「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「岩倉具視幽棲旧邸」(いわくらともみ)

2006年03月05日 18時23分35秒 | 古都逍遥「京都篇」
 晩夏の頃、襖絵の取材のため「実相院」を訪ねた折、明治維新の立役者となった岩倉具視にゆかりの地、「幽棲旧邸」に足を向けた。
 住処は六畳、四畳半、三畳三間の古家を借り、後に大工藤吉の家を購入し移り住んだのが現在の旧邸の北側の藁葺き平屋建てで、維新の志士達、玉松操、大久保利通、中岡慎太郎、坂本龍馬らが訪れ、王政復古の密議を交わした。この旧邸は、昭和7年、国の史跡に指定され、平成12年には邸内の「対岳文庫」の岩倉具視資料1、011点が重要文化財に、109点は京都市有形文化財の指定を受けた。

 岩倉具視は、文政8(1825)年9月15日京都に生まれ、天保9(1838)年10月従五位下に叙せられ、正三位岩倉具慶(ともやす)の養子となる。嘉永6(1853)年1月、摂関家鷹司政通の和歌の門人となり、対外問題の主導権を朝廷が掌握すべきと主張して政通から厚い信任を得て安政元(1854)年3月侍従に任じられ、のち左近衛権中将に昇任。この間、安政5(1858)年3月12日、通商条約勅許問題をめぐり、同志の廷臣88卿の参列に加わって勅許案改訂を建言し、関白九条尚忠の幕府委任案を一転させる。これ以降、難局打開と攘夷の実行を公武合体策に求め、万延元(1860)年には一時中座していた皇女和宮の将軍家茂への降嫁に加担。

 文久2(1862)年8月、尊攘論が台頭すると佐幕派と見なされ、千種有文、富小路敬直らとともに蟄居を命じられ辞官。ついには尊攘過激派から命を狙われ、家族ともども洛中から追放された。このため剃髪して落飾し、友山と称し、霊源寺、西芳寺、岩倉村と居所を転々とした。
 慶應3(1867)年3月入洛並びに帰宅一宿を許され、前権大納言中山忠能や薩摩藩らと提携し同年12月9日、勅勘を免ぜられて参内。同日の小御所会議においては熱弁を奮って王政復古と将軍家罷免を主張した。
 明治4(1871)年7月に外務卿、10月には右大臣となり、欧米使節団の特命全権大使となり、総勢46名を引率して11月12日横浜を出港。米大統領U・S・グラント、ヴィクトリア英国女王など欧米諸国の元首との会見を果たしたが、条約改正交渉の成果は得られなかった。

 所在地:京都市左京区岩倉上蔵町100。
 交通:叡山電鉄 鞍馬線「岩倉」より徒歩13分、京都バス21、23、24、28系統「岩倉実相院」より徒歩2分。

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