「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ)

2007年10月24日 23時08分35秒 | 古都逍遥「京都篇」
 比叡山は東山36峯の北の端にあって、その中では一番高い山で、霊峰と崇められる由縁がそこにもある。都の北の鬼門にあたることもあり遷都を成した桓武天皇の加護も受けた歴史ある山岳寺院である。

 東大寺の戒壇で具足戒を受けた最澄(伝教大師)は、延暦4年(785)、政治的争いから逃れて奈良での修学を中止し、比叡山に籠り独学で仏教の研究を始めた。延暦7年(788)、最澄が平安京の鬼門鎮護の為に山上で薬師如来を刻み、一乗止観院(現在の根本中堂)を建てたのが延暦寺の始まりと伝えられている。

 遷都が行われた平安京は、藤原小黒麻呂の調査で風水と方位を司る四神相応の都であるとされ、東の青龍(鴨川)、西の白虎(山陽道・山陰道)、南の朱雀(巨椋池)、北の玄武(北山)が自然に配備されていた。そして、神門は愛宕山、鬼門は比叡山だった。

 平安遷都は延暦13年(794)だが、この年の9月3日、桓武天皇臨席のもと一乗止観院で大供養が行われ、この時、南都七大寺の僧達も参加していたという。最澄は桓武天皇の信頼を得ていたようだが、都の鬼門に院を建てていたことから密接となり、最澄の人生が大きく変わったも研究者は述べている。そして、延暦15年(796)一乗止観院は国家鎮護道場となり、延暦25年(806)、桓武天皇から天台法華円宗を公許され、天台円教・密教・禅法・戒律の四宗兼学道場となった。弘仁13年(822)には嵯峨天皇から戒壇の設置を許され、翌年には延暦寺の寺号を与えられ、天台宗の総本山となる。さらにこの年、最澄は学問僧として入唐しており、この時、空海(弘法大師)も遣唐使に随行している。

 平安末期には、3塔・16谷・ 3000坊を数え日本仏教の母山として確固たる地位を築き、比叡山で修行した僧の中より慈覚大師円仁、三井寺(園城寺)中興の祖・円珍や後の鎌倉仏教の祖師となる法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍などを多くの名僧・宗祖を輩出している。

 比叡山は大きく三塔(東塔、西塔、横川)の地域に分けられ、これらを称して比叡山延暦寺と呼んでいる。

 東塔には、最澄が建てた一乗止観院を発展させた一山の総本堂である国宝根本中堂があり、最澄が灯し1200年間守り継がれた「不滅の法灯」が照らす中に本尊薬師如来像が安置されている。その他、東堂には一宗一派を開いた祖師像が安置されている大講堂をはじめ、戒壇院、文殊楼、法華総寺院、阿弥陀堂など重要な堂塔が集まっている。

 西塔は最澄の高弟円澄が開いたところであり、山上で最も古い天台建築様式の釈迦堂、にない堂(法華堂・常行堂)、信長の焼き討ちで唯一残った瑠璃堂などがある。

 横川は円仁が開いた比叡山の一番北に位置し、横川中堂、元三大師堂、恵心院などがある。

 延暦寺に関わる大きな事件が二つある。
 一つは智証大師円珍と慈覚大師円仁の門徒の争いで、もう一つは織田信長による焼打事件である。
 貞観年間(859~877)に智証大師円珍が園城寺を天台別院として中興した。そして円珍の入滅後の事、延暦寺座主良源と園城寺座主余慶の間が険悪となり、また、正暦4年(993)、智証大師円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化、ついに円珍門下は比叡山を下り一斉に園城寺に入山。そして延暦寺の衆徒が園城寺の千手院に火を掛け、逆襲を受け延暦寺も焼失した。この時から延暦寺を山門(さんもん)、三井寺を寺門(じもん)と称し、それぞれ僧兵を増やし天台宗は二分されてしまった。この後の延暦寺は園城寺のみならず南都の寺院とも争いが始まり、また、日枝神社の御輿を担いで朝廷にも強訴を繰り返し、果ては、一方、奈良の興福寺の僧兵も平安京で大暴れしている。

 白川上皇の、「意の如くにならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」という有名な言葉はこの頃のことを嘆いたものだった。
 1100年代後半になると治外法権、無法地帯と化し、平清盛の時代に入っていく。そして慧眼を持った僧達は延暦寺から去り、法然、親鸞をはじめとする宗祖が誕生したのも混迷の時代という背景があったからかも知れない。

 時代は、鎌倉、南北朝、室町を経て戦国へと移り、延暦寺が織田信長と対立し朝倉義景と手を結んでいたため、元亀2年(1571)信長による比叡山焼打に合い堂塔伽藍は焼け落ちてしまったことは知らぬ者はないだろう。後、延暦寺の再興は豊臣秀吉、徳川家康の経済的補助により進められることとなる。

 交通:京都バス51系、京阪バス7系で「延暦寺バスセンタ-」下車。比叡山シャトルバスが、山内の東塔、西塔、横川などの間を走っている。
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「正覚庵」 (しようがくあん)

2007年10月18日 07時27分25秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「正覚庵」 は通称「筆の寺」と呼ばれ、毎年勤労感謝の11月23日「筆供養」が行われ全国から筆・書に関係する人たちが大勢訪れる。
 当寺は正応3年(1190)に東福寺五世山叟恵雲(さんそうえうん)を開山として、鎌倉時代の武将で奥州・伊達政宗の先祖である伊達政依によって創建された東福寺の塔頭。

 本尊釈迦如来。所蔵する「絹本著色山叟恵雲像」は国の重要文化財に指定されている。境内に江戸時代後期の文化年間(1804-18)に築造された。

 「筆供養」は戦後半世紀を超え、この日は山伏の読経が響くなか、毛筆や染色用の筆、陶器に絵付けする際の筆など2万本以上が、勢いよく炎を上げる護摩壇に次々と投げ入れられた。参拝者は護摩壇を取り囲み、読経に声を合わせながら、静かに炎を見守っている。
 この時の煙を浴びると字が上達するとも言われているそうなので、字を書くのが苦手な方は参加されてみてはいかがでしょう。また、稚児や山伏による筆御輿(青竹の先を布で覆い、墨を含ませたもの)の巡行なども行われる。

 所在地:京都市東山区本町15丁目778。
 交通:JR奈良線 京阪三条から京阪電車で東福寺駅下車、徒歩13分。 
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「天寧寺」(てんねいじ)

2007年10月14日 00時18分30秒 | 古都逍遥「京都篇」
山門を通して眺める比叡の秀峰は、あたかも額縁に入れたように見えるところから「額縁門」といわれ親しまれている「天寧寺」は、山号を萬松山と称し、曹洞宗に属している。

 天寧寺はもと福島県会津若松市東山町にあり、開山傑堂能勝大和尚は楠正成の八男だという。 天正14年(1586)天正の変(伊達正宗会津侵入)のため天寧寺も全焼した。
 10世住職祥山曇吉大和尚が焼け残った本尊や法宝等を収拾し、門人光吉和尚を伴い京都寺町頭天台宗休憩法師松蔭坊の遺跡を紹いで、萬松山天寧寺と号し再興に努力した。その後、約200年、天明8年(1788)2月京都大火の際、堂宇悉く焼失。文化元年(1804)に庫裡、9年(1812)に本堂、天保14年(1843)に書院、嘉永2年(1849)に山門、明治32年(1899)鐘楼を再建し、長き年月を経て今日の姿に復興、開創より約400年にも及んだ。

 本尊は仏師春日作と伝えられる釈迦如来である。また観音堂には後水尾天皇の念持仏「十一面観音菩薩」及び東福門院の念持仏「薬師如来」が安置されている。明治元年(1868)には、近代曹洞宗史に重要な位置をしめる「碩徳会議」の会場となった。境内墓地には、江戸時代前期の茶人として有名な金森宗和公、剣道示現流開祖と言われる善吉和尚の墓がある。
 
 昭和62年5月には、本堂の前の栢(カヤ)の大木が「京都市登録の天然記念物」に指定された。
 本堂は6室からなる大規模な建物で、正面・側面に畳縁、その外側に落縁(おちえん)をまわし、正面に向拝(こうはい)を設ける。室内前列は室境に鴨居(かもい)・欄間(らんま)を設けず、1つの空間としている。後列中央の仏間には来迎柱(らいごうばしら)を立て,本尊を禅宗様の(ぜんしゅうよう)の須弥檀(しゅみだん)の上に安置している。棟札(むなふだ)などにより文化7年(1810)に上棟されたといい、文化15年頃までは造作が行われていたという。なお本堂正面には控柱(ひかえばしら)が出桁(だしげた)を直接支える構造の中門がある。

 書院は規模の大きい伝統的な和風の建築物で、床の間・床脇・付書院(つけしょいんょをもつ15畳の上の間、15畳の下の間からなり、北・西・南の三方に入側縁(いりかわえん)をまわしている。西入側縁の北側には一間四方の室が張り出している。

 表門は規模の大きい薬医門(やくいもん)形式の門で、安政4年(1857)に建立された。これらの建物は、江戸時代後期の伽藍の形態をよく伝えている。市内においては数少ない曹洞宗の近世寺院建築として貴重である。

 所在地:京都市北区天寧寺門前町301。
 交通:京都駅から地下鉄烏丸線「国際会館」行、烏丸「鞍馬口」下車、東に8分。京阪電車「出町柳」駅下車、川原町今出川より市バス37系「上賀茂神社」行き乗車「出雲路橋」下車、徒歩5分。

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嵯峨野大黒天「遍照寺」(へんじょうじ)

2007年10月04日 17時00分45秒 | 古都逍遥「京都篇」
 嵯峨野を緑の静寂に包む竹林の参道をそぞろ歩きに奥へと進むと正面に本堂が佇んでいる。山門を入ると下陣と内陣は棟を違えて建っており、内陣は御簾で仕切祭壇に大きな御像か並んで見える「遍照寺」は、廣澤山(ひろさわざん)と号する真言宗御室派の準別格本山である。

「こころざし 深く汲みてし 広沢の 流れは末も 絶えじとぞ思ふ」(後宇多帝)

 創建は、永祚元年(989)宇多(うた)天皇の孫にあたる寛朝(かんちょう)僧正が円融上皇の御願により広沢池北方の遍照寺山麓の山荘を改めて寺院にしたのが始まりとされる。醍醐寺を中心とする小野流では庶民出身僧侶の活躍が目立ったが、仁和寺を中心とする広沢流は名門貴族出身者が多く、当寺はその根本道場として名声を高めていたという。

 嵯峨富士と云われる端麗な遍照寺山を映す広沢池には金色の観世音菩薩を祀る観音島があった。池畔には多宝塔、釣殿等、数々の堂宇が並ぶ広大な寺院であった。しかし寛朝僧正没後次第に衰退し、鎌倉時代、後宇多天皇により復興されたが後、応仁の乱で廃墟と化した。寛永10年(1633)仁和寺門跡の内意により、本尊及び寛朝画像等を池裏の草堂に移して遍照寺の名跡を伝えた。奇跡的に難を逃れた赤不動明王と十一面観音は草堂に移され、文政13年舜乗律師により復興された。昭和に収蔵庫、護摩堂。平成九年客殿、庫裡を建立し現容となった。

 池の南東側には、遍照寺を建立した寛朝僧正の侍児を祭神とする児神社(ちごじんじゃ)が建っています。創建年は不詳だが、寛朝僧正が入滅した際に、残された児が悲嘆・悲涙して後を追うように広沢池に身を沈めたといわれ、近在の人々がこの児を哀れと思い、その霊を慰めるためにこの社を創建したと伝えられている。
 往古の遍照寺に月見堂があったことでも推察できるが、平安時代には観月の絶好地として王朝の歌人が盛んにこの地を訪れ、歌を詠んだようだ。

 所在地:都市右京区嵯峨広沢西裏町14。
 交通:市営バス山越バス停から徒歩7分。
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