「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「本隆寺」(ほんりゅうじ)

2009年02月28日 18時20分30秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「不焼寺(やけずのてら)」、「夜泣き止の松」という面白い伝説がある古刹があると知り、ぶらりと出かけてみた。上京区の今出川通り智恵光院を北へ入った一筋目の五辻通の西北に、どっしりとした風格のある寺院にであった。ここが法華宗(真門流)の総本山慧光無量山本妙興隆寺、土地の人は略して「本隆寺」と称していた。

 本隆寺は、室町時代、妙顕寺の僧であった日真(にっしん)上人が、本迹勝劣を強調して師と意見を異にしたことから、長享2年(1488)に六角通西洞院に草庵を建て独立、本隆寺としたのが始まり。翌年、四条坊城に堂宇を構え、京都法華21ヶ本山(現在、16本山)の一つとして栄えた。天文法華の乱により、叡山僧兵の焼き討ちに遭い堺へ逃れたが、天文11年(1542)に後奈良天皇の勅許を得て一条通堀川に再興され、承応2年(1653)の大火により諸堂を失ったが本尊は無事であった。その後、万治元年(1658)に再建されたが、天明8年(1788)の大火により、再び山門・鐘楼・方丈・塔頭と悉く焼失したが、本堂・祖師堂・宝庫は焼失を免れ焼け残ったことから「不焼寺(やけずのてら)」と呼ばれるようになったという。現在、本堂は祖師堂とともに京都府指定文化財に指定されている。

 祖師堂の前にある「夜泣き止の松」は、第五世日諦(にったい)上人が境内で涙を流す婦人から乳児の育児を託されてしまった。母親がいなくなった乳児は母を慕い夜泣きがひどかった。上人は困り果て、乳児を抱いて題目を唱えながらこの松の木を回ると、ピタリと乳児が泣き止んだという。その後、この話が広まり夜泣きに悩む母親が、樹皮や松葉を持ち帰り枕の下に敷いたところ、子供の夜泣きが治ったという。現在の松は3代目といっていた。

 境内墓地には、広島藩浅野家の藩儒・黒川道祐(くろかわどうゆう)とその一族の墓がある。
 黒川道祐は、儒学者であり東洋医学にも精通した人物。また、今日ではよく見かける京都神社・仏閣の行事ガイド本を発行した人物としても知られている。他に、本堂正面階段東側傍らに、無外如大尼(むげにょだいに)が悟りを開いたという千代野井戸(ちよのいど)がある。
 言い伝えでは、無外如大尼(千代野姫)が満月の夜、この井戸で水を汲んでいた時、桶の底が抜けて月影が水とともに消えたので、仏道に入ったという。

 広い境内に本堂、祖師堂、方丈、鐘楼などの伽藍と、八つの塔頭があり、本堂には鬼子母神が祭られており安産祈願に訪れる人が多いという。
 比叡山に伝来した奈良時代書写の貴重な完本「法花玄論10巻」、平安時代後期の装飾経「法華経10巻<天正11年(1583)の寄進>」はいずれも重要文化財。寺のある紋屋町には、いまも西陣らしい雰囲気が残っていた。

 所在地:京都市上京区智恵光院五辻上ル紋屋町330。
 交通:市バス今出川大宮より徒歩5分(59・201・203系統など)、JR京都駅から地下鉄烏丸線で烏丸今出川駅6番出口より徒歩15分。
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「単伝庵」(たんでんあん)

2009年02月21日 23時38分43秒 | 古都逍遥「京都篇」
 今から200年ほど前、臨済宗妙心寺の単伝和尚が人々の不慮の災難を救うことを発願して、ケガ除け・厄除けの救苦観音を安置して祈祷修繕したのが単伝寺の由来となっている。
 別名らくがき寺といい、境内の大黒堂の壁に自由に願い事を書ける。

 お堂に祀られた大黒天によく見えるよう、願い事を書くと御利益があるといわれる。その大黒天は、「走り大黒天」と呼ばれており、南北朝時代、石清水八幡宮の改築に際して、楠正成が武運長久を祈願して奉納した楠木(くすのき)の残り株から彫られたもので、にこやかに微笑を浮かべて蓮華の実の上で袋を担ぎ走っている姿が刻まれている。台座には米俵が2俵用いられている。

 山門を入った正面には大黒堂という御堂がある。この御堂の白い内壁が、願いを託した落書きで真っ黒になっている。 落書きは、年齢や性別、時代を問わず、人間生活における心の遊びでもあるといえる。
 平城宮跡の発掘調査でも、木簡や土器などの遺物のなかに、いろんな落書きが見つかっている。
 さらに9世紀の嵯峨天皇の時代になると、落文(おとしぶみ)とか落首などと称して、政治、社会を批判するものがみられ、これらは匿名の文書を道に落としたり、門壁になどに貼り付けて衆人の目に触れさせるといったものであった。
 こうした落書きは、公式文書には見られず、人々の「本音」があり、当時の世情を知る重要な手がかりとなっている。

 当寺の栞には、『らくがき「人間は思わぬ様にはならぬ」とはいうものの、努力だけでは成就できないこともあります。大いなるものの力に後押しされ、はじめて努力も報われるものではないでしょうか。』と記され、直接当山へ参詣できない人のために、「願い事書き込み用紙」が用意されていて、郵送すると祈祷するとのこと。

 「救苦観音」のほかに、「五大釈迦」も安置されている。世の中のすべては、地・水・火・風・空の5つの元素(5大)の組み合わせにより世の中のすべてが出来ているとされており、この5大を型どった台座(方・円・三角・半月・台形の5つを組み合わせている)の上にお釈迦様を安置している。
 別の小堂には水子地蔵尊が祀られているが、清水をかける水があたりに見当たらない。柄杓だけが地蔵尊の脇に置かれてあった。大黒堂には「喘息(ぜんそく)」封じの仏様も安置されてあった。

 らくがき料は300円、駐車場は「愛の駐車場」と表示されており、駐車料500円を障害者施設などに寄付するとのこと。志納しないわけにはいかない。ただ拝観料が100円なので、京都市内の観光寺に比べれば安く、良いことに使われると思うと拝観してさらに心が晴れやかになる。
 拝観は土・日・月曜日のみの9時~15時、以外の日は予約が必要。

 所在地:京都府八幡市八幡吉野垣内33。
 交通:京阪電車八幡市駅下車、徒歩8分。
 
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 「淀城跡」(よどじょうあと)

2009年02月15日 18時59分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
「淀城」と聞くと、豊臣秀吉の愛妾・秀頼の母だった淀君の居城と思われがちだが、京・大坂を護る徳川幕府の要衝的な城だったもので、享保8年(1723)稲葉氏10万2千石の居城であった。
 明治維新で破却されたが、本丸跡の石垣と内濠の一部が残り、春は桜、夏は蓮の花が咲き、地元の人たちに親しまれている。また、淀君の館が淀城跡北東5百メートルの納所妙教寺あたりにあったと伝えられている。

 淀城跡は、京阪電鉄淀駅の西にあたるが、近くには、京都競馬場があり、城下町であった風情は忘れ去られているかのようだった。城跡の石碑は本丸跡に建っており、石碑の「淀城址」の文字は、子爵・稲葉正凱の手によるものとのこと。
 桂川、宇治川、木津川が合流する淀は、古代から交通の要所であった。西日本から淀川の水運によって平安京に運び込まれる様々な物資は、「淀津」で陸揚げされるのが通例で、中世には川の中島(現在の京阪淀駅周辺)に「魚市」が存在し、都に運び込まれる塩で加工した海産物や塩の販売を一手に掌握していた。
 また、戦国時代には戦闘の拠点として「淀城」がたびたび史料に登場するが、これは現在の納所付近に存在したようである。この古淀城は天正17年(1587)に淀殿の産所として豊臣秀吉によって修築されたが、伏見城の築城計画とともに廃城となった。 

 現在京阪淀駅の北西に隣接して石垣と堀が残る淀城は、室町末期、細川政元が築城しのち廃城になっていたのを、豊臣秀吉が弟の秀長に命じて修理させたが、その後廃城となった。後年、関が原の戦いのの火蓋の舞台となり、廃城していた伏見城にかわる新たな京都護衛の城として、古淀城の宇治川を挟んだ対岸の中島に元和9年(1623)から寛永2年(1625)にかけて築かれた。最初の城主は松平定綱で、寛永10年(1633)には新たな城主である永井尚政が入城する。この永井藩政時代に木津川流路の移動による城下町の拡張が行われた。次いで、寛文9年(1669)には石川憲之、宝永8年(1711)には戸田光熈。享保2年(1717)には松平乗邑と相次いで城主が変った。しかし、享保8年(1723)に春日局の子孫稲葉正知が城主となった後は、幕末まで稲葉家が城主をつとめた。歴代城主はいずれも譜代大名であるが、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは、敗走する幕府軍を入城させず、官軍側についた。このときの戦火で城下が焼亡した。(参考:財団法人 京都市埋蔵文化財研究所調査資料)

 所在地:京都市伏見区淀本町。
 交通:京阪京都線淀駅下車徒歩2分。
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 「清浄華院」(しょうじょうけいん)

2009年02月07日 12時06分30秒 | 古都逍遥「京都篇」
 寺町通広小路を上がったところに、いかにも古刹の風格を漂わせている山門が建っており、浄土宗大本山七ヶ寺の一つに上げられている「清浄華院」である。
 平安時代の貞観2年(860)清和天皇の勅願により、慈覚大師円仁(えんにん)が、天台、真言、仏心、戒律の四宗兼学の禁裏内道場として、土御門内裏(つちみかどだいり)の付近に創建され、御祈願などの清浄の業を精勤したという。当初天台宗に属していたが、浄土宗に改宗したのは後白河天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇が法然上人に帰依したことが縁となり法然にこの寺を与えたことにより浄土宗の寺院として発展した。

 天正13年(1585)豊臣秀吉の都市改造政策により、御所内から現在の地に移されたが、その後、再三の火災にあっている。
 現在の諸堂が再建されたのは明治44年(1911)。明治維新後も数人の皇族の位牌を供養したが、陵墓(りょうぼ)は宮内省(くないしょう)の所管となった。
 本尊を「法然上人御影像」とし、境内伽藍は御影堂(大殿)、大方丈、小方丈、御廟、納骨堂、三門、勅使門などから構成されている。

 寺宝としては、室町時代初期の身代り不動として知られている不動堂の「不動明王画像」で、証空が、師の臨終をむかえて身代りになろうとしたところ、不動明王が現れ「証空の身代りになろう」といわれて、師の病難を救ったという故事がある。重要文化財に指定されている宅間法眼の筆「紙本著色泣不動縁起絵巻」と唐普悦の筆「絹本著色阿弥陀三尊画像」は、ともに国立京都博物館に寄託している。

 当院は、除夜の鐘を撞くことができ、大晦日の午後4時頃から整理券108枚が寺務所で配布される。11時30分から住職が撞き始め、続いて参拝者が撞く。境内には竹明かりが灯され幻想的な雰囲気に包まれる。また、ぜんざいの接待もある。

所在地:京都市上京区寺町広小路上ル北之辺町395。
交通:京阪電鉄・叡電出町柳駅より徒歩約10分、市バス府立医大病院前停留所より約5分。
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「法蔵禅寺」(ほうぞうぜんじ)

2009年02月01日 11時18分29秒 | 古都逍遥「京都篇」
 鳴滝より周山街道を隔ててその北に三方を山にとりかこまれた小さな渓谷地がある。ここは仁和寺宮覚性法親王(鳥羽天皇皇子)の泉殿の旧跡地に因んで、泉谷(鳴滝泉谷町)と呼ばれている。仁和寺を過ぎて福王子神社の交差点を高雄方面に向かい、一つ目の点滅信号のところに嵯峨野病院の看板、その交差点を右折し、病院を過ぎたところを左に急坂を上ると右手に別荘を思わせる山門がたたずんでいる、ここが法蔵禅寺である。左折せず直進すると、時代劇や「京都地検の女」に登場する禅寺の「西寿寺」がある。

 鳴滝(なるたき)は、古くは小松の里とも長尾の里とも呼ばれた古い村落で、鳴滝川(御室川)がこの地に至って滝となり、滔々たる水声が遠くまで鳴りひびいたので鳴滝と呼ばれ、滝に因んで鳴滝村となった。周山街道沿いの民家の背後(鳴滝宅間町)に滝があり、幾段にも岩にせかれて落下しているのがみられる。
 西行法師は、「暫しこそ人目慎みに堰かれけれ果ては涙や鳴滝の川」(山家集、中、恋)と、その奔流に、悲恋に泣く想いを托してうたっている。
 また王朝時代には七瀬の霊所の一つとなり、滝のほとりの清浄な水辺をえらんで、禊祓(みそぎはらい)や祈雨祭等がおこなわれていたという。

 法蔵寺の方丈は、近衛家煕(予楽院)永代祈願所として寄進したものを改めたものと伝えられ、幾度か改修されている。近年まで無住の時代が続き、いつしか小寺となってしまったようだ。趣のある門前は楓が映える隠れた紅葉の穴場である。ぜひ秋に訪れることをお勧めしたい。寺宝は、近衛基煕の念持仏観音菩薩像、百拙元養禅師が描いた自画自賛像や黄檗高泉像、釈迦・文殊・普賢・十六羅漢図十九幅や七条仏師作の十六羅漢像、鳴滝乾山窯時代の陶片等がある。近衛家の家臣渡辺始興の描いた襖絵があったとされているが、現在は不明だという。

 乾山ゆかりの鳴滝窯跡は、境内背後の墓地の一角にある。
 乾山は絵師としてすでに名声を誇っていた兄の光琳の協力のもと数多くの作品を生み出している。制作は13年に及んだが、正徳2年(1712)に乾山(深省と改名)が住
居を二条丁子屋町(にじょうちょうじやちょう 中京区二条寺町)に移したことで鳴滝乾山窯は終わりを遂げる。二条に移ってからの深省(乾山)は、東山の清水等の諸窯に依頼して一般受けする色絵の美しい食器類を多く作って生計を立てた。享保16年(1731)69歳の時、深省は江戸へ下って入谷に住居を移し、以来京都に戻ることはなく、寛保3年(1743)に81歳の生涯を閉じた。
 
 鳴滝乾山窯は、その後、近衛家熙(このえいえひろ=予楽院)と親交のあった百拙元養(ひゃくせつげんよう)和尚が、享保16年(1731)ごろに、予楽院の出資を得、桑原空洞の旧宅をゆずりうけて黄檗宗(おうばくしゅう)の寺とした。
 百拙は京都の人で、高泉和尚の弟子となり、伏見大亀谷の仏国寺や但馬国(兵庫県)にあった興国寺の住職をつとめ、晩年泉谷に閑居し、寛延2年(1749)82歳で没した。詩歌、茶事及び絵画に長けていた、墓所は境内背後にある。

 所在地:京都市右京区鳴滝泉谷町19。
 交通:JR京都駅から市バス26系統で「福王子」下車、徒歩7分。阪急烏丸(四条烏丸)から市バス8系統で「福王子」下車。
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