「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「梅宮大社」(うめみやたいしゃ)

2007年09月27日 10時20分57秒 | 古都逍遥「京都篇」
 阪急嵐山線「松尾」駅下車、改札口を出て右の方向に曲がり松尾橋を渡る。罧原堤四条交差点から市道嵐山祇園線(四条通)を東の方向に約400㍍進むと信号のある交差点に着く。梅宮大社への参道標識を見てその交差点を左の方向に曲がり直進すると梅宮大社の鳥居が見える。

 当社は今から凡そ1300年前、橘氏の祖・諸兄(もろえ)公の母、県犬養三千代(あがたいぬかい みちよ)が、橘氏一門の氏神として始めて祀った神社である。その鎮座の地は山城国相楽郡井出庄(やましろのくにそうらくぐんいでのしょう)すなわち、今の綴喜群井出町付近であったと伝えられている。

 其の後、天平宝字年中、1250年ばかり前に、聖武天皇の妃・光明皇后と藤原武智麻呂(むちまろ)夫人の牟婁(むろ)女王が奈良の都に御遷座になり、更に泉川(木津川)の上流かせ山を経て平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ<檀林皇后>)によって現在の地に遷し祀られた。当時、皇后は親しく行啓して盛大な祭儀を行われたが、神前で雅楽が奉納されたことは、此の時を最初の例とし以来、梅宮祭は4月上の酉の日に行われ、雅楽祭の名を高めたという。

 仁明(にんみょう)天皇は、1150年ばかり前、承和年中にこの祭を特に名神祭という国家の主要な神祭の中に加えられ、醍醐天皇の代に定められた延喜式(えんぎしき)では、国家の制度にのっとり、名神大社というもっとも高い格式に置き、祈年祭(としごいまつり)・月次祭(つきなみさい)・新嘗祭(にいなめさい)には朝廷からの幣帛(へいはく)を新饌台(しんせんだい)の上に載せて奉るという、案上の官幣と呼ばれる最高の儀礼をもって祀られた。更に日本中で特選された22の大社の中に加えられ、明治の初めには官弊社に列せられた。

 初めて酒を作って神々に献じた酒造の祖神である酒解神(さかとけのかみ、大山祇神)、およびその御子神である酒解子神(さかとけごのかみ、木花咲耶姫命)、その夫の大若子神(おおわくごのかみ、瓊々杵尊)、孫の小若子神(こわくごのかみ、彦火火出見尊)を主祭神として本殿に祀る。相殿に嵯峨天皇、その子の仁明天皇、嵯峨天皇の后の橘嘉智子(檀林皇后、橘嘉智子の父の橘清友が祀られている。

 木花咲耶姫命は瓊々杵尊と結婚すると一夜にして懐妊したが、これを瓊々杵尊が疑う。この疑いを晴らすため、木花咲耶姫命は砂の上に室屋をつくり、自身の貞節を天地神明に誓いその中に入り火を放ったが、炎の中で何の支障もなく彦火々出見尊を安産したという。この言い伝えにより、橘嘉智子皇后が懐妊したとき社殿の砂を床の下に敷いて仁明天皇を出産したが安産だったとされていることから、梅宮大社は「子授け、安産の守護神」として知られている。

 また、相殿に祀られている嵯峨天皇は日本三筆の一人であり、橘氏は日本最初の学校を創設したことから、「学業成就祈願」の神社として、また、仁明天皇は横笛の名手で、我が国で最初に雅楽を作曲したことから「音楽芸能の神」を祀る神社としても知られている。

 楼門の横に枝振り優れた五葉松が在り特に色が美しい。御本殿を囲む様に東神苑、北神苑、西神苑と在り、緑と水の間に年中花が絶えない。東神苑の咲耶池の周りには、杜若、花菖蒲、霧島つつじが咲き、島の中にある茶席「池中亭」(嘉永4年/1851)は「芦のまろ屋」と呼ばれている。

 平安時代の梅津の里の風景を歌った百人一首、

 「ゆうされば かどたのいなば おとずれて
    あしのまろやに 秋風ぞふく」(大納言 源 経信)

 北神苑には、紅玉池の周りに花菖蒲、八重桜、平戸つつじが咲き、日陰には紫陽花が咲き乱れる。西神苑は梅林で、ラッパ水仙が道路に沿って咲く。
江戸の中頃に本居宣長(もとおりのりなが)が、梅宮に献木の梅に添えて

 「よそ目にも その神垣とみゆるまで
    うえばや梅を千本八千本」と詠んだのは有名。

 そして椿は神苑全体に亘って植えてあり、約50種類もある。四季折々の花が楽しめるところでもある。

 所在地:京都市右京区梅津フケノ川町30。
 交通:阪急嵐山線「松尾駅」下車、徒歩15分。JR京都駅より市バス28系・嵐山・大覚寺行き、梅の宮大社前下車すぐ。
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「北向山不動院」(きたむきざんふどういん)

2007年09月19日 22時17分49秒 | 古都逍遥「京都篇」
 近鉄京都線竹田駅で下り、住宅街の中を歩いて行くと、こじんまりとした不動院がある。古刹という印象より典型的な町中の寺院という雰囲気を漂わせている「北向山不動院」である。

 大治5年(1130)鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建、伝教大師(最澄)によって開山されたと伝わり、本堂に大師が自ら刻んだ不動明王を王城鎮護のため北向きに安置したので天皇から北向山不動院の名を下賜された。

 久寿2年(1155)に播磨国大国の庄を寺領として、藤原忠実が中興にあたったが、のち応仁の兵火で焼失したが、朝廷の保護厚く近世に復興した。現在の本堂は正徳2年(1712)に東山天皇の旧殿を移築したもの。境内鐘楼にかかる梵鐘は二品済深親王の御銘があって、元禄7年(1694)名士名越浄味によって鋳造されたと伝わる。

 御詠歌は「はるばると したいきたれる きたむきざん いままのあたり おがむうれしさ」

 所在地:京都市伏見区竹田内畑町36。 
 交通:JR京都駅より近鉄京都線に乗換え、地下鉄と共有の「竹田駅」下車、6番出口を出て徒歩約10分。



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「護王神社」(ごおうじんじゃ)

2007年09月12日 16時00分52秒 | 古都逍遥「京都篇」
護王神社は、はじめ洛西の高雄山神護寺の境内に和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)の霊社として祀られていたが、確かな創建年は伝えられていない。
 古くから「護法善神」と称され、嘉永4年(1851)、孝明天皇は和気公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授け、明治7年(1874)、「護王神社」と改称して別格官幣社に列した。
 
 明治19年(1886)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門前の現在地に社殿を造営、姉君の和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)を合わせ祀り遷座された。
 その後、崇敬者により境内に霊猪像(狛いのしし)が奉納され、いのしし神社とも呼ばれ、特に亥年生まれにご利益があるとされ、今年が当たり年であることから参拝者が後をたたない。

 境内には、全国から奉納された多数の猪が展示されている。その種類は土鈴・置物・色紙・絵馬といったものから本物の猪の剥製までさまざまで、日本のものだけでなく外国のいのししグッズも多数陳列されている。また、日本銀行券としてかつて発行されていた10円券は、1890年から1945年まで発行されたものは一貫して和気清麻呂公と護王神社が描かれたが、そのうち1890年に発行されたものは表面の枠模様の中に八頭の小さな猪が描かれ、さらに1899年に発行されたものは裏面に大きな猪が一頭描かれた。

 では、和気清麻呂公について簡単に紹介しておくと、天平5年(733)、現在の岡山県和気町で誕生、長じて都へ上り、朝廷に仕えた。

 奈良時代末、称徳天皇の神護景雲3年(769)、当時法王となり権勢をふるっていた弓削道鏡は、天皇の位を我が物にしようと、太宰府の習宜阿曽麻呂に宇佐八幡より「道鏡を皇位に就かせたなら天下は太平になる」との御神託があったと奏上させた。
 これに驚いた称徳天皇は、清麻呂に宇佐八幡へその御神託が本当かどうかを確かめさせることした。そこに道鏡が清麻呂公を呼び、自分に有利な報告をすれば、大臣にしてやろうと誘惑した。清麻呂公は宇佐八幡に着くと、身を清めて御神前に進み、ひれ伏して、
「真意を示したまえ」と叫びました。
 すると、光の中から宇佐の大神が現れ、次のような御神託を下した。
 
  『我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以て君と為すこと 未だあらざるなり。天つ日嗣ぎは必ず皇儲(こうちょ くわう)を立てよ。無道の人は 宜しく早く掃い除くべし』
(我が国は始まって以来、君主と臣下との区別がはっきりしている。臣下の者を君主とすることは未だかつて無いことである。天皇の後継者には必ず皇族の者を立てなさい。
無道の者は早く追放せよ)

 清麻呂は都へ帰ると、このことを堂々と称徳天皇に報告し、身を賭して道鏡の野望を挫いた。
 天皇の側でこれを聞いていた法王道鏡は大変怒り、清麻呂公と清麻呂の姉にあたる広虫姫(早くから宮廷に仕えていた)を死罪にせよと怒鳴ったが、天皇は道鏡をなだめ、2人とも死罪にするのは忍びないと、罪一等を減じて、清麻呂を大隅国(鹿児島県)へ、広虫姫を備後(広島県)へ流罪にした。

 清麻呂が大隅へ出立すると、道鏡の放った刺客が清麻呂公を襲ってきましたが、突然雷鳴が鳴り響き、豪雨が降り出して、辺りは真っ暗闇になった。そこへ勅使も駆けつけて、刺客達は逃げ去る。しかし、清麻呂はこのとき足の筋を切られていた。
 途中、清麻呂は、御神託によって皇室の御安泰が守られたことを感謝するため宇佐八幡へ向かった。

 一行が豊前国に差し掛かったとき、どこからともなく300頭もの猪が現れて、清麻呂の輿の周りを守りながら、宇佐八幡までの10里の道のりを無事に案内し、またどこかへ去って行った。すると足の痛みも不思議に治っていた。

 それから1年が経ち、朝廷では称徳天皇の崩御により、道鏡は失脚、光仁天皇によって清麻呂と広虫姫は許されて都へ呼び戻され、豊前守、摂津太夫を務め、また民部省の長官として「民部省例」を整備したり、和気氏の子弟を教育するために、我が国初めての私学
「弘文院」の創設に力を入れるなど、晩年まで世のため人のために尽くしたという。

 表門の北側に空高くそびえ立つ巨木は、御神木のカリンの木で、樹齢100年を超え京都の巨樹名木百選にも選ばれている。
 平成10年、清麻呂公1200年祭を記念して、境内北側に造形作家の松本繁来氏の作による、清麻呂の銅像が建てられ、台座の「和気清麻呂公」の文字は茶道裏千家家元千宗室氏による揮毫。
 また、像のすぐ後ろには、国歌「君が代」に詠まれる「さざれ石」があり、幅3㍍、高さ2㍍もある。

 所在地:京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町
 交通:地下鉄烏丸線「丸太町」から徒歩八分。市バス51系統、 烏丸下長者町停下車すぐ。
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「法輪寺」(ほうりんじ)

2007年09月06日 10時02分57秒 | 古都逍遥「京都篇」
 萬呼山「法輪寺」は、北野天満宮ゆかりの紙屋川畔にあり、通称「だるま寺」の名で親しまれている。

 享保13年(1728)、室町の両替商「伊勢屋」荒木光品宗禎居士(末孫荒木正勝氏当主第19代目現存)の一寄進で、七堂伽藍を建立、時の高僧萬海和尚を開山に迎えて創建された臨済宗妙心寺派別格地の古刹である。

 鐘堂は明治維新に崩壊したが、梵鐘は境内の大藪の地中深く埋めたとの口伝があり、昭和8年、第10代伊山和尚代のとき、庫裏新築工事の最中発見されて掘り出された。発見されたその時、梵鐘の中に白蛇が籠っており、それはあたかも古梵鐘を護るかのようであったという。

 梵鐘は、京三条釜座の名工藤原国次の鋳造とされ、12調子の中の夷則調の音色で、その響きは聞く者の心魂に徹する。
 またこの当時、寺内宇堂も整備され少林寺拳法道場なども開かれており、いずこにも大小無数の達磨が置かれ、その多くに真に優しい顔だちのものもあり、七転八起の教えを示しているかのように思える。

 およそ八千余をまつる達磨堂は特に有名で節分は参詣者で賑わう、本堂には、映画創業以来の関係者四百余の霊がまつられていて、貴空磨寺や島津源蔵、夫婦の念持仏をまつる学神堂等がある。
達磨竹の逆さ竹を中心に印度、中国産の竹の珍種も繁茂し、本堂の東側には禅の悟りの段階を示す十牛の庭、南側に白砂の上に苔で心字を描き出したユニークな庭がある。

 訪れる人はほとんどおらず、境内は狭が静かで、参道には紅白の芙蓉が優しく咲き、本堂前の苔むす美しい庭園には早くもすすきが秋の気配を感じさせていた。

 所在地:京都市上京区下立売通御前通西入2丁目
 交通:JR京都駅前より205系統バス(B3乗場)で円町(えんまち)下車、徒歩3分。 
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