「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「瑞泉寺」(ずいせんじ)

2007年06月28日 11時30分25秒 | 古都逍遥「京都篇」
 社伝によれば、「瑞泉寺」(慈舟山)は高瀬川を開削した豪商・角倉了以が慶長16年(1611)に創建、寺名は、京都誓願寺の法主教山上人が関白豊臣秀次に贈った「瑞泉寺殿高巌一峰道意」の法名に由来し、「慈舟山」の山号は賀茂川と高瀬川の「二川」を運行する「高瀬舟」に因んだという。

 高瀬川と平行して町屋が連なる木屋町通り、明治維新の激動の痕跡を数多く残すこの通りに、見逃してしまいそうな、悲劇を伝えている「瑞泉寺」がひっそりと佇んでいる。
 寺内にはいると悲劇の関白秀次一族の資料が展示されており、悲惨な歴史跡が胸を締め付けられる。寺宝「秀次公絵縁起一巻」(太閣秀吉に謀叛の疑いをかけられてから一族の処刑に至る悲劇の顛末を記述したもの)と、「瑞泉寺絵縁起 四巻」(秀次の自刃から一族の死、そして角倉了以と瑞泉寺の建立に関わる縁起を記述)したものなど歴史上まれに見ぬ悲劇がそこに描かれている。
 秀次一族の墓所や地蔵堂の引導地蔵尊と運命を共にした家臣や一族、49体の京人形が秀次公の無念さや悲惨さを感じる。

 ご住職に話を聞くと、一族の遺体を全て投げ入れた刑場の大穴に四角推の塚が築かれ、その塚殺生塚の上に秀次公の御首を納めた「石びつ」を据え、三条大橋を渡る人々への見せしめとしたという。その「殺生塚」のあった位置に現在本堂が建っているとのこと。またその「石びつ」は墓所の中央に奉られている。

 住所:京都市中京区木屋町通三条下ル石屋町114番地。
 交通:交通:阪急電鉄河原町駅下、木屋町通りを北へ10分、京阪電鉄三条駅下車西へ、木屋町通り徒歩5分。
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「蛸薬師堂」(たこやくしどう)

2007年06月21日 20時01分32秒 | 古都逍遥「京都篇」
三条通りの一筋南が華道・池坊で知られる六角堂がある六角通り、もう1つ南に下がった通りが魚の名のが付いた蛸薬師通りがある。この通りは、平安京の四条坊門小路にあたり、東は河原町通りから西は佐井西通西入ルに至る全長約3.5㌔にもおよぶ。

 この通りの寺町に接した所に「浄瑠璃山林秀院永福寺」があり、通称「蛸薬師堂」である。元は二条室町にあった。養和元年(1181)安徳天皇の御世、室町に1人の富者がおり、髪を落とし林秀と号していた。比叡山の根本中堂の薬師如来様を深く信仰しており、比叡山までの月参りを長年にわたって行っていた。老年になったある日、薬師如来様の仏前で、「私も、年老いて年来の月参りも出来なくなります。どうか薬師如来様のお姿を一体お与え下さい」と祈願して山をおりた。

 その夜、夢枕に薬師如来が現れ、「昔、伝教大師(最澄)が、私の姿を石に彫り、比叡山に埋めている。これを持ち帰るがよい」とお告げがあった。林秀は大喜びし、翌日、薬師如来様の示された所を掘ると、瑞光赫々とした立派な石の御尊像を得る事が出来た。これを持ち帰り、六間四面のお堂を建立し永福寺と名付けましたのが、蛸薬師堂の始まりと伝わる。以来、利生盛んで、多くの老若男女が参詣し門前も栄えたという。

 では何故、薬師如来が蛸薬師如来と称されるようになったのか、その由来を尋ねてみると、このような伝説を話してくれた。

 「後深草天皇の御世、建長(1249~1256)の初めの頃善光と言う僧がこの寺に住しておりました。
 「ある時、母が病気になり寺に迎えて看病していましたが、一向に病はよくなりませんでした。
 母は、『子供の頃から好物だった蛸を食すれば病が治るかもしれない』と善光に告げました。しかし、善光は僧侶の身で、蛸を買いに行くことを躊躇しておりましたが、病弱な母のことを思うといてもたってもいられず箱をかかえて市場に出かけ、蛸を買って帰りました。

 これを見た町の人々は僧侶が生魚を買った事に不審を抱き、善光のあとをつけて寺の門前で、箱の中を見せるようにと彼を責めました。善光は断ることも出来ず、一心に薬師如来様に祈り『この蛸は、私の母の病気がよくなるようにと買ったものです。どうぞ、この難を助け下さい』。

 箱を開けると蛸はたちまち八足を変じて八軸の経巻となり霊光を四方に照らしました。
 この光景を見た人々は皆合掌し、南無薬師如来と称えると不思議なことに、この経巻が再び蛸になり、門前にあった池(今の御池通の由来となった御池)に入り、瑠璃光を放って善光の母を照らすと、病気はたちまち回復しました。
 
 それ以来、蛸薬師堂の蛸薬師如来様と称されるようになりました」と。
 それ以降、この地で病気平癒を祈ればたちまち回復し、子を祈れば子宝を授かり、諸難が消除し、これが天に聴こえて後花園天皇の嘉吉元年(1441)には勅願寺となった。

 門前通りは、平安時代は四条坊門小路と呼ばれていたが、天正19年(1591)に、豊臣秀吉の都市改造に際して、永福寺(蛸薬師堂)が妙心寺に合併され、現在地に移転されたためという。

 所在地:京都市中京区新京極蛸薬師東側町503。
 交通:阪急「四条河原町」徒歩5分、新京極通を北へ300m。 
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「岩屋寺」(別名大石寺)(いわやじ)

2007年06月14日 22時41分21秒 | 古都逍遥「京都篇」
 岩屋寺は、赤穂義士で知られる大石内蔵助を祀る大石神社から少し南に下がり、坂を上った静かなところにある。大石内蔵助が山科で暮らしていた住居跡が境内にあり、大石寺(おおいしでら)とも呼ばれている。

 創建は平安時代初頭といわれ、興亡を繰り返し、比叡山三千坊の1つで、山号を「神遊山」と号し、曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺元々は天台宗だったそうだが、変遷する過程で次第に荒廃した。古来は隣接する山科神社の神宮寺と伝えられるが、説明を聞くと古文書が焼失しているため、詳しいことは分からないとのことだが、嘉永年間(1848~54)に堅譲尼が京都西町奉行浅野長祚(ながよし・浅野公の末裔)等の寄付をうけて再興したという。

 本堂に安置する本尊不動明王は三井寺(園城寺)を開山したと伝えられている智証大師円珍作智証大師の作と言われ、隠れ住んだ大石内蔵助の念持仏になっていたという。本堂のすべての本尊が開帳される50年に一度となっているようで、次の開帳は2051年とのこと。境内に鳥居があるが、これは内蔵助が伝えた弁財天とのこと。内蔵助はここで足かけ三年暮らし、吉良邸討ち入りの準備をした。あだ討ち成就の後、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進したが、邸宅は取壊され、その廃材で茶室が作られたという。外観は改装されているが、内部は当時のままだという。

 傍らの梅の木は内蔵助が討ち入り前に苗を植えたもので、およそ討ち入りから300年も経つ古木ということになるだろうが、果たして梅の木は300歳も生きられるのだろうか、私にはわからない。

 撮影は出来なかったが、討ち入りに使った槍や、内蔵助の数々の遺品、討ち入り前に作られたとされる47士の木像、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)や47士の位牌など、貴重なものを多数見ることができ、毎年12月14日は義士祭が行われる。

 所在地:京都市山科区西野山桜馬場町96。
 交通:京阪バス「大石神社前」下車徒歩10分。
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「臨川寺」(りんせんじ)

2007年06月09日 09時48分40秒 | 古都逍遥「京都篇」
 夢窓国師の眠る寺として知られる臨川寺は、嵐山の渡月橋東側、料理店「良彌」の西隣にある。大堰川を前方に嵐山を眺望できるこの寺は、建武2年(1335)、夢窓国師によって臨済宗天龍寺派霊亀山臨川禅寺は開創された。

 この地は亀山殿の別館川端殿(川端宮)があったが、のちに亀山法皇の皇女昭慶門院嘉子内親王に賜り、さらに女院は後醍醐天皇の皇子世良親王を養子とし、川端殿を譲られた。親王は元翁本元(仏徳禅師)に師事し、川端殿を禅院に改めようとしたが果たせなかった。そこで後醍醐天皇は親王の遺志をつぎ、併せて親王の菩提を弔うべく、夢想国師を請じて開山としたもので、国師はその後、天龍寺の開山となったが、晩年は臨川寺を以って隠居所とし、また親王と国師の塔所に弥勒堂を建立し「三会院」と称した。

 境内の東に仮山水をつくり、自ら竹を植え、篩月軒や竹亭友雲庵をつくり、観応2年(1351)9月、77歳の高齢を以って示寂し、遺骸は当寺に葬られた。当寺はその後、五山十刹の第2位となり隆盛を誇った。
 しかし、応仁の乱につづく数度の火災に罹災し、諸堂の多くを失った。現在は本堂・書院・中門などが残っているだけだという。

 開山堂には国師の木像が安置されている。足利義満の筆による「三会院」さんねいん)の額(中門の上)をはじめ書院中の間にある狩野永徳による16面の襖絵「水墨花鳥図」および枯山水(龍華三会の庭・昭和期の作)の庭園など往時を偲ぶものが多く残る。

 京都市の文化指定財である本堂・三会院は、後醍醐天皇が臨川寺を龍華三会の寺とすることを願って名付けた。三会とは、弥勒菩薩がこの世に下生して華林園の龍華樹の下で3度の法会を開いて衆生済度の説法をされたという故事にちなんだもの。

 当寺は非公開となっており、諸堂を見ることが出来ないが、良彌の料理処「京都嵯峨料理 奥の庭」は、臨川寺の庭を借景にしていることから、龍華三会の庭(枯山水庭)を楽しむことができる。秋は燃え立つ紅葉に覆われ、紅の炎に包まれる。

 「本堂(三会院)」(江戸期)は、正面に裳階のごとき屋根を付して重層とみせ、外まわりは柱だけを立てて吹放しとし、正面中央に両開きの桟唐戸、左右両脇に花頭窓をつける。内部は床瓦敷とし、中央須弥壇上に弥勒菩薩坐像。左脇壇上に夢想国師坐像を安置し、その奥につづく開山堂(祀堂)は、国師の塔所となっている。

 「書院」(江戸期)住宅風の建物で、内部は水墨山水図等、16面からなる障壁画があり狩野永徳筆。
現在一般の拝観を受け付けておらず、無住なので問い合わせも受け付けていない。

 所在地:右京区嵯峨野天竜寺造路町
 交通:市バス四条河原町より11系「嵐山」下車すぐ、阪急嵐山線「嵐山」下車徒歩8分。
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