「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「金剛院」(こんごういん)

2008年05月30日 23時46分42秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都府の北部若狭湾に面した舞鶴市の東部、志楽川支流・鹿原川の奥にある「関西花の寺 第三番霊場」となっている鹿原山「金剛院」(慈恩寺)は、三島由紀夫の小説「金閣寺」に紅葉と境内の状況が描かれているほど、丹後の紅葉の名刹としても知られている。

 平城天皇の皇子、嵯峨天皇の皇太子であった高岳(たかおか)親王が平安前期の天長6(829)に創建したがその後衰退し、永保2年(1082)白川院が再興、その後、美福門院が再建したと伝えられている。
 親王は弘仁1年(810)の薬子の乱で連座、地位を失って出家し、空海の元で真言密教を学び、10大弟子の1人となり真如法親王と呼ばれた。金剛院を創建したのち836年に入唐し、印度に向かう途中で死去した。

 本尊はもと阿弥陀如来であったが、白河天皇勅願の永保2年(1082)以後「波切不動尊」となったという。海難、水難などすべての災害を除くとされることから海軍の信仰も篤かったという秘仏で、節分の日だけご開帳される。

 三重塔(重要文化財)ほか、絵画の絹本著色薬師十二神像、仏像の木造阿弥陀如来坐像・木造増長天立像・木造多聞天立像(平安後期)・木造金剛力士立像(鎌倉初期)など多くの寺宝があり、中でも快慶作「の執金剛神立像」と、三蔵法師がインド取経の旅中に沙漠で感得した守護神という「深沙大将立像」は日本でも数少ない(福井県の明通寺、岐阜県の横蔵寺ほか)仏像として重要文化財となっている。

 三重塔から本堂に至る山腹の紅葉は、田辺城主、細川幽斎の植樹といわれているが、江戸時代以前より植樹が続けられてきたことから全山で約1万本ともいわれ、近畿でも屈指の紅葉を誇っている。特に、春の新緑の「青もみじ」の清冽さは格別なものがある。

 方丈の前庭(小池庭)は細川幽斎の作庭と伝えられ、熊本県水前寺成趣園の雛型という。夏には白い姥百合が咲き、夏の終わりにはピンクの秋海棠(しゅうかいどう)が境内中に咲きみだれる。冬は雪で覆われ、静かな境内がいっそう静けさを増すという。また、凛とそそり立つカヤの木(千年榧)は市天然記念物に指定されている。

 所在地:京都府舞鶴市鹿原595。
 交通:東舞鶴から京都交通バスで鹿原下車、徒歩10分、または小浜線松尾寺駅下車徒歩20分。東舞鶴駅からはタクシーで片道2000円余り。 車の場合、舞鶴若狭自動車道、舞鶴東ICから北東へ約5km。 
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「智恩寺(文殊堂)」(ちおんじ)

2008年05月20日 22時07分21秒 | 古都逍遥「京都篇」
 日本三景の一つに数えられている天橋立を見守るかのように、一宇が凛とした風格を漂わせ建っている。それは臨済宗妙心寺派「天橋山智恩寺」、通称天橋立切戸(きれと)の「文殊堂」(九世渡の文殊堂)である。
 平安初期の大同3年(808)平城天皇の勅願寺として創建され、延喜4年(904)に醍醐天皇によって寺号を受けたとされ、鎌倉時代の嘉暦年間(1326-29)に嵩山居中が入山し禅寺となったとある。

 3人寄れば文殊の知恵で有名な本尊の文殊菩薩像(重要文化財)は、古来より秘仏とされ年に5回ほどしか拝観することができないが、山形県「亀岡の文殊」、奈良県「安部の文殊」と並び日本三文殊の一つとして広く親しまれ、知恵を授かるありがたい仏様として合格祈願などにお参りする人が後をたたない。

 文殊堂は、1997年に、江戸初期の1650年以来の解体修理が行なわれ、1999年5月、文殊菩薩像を囲む柱から、鎌倉時代中期に記されたと見られる墨書が確認された。同時に文殊堂内の来迎壁から、室町時代に描かれたと推定される「両界曼荼羅」「釈迦三尊十六羅漢図」も発見されている。

 正面中央の2本の柱の木鼻の唐獅子は、それぞれ少し外側に顔を向けている。桁行三間の身舎(もや)を内陣とし、三方の庇(入側)は吹き放しの化粧屋根裏としている。内陣は天井が折上小組格(おりあげこぐみごう)天井という丁寧な造りになっている。中央に四天柱を立て、来迎壁をつくって唐様須弥壇(しゅみだん)を設けている。

 雪舟筆の「天橋立図」(国宝)には天橋立南端の本寺も描かれ、現存する多宝塔のほかに、裳階(もこし)付で宝形造とおもわれる建物が描かれている。現在の文殊堂は裳階付ではないが、桁行柱間は裳階と同じ五間。屋根はわずかに照り起(むく)りを帯びた優美な宝形造で、正面に三間の向拝を葺き降ろしている。現在は銅版葺で、宝珠の銘文によって明暦3年(1657)に屋根の葺き替えが行われたことが判明したそうだ。

 山門より本堂に向かって左手にあるのが多宝塔で、明応9年(1500)丹後国守護代で府中城主延永修理進春信によって建立され、重要文化財に指定されている。シンプルな下層に比べて上層はかなり複雑な構造になっており、当時の建築様式を色濃く残し、塔内には大日如来坐像が安置されている。

 正面の山門(宮津市指定文化財)は、三間三戸の二層の楼門で「黄金閣」と呼ばれており、江戸時代のはじめ、後桜町天皇から黄金を下賜されたことからその名がついたという。現在のものは明和5年(1768)に再建されたとのこと。下層の柱間に建具は無く、開放的で、細部に至るまで本格的な唐様(禅宗様)になる山門として丹後地方最大のもの。

 鐘楼門は別名「暁雲閣」と称し、宮津の商家木村正英が愛娘二人を亡くして菩提を弔うために建立したという。娘たちの法名の「暁山彗察」「洞雲自照」から一字を取って付けられたことから「暁雲閣」の所以とされている。

 雪舟の「天橋立図」にも描かれている多宝塔と向かい合って立っている等身大の石仏がある。そのうちの一つは左手宝珠を捧げ、右手は失われているが、錫杖を持つ形から地蔵菩薩像と知られている。南の一体は、最も保存がよく作風的にも優れている。背に刻まれた銘文に、応永34年(1427)に三重郷(中郡大宮町)の大江永松が発願して造立した一千体の地蔵のうちの一体とあるが、他の像は知られていない。

 毎年7月24日には、太古の昔、龍神教化のために文殊菩薩を海上からお迎えしたという故事にならった「文殊堂 出船祭」が行われる。また、文殊菩薩のご開帳は、1月1日~3日と10日、7月24日の5回。

 浜風が塩の匂いを境内に送り込んで松がよく似合う。“縞の財布が空になる”と唄の中にある宮津、切戸の文殊だけでなく、日本三景の一つが此処に在る宮津への旅はこれらを主として一見の価値はある。橋立を渡ると元伊勢籠(この)神社もあり、文殊堂・橋立の三位一体といわれる成相寺が在る。

 所在地:京都府宮津市字文殊466。
 交通:北近畿タンゴ鉄道天橋立駅下車、徒歩3分。車では、京都縦貫道宮津天橋立ICから5km、約10分。
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 「楞厳寺」(りょうごんじ)

2008年05月15日 07時35分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
 昨今、関西花の寺巡りツアーが企画されるようになり、俄然注目されはじめた古寺が真言宗金剛峯寺派の塩岳山「楞厳寺」である。創建は古く、奈良時代聖武天皇の天平4年(732)林聖上人が開創したと伝えられている。

 もとは吉祥院と称していたようだが、幾多の時代変遷と再三の兵火により、寺坊はほとんど焼失し、殊に建武4年(1337)の乱により広大な寺領が奪われた記録が、南北朝時代(1336~92)の楞厳寺敷地紛失状に記されている。

 また江戸時代初期の筆と考えられる縁起には、当寺の伽藍および宝物について記されており、現在の本堂は、元禄16年から宝永5年(1708)にかけて盛長法印を中興開山として再建されたもので、庫裡は宝歴8年(1758)のもので、後年描かれた庫裏の襖は、日本画の大家・横山大観や菱田春草と並び祥せられる長井一禾(ながいいっか)画伯のカラス絵が有名で、四季に分けて30面に描かれていることから、別称「丹波のカラス寺」ともいわれている。

 楞厳寺縁起によれば、応仁の乱後、室町幕府の統制が無力化し、諸国の群雄割拠して相争う下剋上の社会、即ち戦国時代に初期延徳元年(1489)、荻野、大槻が訴訟といって、守護代上原豊前守父子へ謀反を企て、位田城に立てこもった。
 これを鎮めるため、丹但備摂13ケ国の軍勢が攻め寄せ、楞厳寺へ乱入し、資材を奪取、又陣屋にして山林仏閣等悉く破壊したなど、位田の乱についての史料や、楞厳寺再建に至る経過や勤行などの次第が詳しく記載されている。(縁起は綾部市史史料編42頁に掲載)。

 4月半ばを過ぎた頃、池を挟んで庫裏の対岸にある丘全体がミツバツツジの薄紅色に覆われ、四国八十八カ所巡りの小径は、ミツバツツジの花のトンネルとなり甘い香りに包まれ、また、池面がピンクの花色で染まる様は神秘な世界に包まれる。7月~8月下旬、境内の1万平方メートルの池が20数種の蓮で埋めつくされ極楽浄土が広がる。8月中旬~9月上旬には樹齢約400年の百日紅(さるすべり)が咲き、樹齢約500年の菩提樹(6月)も見事で、花の寺と称される所以である。

 所在地:京都府綾部市館町楞厳寺6。
 交通:JR綾部駅からあやバス志賀線「舘」下車、徒歩約15分。
 車の場合、中国自動車道(吉川JCT)~舞鶴若狭自動車道(綾部JCT)から南へ。綾部JCTから市道を約20分。
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「御髪神社」(みかみじんじゃ)

2008年05月11日 11時03分46秒 | 古都逍遥「京都篇」
  四季を通じて訪れる者が絶えない京都・嵯峨嵐山。百人一首で有名な小倉山を美しく映す嵯峨野小倉池のほとり、亀山天皇御陵の近くに理容の業祖・藤原釆女亮政之(ふじわらうねめのすけまさゆき)を祭神として称え祀った御髪神社がある。

 西暦1200年代人皇90代亀山天皇の御代に藤原鎌足の末孫で、皇居の守護職(武士)であった北小路左衛尉藤原基春卿の三男・藤原采女亮政之(うねめのすけまさゆき)は、基春卿死後の弘安4年(1281)に鎌倉に住まいを移し、建武2年(1335)4月17日に歿したが、功績があったとして従五位を賜っている藤原采女亮政之が、髪結職の起源とされる所以を伝承史料・職分由緒書で紐解くと、「亀山天皇の御代(1209~74)に、皇居の宝物守護にあたる武士であった藤原基晴卿は、御預かりの宝剱・九王丸紛失の責任から、三男・采女亮政之とともに、当時、蒙古襲来で風雲急を告げる下関に居を構え、髪結業を営み探索を続けた。これが髪結職の始めなり」とあり、由緒に「髪は人間の最上部に位置し、御神より賜わった美しい自然の冠です。御髪神社は理容・美容等の髪や化粧に携わる業の始祖を祭神とする日本唯一の神社です」と記されているように、御髪神社は髪の御神徳をもつ唯一の神社として、理美容関係者のほか、多くの人びとから厚く信仰されてきた。

 境内には、願いごとをしながら切った髪を納めると御利益があるとされる「髪塚」があり、献納された髪は日々神官により祈拝を受け、献納されている。合格祈願で髪を納める学生も居るとのことで、若者たちの参拝も多いとのこと。また、毎年春・秋の御大祭日には業祖神奉祭と髪供養が行われる。

 所在地:京都市右京区嵯峨小倉山田淵山町10-2。
 交通:嵯峨観光鉄道、トロッコ嵐山駅前。JR京都駅から山陰本線「嵯峨嵐山駅」下車、徒歩15分。京福嵐山線「嵐山駅」下車、徒歩8分。阪急嵐山線「嵐山駅」下車、徒歩25分。
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「粟田神社」(あわたじんじゃ)

2008年05月05日 23時46分32秒 | 古都逍遥「京都篇」
 粟田神社は、京の7口(京都の7つの出入口)の1つである粟田口にある。知恩院、円山公園を南へ入ったところの粟田小学校の校門前に「粟田口」の石柱があるが、この周辺が粟田郷であった。ここから少し東の華頂山西北の山麓に当社が鎮座している。祭神は素戔鳴命(スサノオノミコト)で、元は粟田郷の氏神。

 社伝によると平安時代の清和天皇貞観18年(876)春、神祇官や陰陽寮から「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇へ奏上され、直ちに全国の諸神に御供えをして国家と民の安全の祈願が発せられた。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(現八坂神社)に7日七晩丹精を込めて祈願。その満願の夜、
興世の枕元に1人の老翁が立ち、「汝すぐ天皇に伝えよ。叡慮を痛められること天に通じたる。我を祀れば、必ず国家と民は安全なり」と告げた。

 興世は「このように言われる神は、如何なる神ですか?」と尋ねると、老翁は「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。その地は昔、牛頭天王(ゴズテンノウ=素戔鳴尊)に縁ある地である。そこに我を祀れ」と言われた。興世は、これは神意なりと朝廷に奏上したところ、勅命によりこの地に社が建てられ神霊を祀ったのが始まりという。その後、荒廃するが永久年中(1113~18)に天台座主東陽坊忠尋大僧正が再建。さらに、応仁の乱(1467)で焼亡したが、明応9年(1500)神殿を再建し吉田兼倶が感神院祇園社から新ためて勧請している。(創始は諸説あり) 本殿・幣殿は文化2年(1805)に焼失後、文政6年(1823)に再建されている。建物は、三間社流造の本殿の前に拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿。江戸時代後期の複合社殿として貴重とされている。拝殿は元禄16年(1703)に建てられている。本殿・幣殿・拝殿は平成8年4月、京都市指定有形文化財に指定されている。

 最大の祭事は10月の粟田祭。長さ7~8㍍の剣鉾を1人が持ち、剣先を振りながら歩く。これは神様が通られる道筋を禊、清める意味があり、合計18本が神輿を先導する。中でも東分木町の阿古鉈鉾を最重要な神宝とし、旗に感神院新宮の五文字を上げる。瓜を神紋とするのは八坂神社祭礼「祇園祭」と同様である。

 社伝に、承安4年(1174)源義経(遮那王)が奥州下向の時、旅の安全と源氏家再興を祈願(摂社恵美須社)した記録がある。
 粟田口は、鎌倉時代の頃より三条小鍛冶宗近や粟田口眞四郎吉光などの刀匠が在住した旧跡。三条小鍛冶は大和(奈良)から粟田口へ移住。国頼を祖とし、国友6兄弟の末弟国綱は北条時頼のために名刀「鬼丸」を作刀している。その歴史を、粟田神社の所在地名“鍛冶町”として残している。粟田神社の北側、三条通を隔てて北側の民家が並ぶ露地奥の突き当たりに「合槌稲荷明神」の祠がある。三条小鍛冶はこの稲荷明神の神霊を得て名刀小狐丸を打ったと伝える。

 また、江戸時代には粟田口へ尾張(瀬戸)の三文字屋九郎右衛門が移住、蹴上東側の山(大日山)の土で茶器を焼いた。これが粟田焼の始まりで、三文字屋を祖として窯元が東山山麓一帯にでき、焼物は五条坂(清水)界隈の問屋を介して広がったという。焼物問屋が清水界隈にあったため清水焼の名で広まった。粟田口の窯元は次第に衰退し、幕末頃
には中心は五条坂(清水)に移っている。

 所在地:京都市東山区粟田口鍛治町1。 
 交通:地下鉄東山駅又は蹴上下車、徒歩約5分。市バスで神宮道下車、徒歩約3分。京阪電車京津線蹴上げ下車、西へ徒歩300m(都ホテル西)。
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