「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「金峯山寺」(きんぷせんじ)

2011年04月28日 09時25分49秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 吉野山(吉野郡吉野町)から大峯山の山上ケ岳(同天川村)にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と呼ばれ、古代より広く聖域として崇められていた。この山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊「金剛蔵王大権現」を感得し、この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現在の大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(同金峯山寺蔵王堂)に祀った。これが金峯山寺の開創と伝えられている。山号は「国軸山」と称し、宇宙の中心の山という意味をもっているという。

 吉野山は、古き時代より桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあり、吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊(さくらもとぼう)、喜蔵院、吉野水分(みくまり)神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。
 平安時代から幾度か焼失と再建を繰り返し、現在の建物は天正20年(1592)頃に完成したものという。

 明治7年(1874)に政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となったが、明治19年(1886)に天台宗末の仏寺として復興した。昭和23年(1948)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、総本山として今日にある。

 では、散策路を順に案内しよう。

 ケーブル吉野山駅を出てしばらく歩くと、金峯山寺の総門である黒塗りの「黒門」(高麗門)がある。
 門をくぐり旅館やみやげ物店などの並ぶ参道の坂道を進むと、途中に聖地への入口、「銅鳥居」(かねのとりい/重要文化財)がある。俗界と聖地の境界を象徴する建造物で、吉野から大峯山(山上ヶ岳)までの修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、悟りへの四つの段階を象徴した門が設定されているが、そのうちの「発心門」にあたるのがこの鳥居でいわれている。鳥居の柱が蓮台の上に立っているのは、神仏習合の名残りで、東大寺大仏を鋳造した際の余りの銅で造ったと伝わるが、現存するものは室町時代の再建とされている。

 国宝に指定されている「仁王門」は、入母屋造、本瓦葺きの二階建ての二重門。軒先に吊るしていた風鐸(ふうたく)の銘から室町時代の康正2年(1456)の再建さされている。本堂が南を正面とするのに対し、仁王門は北を正面とし、互いに背を向けるように建っている。これは、熊野から吉野へ(南から北へ)向かう巡礼者と吉野から熊野へ(北から南へ)向かう巡礼者の双方に配慮したためという。

 国宝の本堂(蔵王堂)は、山上ヶ岳の大峯山寺本堂(「山上の蔵王堂」)に対し、山下(さんげ)の蔵王堂と呼ばれており、屋根は入母屋造檜皮葺き。2階建てのように見えるが一重裳階(もこし)付きである。豊臣家の寄進で再建されたといわれ、扉金具の銘から天正19年(1592)の建立と判明している。高さ34m、奥行、幅ともに36mもあり、木造の古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模ともいわれる豪壮な建築だが、優雅さもも漂わせている。内部の柱には、原木の曲がりを残した自然木に近い柱が使われていることが特色で、ツツジ、チャンチン、梨などと称される柱が用いられているそうだ。内陣には巨大な厨子があり、本尊として3体の巨大な蔵王権現像(秘仏)を安置されている。

 本堂前の広場に石柵で囲まれた一廓があり、4本の桜が植わっている。ここは、元弘3年(1333)、北条軍に攻められた大塔宮護良親王が落城前に最後の酒宴を催した地とされている。石柵内に立つ銅燈籠は文明3年(1471)の作で、重要文化財に指定されている。この他、本堂の南正面には現在は門がないが、かつてはここに二天門があったという。信濃出身の武士であった村上義光(よしてる)が、元弘3年、護良親王の身代わりとしてこの二天門の楼上で自害したと伝えられ、門跡には「村上義光公忠死之所」と記された石柱が立っている。

 所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山。
 交通:近鉄吉野線「吉野駅」からロープウェイ5分、「吉野山駅」から徒歩10分。
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「長谷寺」(はせでら)

2011年04月15日 07時30分10秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 奈良と伊勢を結ぶ初瀬街道沿いにあり、「枕草子」「源氏物語」「更級日記」などに登場する「長谷寺」は、牡丹などの花の寺としてしても知られており、中でも牡丹は、本尊供花として1100年前頃から栽培されている。シーズンともなれば151種7000株が咲き乱れ浄土の世界を醸しだす。このほか、紫陽花、睡蓮、秋の紅葉と、四季を通じて境内は美しく彩られる。

 創建は奈良時代、八世紀前半と推定されるが、詳しい時期は不明とされている。寺伝によると、天武朝の朱鳥元年(686)、道明上人が初瀬山の西の丘(現・本長谷寺)に三重塔を建立し、続いて神亀4年(727)に、徳道上人が東の丘(現・本堂)に本尊十一面観音像を祀って開山したとあるが、確かなものが正史になく伝承の域を出ていない。

 平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を多く集めており、万寿元年(1024)には藤原道長が参詣したとあり、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めている。元は東大寺(華厳宗)の末寺であったようだが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は興教大師覚鑁(かくばん)によって興され真言宗の流れをくむ寺院となっている。

 入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。国宝の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。仁王門は明治18年(1885)、下登廊、繋屋、中登廊は明治22年(1889)に再建された。

■本堂(国宝)
 本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前の部分は京都の清水寺と同じ「懸造」(かけづくり〈舞台造〉)になっている。近世前半の大規模本堂の代表作として、04年12月国宝に指定された。
 奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536)までに7回焼失。豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588)に竣工。豊臣秀吉により根来山を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。現存する本堂はその後、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645)に着工し、5年後の慶安3年(1650)に落慶したものである。
 全体の平面規模は間口25.9m、奥行27.1m。正堂は一重裳階(もこし)付きで、礼堂部分は入母屋造妻入りとなっており、礼堂の棟と正堂の棟はT字形に直交し、礼堂正面側には入母屋屋根の妻を大きく見せている。左右側面にはそれぞれ千鳥破風を付している。

■本尊木造十一面観音立像(重文)
 開山伝承に、神亀年間(720年代)、近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐れ慄いた村人の懇願を受けて開祖徳道が祟りの根源である神木を観音菩薩像に作り替えて祀ったとある。現在の本尊像は天文7年(1538)の再興したもので、10mを超える樫の「一木造」の巨像(三丈三尺六寸)は圧巻である。国宝・重文指定の木造彫刻の中では最大とされている。通常の十一面観音像と異なり、右手には数珠とともに、地蔵菩薩が持つような錫杖を持ち、方形の磐石の上に立っている。伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他の宗派には見られない独特の形式とされ「長谷型観音」と称している。

■銅板法華説相図(国宝)
 「千仏多宝仏塔」とも称し、法華経の見宝塔品(けんほうとうほん)で、釈迦が説法していたところ、地中から巨大な宝塔が出現したという場面を表現したもの。縦83.3cm、横75.0cmの鋳銅の板に宝塔と諸仏が浮き彫り状に鋳出されている。銅板の下部には長文の銘が刻まれ、天武天皇の朱鳥元年(686)に「飛鳥浄御原で天下を治めた天皇」の病気平癒のため、道明が作ったと記されているという。(奈良国立博物館に寄託)
 この他、当寺には、初代徳川家康から13代家定まで13幅の肖像画が伝えられており、いずれも衣冠束帯姿で神殿風の室内に坐し、像主を神格化して描かれているいる貴重な遺例といえよう。中でも家康像は江戸時代初期頃に描かれたもの。やや丸顔で口髭をはやし、衣服に牡丹唐草葵紋を入れ、繧繝縁の上畳に打敷を敷いて、物静かに坐した姿には品格が感じられる。
 当寺のシンボルとなっている「五重塔」は、戦後(1954)に建てられたもので、均整のとれた端正な姿は、周囲の樹木、堂宇とよく調和している。

 所在地;桜井市初瀬731-1。
 交通:近鉄大阪線「長谷寺駅」下車、徒歩15分。

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 「仏隆寺」(ぶつりゅうじ)

2011年04月07日 00時02分56秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 平安時代前期の嘉祥3年(850)に空海(弘法大師)の高弟・堅恵(けんね)により室生寺の南門として創建されたと伝わっているが、それ以前に奈良・興福寺の修円(しゅうえん)が創建したともいわれており、定かなところは判明していない。
 仏閣や本尊である十二面観音像(像高約1m)などについての由緒は歴史的評価はなく、もっぱら桜の寺、彼岸花の寺として広く知られている小寺である。

 特に桜は「千年桜」と称され、ヤマザクラとエドヒガシの雑種の「モチヅキザクラ」という珍しい種類で。樹齢は900年と言われ、根囲が7.7m、根株から2mのところで十一本に分岐している堂々たる巨樹である。07年4月12日朝のNHK「おはよう日本」の生中継放送で「鳥が飛び立つようだ」と表現していたが、まさにその表現にふさわしい優雅な姿である。
また近くには「高井の千本杉」や「本郷の又兵衛桜」、「大野寺の枝垂れ桜」、「瀧蔵神社の権現桜」と桜の名所も多く、桜花の時節には大勢の観光客、写真愛好家たちが押し寄せている。

 また、仏隆寺の辺りは、いかにも山あいの田舎っぽい、日本の原風景のような鄙びた風情があって、いつ行っても雰囲気がいいんです。桜や彼岸花・菜の花などの花が咲いている時はもちろん、稲穂が垂れている姿や、お地蔵さんが夕日に照らされている様子、「大和三名段」の一つとされる197段の石段など、また復元された水車小屋など日本の原風景が心を落ち着かせてくれる。

 資料としては、元徳2年(1330)の銘があるやや崩れかかっている「十三重石塔」や、平安時代の「宝形造」という様式の「石室(重文)」があり、その内部に堅恵の墓とされる五輪の塔がある。また、空海が唐から持ち帰ったお茶を栽培した「大和茶発祥伝承地」といわれており、そのとき持ち帰ったとされる「茶臼」が置かれている。
 晴れた日には境内に茶席が設けられ、オープンカフェ気分で空海に思いをはせながらお茶をいただくのもいいかもしれない。

 所在地:奈良県宇陀市榛原区赤埴1684。
 交通:近鉄大阪線「榛原」駅より 上内牧・曽爾村役場前行きバスで「高井」下車 徒歩30分。
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「向原寺」(こうげんじ)

2011年04月02日 18時43分05秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 崇峻5年(592)12月8日、敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が豊浦(とゆら)宮で即位された。我が国最初の女帝・推古天皇である。即位の日、甘樫の丘の麓では正装した群臣たちが勢ぞろいし、儀式がしめやかに盛大に行われたという。その即位の儀式が行われた宮跡に建っているのが、現在の「向原寺」である。

 縁起をみると、『日本書紀によると、わが国に初めて仏像や経論が伝えられたのは、鉄明天皇の13年(552)で、その仏像は蘇我稲目が戴き己がオハリタの向原の家を寺として祀ったとあり、このムクハラの寺が向原寺の起りあり、わが国仏法の根元、寺院最初の霊場であると記されている。
 当寺の最初の建物は、尾與等に焼かれたが、推古天皇はこの地に宮を移し、聖徳太子を摂政として政治を任せた。17条憲法が制定(604)され、法隆寺、四天王寺等が建てられ、飛鳥時代と呼ばれる文化が栄えた。推古天皇の後、都は飛鳥の岡本に移され、この宮の跡に寺が建てられ「豊浦寺」と称した。金堂、講堂、塔婆など完備した一大伽藍が飛鳥川のほとり、甘樫丘の麓に並べた。

 都が平城、平安と遷都されるにつれて、飛鳥の諸大寺と共に衰退の一途を迫り、伝わる昔の面影をまったく失っている。しかしながら当寺の由緒は国史に厳存し、出土の古瓦によって、飛鳥時代の創建が実証せられるばかりでなく、去る昭和34年の発掘調査によって多くの遺構遺物が発見され、壮大な伽藍配置など明らかになり、往時の盛観が偲ばれるに至った。』

 お寺の人に案内してもらい、発掘された遺構を見せてもらうとよい。飛鳥時代の遺構をそのままの姿で見ることができる。その脇には、須弥山石の仲間とも思える「文様石」がひっそりと置かれており、飛鳥時代に想いをはせることができる穴場である。
 当寺から南に20mほど入った民家の間に、「推古天皇豊浦宮跡」の碑と礎石があるが、残念ながら「豊浦宮」のものではなく、どうやら後の「豊浦寺」の塔の跡だという。

 『あすか川 ゆきたむ丘の 秋萩は 今日ふる雨に ちりかすぎなむ」(万葉集)
 訪れる人も少なく、いつも静かである。

 所在地:奈良県高市郡明日香村豊浦630。
 交通:近鉄橿原神宮前駅より奈良交通バス岡寺行き豊浦下車。
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「川原寺跡」(かわらでらあと)

2011年04月02日 18時30分49秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 古代日本の政治文化の中心であった飛鳥(奈良県明日香村)に所在した「川原寺」は別名「弘福寺」(ぐふくじ)と称し、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺に数えらた大寺院であったが、建久2年(1191)炎上、いったん鎌倉時代に再興されるが、室町時代末期に雷火で再び焼失し、以降衰退した。

 7世紀半ばの天智天皇の時代に建立された伝えられているが、さまざまな説があり「謎の大寺」とも言われている。
 『日本書紀』の白雉4年(653)条には「僧旻(みん)の死去にともない、追善のため多くの仏像を川原寺に安置した」との記事があるものの、「川原寺でなく山田寺であったかもしれない」とも付記されていて、創建の時期は謎のままだが、『書紀』の記述から見て、天武天皇2年(673)以前の創建であることは確かであろうと推測されている。

 天武朝以降、国が経済的な支えをする官寺が定められ、このころから仏教は、官寺を中心に国家の宗教として栄えるようになった。川原寺はこのような官寺の代表として、四大寺(大官・薬師・飛鳥・川原)の一つに数えられた。
 平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)はその本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった。平安時代最末期の建久2年(1191)の焼失後その姿を消し、発掘された瓦や土で作った仏像、堂塔の礎石以外には往時をしのばせるものはない。

 現在、寺跡は南大門、中門、廻廊などの旧位置がわかるように整備され、川原寺の法灯を継ぐ中金堂跡付近に建つ弘福寺(ぐふくじ)に重要文化財の木造持国天・多聞天立像(平安時代前期)が安置されいてる。
 昭和32年から34年に実施された発掘調査で、川原寺の伽藍配置は一塔二金堂式の特異なものであったことが判明し、「川原寺式伽藍配置」と称されている。川原寺では中門左右から出た廻廊が伽藍中心部を方形に区切り、廻廊の北辺中央に中金堂が位置する。廻廊で囲まれた区画内には中金堂の東に五重塔、西に西金堂が建つ。

 西金堂は現存する唐招提寺金堂と同様に正面を吹き放ちとした建築で、中金堂は正面三間、側面二間の母屋の四方に吹き放ちの庇をめぐらした開放的な建物であったことがわかっている。中金堂の礎石は他に類例のない瑪瑙石(めのう)使用(寺院神社大辞典より)されているのが興味深い。また、川原寺から出土する創建時の瓦は「複弁蓮花文瓦」と呼ばれ、8枚の花びらのそれぞれを二つに分けた様式をとっており、これが以後の瓦文様の主流になって行ったという。
 現在分かっている門は、南門・東門・中門からなり、南門と中門は単層(一階屋根)で規模も同じ程度。東門は、17.7m×15mの基壇に三間三間の重層(2階屋根)で威風堂々たるものであったという。西門はいまだ発見されていない。

 所在地:奈良県高市郡明日香村川原1109
 交通:近鉄橿原神宮前駅からバスで川原下車
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