特別拝観は6月中旬~7月上旬、11月1日~30日。

 所在地:東山区本町15丁目802。
 交通:JR/京阪電鉄本線ともに東福寺下車、徒歩約7分、
 市バス JR京都駅八条口より特207系、四条河原町より207系「東福寺」下車徒歩5分。
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「東福寺」(とうふくじ)

2006年08月12日 18時43分04秒 | 古都逍遥「京都篇」
洛東の古刹の中でも、最も人気があるこの東福寺は紅葉の名所としても全国的に知られおり、イギリスのチヤールズ皇太子も故ダイヤナ妃とともに紅葉見物をしている。通天橋から望む紅葉は火山の火口を見るががごとく燃え上がる炎である。ここの楓は三葉楓といって、かつての宗国の原産である。雨の日もしっとりと濡れ、もやにかすむ紅は色香さえ感じる。
 最古最大の禅堂を有するこの東福寺は、摂政九条道家が、奈良東大寺、興福寺になぞらえ、京都最大の大伽藍を造営、1236年から55年まで、実に19年を費やした。開山にあたり聖一国師を仰ぎ天台・真言・禅の各宗派の堂塔を整えた。しかし、1319年、34年、36年大火災に遭遇し大部分失った。以降、復元されたが、明治14年にも仏殿、方丈をはじめとする重要建造物を焼失。大正、昭和にわたり復元され往時の大伽が甦った。

  応永年間(1394‐1428年)の建造とされる山門は日本最古のもので国宝。足利義持の妙雲閣の篇額(畳3枚大)を掲げ、楼上天井には画聖兆殿司・寒殿司の彩画がある。石組みと砂を配し、宇宙を思わせるような方丈庭園は、禅院式枯山水で東に北斗七星、西に大市松模様、北に小市松模様を表わし、鎌倉期の手法を用いて、重森三玲氏の手で昭和期に造営された八相庭である。書院の右手の偃月橋を渡ると室町庭園が見事な龍吟庵、その裏山に西郷隆盛直筆の碑がある。

交通:京阪電鉄東福寺、徒歩10分。   
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「天授庵」 (てんじゅあん)

2006年08月10日 15時52分08秒 | 古都逍遥「京都篇」
 南禅寺の南側の参道を右手に入った所に、南禅寺の塔頭の一つである天授庵がある。当庵は、南禅寺第15世の虎関師練が暦応3年(1340)光厳上皇の勅許を得て、開山第1世の無関普門(大明国師)を祀る開山塔を建立したのが開創。

 明徳4年(1393)と文安4年(1447)に焼失、さらに応仁の乱で荒廃したが、その後玄圃霊三の代の慶長7年(1602)に、霊三の法嗣雲岳霊圭が細川幽斎の妻光寿院の甥にあたることから、幽斎の援助を得て再興、以降細川家菩提所となった。客殿(国宝)はこのときのもので、表門(勅旨門・国宝)も細部様式からその頃の建築と考えられる。
 客殿は、六間取方丈形式の建物で、当初は仏間の背面に奥行一間の眠蔵が設けられていたものと考えられ、またつき止め溝を用いるなど、平面や細部に中世の伝統的な様式がみられる。室境の襖障子のうち、室中16面と上間及び下間各八面と細川幽斎夫妻像は長谷川等伯の筆になるもので、重要文化財に指定されている。
 この客殿は、近世初頭における禅寺塔頭の典型的な客殿建築として価値は高い。また表門は、慶長再興の一貫として建築されたもので、その意匠もすぐれている。

 庭園は本堂前庭(東庭)と書院南庭とに分れ、東庭は枯山水で正門より本堂に至る幾何学的な石畳が軸として配置されている。書院南庭は庭園構成として地割の上から見ると鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えている。庭園に設けられた東西大小の2池には出島が作られ、それぞれを巴形に組み合わせたうえで区切り、東池を西池より小いさくし堤を設けたもので、東池瀧組附近には暦応四年の創建当時に作庭されたとされる石組が残る。西池に蓬菜島を設け石橋を作るなど明治初年に改造を行った為に一見すると近世庭園のようにも感じられるのだが、改造が地割にまで及ばなかったため南北朝の古庭らしい雰囲気が
残されている。
 新緑の頃も心を癒すにふさわしい静けさがあり、紅葉のシーズンともなれば蓬莱山を覆う楓、東西の2池を紅で綾どられ目に痛いほど輝く。

 所在地:京都市左京区南禅寺福地町
 交通:市バス、東6番・東9番で蹴上(けあげ)下車、京阪電鉄京神線で蹴上下車、徒歩10分。
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「哲学の道」(てつがくのみち)

2006年08月08日 07時21分39秒 | 古都逍遥「京都篇」
 五山の送り火で名高い大文字山。北は銀閣寺から南は若王子(にゃくおうじ)に至る約1.5㌔の琵琶湖疎水分流沿いの小径。もともと「思索の小径」と呼ばれていたが、近代を代表する哲学者の西田幾多郎(1870~1945)が好んで散策し、思索にふけったことなどから「哲学の道」・「哲学の小径」と呼ばれるようになった。

 西田幾多郎は明治43年(1910)に京都大学哲学科の助教授に就任して以後、昭和三年(一九二八)に定年退官するまで、大学のすぐ近くに住んでいた。
 道沿いに丸い形をした背の低い西田幾太郎の石碑が建っている。碑の表面には、彼の人生哲学である「人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を 吾は行くなり」の文字が刻まれている。碑の建立は昭和56年(1981)で、石は少し赤みを帯びた鞍馬石。

 沿道近辺には銀閣寺、法然院、安楽寺、永観堂等、名所・旧跡も豊富で、春には約500本の桜のトンネル、初夏にはゲンジボタルの乱舞、そして秋の紅葉と四季それぞれに美しさを持ち、琵琶湖疎水分流のおだやかな流れとともに道行く人を楽しませてくれる。昭和61年、「日本の道百選」に選定された。取材の頃は石楠花、つつじが咲き、水面に花影を映していた。
 桜並木は日本画家・橋本関雪(白沙村荘)夫人が画伯の絵が売れた時に桜の苗木を買い求めて、当時は荒れ地の小道沿いに植樹されたという。
 この琵琶湖疏水の支流は南から北へと流れているが、大津から京都まで疏水が開通した明治23年(1890)、京都の北部地域の灌漑 (かんがい) 用水路として開削された。
 哲学の道は、休日は人の波であるが、平日になると人通りは少ない。木漏れ日の川沿の細道を歩いていると、土産物店の退屈そうな売り子さん、スケッチを楽しむ人、犬を散歩する人など、普段の京の暮らしに少し触れることができる。道沿いにベンチがあり、腰をおろしてせせらぎの水音を聞いていると、幼い頃に戯れた小川を思い出す。

「この道はいつか来た道・・・」、そんな郷愁を漂わせているところでもある。

 所在地:京都府京都市左京区。
 交通:JR・近鉄、京都駅より市バス5(銀閣寺・岩倉行き)、17(錦林
車庫行き)で銀閣寺道下車、東へ徒歩7分。
 京阪電鉄出町柳駅より、市バス17・203・急行102(錦林車庫行き)
で銀閣寺道下車。
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「直指庵」(じきしあん)

2006年08月06日 07時59分47秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「窓近き 竹の林は  朝夕に 心をみがく 種とこそなれ」(津崎村岡)

 奥嵯峨野は牧歌的景色がいまだに残る所であり、愛宕山を借景にして四季折々の風情にひたることができる。
 梅雨には少し早い五月雨が降る土曜日、奥嵯峨野に向かって車を走らせた。
仁和寺門前の通りから福王子の交差点を大覚寺へと向かうと、右手に広沢池がある。時代劇の撮影場所としてよく使われる弁才天社の小さな祠が見える細い道を右にハンドルを切ると、そこは田園風景が広がっている。

 後宇多天皇陵に向かう道すがらに竹林が覆い尽くし、雨に打たれてうす緑の竹葉から滴がしたたり落ちていた。ここから北嵯峨の領域となる。離合が難しい小径を右に入りほどなく走らせると祥鳳山直指庵がひっそりと竹林に見え隠れしていた。同庵は大覚寺の北に位置しており、紅葉の時節ともなれば車などはもう入れないほど人の列が続く。

 天明6年(1786)の拾遺(しゆうい)都名所図会(ずえ)には、大伽藍を連ねた壮大な全景が載せられてある。臨済禅を学んだ独照性円が南禅寺栖雲庵から正保3年(1646)に北嵯峨細谷に庵を結んだのが当庵の始まりとされている。
 独照性円が明の高僧隠元に黄檗禅を学び、その隠元をここに請じてから上下の帰依者が伽藍を建立し大寺院になったと伝えられている。寛文10年(1670)、冬のなかばの夕暮れ前のこと、独照性円は庵に坐し、枯松の枝が地に落ちるのを見て大悟し、寺号をさけて直指人心の旨を守り「直指庵」と号したという。
 その後、衰退して行くが、幕末の頃、近衛家の老女・津崎村岡が再建し、浄土宗の庵寺としたものの、明治12年(1879)に京に上った留守に賊の焼き討ちに遭い焼失する。明治32年(1899)に北嵯峨の有志ちの手によって庵が整えられた。

 津崎村岡は、天明6年(1786)に嵯峨大覚寺宮の家来、津崎左京の娘として生まれ、名を矩子(のりこ)と称した。寛政10年(1798)に近衛家の侍女として仕え名を村岡と呼ばれ、後に老女の地位に昇った。
薩摩の島津斉彬(なりあきら)の養女篤姫が十三代将軍家定の側室として江戸へ向かう折、その養母となって江戸城に入った。村岡の豪放才女ぶりに将軍家定をはじめ側近たちを驚嘆させたと伝えられている。
 安政の弾圧によって、主家・近衛家が謹慎・蟄居され、村岡も投獄された。
その後、解き放たれて村岡は嵯峨の戻り直指庵を再興して籠り、風月を友として里人たちの教養に努め近衛家代々の冥福を祈った。後、明治天皇から年々十石を下賜され、明治6年(1873)8月23日88歳で寂した。
 庵の傍の石柵に囲まれた村岡の墓は自筆で「津崎氏村岡矩子」と刻まれ、降りしきる五月雨に静かに包まれていた。境内の庭は一面苔の絨毯に埋め尽くされ、その一角にポツリと据えられた岩の上に置かれた小さな地蔵が無常の世界を醸し出していた。

 京都市右京区北嵯峨北ノ段町三番地。
 交通:市バス28系統 大覚寺下車徒歩20分
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