「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「御香宮」(ごこうぐう)

2006年04月30日 21時05分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
日本第一安産守護之大神として広く崇められている、神功皇后を主祭神として仲哀天皇応神天皇他六柱の神を祭る。初めは、「御諸(みもろ))神社」と称したが、平安時代貞観4年(862)9月9日に、この境内から「香」の良い水が涌き出たので、清和天皇よりその奇端によって、「御香宮」の名を賜った。
 豊臣秀吉は天正18年(1590)、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、やがて伏見築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請し社領三百石を献じた。その後、徳川家康は慶長10年(1605)に元の地に本殿を造営し社領三百石を献じた。慶応4年(1868)正月、伏見鳥羽の戦には伏見奉行所に幕軍が據り、当社は官軍(薩摩藩)の屯所となったが幸いにして戦火は免れた。十月の神幸祭は、伏見九郷の総鎮守の祭礼とされ、古来「伏見祭」と称せられ今も洛南随一の大祭として聞こえている。
 昭和60年1月、環境庁より京の名水の代表として「名水百選」に認定された。

 本殿(国指定重要文化財)は、慶長10年(1405)、徳川家康の命により京都所司代坂倉勝重を普請奉行として着手建立された。大型の五間社流造で屋根は桧皮葺(ひわだぶき)、正面の頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)や蟇股(かえるまた)、向拝(こうはい)の手挟(たばさみ)に彫刻を施し、全ての極彩色で飾っている。また背面の板面の板壁には五間全体にわたって柳と梅の絵を描いている。全体の造り、細部の装飾ともに豪壮華麗でよく時代の特色をあらわし桃山時代の大型社殿として価値が高く、昭和60年5月18日重要文化財として指定された。現社殿造営以降、江戸時代社殿修復に関しては、そのつど伏見奉行に出願し、それらの費用は、紀伊、尾張、水戸の徳川三家の御寄進金を氏子一般の浄財でもって行われた。平成2年より着手された修理により約390年ぶりに極彩色が復元された。

 拝殿(京都府指定文化財)は、寛永2年(1625)、徳川頼宣(紀州徳川家初代)の寄進にかかる。桁行七間(けたゆき七げん)、梁行三間(りょうゆき三げん)、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺の割拝殿(わりはいでん)。正面軒唐破風(のきからはふ)は、手の込んだ彫刻によって埋められている。特に五三桐の蟇股や大瓶束(たいへいづか)によって左右区切られている彫刻は、向かって右は『鯉の瀧のぼり』、すなわち龍神伝説の光景を彫刻し、左はこれに応ずる如く、琴高仙人(きんこうせんにん)が鯉に跨って瀧の中ほどまで昇っている光景を写している。平成9年6月に半解体修理が竣工し極彩色が復元された。
 表門(伏見城大手門)(国指定重要文化財)は、元和8年(1622)、徳川頼房(水戸光圀・黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進した。三間一戸(三げん一と)、切妻造(きりもやづくり)、本瓦葺、薬医門(やくいもん)、雄大な木割、雄渾な蟇股、どっしりと落ち着いた豪壮な構えは伏見城の大手門たる貫禄を示している。特に注目すべきは、正面を飾る中国二十四考を彫った蟇股で、向かって右から、楊香(ようこう)、敦巨(かっきょ)、唐夫人、孟子の物語の順にならんでいる。楊香という名の娘が猛虎より父を救った。敦巨は母に孝行するために、子供を殺して埋めようとした所、黄金の釜が出土、子供を殺さずに母に孝養を盡した。唐夫人の曽祖母は歯が無かったので、自分の乳を飲ませて祖母は天寿を全うした。孟子は寒中に病弱の母が筍を食べたいというので、雪の中を歩いていると彼も孝養に感じて寒中にも拘らず筍が出てきた。以上、中国二十四考の物語
の蟇股である。また、両妻の板蟇股も非常に立派で桃山時代の建築装飾としては、二十四考の彫刻と併せて正に時代の代表例とされている。

 小堀遠州ゆかりの石庭は、 遠州が伏見奉行に命ぜられた時、奉行所内に作った庭園の石を戦後移して作ったものである。伏見奉行所は明治時代以降、陸軍工兵隊、米軍キャンプ場と移り変わり、昭和32年市営住宅地になったのを機に当宮に移築した。
 庭園の手水鉢には、文明9年(1477)の銘があり在銘のものとしては非常に珍しいらしい。また、後水尾上皇が命名された「ところがらの藤」も移植、その由来碑も建っている。庭の北側には弁天池があり、この池に架かる石橋は、元々は「常盤井」の井筒だったと伝わる。常盤井は牛若丸と、母の常盤御前の逸話が残る井戸として知られている。

 慶応4年1月、御香宮から南へ少しの所にあった伏見奉行所には土方歳三らの新撰組、林権助らの会津藩士、そして久保田備中守らの伝習隊などが陣を構えた。1月3日、「鳥羽・伏見の戦」が鳥羽街道小枝橋、伏見奉行所、御香宮(官軍側の陣地)を舞台に始まる。境内には「伏見の戦い跡」の碑がある。
 この碑は昭和43年(1968)に、明治100年を記念して建てられたもので、碑文は当時の内閣総理大臣佐藤栄作氏の書。
 御香宮に薩摩藩500人が布陣しており、ここから道路一本隔てた南側にある伏見奉行所を俯瞰する事ができた。圧倒的に有利なこの地をなぜ薩摩藩が押さえたのか。当初、幕府側がここに本営を置く予定で、徳川氏陣営と書いた木札を門に掲げておいた。ところが、御香宮の宮司は尊王びいきだったことからこれを御所に知らせた。薩摩藩では、急ぎ吉井孝助を派遣して御香宮に陣を構えさせ幕府軍の布陣を防いだ。これにより、後の戦いを有利に導く基礎を築く事ができた。
  当宮のほど近い所に、明和元年(1764)に創業した老舗の料亭・魚三楼がある。この店の前の京町通りも戦場になったが、この店は大きな被害は免れ、表格子にはその時を偲ばせる弾痕が今も保存されている。

 所在地:京都市伏見区御香宮門前町。
 交通:京阪電車伏見桃山駅下車、近鉄京都線桃山御陵前下車、JR奈良線桃山駅下車、いずれも徒歩5分以内。
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「瑞峯院」(ずいほういん)

2006年04月29日 12時51分07秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大徳寺搭頭の一般公開が始まったことから取材目的で出かけた。
 当院は、室町時代の九州豊前豊後の領主で、宣教師フランシスコ・ザビエルについて洗礼を受け、キリシタン大名として知られる大友宗麟公が、大徳寺開山大燈国師から法系第九一世徹岫宗九(てつしゅうそうきゅう)禅師に帰依し、天文4年(1535)禅師を開祖として創建した。山門、唐門、方丈は創建当時の建築物で重要文化財に指定されている。

 宗麟は、はじめ大友義鎮と名のっていたが、22歳のとき得度を受け、宗麟と名を改め、瑞峯院殿瑞峯宗麟居士を以って、寺号を瑞峯院と称した。
 取材に応じてくれた僧が、「この蓬莱山の様に、どんな大変なことが起ころうとも動じない心を悟ってください。どんな時にも本当の自分の心を見極めることができるようになってください」とありがたい教えを垂れてくれた。
 方丈裏の庭園「閑眠庭」は、「閑眠高臥して青山に対す」の禅語から銘じられ、閑眠庭と呼んでいる。中庭にあるキリシタン灯寵を中心に、7個の石組からなり、縦に4個、横に3個の石の流れが十字架に組まれ、万民の霊を弔っている。いずれも、これらの庭園は作庭界の権威重森三玲氏によって造られた。
 感嘆して見つめていると、「十字架を形づくっているのはご存じでしょうが、実はその横に坪庭があってそこの灯籠を中心に作られているのです。その灯籠の下にはマリア様が埋まっていて、名付けてキリシタン灯籠と言います。もしこの庭園を拝むのであれば灯籠から見てください、バッチリ十字架です」と、語り上手の僧でユーモアを交えて話してくれた。
 そして「茶室がその奥にあるんですが、これが珍しく逆勝手なんです。『安勝軒』を覗いて見てください。思う存分見たところで最後にお茶などどうですか? ここの茶菓子が『紫野』という、中に大徳寺納豆が入っているちょっとかわったお菓子が出てきます。一度食べてみてください。甘い生地にちょっと塩辛い納豆の味が利いて美味しいですよ」と、商いまでしてくれた。折角のおすすめなので頂いて見ると、なかなかの風味であった。
 方丈前の独坐庭は、寺号、瑞峯をテーマにした蓬莱山式庭園で、中国の禅僧百丈禅師が、独坐大雄峰と呼唱した禅語から銘じられ、独坐庭と言う。この枯山水は、峨々たる蓬莱山の山岳から半島になり、大海に絶え間なく荒波に、打ちよせもまれながらも雄々と独坐している、大自然の活動を現わしている。茶席の前の方は入海となり、静かな風景を現し、自然に心が落ち着くのを覚える。

 所在地:京都市北区紫野大徳寺町81。
 交通:交通:市バス大徳寺前下車、徒歩約5分、地下鉄烏丸線「北大路」駅から徒歩15。
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「瑞春院」(ずいしゅんいん)

2006年04月28日 16時17分31秒 | 古都逍遥「京都篇」
 相国寺には10を越す塔頭があり、その一つひとつが見事なもので、境内に優れた石庭を持つものが多く、高尚な水石が配されている。
 その中の一つ、瑞春院は、足利義満公が雪村友梅禅師の法嗣太清宗渭(たいせいそうい)〔相国寺第四世住持〕を相国寺に迎請するため、その禅室として雲頂院を創設。その後雲頂院は兵火で罹災し瑞春軒と併合。瑞春軒は蔭涼軒日録を編集した僧録司の権威、亀泉集證(きせんしゅうしょう)が文明年間(1484)に創設してが、300余年後の天明年間に寺宇は焼失。弘化から嘉永まで(1845年~49)の間に再建され、その後客殿を棄却したが、明治31年(1898)6月再興完成し、今日の瑞春院にいたる。ちなみに瑞春院は、亀泉集證、鈴木松年、水上 勉氏など文人墨客ゆかりの禅院でもある。

 本尊は阿弥陀三尊佛(木像雲上来迎佛 藤原時代)、永享11年(1439)4月13日第六代足利義教将軍が寄進。阿弥陀如来像を中心に、蓮台を捧げ持つ観音菩薩と合掌した勢至菩薩が雲に乗って来迎する姿の阿弥陀三尊像である。
 三尊共木造で中尊は水晶製の肉髪珠・白毫を嵌入、両脇侍金属製の宝冠・瓔珞(玉をつないだ首飾り)をつける。中尊の柔和な顔は定朝様式を引くもので小粒の螺髪や、流麗な衣紋の線も、藤原時代中頃と推定されている。
 両脇侍は、中尊より時代は後期になるようで、光背・台座は工芸的な作りからみて、江戸時代前期の作だとされている。このことについて、再三の火災に遭いながら像本体だけは持ち出され、最終的に現在の形態が整えられたからだと説明している。
 襖絵も見ごたえがあるものばかりで、「孔雀」絵(今尾景年筆)、「古松」絵(鈴木松年筆)、「八方睨みの龍」絵(梅村景山筆)と息を呑む。
 なかでも本堂上官の間(雁の間)の八枚の襖絵「雁」(上田萬秋筆)が、水上勉氏の「雁の寺」のモデルとして登場し、広く世に知られるようになった。

 直木賞作家・水上勉氏は9歳の時、当院で得度し19歳で出奔し還俗。立命館大学国文科に学んだが中退した。諸所を遍歴し文筆活動に精進。昭和36年(1961)出版の小説「雁の寺」はベストセラーとなり名声を博した。雁の寺の小説は瑞春院時代を回顧したもので、別名「雁の寺」と称されるようになった。
 掛軸も逸品ぞろいで、「陶渕明 春秋山水図」三幅対は狩野探幽、「鐘馗・牡丹・竹に虎」三幅対は狩野安信、四季掛替の「福禄寿・雪梅・月梅」三幅対は維明周奎、「朱衣達磨」は狩野常信などの筆による。
 書院「雲泉軒」は、直径2㍍からなる台湾檜の千年ものを主材に造られ、天井は碁天の中に小碁を組んだ優雅な作り。書斎の火灯窓より見る柚木灯籠と檜の木立は、一幅の絵を観る如くである。
 庭園を紹介すると、南庭の雲頂庭は、室町期の禅院風の枯山水が、枯淡な趣と公案的な作意で、禅的世界感を象徴している。北庭の雲泉庭は、 村岡正氏(文化功労授賞)が相国寺開山、夢窓国師の作風をとりいれ作庭した池泉観賞式庭園である。茶室「久昌庵」は、数寄屋建築の名工諸富厚士氏の建築で、表千家の不審庵を模して造られた。濡額の書は千宗左(而妙斎)直筆。

 当院を訪れる人の心を奪うものの一つに「水琴窟」がある。これは370年前に小堀遠州配下の同心が伏見屋敷の庭に造った洞水門(水琴窟)の手法を取り入れて創作したもので、玄妙なる音色は聴く人の心を幽玄の世界に誘っている。国内の「水琴窟」の中では最も美しい音色がするとの評判である。また、抹茶碗「水琴」は、陶芸家加藤和宏氏(富本憲吉賞、京都美術工芸展優秀賞等)が茶室久昌庵の待合の横にある水琴窟が奏でる地底の玄妙の音色に魅せられ、その音色をイメージに作陶し「水琴」と命名。直径49㌢、重さ7㌔という、日本一の伊羅保釉大茶碗で、現在も瑞春院大碗茶席に用いられている。

 所在地:上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701 拝観をするには予約が必要。
 交通:地下鉄今出川下車、徒歩約5分。市バス烏丸上立売下車、徒歩約5分。
 
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「真如堂」(しんにょどう)

2006年04月27日 22時37分31秒 | 古都逍遥「京都篇」
 真如堂は鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)といい、永観2年(984)比叡山の戒算上人(かいさんしょうにん)が、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来立像(慈覚大師作)を東三條女院(一条天皇の母 藤原詮子)の離宮に安置したのを始まりとする天台宗の寺。
 阿弥陀如来立像には伝説がある。慈覚大師が30歳過ぎの頃、滋賀県の苗鹿(のうか)明神で根元が毎夜光っている霊木を見つけられ、それを割ってみると、座像と立像の阿弥陀の形が現れたという。大師はこの霊木の片方で阿弥陀如来座像を造立し、自坊に安置。後に日吉大社念仏堂の本尊としたが、立像はそのまま持っていた。

 その後、大師が唐(中国)に留学した帰り、荒れ狂う波間の虚空より小身の阿弥陀如来が香煙に包まれて現れ、大師に引声念仏(いんぜいねんぶつ)の一節を授けた。大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、大切にしまっておいた霊木で阿弥陀如来を完成させ、その胎内にこの3㌢ほど如来を納めた。もうすぐ完成するという時、慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊に」と願うと、如来は首を振って拒否した。「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言うと、如来がうなづいたところから、「うなづきの弥陀」とも呼ばれている。
 平安後期には、浄土宗の開祖法然上人や浄土真宗の開祖親鸞聖人をはじめとする多くの念仏行者、民衆の信仰を集めた。
 応仁の乱の時、この辺り一帯が東陣となり、その戦火で堂塔は焼失。本尊は比叡山の黒谷、滋賀県穴太(あのう)に避難。その後も京都室町勘解由小路(足利義輝邸)、一条西洞院(1477)を転々とした後、旧地にもどり再建された。その後、秀吉の京都大整備により京極今出川下るに移転(1578)するが類焼し、ようやく元禄6年(1693)東山天皇の勅により、再び旧地にもどり再建された。
 本堂(重要文化財)は、元禄6年(1693)から享保2年(1717)にかけて建立。十五間四面、総欅、単層入母屋、本瓦葺造り。正面「真如堂」の大額は享保11年(1726)宝鏡寺宮からの寄付による。
 本堂正面の宮殿(徳川五代将軍綱吉と桂昌院の寄進)の中には、本尊阿弥陀如来、不動明王(安倍晴明の念持仏)、千手観音が祀られている。
 現在は本堂と三重塔(重文)を中心に、塔頭八院が建つが、その多くがこの時期に再建されたものである。
もう1つの見所は、東山(大文字山)を借景にした「涅槃の庭」である。
 涅槃図(ねはんず)は江戸時代、宝永年間に描かれたもので、縦10㍍、横6㍍の大きさがある。彩色涅槃図であるのが珍しいと云われている。公開は3月1日~31日。
 真如堂の宝堂に納められている寺宝を本堂で虫干しする行事、虫払会(むしばらいえ)が開催され、「真如堂縁起絵巻」3巻をはじめ涅槃図慈眼(じがん)大師関係の寺宝200点が、7月25日に一般公開される。

 真如堂の風景で印象的なのは本堂前の石段。緩く、段の幅がたっぷりとられた特徴のある外見。石段の両側から覆い被さるように楓が枝を伸ばしている。
秋には紅に染まった見事な景色が見られ、また、その散紅葉は圧倒されるほどの美観である。初秋の萩も趣き深く、可憐に咲く萩の背景に本堂のぼんやりとした燈火が朧月にも見える風情をかもしだしている。
 境内に紅葉の季節の訪れるのをいち早く知らせるのが、本堂前の井戸脇の「花の木」。十一月初旬から木の先から赤くなり出し、それが段々下に降りてきて、最も美しいのは先端が赤、真ん中が黄色、下が緑の三色に染め分けられる。本堂の縁から三重の塔を背景にして見るのが最高。

 「雨重き 葉の重なりや 若かへで」(炭 太祇)
 「方丈に 今とどきたる 新茶かな」(高浜虚子)

 映画のロケ舞台としても使われる所で、劇場版鬼平犯科帳では、鬼平と昔いきさつのあった荒神のおとよが街をゆく長谷川平蔵を見かける、という場面で使われており、おとよは三重塔向かいの茶所に大坂の白子屋配下の用心棒といて、鬼平は着流しで笠を抱え参道を本堂のほうから門のほうへ下ってゆく、というシーンであった。間隔のひろい石段と坂の途中にある灯籠が映っている。
 また、朱も鮮やかな山門は、大目付筆頭・京極丹波が領地転がしで諸大名を手玉にとる話。幕府お耳役檜十三郎「大名馬鹿 罠にかかった6万石」で、河内守移封のきっかけとなった元妾が、十三郎に忠告されるも聞かず怒って立ち去るシーンに使われ、門では、鬼平の密偵・伊佐次が飴売りに身をやつして探索中の姿も見られた。吉右衛門版のテレビドラマシリーズの鬼平では、真如堂が多用されている。

 所在地:京都市左京区浄土寺真如町。
 交通:市バス5・17系統で真如堂前または錦林車庫前下車、徒歩10分。
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「浄瑠璃寺」(じょうるりでら)

2006年04月26日 22時51分10秒 | 古都逍遥「京都篇」
 奈良の山の後ろ、京都からも人里離れた南山城の浄瑠璃寺には、古刹めぐりが好きな人たちしか訪れないほどの山間にある。境内は凛とした静けさみ満ち、小鳥のさえずりが心地好い。名前の通り浄らかで清々とした空気に包まれている。春は桜や梅などが参道を彩る。

「まさかこんな田園風景のまっただなかに、その有名な古寺が―」、作家堀辰雄氏が当寺の印象を「浄瑠璃寺の春」でそう綴っている。
 そんな静かだった当寺も、最近はハイカーやウォーキングの中高齢者が、この界隈に点在する石仏めぐりで大勢の人たちが訪れるようになり、のんびりとこの静けさ満喫するには、夏・冬の時期しかなくなってきている。
 浄瑠璃寺の記録は少なく、天平11年(738)行基が開いたともいわれているが、これも定かではなく諸説がある。浄瑠璃寺流記事によると、永承2年(1047)義明(ぎみょう)上人が、薬師如来を本尊とし、1日で屋根を葺けたというほどの小さな堂宇を建てたのが始まりで、阿知山大夫重頼という豪族が檀那となったそうだ。それから60年後、嘉承2年(1107)本尊の薬師如来像などを西堂へ移したといわれている。

 久安6年(1157)興福寺権別当をつとめた興福寺一条院の門跡恵信(藤原忠道の子)は、浄瑠璃寺を一条院の御祈所とし、坊舎などをまとめ、庭園を整備した。治承2年(1178)京都の一条大宮から現在の位置に三重塔が移され、初層内は扉の釈迦八相、四隅の十六羅漢図など、装飾文様と共に壁面で埋められている。元は仏舎利を納めていたようだが、当寺へ来てからは東方本尊の薬師物を安置している。

 浄瑠璃寺本堂、九体阿弥陀堂(国宝・藤原時代)は、全国で唯一現存する九体の阿弥陀仏が祀られている堂宇で、(正面十一間、側面四間)太陽の沈む西方浄土へ迎えてくれる阿弥陀仏を西に向って拝めるよう東向きにし前に浄土の池をおき、その対岸から文字通り彼岸に来迎仏を拝ませる形にしたものである。九品往生、人間の努力や心がけなど、いろいろな条件で下品下生からはじまり、下の中、下の上と上品上生まで九つの往生の段階があるという考えから、9つの如来を祀った。中尊は丈六像で来迎印(下生印)、他の八体は半丈六像で定印(上生印)を結んでいる。寄木造りで漆箔が施されている。

 四天王像四体(国宝・藤原時代)は、四天王は元来世界の四方を守り、外から悪が入らぬよう、内の善なるものは広がるようにと言う力の神で、現在、多門天が京都、広目天が東京の国立博物館にある。堂内には持国天と増長天が祀られている。
他に、吉祥天女像(厨子入り・鎌倉時代)、延命地蔵菩薩像(藤原時代)、子安地蔵菩薩像(藤原時代)、不動明王三尊像(鎌倉時代)等も重要文化財に指定されている。

 さて浄瑠璃寺庭園(特別名勝及史跡・藤原時代)についてご紹介しておこう。
 池を中心としたこの庭園は、伊豆僧正恵信が久安六年に伽藍や坊舎の整備、結界を正すなどしたときに始まる。阿弥陀堂を東に向け、その前に苑池を置き、東に薬師仏を祀って浄土式庭園とした。鎌倉のはじめの元久2年、小納言法眼がそれを補強している。
 この寺は「義太夫の発祥地ですか」とか、「昔、人形浄瑠璃やってましたか」などと質問されることがあるという。義太夫や人形浄瑠璃とは関係はなく、浄瑠璃というのはもともと仏教の言葉で浄瑠璃世界という「お薬師さま」(薬師瑠璃光如来)の清浄な浄土の名前で、不純なものは全くない澄みきった瑠璃の大地、建物はみんな七宝で造られた東方はるかな仏教の世界のこと。

 古の人々が、奈良の都の山の後ろ(山城の語源の発祥)にある汚れなき理想郷を求めて、ひっそりと造った夢見の世界。川のせせらぎを耳に、娑婆のことなど忘れて木の葉の風に吹かれてみてはどうだろう。

 交通:近鉄奈良駅からバス、浄瑠璃寺前下車。
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「常照皇寺」(じょうしょうおうじ)

2006年04月25日 21時19分54秒 | 古都逍遥「京都篇」
『何事も うれふとなしに のどかなる 春の雨夜は 物ぞ侘しき』(光厳院)
 和漢儒仏の学問にも通暁し、和歌の優れた詠み人としても知られた光厳院(南北朝期、足利尊氏によって北朝初代上皇〈後伏見天皇の皇子〉となった)の哀れにも侘しい晩年を過ごした山里を訪ねたくなった。 春の終りにしては暑い日ざしの休日、京都洛北、高尾山麓から福井県へと通じる周山街道を、緑の風を切って車を走らせた。途中、川端康成の「古都」を山口百恵の2役で映画化した、そのロケ舞台となった北山杉の山間を通り、七曲の峠を越して京北町へと向かう。京北町はまだ田園地帯、菜の花、蓮華草の絨毯を望みながら北へと進んだ。 常照皇寺は、正しくは「大雄名山万寿常照皇禅寺」といい、光厳院が、1362年頃に開創した臨済宗嵯峨天竜寺派に属する禅寺。後花園天皇が小塩田260石を香華料として献納し、皇家と深い関わりを持つ。 桜の咲く頃は、ひっそりとした山里の寺は芋の子を洗うような賑わいを見せる。というのも、推定樹齢600年といわれ、天然記念物に指定されている「九重桜」が咲き、境内庭園を覆い尽くす。そして左近の桜と、当寺を訪ねた後水尾天皇(江戸期)が、その美しさに魅かれ何度も車を返したと伝えられる「御車返しの桜」があり、桜の名刹として名高い。訪ねた時は牡丹が欄干に寄り添うように咲いていた。

 交通:JR京都駅からJRバス周山行き終点下車、町営バス乗り換え小塩行き山国御陵前下車。全約2時間。
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「常寂光寺」(じょうじゃくこうじ)

2006年04月24日 22時17分35秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「吹きはらふもみぢの上の 霧はれて嶺たしかなる嵐山」(藤原定家)
 小倉山山麓には紅葉の名勝地は数多くあるが、定家の歌った彼の地は、中でも名勝中の名勝、「常寂光寺」である。
 三門を入り、細長い参道を行くと、苔むした茅葺の仁王門を覆い尽くした燃え立つばかりの紅葉があたりを紅色に染めている。本堂に上がる両脇は、茜色、紅色、黄色、まだ染まらぬ青葉の楓葉が天からまき散らしたように梢や枝々を彩り、その根元の斜面には、落葉がまるで山下清画伯の千切り絵を見るごとくである。
 紅葉の古刹・当寺は日蓮宗大本山・本圀寺(ほんこくじ)より出でた究竟院日禎上人(くきよういんにっしんしょうにん)が、文禄4年(1595)のころこの地に隠栖し開祖した。
 仁王門は、もと本圀寺客殿の南門を元和2年に移築したもので、運慶作と伝えられる仁王像は丈7尺、若狭小浜の長源寺より移した。本堂は、慶長年間小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して造営した。重要文化財に指定されている多宝塔は、元和6年(1620)8月に二世日韶上人が建立。鎌倉期の名作、大津石山寺多宝塔と並ぶ秀麗な姿に目を奪われずにはいられない。さらに奥へと上ると嵯峨に3つの「時雨亭」ありと称された(二尊院、厭離庵(えんりあん)、常寂光寺)その1つ(跡地)がある。

 交通:京都バスにて「嵯峨野小学校」下車、徒歩5分。
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「京都御所」(きようとごしょ)

2006年04月21日 18時01分50秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都市街中心の北中央部に広大な京都御苑がある。市民の憩いの場所として開放されている南北1300m、東西700mの緑地帯の中に、京都御所と仙洞御所、大宮御所があり、桓武天皇が遷都以来、数々の歴史形成の中心として多くの物語が残されている。
 春の陽気に誘われて、一般公開されている京都御所に出かけた。

 春の一般公開は、明治天皇が春先3月に五箇条のご誓文を下したのを記念し、は桓武天皇の時代、平安京遷都が秋口10月にあったのを記念して、昭和21年より行われている。
 京都御所は、南北朝時代の光厳天皇が元弘元年(1331)に里内裏だった土御門東洞院殿を皇居と定めたもので、以後、信長、秀吉、家康らが修理、造営を行っているがことごとく焼失し、現在の建物は総奉行・松平定信によって安政2年(1855)古制にのっとって再現されたもので、紫宸殿を中心として、その西北方に清凉殿、東方に宜陽殿があり、紫宸殿の南庭(前庭)を回って日華門、月華門、承明門などの門や軒廊等が連なっている。そのほかにも、春輿殿、小御所、御学問所、常御殿などや建礼門、宜秋門、建春門、清所門などの門があり、平安時代以降の建築様式の移りかわりを見ることができる。

 今回(06年4月)の一般公開は入り口は宜秋門となっており、テントが張られた入場受付では長蛇の列、危険物の持ち込みを検査され御所内に入る。
 はじめに「御車寄」(おくるまよせ)に出会う。昇殿を許された親王、摂家などの正式な参内の場合のみ昇降する所で、大正御大礼のときに設けられ、天皇、皇后のみが昇降する。人波におされながら先に進む。まるで上野動物園にパンダが初お目見えした時のような行列ぶりだ。
 御車寄から左に折れると諸大夫(しょだいぶ)の間。諸大夫の間は、正式の用向きで参内した者の控えの建物。身分に応じた3つの間が用意されていた。桜の間と鶴の間、虎の間があり、それぞれの間には、原在照筆(諸太夫:桜の間)、狩野永岳筆(殿上人:鶴の間)、岸岱筆(公卿:虎の間)らの手になるふすま絵が掛かっている。ここを抜けると急に広くなり、人波がばらけ出し、右手に建礼門、左手に承明門がある。
 建礼門(けんれいもん)は、葵祭での出発地点となっている。京都御所の正門で、現在は外国首相などの国賓来訪をはじめ天皇が臨幸されるときに開かれるという。

 公開の見所はなんと言っても「紫宸殿」(ししんでん)である。
 御所の正殿ともいわれる「紫宸殿」は、即位の大礼など大儀が行われるところで、檜皮葺、総桧造りの清楚な感じの建物です。日本建築の場合、切妻であった寺院建築の身舎(もや)の四面に庇がつき、それが母屋の屋根と一体になって入母屋が形成されているが、それが「紫宸殿」に見ることができる。
 紫宸殿の南庭は白砂を敷いただけであり、そこに左近の桜と右近の橘が植えられている。2代目に当たる樹齢80年の左近の桜は1997年秋に枯死し、98年2月13日高さ7mの新しい山桜が植えられたが、まさに零れんばかりの花を咲かせていた。この桜は枯死した桜から約40年前に株分けされ、御所の一角で育てられてきたという。右近の橘と左近の桜は、朝廷の儀式の際に「右近衛府」と「左近衛府」が傍らに列した事に由来する。
 ここから「清涼殿」(せいりょうでん)へと向かうのだが、その入り口となる渡りが狭く行列が動かない。通常だと30秒とかからない通路だろうが、15分ほどかかりようやく「清涼殿」に。
 「清涼殿は、中殿ともいう紫宸殿の背後西側にあり、東を正面とした建物。
入母屋造、桧皮葺の寝殿造の建物で、建具に蔀戸(しとみど)を使う点などは紫宸殿と共通する。本来は天皇の居所兼執務所であったが、天皇が常御殿に居住するようになってからは、清涼殿も儀式の場として使われるようになっている。本来、居住の場であった名残で、建物内は紫宸殿よりは細かく仕切られている。中央の母屋には天皇の休憩所である御帳台(みちょうだい)がある。その手前(東側)には2枚の畳を敷いた「昼御座」(ひのおまし)がある。ここは天皇の公式の執務場所である。母屋の北側(建物正面から見て右側)には四方を壁で囲われた「夜御殿」(よんのおとど)がある。これは天皇の寝室であ
るが、天皇の居所が常御殿に移ってからは形式的な存在になっていた。この他に西側には鬼の間、台盤所(だいばんどころ)、朝餉の間(あさがれいのま)、御手水の間(おちょうずのま)、御湯殿があり、南側には殿上の間がある。これらの部屋の障壁画は宮廷絵師の土佐派が担ったという。
 また、建物正面の庭には「漢竹」(かわたけ)、「呉竹」(くれたけ)が植えられている清涼感を漂わせている。

 公的な場である紫宸殿に対し日常生活の場は、平安京の内裏では仁寿殿であったが清涼殿がそれにとってかわっている。それも室町時代にはその殿舎の中に御常御殿という室空間が設けられ、さらに御常御殿は独立した建物となってくる。
 ここを出ると、小御所、蹴鞠庭へと向かうのだが、宮内庁の職員が「お急ぎの方はこちらから出てください」と携帯マイクで声を張り上げていた。ツアー観光の人たちにとっては集合時間が気になるところかもしれない。
 
 「小御所」(こごしょ)は御元服御殿ともいい、東宮御元服、立太子の儀式など皇太子の儀式が行われた所。明治維新の有名な「小御所会議」はここで行われ、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が発した「王政復古の大号令」はここで行われた。小御所は平安内裏にはなかったが、源頼朝の世子の呼称であったものを1251年の再建時に採り入れて造営され、書院造りと寝殿造りの融合した建物となっている。高欄付きの板縁、蔀戸など寝殿造りを基本にしながら、内部は母屋は上段、中段、下段の三間に襖で仕切られ、畳は敷詰
め、天井は格天井の書院造り的な内部になっている。外部建具は半蔀(はじとみ)で上半分を外部につり上げ、下部ははめ込み式。昭和29年(1954)鴨川の打上げ花火により焼失、昭和33年(1958)に再建。
 御学問所(おがくもんしょ)の内部も、上中下の三間に分かたれ、対面形式となっているなど書院造(入母屋檜皮葺)りの特徴がよく出ているが、床棚が中央になく左に寄せられ、書院窓も帳台構えもない。学問だけでなく、親王宣下、月次(つきなみ)の和歌の会などにも使われていた。
 蹴鞠(けまり)の庭は、小御所と御学問所の囲まれた御池庭に面した砂利の広場で、涼やかな池の風を受けながら蹴鞠を楽しんだことだろう。
 御池庭(おいけにわ)は、池を中心とした回遊式庭園で、前面は州浜で形成され、その中に舟着への飛石を置いている。右手に欅橋が架かり松をはじめとする樹木を配し深遠たる森へと導いている。苑路を回りながら古の優雅に想いをはせるふさわしい景観である。庭そのものは仙洞御所に比べこじんまりしているようにも思える。御内庭(ごないてい)は、曲折した遣り水を流して、土橋や石橋を架けた趣向を凝らした庭で、奥に茶室を構えている。
 なお公開順路には組み入れられていなかったが、春興殿(しゅんこうでん)というのもあり、御大礼の時、臨時の場所となって後位継承のしるし三種の神器のうちの「御鏡」を奉安する所だったという。
 御所の門の一つ、「蛤御門」(はまぐりごもん)は、知らない人はいないと思うが、幕末の元治元年(1864)、長州藩と幕府軍(主に会津藩)が戦をした場所「蛤御門の変」として有名だ。門の一部には、今でも鉄砲の弾の痕がくっきりと見え、維新の大きなうねりを物語っている。

 所在地:京都府京都市上京区京都御苑3。
 交通:地下鉄烏丸線今出川駅より徒歩8分、京阪電鉄丸太町より徒歩15分。

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「上賀茂神社」(かみかもじんじゃ)

2006年04月20日 23時36分09秒 | 古都逍遥「京都篇」
 上賀茂神社の正式名は賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と言い、下鴨神社ともども世界文化遺産にも指定されている。1の鳥居から境内に入ると、玉砂利ではなく白砂が道に敷かれており、踏みしめた時のザクザクと言う感じは清涼感さえ憶える。

 社伝では神代の昔、北北西にある神山(こうやま)に賀茂別雷神が降臨した。後、天武6年(678)に祠を建て、現在の社殿の基となった。賀茂別雷神は、高天原(たかまがはら)から日向国(現・宮崎県)に降り、後に山背(山城)国(やましろのくに)へ遷ってきた豪族・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の孫といわれている。命の娘・玉依比売命(たまよりひめのみこと)は、瀬見の小川(賀茂川)に流れてきた丹塗りの矢に感応して身ごもり、男児を出産したが、後にその子は、父である天神のもとへ昇天、それが賀茂別雷神だという。
 平安遷都後、下鴨神社とともに王城鎮護の社として歴代皇室の崇敬があつく、国家の重大時には必ず奉幣、祈願がなされ、嵯峨天皇は御杖代(みつえしろ)として皇女有智子(うちこ)内親王を斎王(さいおう)と定め、その制度は以来35代、約四百年続いた。                                         「延喜式」によると名神大社(みょうじんたいしゃ)に列し、後、山城国一ノ宮(やましろのくにいちのみや)として尊崇され、特に徳川家は家紋の3ツ葉葵が、当社の神紋・二葉葵に由来するところから、ことの他、信仰を寄せていた。明治以降終戦まで官幣大社(かんぺいたいしゃ)として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆頭に位した。平安中期には、すべての社殿を21年ごとに建替える制度が定められ、往古の建築様式が受け継がれている。鎌倉時代以降は、朝廷権力が衰えるとともに当社の権威も衰微したが、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、社運を興していく。全国神社の筆頭に位した当社だが、何故か「篇額」が存在しない。それを社務所で尋ねると「当社は神に仕えるところ、篇額のようなしるしがなくてもよいのでは」と言う。
 1の鳥居から白砂の参道を通り、2の鳥居を抜けると細殿がある。その正面に、左右1対の「立砂}(たてずな)と称される円錐形の砂山があり、当社の御神体山、神山を象ったものである。
 本殿・権殿は、文久3年(1863)の造り替えられ、檜皮葺の屋根を前面に長く葺いた三間社流造で、ともに国宝に指定されている。御物忌川の前に建つ朱丹塗りの楼門(重文)は、寛永5年の造り替えで、入母屋造、檜皮葺。東西に回廊を配する。細殿(重文)も寛永5年の造り替えで、正面五間、奥行き二間の造り。かつては天皇や上皇、斎王のみが昇殿を許されたという格式ある殿舎。楽屋(重文)は神仏分離までは当社の僧侶たちが経を唱えていたという殿舎で、これも寛永5年に造り替えられた。玉橋(重文)も同年に
造り替えられた木造の反り橋で、御物忌川に架けられている。神事用で拝観者は渡れない。片岡橋(重文)も寛永の造り替えで、唐破風屋根をもつ木橋。南東側に、玉依比売命を祀る第一摂社、片山御子神社がある。普段は非公開になっているが「渉渓園」(しょうけいえん)は、ならの小川の東岸にある杉、楠、椎などが繁る清閑とした庭で風雅な気が漂っている。毎年4月、第2日曜日には「賀茂曲水宴」が催されている。
 市民の憩いの場となっている2の鳥居前は1面の芝生、春には樹高約13㍍ある紅八重枝垂桜が咲き、天空を紅で染める。

 観光の土産を紹介しておくと、当地はすぐき漬けの産地としても知られ、少しすっぱい風味が食欲をそそり、茶漬けにもすると抜群の美味さを与えてくれる。また大文字五山の1つ妙法の地元でもあり風光明媚な場所である当社前の「焼き餅」は有名で、土産としても人気がある。
 さて、当社を語るとき忘れてはならないのが京都3大祭の一つとなっている「葵祭」を紹介しておかねばならない。 
 「葵祭」はそもそもは当社の祭礼「賀茂祭」であり、祭儀に関わる全ての人たち、また社殿の御簾・牛車に至るまで「二葉葵」を桂の小枝に挿し飾ることから、いつの時代からか「葵祭」と称されるようになった。
 その起源は太古別雷神(わけいかづちのかみ)が神山に降臨した際、神託により奥山の賢木(さかき)を取り阿礼(あれ)に立て、種々の綵色(いろあや)を飾り、走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行ったのが当社の祭祀の始めであり、時を経て六世紀欽明天皇の時代、日本全土が風水害に見舞われ国民の窮状が甚だしかったため、勅命により卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ、賀茂大神の祟りであると奏したことにより、4月吉日を選び馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)をかむり駆馳(くち)して盛大に祭りを行わせたことが「賀茂祭」の起こりであると「賀茂縁起」に記されている。
 平安時代に至り、平城天皇大同2年(807)4月には勅祭として賀茂祭が始められ、次いで嵯峨天皇弘仁元年(810)伊勢の神宮の斎宮の制に準じられ、賀茂の神に御杖代(みつえしろ)として斎院(斎王)を奉られた。
 続く弘仁10年(819)3月、賀茂祭を中祀に準じ斎行せよとの勅が下され、伊勢の神宮とならぶ最も重い御取扱いを受けた。
 貞観年中(859~876)には勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀の完成を見ました。しかしながら室町時代中期頃から次第に衰退し、応仁の大乱以降は全く廃絶した。その後、江戸時代に至り東山天皇元禄7年(1694)に幕府の協力により再興され、明治3年(1870)まで開催されたものの、単に奉幣使のみの参向となり、明治17年(1884)明治天皇の旧儀復興の命により春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭とともに日本三勅祭の1として祭儀が復興した。
 祭日も古来4月吉日(第2の酉の日)とされていたが、明治維新以後新暦の5月15日と改められ現在に至っている。

 所在地:京都市北区上賀茂御薗口町4。
 交通:阪急京都線四条大宮より京都市バス46系統、上加茂神社下車すぐ。


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「渉成園(枳殻邸・東本願寺別邸)」(しょうせいえん)

2006年04月19日 22時16分13秒 | 古都逍遥「京都篇」
 渉成園は、真宗大谷派の本山(真宗本廟)の飛地境内地で、周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから別名、枳殻邸(きこくてい)ともよばれている東本願寺別邸である。
 この地は、もともと平安時代初期(九世紀末)嵯峨天皇の皇子左大臣源融(みなもとのとおる)が、奥州塩釜の景を移して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池の遺蹟と伝えられている。その後、寛永18年(1641)、徳川家光によってその遺蹟の一部を含む現在の地が寄進され、さらに、承応2年(1653)、第13・宣如上人の請願により石川丈山が作庭したのが渉成園のはじまりといわれている。

 安政5年(1858)と元治元年(1864)の2度の火災によって諸殿は全て類焼したが、慶応元年(1865)年から明治初期にかけてほぼ復興され、池水・石組は創始のころとほとんど変ることなく、昭和11年(1936)12月に、国の名勝に指定された。
 渉成園は、印月池から侵雪橋、縮遠亭を望む景観をはじめ、広い庭園内に咲く桜、楓、藤などが四季折々の景趣を富ませている。平安時代の優雅さをしのばせる書院式回遊庭園は、印月池を中心に、漱枕居(そうちんきょ)・縮遠亭(しゅくえんてい)などの茶室や
書院を配し、桜・楓・松・藤などの四季折々の花も美しく、頼山陽はこの庭を愛でて13景を撰んだという。市中とは思えないほどの静けさの中にたたずんでいる。
 漱枕居は、印月池の西南に位置し、丸太柱で軽快な入母屋造柿葺屋根で、水上にのりだすように建てられている。四畳半に三畳敷の続く座敷と土間から成り、三畳の東には左右に手摺を付した縁を張り出し、四畳半は池に臨んで二方に肘掛窓を開き、さながら舟中に遊ぶ趣をつくりだしている。
 風亭(ろうふうてい)は、殿舎の南端の大広間で、寄棟造桟瓦葺で銅板葺の軒を深く出し、悠然たる姿を前庭にあらわしている。ゆるやかに広がる屋根の造りが、建物の高さ、大きさを包み込んでまことに穏やかな外観にまとめられている。こうした巧みな造型が北端にまで貫かれていて、南北にのびのび連なる殿舎のいかめしさを感じさせない。

 主な見所を紹介しておこう。
 縮遠亭(しゅくえんてい)は、五松塢の高所に建つ。亭は前面の土間から奥(東)へ二畳台目向板、台目切の茶室、二本襖を隔てて長四畳が続く。その南端から斜めに板間で三畳敷の上段の間が連結されており、上段は床を高く支えた舞台造りになっている。亭の傍らに据えられた石造宝塔塔身を利用した手水鉢は、塩釜の手水鉢として名高い。
 回棹廊(かいとうろう)、五松塢の北から向岸に渡る廊橋である。桧皮葺切妻造唐破風屋根で、左右に低い高欄付した廊橋で、中央を一段高く、少し東西に張り出して床を設け、かつ棟を直交させる唐破風屋根を架けている。
 傍花閣(ぼうかかく)、園林堂の東方、園内の最も要な位置を占め、東向きに建てられている。その奇構とも見える外観は、禅宗の「三門」と呼ぶ楼門から発想されたものであろう。
 傍花閣は2階建で、左右側面に山廊をおき、高欄付きの階段と屋根を上層に向かって架け、階上は四畳半、入母屋造柿葺屋根である。縁に高欄をめぐらし、東西は明障子をたてて開放的に構成され、天井中央には磁石板に十二支を配した珍しい意匠を見せる。望楼を兼ねた門である。
 代笠席(たいりつせき)、北部の生垣に囲まれた閑静な一境に南面して建つ。寄棟造桟瓦葺屋根で、間口三間の前面は深さ半間土間で小縁を設ける。内部は四畳半二室が東西に並ぶ。両室とも正面奥の一畳半分を一枚板敷とし、杉皮の網代天井となっている。
 滴翠軒(てきすいけん)、かつては高瀬川から北東に引かれた水は、船屋のところから印月池へ注ぎ、もう一つの流れが西方の池に流れる。この池に南面して殿舎の北端に建てられている。寄棟造桟瓦葺で軒廻りを銅板葺とし、高配ゆるく、深く軒をさし出し、二方に濡縁をめぐらし、角の柱を水中の石に立てている。
 
 臨池亭(りんちてい)、滴翠軒から南へ吹放しの廊下で連なり、臨池亭が池に臨んで東向に建つ。八畳二間と入側から成り、二方に縁をめぐらして滴翠軒と同様の外観を形成しているが、さらに東側全面に深さ一間の濡縁を水上に張り出して、いっそう庭と建物との融合を作り出している。

 所在地:京都市下京区烏丸通七条上る。
 交通:JR京都駅より徒歩5分、京阪電鉄七条駅より徒歩15分。
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