「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

 「柳生の里」(やぎゅうのさと)

2010年11月25日 21時07分28秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 柳生新陰流で知られる剣豪・柳生の里は奈良市の東北部、京都府との県境にあり日本の原風景が残る自然豊かな里である。ひっそりと隠れ里で独自の剣法を磨いていた柳生一族が世に出たのは、柳生石舟齋宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)が徳川家康に無刀取りを披露し、その兵法、人を生かす「活人剣」の極意が認められ、その後、嫡子の柳生但馬守宗矩(たじまのかみむねのり)が家康、秀忠、家光三代にわたって指南役として仕え、将軍警護、相談役、諜報活動などの仕事を多岐にわたって尽力、徳川の右腕として活躍した。最盛期には一万二、五〇〇石の大名となり、大目付けの要職にもついた。
 柳生家の祖先は、倒幕失敗で都落ちした後醍醐天皇に「南に頼るべき大きなくすの木があります」と大南公、楠木正成を紹介したと伝えられている。

 柳生の里の見どころをご紹介しよう。
■旧柳生藩陣屋跡
 柳生但馬守宗矩が、亡父・石舟斎宗厳の菩提を弔うために芳徳禅寺を建立、次いで正木坂の上に陣屋の建築を始め寛永19年(1642)に完成。その後宗冬が増築・整備をしたとある。しかし延享4年(1747)に全焼。仮建築のまま明治維新を迎え、柳生藩庁舎として使用されていたものの、その後公売された。現在は史跡公園として整備され礎石などの遺構が残っている。

■旧柳生藩家老屋敷・石垣
 のどかな田畑を歩いていると立派な石垣が見えてくる。柳生藩家老・小山田主鈴の旧邸である。主鈴は国家老として江戸から奈良に移り、柳生藩南都屋敷を預かって藩政の立て直しに携わり、それを成功させた。65歳で隠居し、藩主より下賜されたこの地に屋敷を構えた。石垣は天保12年(1841)に尾張の石工が築いたもので、屋敷は嘉永元年(1848)に建てられた。主鈴は安政3年(1856)75歳の長寿をまっとうした。
 その子孫は明治4年(1871)の廃藩置県後もこの地にとどまっていたが、昭和31年、後裔が奈良市内の大森町への引っ越しにともない土地の人の手に渡った。昭和39年に、作家の山岡荘八氏が買い取り、柳生宗矩を主人公にしたベストセラー小説「春の坂道」の構想を練ったといわれている。山岡氏の没後は奈良市に寄贈され、今は資料館として小山田主鈴や旧柳生藩に関する書物や使用した道具類、山岡氏の遺品などを展示している。

■柳生八坂神社
 正木坂と陣屋の中ほどにあるのが、この柳生八坂神社、最近改修され本殿は鮮やかな朱塗り。拝殿はいかにも歴史を漂わせた奥ゆかしさを覚える。

■白梅と石仏
 閑静な町並みの所々に姿を見せるのが、巨石に掘り込まれたお地蔵さんである。静かに凜と佇んでいる姿は、柳生剣の妙法に迫る不思議な気配を感じる。

■十兵衛杉
 寛永3年、柳生十兵衛三厳が諸国探索に旅立つのに際し、先祖の墓参りに行ったときに植えたと伝えられている一本杉は、樹齢350年余が経っているが、無残にも落雷によって枯れていた。

■一刀石
 芳徳禅寺から東南へ約700m行ったところの山中に神秘的な古社で巨石をご神体とする「天之岩立神社」(あまのいわだてじんじゃ)がある。その近くに剣の修行地だったといわれる一帯があり不思議な4つの巨岩が点在しており、その一つが「一刀石」である。天狗の爪跡という言い伝えもある岩だが、約7m四方の巨石で柳生石舟斎
が天狗だと思い一刀のもとに切り捨てた。翌朝、天狗の姿が消え中央から2つに割れた巨石だが残っていたという。

■疱瘡地蔵(ほうそうじぞう)
 柳生から奈良市内に至る柳生街道の柳生側入口近くに、約3mの大きな花崗岩に浮彫りされた大磨崖仏で疱瘡よけを祈願して彫られたいうお地蔵さんがある。その名の由来は昭和44年にすぐ下の土の中から発見された時に顔の部分が剥落しており疱瘡にかかったように見えたからだそうだ。

 お土産としては、山田錦を磨き抜いて造った大吟醸の地酒「春の坂道」が人気だ。また郵便局の近くにある小さな店に展示されている「柳生焼」も素朴で温もり感があっていい。
 
 所在地:奈良市柳生町155-1。
 交通:近鉄奈良駅2番出口から奈良交通バス柳生行き(所要時間49分)、柳生下車、徒歩5分。
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「元興寺」(がんごうじ)

2010年11月17日 23時49分57秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 蘇我馬子が飛鳥の地に創建した「元興寺」は、日本最初の本格的な寺院「法興寺」が平城遷都にともない、養老2年(718)に平城京左京外京の現在地に移転した頃に改名されたもので、1998年12月に「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録された。
 猿沢池と三条通りを挟んで北には興福寺が位置している。飛鳥の地にそのまま残ったものは「本元興寺」となり、飛鳥大仏で有名な現在の「飛鳥寺」となっている。

 奈良時代には、三論宗・法相宗の道場として、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていたようで、その大きさは、南北440m、東西220mにおよび、創建当初の講堂は、間口11間、丈六の薬師如来坐像と脇侍、さらに等身の十二神将像が祀られ、現在の奈良町界隈は全て元興寺の寺内町だったというから、全盛期には壮大な大寺院であったと想像できる。 
 また、七四九年の各寺院の墾田の記録では、「東大寺が四千町歩、元興寺が二千町歩、大安寺・薬師寺・興福寺が一千町歩、法隆寺・四天王寺が五百町歩」だったとのことで、南都の中でも東大寺に次ぐ位置にあったようだ。

 東大寺・興福寺の勢力を増していくなか、元興寺は次第に衰退して行くが、天平時代の学僧「智光」が描かせた本尊「阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)」が、平安末期の末法思想や阿弥陀信仰の流行とともに再び信仰を集めるようになったが、その信仰の中心で学僧智光法師が居住した禅室であった極楽坊は元興寺から独立、江戸時代には西大寺の末寺として、真言律宗の寺になった。
 その変遷のなか元興寺は世界遺産となっている「元興寺(極楽坊)」と、五重塔を祀っていた「元興寺観音堂」「元興寺小塔院」の3つの寺院に分裂した。五重塔も観音堂も江戸時代末期に焼失し、現在は極楽坊の南側に「元興寺塔跡」として残っている。

 本堂は、寄棟造の「妻」側(屋根が三角見える側)を正面とし、柱間を六間と偶数(通常は奇数)にしており、堂内は「智光曼荼羅(レプリカ)」を祀った内陣を、四方から参拝できる形になっている。正面から見ると、「葺寄菱格子欄間」という細かな菱形の欄間と、下の引き戸の格子との構造が美しく、時を忘れて楽しめる。また西側の屋根瓦は、上部が細く下部が幅広くなる独特の形で、「行基葺(ぎょうぎぶき)」という形式になっており、元興寺の前進、飛鳥時代の「法興寺」から移築された瓦まで残っているという。
 奈良時代作の五重小塔は、収蔵庫に安置。高さ5.5mほどの小塔だが、内部構造まで省略せずに忠実に造られており、「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定されている。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺(奈良市法華寺)の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築様式を伝える資料として貴重である。

 上下2巻からなっている『元興寺極楽坊縁起絵巻』は、元興寺極楽坊と本尊である智光曼荼羅図の由来について、19段からなる絵と詞により説いており、下巻によれば、元禄14年(1701)、旧来の縁起が傷んだため、元興寺住職であり西大寺長老でもあった尊覚律師の需めにより、安井門跡であった道恕(1661~1733)が新調に及んだことを記している。道恕は画を好んで狩野永納に学び、人物花鳥画に秀いでていたという。詞書の筆遣いは道恕の能書家ぶりも良く示しており、享保5年(1720)には奈良・與喜天満宮大鳥居の銅製額銘も揮毫している。道恕は後に第189代東寺長者となっている。一方、絵様は金泥彩色を各所に施して仕上げられているが、絵師の名は不明である。

 所在地:奈良市中院町11。
 交通:JR奈良駅から徒歩20分、近鉄奈良駅から徒歩10分。
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