「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「八坂庚申堂(金剛寺)」(やさかこうしんどう)

2008年08月26日 07時13分38秒 | 古都逍遥「京都篇」
 清水へ向かう二年坂、石塀小路あたりでまず目に入る八坂の塔。そのすぐ目前にあるのが八坂庚申堂である。
 日本最初の庚申信仰発祥の八坂の地に、浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が開基したといわれ、千年以上も前に建立されたと伝わるが、その年代は定かではない。言い伝えによると浄蔵貴所は、学問や声明(仏教音楽)・文学にも秀でた僧侶であったらしく、霊験無双の修験者であったという。死んだ父親を復活させたり、庚申堂の隣の八坂の塔が傾いたときには、霊力でまっすぐに直したというエピソードなどが残っており、今日、祇園祭では、「山伏山」の主役となっている。

 大黒山金剛寺庚申堂と号し、大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)と並び日本三庚申の一つで、本尊の青面金剛(しょうめんこんごう)は、飛鳥時代に中国大陸より渡来した秦河勝により秦氏の守り本尊として祀られた伝えられている。爾来、日本最初の庚申信仰の霊場として信仰を集め、今も参拝者は絶えない。現在の本堂は江戸時代・延宝6年(1679)に再建された。

 青面金剛とは釈迦、阿弥陀如来、薬師如来の三神が乱世の人々を救おうと相談し出来たもので夜叉の姿で現れては悪人を喰らうとされた。
 もともと「庚申」とは「庚(かのえ)の申(さる)」の日のことで、この前夜に人の中にいる三尺の虫が、寿命を司る天帝に悪行を報告しにゆくとされていた。人々は寿命を縮められては困るのでその夜を寝ずに明かすようになった。これが習慣となり、「庚申待ち」と呼ばれ、その間さまざまな行事を催して過ごしたとされる。青面金剛は三尺の虫も喰らうとされ、庚申待ちの際に祈られるようになり、本尊として祀られるようになったという。

 本尊を護るかのように、庚申さんの眷属の夜叉神たちの脇侍四大夜叉(しだいやしゃ)や不動明王、弁財天、地蔵菩薩、大黒天、大聖歓喜天、(だいしょうかんぎてん)、聖天(しょうでん)、菅原道真公、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)、それに「三猿」(さんえん/庚申さんのお使いの見ざる・聞かざる・言わざる)信仰が篤く、堂内にはたくさんの“くくり猿”が奉納されている。
 また付近の民家や商店の軒先には、この寺のお守りである赤と白地で作られた“くくり猿”が軒先にたくさん掛かっている風景にも出会える。

 “くくり猿”は、お猿さんが手足をくくられて動けない姿を表したもの。
 欲のままに行動するお猿さんの姿を人間の欲望にたとえてあり、人間の中にある「欲望」が動かないように、庚申さんによってくくりつけられている。さらに、当寺は昔からコンニャク封じの寺として腰痛、頭痛、神経痛、小児カン虫、引つけ等諸病平癒に御利益があり、毎年5月3日は下の世話にならぬ様「タレコ封じ」と「厄除けコンニャク焚」きが行われる。本堂には、たくさんのくくり猿が奉納されている。
 
所在地:京都市東山区金園町390
交通:市営バス清水道停留所より徒歩約5分。京阪電鉄四条駅、五条駅より徒歩約15分。

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「妙蓮寺」(みょうれんじ)

2008年08月20日 22時43分02秒 | 古都逍遥「京都篇」
 妙蓮寺は、宗祖日蓮大聖人より帝都弘通宗義天奏の遺命を受けた日像聖人によって、永仁2年(1294)に創建された。日像聖人が遺命を果たすため鎌倉より京都へ上られた時、五条西洞院の柳酒屋は深く聖人に帰依し、未亡人は邸内に一宇を建立して聖人を請じ、卯木山妙法蓮華寺と称した。(柳の字を二つに分けて卯木山という)

 その後、たびたびの法難にあったが、応永年間(1420頃)本勝迹劣、本迹一致の論争を契機に妙顕寺を退室した日慶聖人によって柳屋の地に本門八品門流として再興した。その後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるとき、今出川家の公達日忠聖人は、三井寺より改宗して当寺に投じて学室道輪寺を創立し道場を開いた。

 天文5年(1536)には、法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に諸宗の僧俗10万人によって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮聖人門下21本山は、ことごとく灰燼に帰し堺に立ち退いた。
 天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転した。当寺は、1k㎡の境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院であったが、天明8年(1788)の大火によってほとんどが焼失、わずかに宝蔵・鐘楼を残すのみとなった。寛政元年より漸次復興して現在に至り、塔頭8ヶ院を残す。

 交通:JR京都駅から市バス9系、京阪電車四条駅下車、南座前から市バス12号系、阪急電車四条大宮駅下車、市バス9号・12号系で堀川寺ノ内下車、寺ノ内通りを西に徒歩で3分。


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「宗蓮寺」(そうれんじ)

2008年08月13日 10時18分23秒 | 古都逍遥「京都篇」
  「清滝川の岸に急な山が迫ってくる。やがて美しい杉林がながめられる。」

 こう描かれた川端康成の名作「古都」に登場する周山街道の北山杉の里・中川地区、人里離れた山間部のため、訪れる人も少ないこの地に佇む宗蓮寺。

 JR京都駅前から周山行きのRバスに乗り、約一時間で北山中川に着く。この辺りは清滝川沿いに北山杉が生い茂っており静けさに覆われた美しい景観のところ。里山の道筋を森林浴を楽しみながら10分ほど歩くと杉林に囲まれて宗蓮寺が人目を偲ぶかのようにひっそりと建っている宗蓮寺は、室町時代に創建された浄土宗の古刹で別称「貴船菊の寺」とも呼ばれている。

 10月ともなると境内には貴船菊が華やかに咲き競い、落ち着いた山内にその清楚な色香がよく似合う。また、ツワブキの花も閑けさに良く似合う。貴船菊は一般的には秋明菊と呼ばれているが、古都の奥座敷として名高い「貴船」地方に自生(群生)していたことから貴船菊と愛称されており、嵯峨菊とともに茶花として使われる。ただ残念なことに、自生地の貴船地域には根こそぎ持ち帰る観光客、ハイカーたちのせいで、めっきりその数が減り絶滅に追い込まれようとしている。そのような中、当寺で丁重に育てられていることは嬉しい限りだ。花好きの住職が山から一株一株集めて丹精込めて育てた秋明菊は愛好家の間では京都一との評判を受けている。
 特に薄紅色の原種は幻の花と言われ京都でも殆ど見られなくなっている。また、京都市内の西山にある桂昌院縁の「吉峯寺」内でも近年貴船菊が育てられており、桂昌院お手植えの枝垂桜とともに参拝客に愛されている。

 貴船菊のほかにも笹百合も育てられており、70㌢ほどのユリ科の多年草で、葉の形が笹に似ている。山の荒廃などの影響で年々減少してきた笹百合は当地でも貴重な花となり、境内で大切に育てられている。紅葉まえの小さな秋、そして山内一面紅に覆いつくされる紅葉の秋、周山街道をドライブの際には山口百恵が演じた「古都」の舞台となった北山杉資料館(北区小野下ノ町/075-406-2241)とともにぜひ立ち寄りたいスポットである。

 拝観は随時可能だが、開花時期のみ10時~16時(10月中旬頃まで)。拝観料は無料。

 所在地:京都市北区中川北山町214。
 交通:JR京都駅よりJRバス周山行、山城中川下車徒歩10分。バス乗車時間約55分(便数少なく時刻表に注意)。車だと高尾口から周山街道を美山方面へ15分ほど。
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大徳寺「総見院」(そうけんいん)

2008年08月06日 21時46分54秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大徳寺の22塔頭寺院のひとつである「総見院」は、豊臣秀吉が主君織田信長の冥福を祈るため天正11年(1583)、信長の一周忌追善のために建立したもので、利休参禅の師「古渓和尚」が開祖したと伝えられている。
 信長の遺骸が見つからなかったことから、信長の木像を2体つくり、1体は棺に入れて荼毘にふし、もう一体は総見院に安置された。信長は生前より、自身の法名を「総見院泰巌安公」と定めており、それが「総見院泰巌安公」と伝わっているようで、そのまま当院の名称となったという。

 信長一族(信長、信忠、徳姫、濃姫、お鍋の方など)の墓があるが、信長の墓には“信長”の文字は刻まれていない。
 明治維新の時、旧建物を壊し、一時は禅僧の修禅道場として禅堂もあったが、道場は龍翔寺に移された。

 銅鐘は、織田信長の一周忌に家臣の堀久太郎秀政が寄進したものといわれ、古渓宗陳撰文の天正11年の銘がある。鐘楼は創建当時のもので、鐘・鐘楼ともに重要文化財。正門と土塀は創建当時そのままの姿で現存しており、土塀は「親子塀」といわれ、内部に塀がもう一つ設けられた二重構造になっている。

 まず、本堂に上がりお茶をいただく。院内にある掘り抜き井戸の水で入れたものだそうだが、この井戸、中が透明で底まで見える。この井戸は、加藤清正が朝鮮出兵時、朝鮮から持ち帰った石をくり抜いて作ったものと伝えられている。
 本堂には信長の木造(1.15㍍)が安置されている。何でも明治時代に行われた廃仏毀釈により、この像も危なかったところ、密に本山に安置され難を逃れたとか。
 茶室が三席もあるが、普段は拝観謝絶の立て札が出ており、それらを観ることはできない。(春・秋に特別公開有り)
 
 そのなかのひとつ、寿安席を見せてもらうと茶席にしては広く八畳もある。禅道場が龍翔寺に移されるまで大徳寺管長の住まいであったため、隠寮と呼ばれた「寿庵」内にある。大正の初め頃の山口玄洞(1863-1937)が建立したという。
 もう一つ目を引いたのが、秀吉遺愛の侘助椿の大樹だ。この侘助椿は、秀吉が千利休から譲り受けたもので、品種としては日本最古の胡蝶侘助といわれ樹齢400年、天然記念物に指定されている。 

 所在地:京都市北区紫野大徳寺町59。
 交通:JR京都駅から市バス206系統千本通北大路バスターミナル行き、徳寺前下車すぐ。
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