「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「銀閣寺」(ぎんかくじ)

2006年03月14日 23時12分15秒 | 古都逍遥「京都篇」
 徳川の江戸時代、元禄文化と称される文化芸術が芽生え、そして栄えた。それから遡ること足利将軍の室町時代に禅宗と結びついた「東山文化」という侘(わ)び寂(さ)びの文化芸術が発祥した。
 足利八代将軍義政の時代は、跡目相続から端を発する応仁の乱が勃発、洛中は東と西に別れ果てしない戦いが続き、名刹と称される寺社のほとんどが焼失するほどの激しい戦いであった。ところが義政は、それをよそに風雅を楽しみ、戦いの最中に、北山文化の粋を集めた義政の祖父・三代将軍義満の北山殿「金閣」(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、文明14年(1482)山荘東山殿を造営。これがいわゆる「銀閣」である。義政の死後、遺言により臨済宗相国寺派の寺に改められ慈照寺となった。

 特別名勝、特別史跡の庭園は西芳寺(苔寺)の庭園を模して義政と善阿弥の指導によって作庭されたもので、上下2段に大別され、上段は枯山水庭園、下段は池泉回遊式庭園で中央に月を照らし紅葉を映すほどに澄み透った鏡のごとくの池「錦鏡池」が広がっている。また柿葺の屋根を持つ観音殿(銀閣・国宝)は、2層構造で、金閣と西芳寺の瑠璃殿を模し、下層が心空殿と呼ばれる書院風の住まい、上層が潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて、浅唐戸を設けた唐様仏殿の様式を取り入れてある。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音菩薩を祀る銀閣を護っている。
 義政の持仏堂、「東求堂・国宝」は1層の入母屋造りで、檜皮葺きの現存する最古の書院造り。南面に拭板敷、方二間の仏間が設けられ、北面には六畳と四畳半の2室がある。義政は諸芸道の達人をここに集め、芸術三昧の晩年を過ごし、同仁斎と称される四畳半は、四畳半茶室の原型と伝えられている。金閣寺の北山文化の華やかさに比べて、ここ銀閣寺は東山文化の「わび・さび」の世界を漂わせ、風雅を愛する日本人の美意識の形がここに始まったのではなかろうか。
 銀閣寺で目を釘付けにするのがもう1つ、「銀沙灘・向月台(ぎんしゃだん・こうげつだい)で、波紋を表現した銀沙灘と白砂の富士山型の向月台とのコントラストは魅了してやまない。5月、牡丹が銀閣の脇に咲き、向月台と牡丹と銀閣の妙にバランスのとれた景観は人々の心を捉えてやまない。また、秋、紅葉とススキに包まれた銀閣は、義政の美的感覚を偲ぶに十分であろう。

 交通:JR京都駅中央口から市バス5・17系統で約35分、銀閣寺道下車、徒歩10分
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