「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「長岳寺」(ちょうがくじ)

2012年10月21日 07時44分19秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 日本最古の歴史街道といわれる山の辺の道のほぼ中間点に位置している高野山真言宗の寺院で、山号は釜の口山(かまのくちさん)という。天長元年(824)享和天皇の勅願により弘法大師(空海)が大和神社の神宮寺として創建した古刹で、最も盛んなころは塔中48ヶ坊、宗徒300余名をかぞえたという。

 大門をくぐり両側に平戸つつじの生垣が続く玉砂利の参道を行くと、12,000坪の広くて静かな境内には四季おりおりの花の香りが漂い、安らぎに包まれる花と文化財の寺である。
 特に狩野山楽筆の大地獄絵図は圧巻で、毎年10月23日から11月30日まで本堂にて開帳され、住職の現代風絵解き「閻魔の嘆き」も行われる。

 9幅の軸から構成されているが、全体が1枚の絵となっている。図の上部全体に十王裁判図(合わせて13仏)、図の中程から下部にかけて、冥界の入り口である墓地、罪問間樹、死天山、三途の川、奪衣婆賽の河原、八大地獄、餓鬼道、畜生道、修羅道など、すざましい情景が描かれている。第9軸は一変して、極楽より阿弥陀如来が聖衆を引き連れて極楽往生する人を迎えにくる、いわゆる聖衆来迎図となっている。元々、この絵を使って絵解きがされたものと思われ、祭礼、法要のあとに参詣人を対象に勧善懲悪の教えを説いたと考えられる。この絵に示される、すざましい三悪道(地獄、餓鬼、畜生)や修羅道の世界は形を変えてすべて現代社会に存在するものだろう。 

 本堂は天明3年(1783)に再建された建物で、阿弥陀三尊像と多聞天・増長天立像を安置している。本三尊像は、玉眼(像の眼の部分に水晶を嵌め込む技法)を用いた像で制作年代の判明する最古例としても知られる。
大門は寛永17年(1640)再建当寺の総門で、肘切り門の異名があり僧兵と刀鍛冶の伝説がある。

 鐘楼門(重文)は日本最古のものといわれ、寺伝では弘法大師による創建当初から現存する建物とある。
五智堂(重文)は、鎌倉時代には西方約1kmの飛び地境内にあり、その形から傘堂あるいは眞面堂ともよばれている。
貞ん中に太い心柱があり建物を支えている。心柱上剖に四佛の梵字額があり全体で五智如来をあらわしている。
旧地蔵院(重文)は寛永7年(1630)に建造されたもので、室町時代の書院造りの様式を残し、美しい庭園も配している。四十八ヶ坊あった塔中の内、唯一残ったもので、今は庫裏として使われている。また、当院本堂(重文)はその翌年の寛永8年(1631)に建てられたもので延命殿ともいわれ、普賢延命菩薩を本尊とする庫裏の持仏堂で小さいながら桃山風で美しい。正保2年(1645)に建立された大師堂には弘法大師像が安置されている。

 所在地:奈良県天理市柳本町508。
 交通:近鉄天理駅から桜井方面行き、または近鉄桜井駅から天理方面行きバスに乗り長岳寺で下車、徒歩5分。

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「甘樫の丘」(あまがしのおか)

2012年10月13日 07時33分43秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 明日香村豊浦にある標高148mの丘陵で、東西に数100m、南北に1kmほど広がっている。丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっており、眼下に飛鳥古京(明日香村内)の集落、北側に大和三山(畝傍山、耳成山、香具山)とその中央に位置する藤原京(橿原市内)さらに遠くの生駒山、二上山、葛城山、金剛山系の山並みを望める展望広場や、万葉集などに歌われた植物を散策しながら楽しめる万葉植物園路なとが設けられている。

 大化の改新以前に、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたという。
大化改新によって入鹿が中大兄皇子に倒された直後、蝦夷はその邸に火をかけて自害したといわれ、東麓にあたる場所(甘樫丘東麓遺跡)に遺構が発掘され、焼けた建築部材・土器などが出土した。この位置が大化の改新の際中大兄皇子が陣取ったとされる飛鳥寺と対峙することや、土器の年代観が、この時期に一致することなどから、調査地の上方に蘇我邸が存在していたという。

 古くから誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座した。允恭天皇のとき、盟神探湯(くかたち)が行われた。
 山腹には明日香村の保全に尽力した犬養孝氏揮毫の万葉歌碑がある。
 「采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」(志貴皇子)
 [采女の袖を吹き返した明日香風は、都が遠のいたので、今はただむなしく吹いている]
 志貴皇子は天智天皇の第七皇子。694年12月、持統天皇によって明日香から北の藤原に遷都された。皇子は旧都に佇み、吹く風のなかに美しい采女の幻想を懷いた。

 所在地:奈良県高市郡明日香村
 交通:近鉄橿原神宮前駅より奈良交通バスに乗車、甘樫丘下車徒歩約5分。
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「斑鳩神社」(いかるが じんじゃ)

2012年10月12日 07時29分45秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 法隆寺の北東の天満山に位置し、菅原道真を祀る斑鳩神社は、法隆寺鎮守4社の1つで寺の鬼門の守護神として天慶年中(938以降)に、法隆寺第9代管主湛照僧都(たんしょうそうず)により建立され、地元では「天満さん」の名で親しまれている。
 当初は天満山の西麓に位置していたが全焼再建を経た後、水害のため享保10年(1725)に現在と同じ山上に移ったと伝えられる。明治2年(1869)には、法隆寺境内にあった総社明神、五所明神、白山権現が遷祀された。

 境内には、唐破風付きの割拝殿、春日造りの本殿、一殿、二殿と惣社、五所社、白山社、大将軍社、厳島社、恵比須社の六社が祀られている。

 10月中旬には、家内安全と五穀豊穣を願って、5台のふとん太鼓が練り繰り広げられる。法隆寺5地区の鎮守社「斑鳩神社」の神霊を神輿とする、法隆寺境内の御旅所へ渡御される古来からの儀式である。室町時代頃から中断していたが、明和3年(1766/江戸中期)に復活され、その後、文化年間(1804~1818/江戸後期)に神輿迎えの太鼓台が登場したが、明治元年神仏分離令から一時期中断。明治10年復活して、御旅所を中門・ 妻室・綱封蔵東側広場へと変えつつ現在に至っている。

 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-11。
 交通:JR大和路線「法隆寺駅」下車、法隆寺東大門から北へ徒歩5分。
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「法隆寺」(ほうりゅうじ)

2012年10月05日 21時29分37秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、とくに平成5年(1993)12月には飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録された。
 創建の由来は、「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747)の縁起文によって知ることができるが、当寺の説明によると、用明天皇が自らの病気の平癒を祈って寺と仏像の造立を誓願したが、その実現をみないままに崩御されたため推古天皇と聖徳太子がその遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造建したのが始まりという。

 現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分かれている。
広さ約18万7千平方メートルの境内には、飛鳥時代をはじめとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつらね、多くの宝物類が伝来している。国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及んでおり、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めている。
 東院伽藍方面から見てみると、秘仏「救世観音」(国宝)が祀られている「夢殿」(国宝)は、天平11年(739)聖徳太子を偲ぶため、かつての住居があった斑鳩宮の跡地に建設された。八角円堂で平安・鎌倉期に大修理が行われているという。

 本尊の特別公開は、春と秋に各1ヶ月ずつ。長い間、完全な秘仏として扱われてきただけあって、7世紀の木造仏だというのに金箔もきれいに残っていて神秘さを感じる。このほか夢殿には、「聖観音菩薩像」(平安時代)や「行信僧都像」(奈良時代)なども祀られている。また、鴟尾(しび)と鬼瓦。時代の重さと優雅さを感じさせてくれる。
 夢殿の南側にある「礼堂」(重文)は元は中門だったとか。北側にある「絵殿・舎利殿」(重文)の内部は見られなかったが、中央が馬道(めどう)のように空いた建物で、奥手には「伝法院」(国宝)がある。
その周囲を「廻廊」と礼堂、絵殿・舎利殿で取り囲んであり、連続した木製の格子窓(連子窓(れんじまど))美しい。

 一方、西院伽藍には法隆寺らしい「五重塔」(国宝)や「金堂(国宝)」などが立ち並ぶ、法隆寺の中心部で、仁王像を配した「中門」(国宝)は飛鳥時代の建立で、正面の柱間を「4間」と偶数で、門の真ん中に柱が来てしまう珍しいもの。中門に立つ「阿形像」(重文)は、和銅4年(711)作の日本最古の金剛力士像で、雨風が当たる位置にあるためこれまでに何度も修復されており、後の時代には南大門を守っている。また、「吽形像」(重文)は、江戸時代の大修理の際に、頭・右腕以外の部分は木造に改造されたそうだ。天平期らしい力強さのある塑像で珍しく何の囲いも無く間近に見られる。

 「五重塔」(国宝)は、高さ約37mあるが、一番上の層と一番下の層では、一辺が半分程度で上部に行くほど細くなっていて、より高く見えるように作っており、内部には釈迦の入滅を表した「涅槃像土」(国宝)が安置されている。
 永祚2年(990)に造られた入母屋造りの「大講堂」(国宝)の内部には、平安時代作の「薬師三尊像」(国宝)
と「四天王像」(重文)が祀られている。

 西院伽藍の東側部分にある聖徳太子を祀った「聖霊院」(国宝)は鎌倉時代に建てられた、いかにもお堂らしいとても厳かな印象の建物で、ぜひ内部に入って天井や格子扉なども見ることもお勧めしたい。なお、保安2年(1121)の改築の際に開眼供養が行われた本尊の「聖徳太子坐像」(国宝)は秘仏となっていて、年に数日しか拝観できない。その奥の「東室」(国宝)と、向かい側の「妻室」(重文)は、いずれも元は僧房だった建物。
 これに加え、「夢違観音」「百済観音」「九面観音」などなど、飛鳥時代前後の貴重な仏像が多く見られるのが唯一法隆寺以外にない。

 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1。
 交通:JR「法隆寺駅」下車、徒歩20分。
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