「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「桂春院」(けいしゅんいん)

2006年03月15日 21時57分19秒 | 古都逍遥「京都篇」
洛西の禅苑、臨済宗正法大本山妙心寺(みょうしんじ)は、大徳寺山大燈国師の弟子無相大師が師の推薦により、花園上皇の帰依をうけて1337年に開創した名刹。
 応仁の乱によって焼失し、後、後土御門天皇の勅によって雪江宗深禅師が中興した。山内には幾多の塔頭寺院が建立され、「桂春院」もその一つである。

 慶長3年(1598)6月に織田信忠(織田信長の長男1557-1582)の次男、津田秀則(1625歿)により見性院として創建。秀則歿後、美濃の豪族、石河壱岐守源貞政(1575-1657)が寛永9年(1632)亡父光政(1583歿)の50年忌にあたり追善供養のために、桂南守仙和尚(石河光成の二男1589-1664)を請じて、現在の方丈、庫裡、書院、茶室等の建物を完備し、両親の法名天仙守桂大禅定門の桂と裳陰妙春大姉の春の二文字をとって桂春院とあらためられた。
 庭園(名勝・史跡)は江戸時代の作庭で、方丈南庭、東庭、書院前庭の3つに分かれ、三様の趣きを持ち、飛び石伝いに続く。書院の東北隅に、藤村庸軒ゆかりの草庵風茶室「既白庵」がある。

 「桂春院」の額筆は、天間独立の筆によるもの。襖絵はすべて狩野山楽の弟子、狩野山雪(1590-1651)の筆による水墨画で、山水、枯木の鵜、芦に泊り船、仏字人物雪の図、東の間は芦原の落雁、雪竹に茅屋の図、西の間は老松に滝根笹の図などあり、静寂を秘めた美がそこにある。

 庭は「清浄の庭」、思惟(しい)の庭」(写真)、「真如の庭」、「侘びの庭」とあるが、人の訪れが少なく、格好の瞑想の場である。茶室「既白庵(きはくあん)」は、書院の背後に隠れるようにひっそりとある。天井は床前が長片天井で、点前畳上は網代の落天井、にじり口の上は竹捶の掛込天井となっている。うらぶれた寂びを漂わせている。
 「妙心寺」の名刹の第一は「退蔵院」で、是非訪ねて見られることをお薦めします。また、夏は「東竹院」は夏椿の名所としても知られている。随分昔に、両院を訪ねているが、またの時に紹介しよう。

 所在地:京都市右京区花園寺ノ中町11。
 交通:JR花園下車、徒歩約20分。市バスで妙心寺北門前/妙心寺前下車、徒歩約5分。京都バスで妙心寺前下車、徒歩約10分。
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「銀閣寺」(ぎんかくじ)

2006年03月14日 23時12分15秒 | 古都逍遥「京都篇」
 徳川の江戸時代、元禄文化と称される文化芸術が芽生え、そして栄えた。それから遡ること足利将軍の室町時代に禅宗と結びついた「東山文化」という侘(わ)び寂(さ)びの文化芸術が発祥した。
 足利八代将軍義政の時代は、跡目相続から端を発する応仁の乱が勃発、洛中は東と西に別れ果てしない戦いが続き、名刹と称される寺社のほとんどが焼失するほどの激しい戦いであった。ところが義政は、それをよそに風雅を楽しみ、戦いの最中に、北山文化の粋を集めた義政の祖父・三代将軍義満の北山殿「金閣」(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、文明14年(1482)山荘東山殿を造営。これがいわゆる「銀閣」である。義政の死後、遺言により臨済宗相国寺派の寺に改められ慈照寺となった。

 特別名勝、特別史跡の庭園は西芳寺(苔寺)の庭園を模して義政と善阿弥の指導によって作庭されたもので、上下2段に大別され、上段は枯山水庭園、下段は池泉回遊式庭園で中央に月を照らし紅葉を映すほどに澄み透った鏡のごとくの池「錦鏡池」が広がっている。また柿葺の屋根を持つ観音殿(銀閣・国宝)は、2層構造で、金閣と西芳寺の瑠璃殿を模し、下層が心空殿と呼ばれる書院風の住まい、上層が潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて、浅唐戸を設けた唐様仏殿の様式を取り入れてある。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音菩薩を祀る銀閣を護っている。
 義政の持仏堂、「東求堂・国宝」は1層の入母屋造りで、檜皮葺きの現存する最古の書院造り。南面に拭板敷、方二間の仏間が設けられ、北面には六畳と四畳半の2室がある。義政は諸芸道の達人をここに集め、芸術三昧の晩年を過ごし、同仁斎と称される四畳半は、四畳半茶室の原型と伝えられている。金閣寺の北山文化の華やかさに比べて、ここ銀閣寺は東山文化の「わび・さび」の世界を漂わせ、風雅を愛する日本人の美意識の形がここに始まったのではなかろうか。
 銀閣寺で目を釘付けにするのがもう1つ、「銀沙灘・向月台(ぎんしゃだん・こうげつだい)で、波紋を表現した銀沙灘と白砂の富士山型の向月台とのコントラストは魅了してやまない。5月、牡丹が銀閣の脇に咲き、向月台と牡丹と銀閣の妙にバランスのとれた景観は人々の心を捉えてやまない。また、秋、紅葉とススキに包まれた銀閣は、義政の美的感覚を偲ぶに十分であろう。

 交通:JR京都駅中央口から市バス5・17系統で約35分、銀閣寺道下車、徒歩10分
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「金福寺」(こんぷくじ) 

2006年03月13日 22時27分47秒 | 古都逍遥「京都篇」
 産経新聞であったと思うが、与謝蕪村(1716~83年)の自画自筆で、所在不明だった「奥の細道図巻」(巻物)を、『思文閣出版』(京都市左京区)が入手し、実物複製を刊行するとの記事を文化欄に掲載していたのを見て、急に蕪村所縁の「金福寺」を訪ねたくなった。
 俳人でありまた画家としても名声を誇っていた蕪村は、「奥の細道」など多くの俳画も書いている。

 叡山電鉄「一乗寺」駅下車、東の比叡山の方へ向う。白川通りを渡りさらに進むと、すぐに宮本武蔵が吉岡一門と決闘をした「一乗寺下り松」がある。さらに真っ直ぐ行くと詩仙堂だが、その手前に右手に折れる細い道がある。くねくねと露路を進むと本願寺北山別院があるが、その先を左に折れると金福寺の小さな山門が見える。
 佛日山金福寺は、清和天皇の貞観6年(864)、慈覚大師が自作の聖観音菩薩像を祀り創建した。その後、一時荒廃したが、元禄の頃、鉄舟和尚が復興し、臨済宗とした。その頃、和尚と親交のあった松尾芭蕉が当寺をしばしば訪ねており、いつしか山内の庵を「芭蕉庵」と呼ぶようになった。芭蕉の句「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」や、蕪村の「耳目肺腸(じもくはいちょう)ここに玉巻く芭蕉庵」、高浜虚子の「徂(ゆ)く春や京を一目の墓どころ」などの句碑が立っている。また呉春の景文と墓、中川四明の句碑、青木月斗の墓など、俳人たちの多くが当寺とかかわっている。

 NHK大河ドラマになった「花の生涯」(舟橋聖一作)のヒロイン村山たか女が尼となって、波瀾の人生を当寺で静かに送っている。
 村山たか女(可寿恵)は彦根藩城下の三味線師匠でしたが、和歌を詠み、漢籍にも通じた才女で、彦根藩士で国学者の長野主膳の愛人であった。
 やがて彦根藩主井伊直弼が黒船渡来に始まる幕末の危機に幕府大老に起用されたのに伴い、長野主膳は井伊直弼の懐刀となって活躍する。
 風雲急を告げる幕末の時期に、たか女は、長野主膳の命をうけて京都などで尊皇攘夷派の情報を収集する密偵となった。 井伊直弼が桜田門外で暗殺された直後、文久2年、勤皇の志士によって捕らえられ三条河原でさらし者にされたが、3日後、恋仇であったという志津女に助けられ、故郷の彦根の清涼寺に落ち着き、仙英禅師の弟子となって「妙寿」の名を頂いた。
 後、金福寺に身を寄せ、尼僧となって明治9年まで14年間過ごし、生涯を終った。法名は清光素省禅という。

 初夏は新緑とサツキが芭蕉庵を包み込み、初秋は白砂に桔梗が可憐に花開く。秋ともなれば紅葉が山内一帯を覆う。詩仙堂から南に400㍍ほど入ったところにあり、芭蕉庵から洛中が一望できる風光明媚なところでもある。

 所在地:左京区一乗寺才形町20。
 交通:JR京都駅から市バス5、特5で一乗下り松下車、徒歩15分。
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「金蔵寺」(こんぞうじ)

2006年03月12日 17時03分04秒 | 古都逍遥「京都篇」
 洛西の西山の麓、大原野一帯は私の好みの所で、四季を通じて散策に訪れる。
 夏も終わりの頃、ふらりと大原野の花の寺として名高い「勝持寺」を訪ねようと車を走らせた。ふと勝持寺へ曲がるYの字の角に「ぽんぽこ山・金蔵寺」の石標が目に入った。いつも通る道なのだが、何気なく見落としていた。そう言えば、金蔵寺の仁王門は運慶が造ったと耳にしたことを思い出した。
 ハンドルを左に切り、あぜ道のような農道を少し走ると、林道へと出た。
 ここからが難儀だった、車が一台しか通れない細い道。昼なお暗い山道となる。幸いにも対向車とは出会うことなく西岩倉山の頂近くに到達すると、当寺の仁王門が見えた。人影はない。
 仁王門に立つと、なるほど重厚な造りは運慶作と伝えられるのも頷けた。
 当寺は養老2年(718)、元正天皇の勅願により、山主向日明神と開祖隆豊禅師が小塩山の中腹に開創。天平元年(729)聖武天皇より金蔵寺の寺号を、また桓武天皇より西岩倉山の山号を賜ったという。十一面千手観音を本尊とし、平安遷都以後、49院を数えるまでになって栄えた。
 平安後期には名刹として知られ、『今昔物語集』にも描かれている。応仁の乱で兵火にあったが、現在残っている建物は元禄6年(1693)、徳川5代将軍綱吉の母桂昌院によって再建された。
 平安後期には名刹として知られ、『今昔物語集』にも描かれている。応仁の乱で兵火にあったが、 現在は天台宗の寺で、竹林に囲まれた山深い細道を登りつめたところに境内がある。仁王門から石段を上がると諸堂が石段でつながり傾斜地に建っている。境内の北からは展望がきき、大原野から東山にかけて一望できる。秋は紅葉が美しいことで知られ、とくに銀杏の落葉が名高い。
 交通:阪急電鉄「東向日駅」、JR「向日町駅」下車→阪急バス「南春日町」下車、歩1時間。
 ―この取材は一昨年のものです。―
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「金閣寺」(きんかくじ)

2006年03月11日 18時57分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
 足利義満が黄金の日々を送った北山文化時代は、足利15代の歴代将軍の中で、最も優雅で充実した時代ではなかったのだろうか。
 京都に訪ね来る人々の多くは清水寺、金閣寺、銀閣寺は必ず訪ねるところである。しかしながら、金色に輝く金閣寺(鹿苑寺)は国宝に指定されていない。水上勉の「五番町夕霧楼」に登場する雲水・正順が金閣寺に放火し全焼した。もちろん、小説はノンフィクションではあるが、昭和25年(1950)に1人の学僧によって放火され焼失したことは事実で、三島由紀夫の小説「金閣寺」ではリアルに表現されている。この金閣は三層から構成されており、二層と三層は、漆の上から純金の箔が張ってあり、屋根は椹(サワラ)の薄い板を何枚も重ね、屋根には鳳凰(風の神)が義満の勢いを象徴しているかのようだ。
 一層目は寝殿造りの法水院(ほうすいいん)、二層目は武家造りの潮音洞(ちょうおんどう)で観音像が祀られ、三層目は中国風禅宗仏殿造りで究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれ洞仏舎利を安置している。
 
 昭和62年(1987)秋、修復が行われ、煌びやかな輝に目が奪われる。
庭園は室町時代の代表的な池泉回遊式で葦原島などが配置されている。方丈の北側には義満の手植えとされる舟型の「陸舟の松」が見事な帆を揚げている。夕日に映える金閣を望む処に「夕佳亭」が侘びを感じさせる。
 
 交通:JR京都駅より市バス金閣寺道行、金閣寺道下車前。


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「金戒光明寺」(こんかいこうみょうじ)

2006年03月10日 18時44分47秒 | 古都逍遥「京都篇」
 幕末に京都守護職会津藩の本陣が置かれことでも知られている紫雲山黒谷金戒光明寺は、法然上人がはじめて草庵を営んだ地である。15歳で比叡山に入山、承安5年(1175)43歳の時、山頂の石の上で念仏を唱えた時、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから この地に草庵をむすび、浄土宗最初の寺院となった。
 西山連峰、黒谷の西2㌔の京都御所、西10㌔の小倉山を眺み、山門、阿弥陀堂、本堂など18もの塔頭寺院が建ち並ぶ。なかでも、蓮池院(れんちいん)熊谷堂(くまがいどう)は、一の谷の合戦で平敦盛(たいらのあつもり)の首をとった熊谷直実(くまがいなおざね)の住房跡として知られる。

 ここは西山連峰中もっとも低い鞍部になる。彼岸の中日のころは真赤な夕陽が静かに沈むのが拝める京都盆地唯一の場所である。
 御影堂(大殿)内陣正面には、宗祖法然上人75歳の御影(座像)を奉安している。火災による焼失後、昭和19年に再建となったもので、堂内の光線と音響に細部の注意がこらされて昭和時代の模範建築物といわれている。
 阿弥陀堂は、慶長10年(1612年)豊臣秀頼により再建。当山諸堂宇中最も古い建物である。恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納められてあることから「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称されている。
 南禅寺の三門を思わせる三門は、万延元年(1860年)の完成。桜上正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がある。
 京都では珍しい吉備観音が安置されており、1200余年前、遣唐使吉備真備が中国から持ち帰った栴薩を刻んで吉田寺に安置されたが、同寺が廃寺となったため当山境内に移したと伝えられる。
 背後の山腹の墓地を登り詰めたところに、文殊菩薩と三重の塔がある。古く、黒谷の西にあった中山文殊が、江戸時代初期徳川秀忠公菩提の為に建立の三重の塔(日本三大文殊塔の1つ)に安置されている。この本尊の文殊菩薩と脇士の像は運慶の作。

 当寺と関わりの深い会津藩、新選組のことを少し触れておこう。
 幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。
文久2年(1862)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
 文久2年閏8月1日、会津藩主松平容保(かたもり)は江戸城へ登城し、14代将軍徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられ、役料5万石・金3万両を与えられた。松平容保は家臣1千名を率い文久2年12月24日三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした会津正規兵の行軍が一里余りも続いたという。
 当寺が本陣に選ばれた理由として、3点があげられている。

1.徳川家康は、直割地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとした。黒谷には大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には高麗門が城門のように建てられた。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。

2.御所まで約2㌔、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点までは1.5㌔の下り、馬で走れば約5分、人でも急げば15分で到着できる要衝の地であった。

3.約4万坪の大きな寺域により1千名の軍隊が駐屯できた。本陣といっても戦国時代の野戦とは違い野宿ではなくきちんとした宿舎が必要であった。黒谷には大小52の宿坊があり駐屯の為に大方丈及び宿坊25ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されている。

 新選組と会津藩の関係は、幕府が文久2年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。近藤・芹沢の浪士隊は、黒谷の会津藩預かりとして京都に残ったが、武家伝奏より「新選組」の命名とともに市中取締の命を受けた。
 現在の当寺は、昭和9年に御影堂・大方丈が火災により焼失してしまったが、その他の建物は往時のままである。山上墓地北東には約300坪の敷地に「会津藩殉難者墓地」が有り、文久2年~慶応3年の5年間に亡くなった237霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀る慰霊碑(明治40年3月建立)がある。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に3カ所に分けられ22霊祀られている。会津松平家が神道であった関係で7割ほどの人々が神霊として葬られている。
 また、会津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客・会津小鉄」の墓もある。
会津小鉄は本名上阪(こうさか) 仙吉といい、会津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組の密偵として大活躍をした。しかしながら、会津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分200余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷会津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。

所在地:京都府京都市左京区黒谷町121。
交通:京阪電気鉄道丸太町駅下車、徒歩15分。

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「興臨院」 (こうりんいん)

2006年03月08日 21時23分55秒 | 古都逍遥「京都篇」
 豊臣秀吉が大茶会を催したことで良く知られている大徳寺の広大な敷地に24を数える塔頭が群立し、その1つ1つを拝観することはできず、春や秋の時節に特別公開される所が多い。
 興臨院は加賀百万石の前田利家に縁のある寺院であることから、ちょっと高い拝観料600円也を納めて門をくぐった。
 当院は、大永年間(1521~28)建立されたもので、興臨院の古門(表門)と称され知られている門を潜ると、禅宗独自の趣を感じさす古刹、仏智大通禅師を開山に能登の領主畠山義総が建立して、自らの法号興臨院を院号にした。大永年間、能登の守護畠山義総が建立。のち焼失しが、天文初年(1530~40頃)に再建された。天正9年(1581)前田利家によって屋根の葺替が行われ、以後前田家菩提寺となる。
 表門は創建当時の遺構で、本堂とともに重要文化財に指定されている。本堂は近年解体修理で創建当時の姿に復元されたが、屋内後列中央の仏間と仏間裏の眠蔵(めんぞう)の構成などに特色を示す。重要文化財の椿尾長鳥模様堆朱盆(長成作・非公開)を所蔵している。
 本堂の方丈の門である国宝・唐門(日暮門)は、明治までこの興臨院と瑞峯院、大悲院の総門として在ったもので(金毛閣隣)、以前の方丈への門は明智門といって光秀の寄進によるものだが、現在は南禅寺塔頭金地院に移築している。
 方丈の室中の間は響き天井となっており、響き天井は偶然の産物であるらしい。大勢の人がいない状態で部屋の中で思いっきり手を叩くと、その音がビリビリ反響する。しかし、人が沢山いると鳴らないから面白い。

 方丈正面と西側は枯山水式庭園で、大海を白砂、深山を苔、岩組み、刈り込み、樹木もなく禅寺らしい雰囲気を留めている。落ちついた雰囲気があり、竜安寺の石庭のように、いつまででも眺めていても飽きることがない。
 庭園の隅に貝多羅樹が植えられている。この木の葉っぱに竹の枝で傷をつけて写経したとらしく、寺院では良く見られる樹木である。ちなみに、葉書は、この樹木の葉に由来するという説もある。
 秋の見所は何と言っても裏庭にある楓だ。枝にたわわに付く葉がオレンジを経て赤くなり、燃えあがる炎のような美しさである。背後の緑色の竹林と青空をとのコントラストが絶妙で一層美しさを増す。

 所在地:北区紫野大徳寺町80。
 交通:市バス大徳寺前下車、徒歩約5分、地下鉄烏丸線「北大路」駅から徒歩15。
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「興聖寺」(こうしょうじ)

2006年03月07日 23時19分32秒 | 古都逍遥「京都篇」
 遅く訪れた灼熱の夏が居座ったまま、彼岸も近づいたというのに衰える気配がない。書斎には長時間こもることから、冷房病にかかることを避けるためクーラーをあえて設置していないため、額に背中にと汗がにじむ。仕事に区切りがついた午後2時、自然の涼風をもとめてふらりと宇治の興聖寺を訪ねた。

 宇治は源氏物語全54帖の最後の10帖の舞台となり、「宇治10帖」(第45帖・橋姫から第54帖・夢浮橋まで)として薫の君と匂の宮と浮舟を中心とした恋物語が描かれている。
 宇治川の流れを右に見ながら歩を進めると宇治神社、恵心院を過ぎ小橋を渡れば当寺の名を刻んだ大きな石柱が目につく。朽ちかけた山門をくぐると総門までなだらかな傾斜のある参道。この参道は「琴坂」と呼び親しまれてきた。
脇を流れる谷川が琴の音色に聞こえるということからそう呼ばれるようになったそうだが、誰ひとりとして、その琴の音を楽しみながら参道を上がっていく様子は見られない。参道の両脇から楓が覆い、秋はそれは見事な紅葉が楽しめる。春は桜、特に5月のヤマブキは、宇治12景に数えられるほどの美しさだ。 

 当寺は「仏徳山」と号する曹洞宗の寺で、道元禅師によって1236年に開祖。当初は伏見深草にあったものだが荒廃し、1649年、当時の淀城主の永井尚政によって宇治7名園の1つ「朝日茶園」であった場所に再興した。境内の奥にある天竺堂には、宇治十帖古跡の「手習の杜」に祀られていた「手習観音」が安置されている。

 所在地:京都府宇治市宇治山田27-1
 交通:京阪電鉄宇治駅から徒歩10分、JR宇治駅から徒歩20分。
 このルポは3年ほど前の夏に行ったもの。

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「京都霊山護国神社」(ごこくじんじゃ)

2006年03月06日 21時16分47秒 | 古都逍遥「京都篇」
 八坂神社から清水寺へと続く二寧坂、それと交差する高台寺参道にかかると維新の道と愛称される坂道がある。東山山麓へと向かって勾配のある坂だ。この上り詰めたところに護国神社があり、小高い丘へと続いている。今もなお、老若男女を問わず崇拝され偲ばれている、いや、その志は日本人の失ってはならない心の指針ともなっている、ある人物の霊が祀られている丘でもある。
 その人物とは、近代日本統一の演出者「坂本龍馬」である。勤皇・佐幕と対立抗争をくりかえしていた幕末に、「日本はひとつにまとまらなければならない」という大きな視野から、新しい時代を構想していたのが坂本龍馬。薩長連合(1866年)を成立させ、海援隊を組織し、世界情勢や貿易の必要性を唱えたが、同志中岡慎太郎とともに、1867年京都近江屋で暗殺された。龍馬と慎太郎の墓が当神社の奥、丘陵に銅像と共に祀られている。

 護国神社は明治元年5月10日、明治天皇の御沙汰書を拝し創建された。
 明治10年社頭に銅碑建設の際は、勅命に依り有栖川宮幟仁親王御揮傲毫の題篆が下賜され、昭和4年には御大礼の大甞宮付属御建物を賜り、斉殿及び拝殿を建立した。社頭の荘厳は年と共に盛大になったが、昭和11年に嘉永6年以降の本府出身の英霊を悉く当社に合祀、霊山官祭招魂社造営奉賛会が組織され、新たに社殿の造営、境内の拡張が計画され、社域の拡張1500余坪、新築社殿は本殿、祝詞舎、拝殿、神饌所等12棟に及ぶ大規模造営であった。
 この時に当り国は広く全国の招魂社の制を改め、郷土出身の英霊を奉祀するために、各道府県に護国神社を指定することとなり、昭和14年4月1日「京都霊山護国神社」と改称された。
 霊山官祭招魂社において祀る祭神は549柱(平成13年10月現在の祭神数は73、011柱)あり、古くは天誅組の首将中山忠光を始めとし梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、月照信海、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九市、吉村寅太郎、平野国臣、宮部鼎蔵、真木和泉守などである。
 新選組と激しい闘争を展開していた、長州藩・桂小五郎(木戸孝允)の墓も丘陵の高台に祀られ、いまもなお洛中の平安を見守っている。

 坂本龍馬を年表で紹介しておこう。
◇1835年(天保6年) 土佐の国高知に、町人郷士坂本八平の次男として生まれる。◇53年(嘉永6年) 江戸に行き、北辰一刀流の千葉道場に入門。
◇58年(安政5年) 北辰一刀流の免許を受け、土佐に帰国。
◇61年(文久元年)武市半平太のつくった土佐勤王党に加わる。
◇62年 (文久2年)土佐を脱藩し長州へ。九州や京都に立ち寄って江戸へ行き、千葉 道場に滞在する。このころ、勝海舟の弟子となる。
◇63年(文久3年) 脱藩の罪が 許され、神戸海軍操練所の塾頭に。帰国の命令に従 わず、再び脱藩。
◇64年(元治元年)楢崎お龍と知り合う。薩摩藩の西郷隆盛と知り合う。海軍操練所が 閉ざされる。
◇65年(慶応元年)西郷隆盛と共に鹿児島へ。長州に行き、桂小五郎に薩長の和解を説 く。長崎に亀山社中をつくる。
◇66年(慶応2年)龍馬の仲立ちで、京都で薩長同盟が成立。伏見の寺田屋で幕府の役 人に襲われる。ユニオン号を率いて、幕長戦争に参加。
◇67年 (慶応3年)脱藩の罪が許され海援隊の隊長。後藤象二郎と共に京に向かう船 中で、大政奉還の「船中八策」を考案。岩倉具視に会う。大政奉還後、「新官制案」や「新政府綱領八策」をつくる。
◇同年11月15日、夕方、近江屋に中岡慎太郎が来訪し、岡本健三郎・菊屋峰吉も来  る。午後9時ごろ、岡本・峰吉は所用のため外出。その直後刺客に襲われて闘死する(享年33歳)。中岡・下僕藤吉は重傷。近江屋新助は土佐藩邸に、峰吉は陸援隊に急を 知らせる。16日、藤吉絶命する(享年25歳)。大坂に凶報達し、在坂の隊士は京都
 に急行。17日、中岡絶命(享年30歳)。18日、東山霊山に3人の遺骸を埋葬。2 6日、永井尚志、新選組局長近藤勇から事情聴取、近藤は犯行を否定。

 この山麓丘陵に立つと洛中の展望が一目で見渡せ、五山の送り火、左大文字、鳥居、舟形、妙法などが見える。だが、この丘陵、午後5時には閉門するため、残念ながら送り火をここで眺めることは許されていない。

 所在地:京都市東山区清閑寺霊前町1。
 交通:JR京都駅から市バス206系統で東山安井下車、徒歩10分。京阪
電気鉄道四条駅から徒歩25分。
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「岩倉具視幽棲旧邸」(いわくらともみ)

2006年03月05日 18時23分35秒 | 古都逍遥「京都篇」
 晩夏の頃、襖絵の取材のため「実相院」を訪ねた折、明治維新の立役者となった岩倉具視にゆかりの地、「幽棲旧邸」に足を向けた。
 住処は六畳、四畳半、三畳三間の古家を借り、後に大工藤吉の家を購入し移り住んだのが現在の旧邸の北側の藁葺き平屋建てで、維新の志士達、玉松操、大久保利通、中岡慎太郎、坂本龍馬らが訪れ、王政復古の密議を交わした。この旧邸は、昭和7年、国の史跡に指定され、平成12年には邸内の「対岳文庫」の岩倉具視資料1、011点が重要文化財に、109点は京都市有形文化財の指定を受けた。

 岩倉具視は、文政8(1825)年9月15日京都に生まれ、天保9(1838)年10月従五位下に叙せられ、正三位岩倉具慶(ともやす)の養子となる。嘉永6(1853)年1月、摂関家鷹司政通の和歌の門人となり、対外問題の主導権を朝廷が掌握すべきと主張して政通から厚い信任を得て安政元(1854)年3月侍従に任じられ、のち左近衛権中将に昇任。この間、安政5(1858)年3月12日、通商条約勅許問題をめぐり、同志の廷臣88卿の参列に加わって勅許案改訂を建言し、関白九条尚忠の幕府委任案を一転させる。これ以降、難局打開と攘夷の実行を公武合体策に求め、万延元(1860)年には一時中座していた皇女和宮の将軍家茂への降嫁に加担。

 文久2(1862)年8月、尊攘論が台頭すると佐幕派と見なされ、千種有文、富小路敬直らとともに蟄居を命じられ辞官。ついには尊攘過激派から命を狙われ、家族ともども洛中から追放された。このため剃髪して落飾し、友山と称し、霊源寺、西芳寺、岩倉村と居所を転々とした。
 慶應3(1867)年3月入洛並びに帰宅一宿を許され、前権大納言中山忠能や薩摩藩らと提携し同年12月9日、勅勘を免ぜられて参内。同日の小御所会議においては熱弁を奮って王政復古と将軍家罷免を主張した。
 明治4(1871)年7月に外務卿、10月には右大臣となり、欧米使節団の特命全権大使となり、総勢46名を引率して11月12日横浜を出港。米大統領U・S・グラント、ヴィクトリア英国女王など欧米諸国の元首との会見を果たしたが、条約改正交渉の成果は得られなかった。

 所在地:京都市左京区岩倉上蔵町100。
 交通:叡山電鉄 鞍馬線「岩倉」より徒歩13分、京都バス21、23、24、28系統「岩倉実相院」より徒歩2分。
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