花言葉 「自然への愛」「持続性」、白木蓮は「高潔な心」「気高さ」。
イギリスの王宮植物園園長だったジョセフ・バンクス卿が中国からモクレンを取り寄せたときに、「枝先にユリの花が
ついている木」と評したから花言葉が「気高い」と云われるようになったもいう。
木蓮は紫色の花が主流だが、私は白木蓮のほうが好きだ。青空に向かって手を包むように祈りを捧げるように花開き、
光に透けて眩い神々しさに惹かれる。
私が生まれた九州の片田舎にたたずむ家の庭にも木蓮があった。紫と白の2本の花木が並んでいた。百日紅や桜、グミ、
枇杷、柿の木などもあったが花木は3種類だった。
古き時代は「木蘭(もくらん)」と呼ばれていたこともあるようで、花が蘭(ラン)に似ているからのようだ。
今日では、蘭よりも蓮の花に似ているとして「木蓮(もくれん)」と呼ばれるようになったという。
3~4月頃が開花期で、白木蓮の性質の1つが開花期に葉をつけないうちに桜の様に花を咲かせ、また、花は完全に開ききらず、斜め上向きに白い花を咲かせるのが特徴。
白木蓮とよく似た花を咲かせる「辛夷(こぶし)」があるが、同じモクレン科のモクレン属で、白い花を咲かせるので、
見間違うことがあるが、花の花びらは8枚あり、花が咲き始めると葉が出てくる。葉は花を隠してしまうくらい大きいです。樹丈は5m前後位まで生長し、横に広がりやすい。 生長が早いので、植付けをしてから数年でも4~5m位まで樹丈が伸びる。寒さや暑さに強いので育てやすい樹木のようだ。
さて木蓮は、地球上で最古の花木といわれており、1億年以上も前からすでに今のような姿であったようで、香水の材料としても使われている。白亜紀、第三紀の地層から化石が発掘されるそうだ。また、木蓮の仲間(コブシ、タムシバなど)は、「方向指標植物(コンパス・プラント)」と呼ばれているが、それは、つぼみの先端が「必ず北を向くから」なんだそうだ。日当たりのよい南側の方が早く成長し、バナナのように曲がって先端が北を向くからだ。
こんな話もあり、山歩きのハイカーなどに、方向を把握する目印とされているという。つまり、「夜の北極星(ポラリス)「昼のモクレン属」といって磁石がないとき方角の目印になったとも・・・。
中国が原産で、平安時代以前に日本に渡来。平安時代に編纂された和名類聚抄にはすでに木蓮があったことが書かれている。当初、漢方薬として渡来していて、渡来する前には辛夷の代用品として、日本原産の辛夷が使用されていたことから、現在、辛夷をコブシに当てて表記している。
千昌夫の「北国の春」で歌われることから知らない人はいないようだ。木蓮も辛夷も寒さに強く、北海道でもどちらも育つので、辛夷の方が格別寒さに強いってことはないです。コブシの名前の由来は種子がボコボコして「拳」のようだからとも、蕾が「拳」のようだからともいう。
では、木蓮にまつわる伝説をいくつか紹介しておこう。
[白木蓮と紫木蓮]
昔、玉皇上帝のきれいな娘は他の青年には興味がなく、ただ北の国の王を愛していた。玉皇上帝の娘は北の国の王が結婚したことも知らず、父の政略的な結婚に嫌気がさし、家出して彼を探し出したが、娘がそこに辿り着いた後で、彼が結婚したという事実を知り、ショックを受けて自殺をしてしまったが、北の国の王は、玉皇上帝の娘が自分を愛して死んだことを知って悲しみ葬儀を出した後、自分の妻である王妃を毒殺した。この話を聞いた玉皇上帝は彼らを哀れんだ。すると、二人の墓からそれぞれ花が咲き、姫の墓では白木蓮、王妃の墓には紫木蓮が咲いた。その後、二つの木蓮の花のつぼみは北を向けており、同じ場所で咲くことはなかったといわれている。
[中国の民話]
秦(チン)という姓の挙人(科挙の郷試に合格した人)がいた。或る時、秦挙人は鼻の病気に罹り、臭い膿のような鼻汁が流れ出るようになり、妻子も近付くのをいやがるようになった。医者も薬も全く効かなかったので、秦挙人は自殺も考えたが、友人の勧めで旅に出ることにした。
数ヶ月後、秦挙人は遠い南の地方の異民族の村に鼻の病気を治せる医者がいると聞き、その医者を訪ねた。異民族の医者は山に咲くある花の萼を煎じて秦挙人に飲ませた。秦挙人の病気は煎じ薬を飲み始めて半月程で治った。秦挙人家に戻ることにしたが、再発を心配して医者に薬をくれるように頼んだ。すると、医者は庭に植えるための種を持たせてくれた。
秦挙人は庭に種を蒔き、数年後には木々は大きくなって庭中に枝葉を茂らせた。秦挙人は鼻の病気の人には萼を摘んで煎じて飲ませて上げた。秦挙人は花の名前を医者から聞いてこなかったので、「辛亥(シンハイ。1911年)」の年に「夷族(イーヅー。異民族の意)」の医者から種をもらったという意味をこめて辛夷と名付けたという。
[九龍戯水]伝説
中国の桂林にある観光地に「九龍戯水」がある。岩肌から龍の頭や爪のような岩がせり出していて、龍が水と戯れているように見える。その龍は、玉帝に派遣されて木蘭の花をとりにきた神龍だという伝説がある。
花「モクレン」といえば、スターダスト・レビューの「木蘭の涙」という名曲がある。
《木蘭の涙》
歌:中村舞子 作詞:山田ひろし 作曲:柿沼清史
「逢いたくて 逢いたくて この胸のささやきが
あなたを探している あなたを呼んでいる
いとしさの花籠抱えては 微笑んだあなたを見つめてた遠い春の日々
やさしさを紡いで織りあげた 恋の羽根緑の風が吹く丘によりそって
やがて 時はゆき過ぎ幾度目かの春の日 あなたは眠る様に空へと旅立った
いつまでも いつまでも側にいると 言ってたあなたは嘘つきだねわたしを置き去りに
木蘭のつぼみが開くのを見るたびにあふれだす涙は夢のあとさきに・・・(略)
《俳句》
「木蓮の花許りなる空を瞻る」漱石
「木蓮に夢の様なる小雨哉」漱石
「子と遊ぶうらら木蓮数へては」山頭火
「絵本見てある子も睡げ木蓮ほろろ散る」山頭火
《短歌》
「春はただ盃にこそ注ぐべけれ智慧あり顔の木蓮の花」晶子
「木蓮の落花ひろひてみほとけの指とおもひぬ十二の智円」晶子
「白木蓮の花の木の間に飛ぶ雀遠くは行かね声の寂しさ」白秋
「玉蘭は空すがすがし光發す一朝にしてひらき満ちたる」白秋
《詩》
詩人 立原 純
(2018年3月10日)
[薄紫の首筋](木蓮の花)
木蓮の白き色艶が輝きを放つ時
季節は移り変わりゆき鮮やかに
薄紫に染まりし、君の首筋が
仄かに想ひの色艶を秘めて
凛と咲きほこる
光を受ける白き色艶の花顔は
何ぞを想ふか、風の声を受けて
振り返る人々の視線を集めども
知らぬふりして、君は首筋の色艶を
光に見せては仄かさの匂ひに染まる
移り変わる季節時計は
あまりの色艶に
振り向きざまに感嘆の声を
あげることだろう
君の白き色艶と、その薄紫の首筋に
何処ぞから引き寄せられる
蝶の姿でさへも
その匂ひに惹きつけられるけれど
凛とした色艶は、光の風を見つめる
いつしか、その風の中からも
何処ぞの花びらは飛びゆきて
その薄紫の首筋に花唇を寄せて
いくことだろう
光の中で染まる花顔よ
薄紫に染まりし、君の首筋が
仄かに色艶を秘めて咲きほこる
その輝く白き花顔と、仄かな首筋は
風の中の、誰に想ひを寄せるかや
(参考:ウィキペディア、その他ブログ等)
イギリスの王宮植物園園長だったジョセフ・バンクス卿が中国からモクレンを取り寄せたときに、「枝先にユリの花が
ついている木」と評したから花言葉が「気高い」と云われるようになったもいう。
木蓮は紫色の花が主流だが、私は白木蓮のほうが好きだ。青空に向かって手を包むように祈りを捧げるように花開き、
光に透けて眩い神々しさに惹かれる。
私が生まれた九州の片田舎にたたずむ家の庭にも木蓮があった。紫と白の2本の花木が並んでいた。百日紅や桜、グミ、
枇杷、柿の木などもあったが花木は3種類だった。
古き時代は「木蘭(もくらん)」と呼ばれていたこともあるようで、花が蘭(ラン)に似ているからのようだ。
今日では、蘭よりも蓮の花に似ているとして「木蓮(もくれん)」と呼ばれるようになったという。
3~4月頃が開花期で、白木蓮の性質の1つが開花期に葉をつけないうちに桜の様に花を咲かせ、また、花は完全に開ききらず、斜め上向きに白い花を咲かせるのが特徴。
白木蓮とよく似た花を咲かせる「辛夷(こぶし)」があるが、同じモクレン科のモクレン属で、白い花を咲かせるので、
見間違うことがあるが、花の花びらは8枚あり、花が咲き始めると葉が出てくる。葉は花を隠してしまうくらい大きいです。樹丈は5m前後位まで生長し、横に広がりやすい。 生長が早いので、植付けをしてから数年でも4~5m位まで樹丈が伸びる。寒さや暑さに強いので育てやすい樹木のようだ。
さて木蓮は、地球上で最古の花木といわれており、1億年以上も前からすでに今のような姿であったようで、香水の材料としても使われている。白亜紀、第三紀の地層から化石が発掘されるそうだ。また、木蓮の仲間(コブシ、タムシバなど)は、「方向指標植物(コンパス・プラント)」と呼ばれているが、それは、つぼみの先端が「必ず北を向くから」なんだそうだ。日当たりのよい南側の方が早く成長し、バナナのように曲がって先端が北を向くからだ。
こんな話もあり、山歩きのハイカーなどに、方向を把握する目印とされているという。つまり、「夜の北極星(ポラリス)「昼のモクレン属」といって磁石がないとき方角の目印になったとも・・・。
中国が原産で、平安時代以前に日本に渡来。平安時代に編纂された和名類聚抄にはすでに木蓮があったことが書かれている。当初、漢方薬として渡来していて、渡来する前には辛夷の代用品として、日本原産の辛夷が使用されていたことから、現在、辛夷をコブシに当てて表記している。
千昌夫の「北国の春」で歌われることから知らない人はいないようだ。木蓮も辛夷も寒さに強く、北海道でもどちらも育つので、辛夷の方が格別寒さに強いってことはないです。コブシの名前の由来は種子がボコボコして「拳」のようだからとも、蕾が「拳」のようだからともいう。
では、木蓮にまつわる伝説をいくつか紹介しておこう。
[白木蓮と紫木蓮]
昔、玉皇上帝のきれいな娘は他の青年には興味がなく、ただ北の国の王を愛していた。玉皇上帝の娘は北の国の王が結婚したことも知らず、父の政略的な結婚に嫌気がさし、家出して彼を探し出したが、娘がそこに辿り着いた後で、彼が結婚したという事実を知り、ショックを受けて自殺をしてしまったが、北の国の王は、玉皇上帝の娘が自分を愛して死んだことを知って悲しみ葬儀を出した後、自分の妻である王妃を毒殺した。この話を聞いた玉皇上帝は彼らを哀れんだ。すると、二人の墓からそれぞれ花が咲き、姫の墓では白木蓮、王妃の墓には紫木蓮が咲いた。その後、二つの木蓮の花のつぼみは北を向けており、同じ場所で咲くことはなかったといわれている。
[中国の民話]
秦(チン)という姓の挙人(科挙の郷試に合格した人)がいた。或る時、秦挙人は鼻の病気に罹り、臭い膿のような鼻汁が流れ出るようになり、妻子も近付くのをいやがるようになった。医者も薬も全く効かなかったので、秦挙人は自殺も考えたが、友人の勧めで旅に出ることにした。
数ヶ月後、秦挙人は遠い南の地方の異民族の村に鼻の病気を治せる医者がいると聞き、その医者を訪ねた。異民族の医者は山に咲くある花の萼を煎じて秦挙人に飲ませた。秦挙人の病気は煎じ薬を飲み始めて半月程で治った。秦挙人家に戻ることにしたが、再発を心配して医者に薬をくれるように頼んだ。すると、医者は庭に植えるための種を持たせてくれた。
秦挙人は庭に種を蒔き、数年後には木々は大きくなって庭中に枝葉を茂らせた。秦挙人は鼻の病気の人には萼を摘んで煎じて飲ませて上げた。秦挙人は花の名前を医者から聞いてこなかったので、「辛亥(シンハイ。1911年)」の年に「夷族(イーヅー。異民族の意)」の医者から種をもらったという意味をこめて辛夷と名付けたという。
[九龍戯水]伝説
中国の桂林にある観光地に「九龍戯水」がある。岩肌から龍の頭や爪のような岩がせり出していて、龍が水と戯れているように見える。その龍は、玉帝に派遣されて木蘭の花をとりにきた神龍だという伝説がある。
花「モクレン」といえば、スターダスト・レビューの「木蘭の涙」という名曲がある。
《木蘭の涙》
歌:中村舞子 作詞:山田ひろし 作曲:柿沼清史
「逢いたくて 逢いたくて この胸のささやきが
あなたを探している あなたを呼んでいる
いとしさの花籠抱えては 微笑んだあなたを見つめてた遠い春の日々
やさしさを紡いで織りあげた 恋の羽根緑の風が吹く丘によりそって
やがて 時はゆき過ぎ幾度目かの春の日 あなたは眠る様に空へと旅立った
いつまでも いつまでも側にいると 言ってたあなたは嘘つきだねわたしを置き去りに
木蘭のつぼみが開くのを見るたびにあふれだす涙は夢のあとさきに・・・(略)
《俳句》
「木蓮の花許りなる空を瞻る」漱石
「木蓮に夢の様なる小雨哉」漱石
「子と遊ぶうらら木蓮数へては」山頭火
「絵本見てある子も睡げ木蓮ほろろ散る」山頭火
《短歌》
「春はただ盃にこそ注ぐべけれ智慧あり顔の木蓮の花」晶子
「木蓮の落花ひろひてみほとけの指とおもひぬ十二の智円」晶子
「白木蓮の花の木の間に飛ぶ雀遠くは行かね声の寂しさ」白秋
「玉蘭は空すがすがし光發す一朝にしてひらき満ちたる」白秋
《詩》
詩人 立原 純
(2018年3月10日)
[薄紫の首筋](木蓮の花)
木蓮の白き色艶が輝きを放つ時
季節は移り変わりゆき鮮やかに
薄紫に染まりし、君の首筋が
仄かに想ひの色艶を秘めて
凛と咲きほこる
光を受ける白き色艶の花顔は
何ぞを想ふか、風の声を受けて
振り返る人々の視線を集めども
知らぬふりして、君は首筋の色艶を
光に見せては仄かさの匂ひに染まる
移り変わる季節時計は
あまりの色艶に
振り向きざまに感嘆の声を
あげることだろう
君の白き色艶と、その薄紫の首筋に
何処ぞから引き寄せられる
蝶の姿でさへも
その匂ひに惹きつけられるけれど
凛とした色艶は、光の風を見つめる
いつしか、その風の中からも
何処ぞの花びらは飛びゆきて
その薄紫の首筋に花唇を寄せて
いくことだろう
光の中で染まる花顔よ
薄紫に染まりし、君の首筋が
仄かに色艶を秘めて咲きほこる
その輝く白き花顔と、仄かな首筋は
風の中の、誰に想ひを寄せるかや
(参考:ウィキペディア、その他ブログ等)