「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「海住山寺」(かいじゅうざんじ)

2006年02月28日 23時40分14秒 | 古都逍遥「京都篇」
 真言宗智山派海住山寺は、明智光秀が本能寺で主君信長を討った折、堺に居た徳川家康一行が難を逃れるため決死の逃避行を辿った間道沿いにある山城の国・瓶原地区(みかのはら)の山の中腹にある。笠置の山峡が急にひらけ、木津川の流れもゆるやかになったあたりが、瓶(かめ)に似た地形であることから瓶原と呼ばれた。
 「みかの原わきて流るる泉川、いつみきとてか恋いしかるらむ」との小倉百人一首に収められた兼輔の歌で知られている。

 山上からは眼下に流れる木津川と奈良へと続く連峰が広がる。山紫水明なる幽邃(ゆうすい)の地に、当寺が創建されたのは、恭仁京造営(くにきょう)にさきだつ6年前、天平7年(735)のことと伝えられている。
 大盧舎那仏像造立を発願した聖武天皇が、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、十一面観世音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるという。保延3年(1137)に火災にあいことごとくを焼失した。その後、70余年を経た承元2年(1208)11月、笠置寺にいた解脱上人貞慶が移り住み、草庵を結び補陀洛山海住山寺と名づけ復興した。(補陀洛山とは、南海にあるといわれる観音の浄土の名)。以来、寺門は隆盛を極め塔頭58坊を数えた。

 1万坪の境内には、国宝の五重塔や重要文化財に指定された文殊堂をはじめ、山門、本堂、本坊、鐘楼、奥の院、薬師堂、納骨堂、春日大明神、かずかずの石仏、千年に垂ん
とする大木が天を摩し、静寂の境地にみちびいてくれる。四季それぞれ情趣に富み、春まだき頃には谷間をわたるうぐいすが早春賦をかなで、4月の桜、初夏には皐が咲きみだれ、峰をわたる青嵐はすがすがしく樹間にひそむほととぎすの声に、和歌の1つも詠みたくなる。
 秋には谷々の紅葉が錦をかざり谷間にり、行楽の季節を楽しませてくれます。
 まず目を引くのが、本堂に向かって左側にそびえる五重塔。あざやかな朱塗りの柱が山並みに映える鎌倉時代の傑作で、小ぶりながら端正な形に、精巧な木組みで、構造的には心柱が初層で止めらている、建保2年(1214)に、慈心上人によって作られ、昭和38年(1962)の解体修理にあたり、初重の屋根の下に裳階が復元され、現存する五重塔では海住山寺と奈良の法隆寺にしかない特長を有する珍しい造りである。
 五重塔と向かい合うように、重要文化財指定の文殊堂があり、やはり鎌倉時代の建立で、寄せ棟の繊細な形をしています。
 寺務所に依頼すれば本堂内陣、重要文化財の御本尊十一面観音像を拝観することができるが、秋の「海住山寺特別展」の時期には、奈良の国立博物館等に管理している宝物も展示され拝観できる。
 十一面観音菩薩立像(重要文化財)は、45.5㌢と小像ながら、リアルな彫刻がほどこされていて心が安らぐ思いがする。石船を紹介しておくと、長さ2㍍余り、高さ70㌢、幅1.1㍍程の花崗岩製の水槽。寺僧が冷水浴に使ったものと言われ上縁に正嘉2年(1258)の紀年銘が刻まれている。

 「恭仁京」を説明しておくと、奈良時代に聖武天皇によって造られた都で、疫病や戦乱に見舞われ世情不安が続いたことから、聖武天皇は奈良の平城京を離れ各地を転々とした後、天平12年(740)に現在の加茂町瓶原の地を中心に新都を定めた。これが恭仁京である。しかし恭仁京も天平16年(744)、わずか4年ほどで廃都となり、その跡地は山城国分寺として再利用された。山城国分寺は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北三町(約330㍍)、東西二町半(約275㍍)の広大な寺域をもつ寺であり、現在 も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されている。この塔は基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であったと推定されている。
 所在地:京都府相楽郡加茂町里南古田156。
 交通:JR関西本線加茂駅からJRバスで岡崎下車、徒歩30分。加茂駅からでも50分。近鉄京都線山田川駅下車、笠置伊賀上野方面行きバスにて学校前下車、徒歩約25分。
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「花見小路」(はなみこうじ)

2006年02月27日 21時43分31秒 | 古都逍遥「京都篇」
 7月1日から31日までの1ヶ月間のわたって繰り広げられる京都八坂神社の祭禮である祇園祭が終わり大文字五山送り火が幕を閉じて、秋の紅葉シーズンには再び全国からどっと人々が押し寄せるが、散り紅葉となるころ祇園界隈はひとときの静けさに包まれる。年が変わり桜咲く春まで、特別な賑わいもなく時折降る小雪が町屋の甍を薄化粧をする。
 冬枯れとなる観光客を誘致しようと、4年前ほどから祇園界隈を中心に「花街灯」なる観光イベントが行われるようになった。灯がともる夕刻ともなれば、打ち水をした花街の石畳をそぞろ歩く光景が見られるようになった。その花街の中心をなすのが「花見小路」である。

 花見小路は四条通りを境にした南北のメインストリートで、ほぼ祇園の中央を南北に横断する全長約1㌔の路で、北側と南側では町並みの雰囲気が大きく異なっている。北側はスナックやクラブなどが入居するテナントビルが建ち並び、南側は伝統的な竹矢来に紅殻格子のお茶屋や料理屋が古い町並みを残しているが、その歴史は意外に新しく、この一帯は明治の頃までは京都五山の1つで、京都で最初の禅寺ある臨済宗建仁寺の寺領であったが、明治初期の廃仏毀釈によって寺領が狭められたことを機に、明治7年に祇園甲部お茶屋組合が7万坪を買い上げ花街として整備した。
 四条通りの南東角には赤穂義士の大石蔵之助で有名な一力茶屋があり、通りを進むと両側にはお茶屋や料亭などが並び、京都らしいはんなりとした風情の景観となっている。建仁寺の参道であった花見小路の南側は、平成13年にモダンな街灯と洋風の石貼り歩道として生まれ変わった。

 建仁寺の手前に、毎年春になると「都おどり」が開催される甲部歌舞練場がある。芸妓・舞妓さんによる井上流の華麗な京舞が見られ、また舞妓さんのお点前によるお茶の接待も楽しめる。「都おどり」は明治5年に京都博覧会の特別企画として演じられたのが始まりで、「京おどり」「祗園をどり」「鴨川をどり」「北野をどり」と並ぶ京都5大おどりの1つ。開催期間は4月1日~30日までの1ヶ月間。
 歌舞練場の西側にもお茶屋や老舗の料亭、甘味処などが居並び、幕末の勤皇の志士たちにまつわるお茶屋も点在する。お茶屋は一見(いちげん)さんお断りというのが伝統的な習わしであったが、最近は手頃な料金で楽しめる店も増えてきた。私の馴染みのお茶屋は平安朝のインテリアと行燈の明かり、京風1坪庭がほっこりと心を癒す「丸梅」(まるうめ)という所だが、今では代も変わり観光客が気さくに訪れるようになって、ついぞご無沙汰している。
 
 祗園の名は、八坂神社の起源が「祗園社」であったことからこの名が付いたという。この一帯は八坂神社の門前町で、鎌倉時代には、茶屋が軒を連ねたそうだが、応仁の乱で荒廃した。江戸時代の寛永10年(1670)には祗園外六町が開かれてより賑やかになり、正徳3年(1713)、四条通の北に祗園中六町が開かれ発展を遂げた。
 南側にある京料理「美登幸」は接待などでよく使った馴染みの店で、風情ある元お茶屋、昭和47年に京料理の店として創業した。凝った京懐石が手頃な値段で味わえる。この店では、予約制でお座敷遊びができ、襖越しに虎やお婆さんの身振りで芸妓・舞妓さんとじゃんけんをする「とらとら」や、うちわを手に一緒に踊る「吊りぼんぼり」など粋な遊びを体験することができる。舞妓さんと一緒に写真撮影もできるサービスが喜ばれている(1人6、000円、前日までに要予約。舞妓さんを呼ぶ場合は別途料金が必要)。
 所在地:京都市東山区祇園町。
 交通:JR京都駅市バス206で祇園下車。阪急電車河原町駅下車、四条通を東へ5分。京阪電車四条駅下車、四条通を東へすぐ。
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河合神社(かわいじんじゃ)

2006年02月26日 17時48分35秒 | 古都逍遥「京都篇」
 下鴨神社の境内にある河合神社の鎮座の年代は、不詳であるが神武天皇の代から余り遠くない時代と伝えられている。「延喜式」に「鴨河合坐小社宅神社」とある。「鴨河合」とは、古代からこの神社の鎮座地を云い、「小社宅」(こそべ)は「日本書紀」に「社戸」と訓まれ、それは本宮の祭神と同系流の神々との意である。延喜元年(901)12月28日の官符には「河合社、是御祖、別雷両神の苗神也。」ともある。

 社殿は、本宮(下鴨神社)の21年目ごとに行われた式年遷宮の度ごとにこの神社もすべての社殿が造替されていたが、現在の社殿は延宝7年度(1679)式年遷宮により造替された古殿を修理建造したもので、平安時代の書院造りの形式をよくとどめている。天安2年(858)名神大社に列し、寛仁元年(1017)神階正11位となったとある。古くから本宮に次ぐ大社として歴史に登場し、女性の守護神として信仰されている。
 元久2年3月、「新古今和歌集」に『石川や 瀬見の小川 清ければ 月も流れを たずねてやすむ 』をはじめ10首が採録された。「瀬見の小川」とは、この河合神社の東を今も流れる川のことである。

 「方丈記」の著者、鴨長明はこの河合神社の神官の家に生まれたが、いろいろの事情によって、この重職を継ぐことができなかった。このことから強い厭世感を抱くようになり、やがて「方丈記」を書くにいたったといわれている。(復元された方丈が現在展示中)
 長明は、建暦2年(1212)3月、「方丈記」ついで「無名抄」を著し、 建保4年(1216)6月8日、62歳で没した。
 鴨長明は、50歳のときすべての公職から身をひき大原へ隠とんした。その後、世の無情と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として、承元2年(1208)、58歳のころ(現在、京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動しているあいだに「栖(すみか)」として仕上たのが、当社の「方丈庵」である。移動に便利なようにすべて組立式となっている。
 広さは、一丈(約3メートル)四方、約2.73坪、畳、約五帖半程度。間口、奥行とも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう1つの特徴は、土台状のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。下鴨神社の本殿もまた土居柱の構造である。
 この構造は、建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は、式年遷宮により21年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。
 長明ゆかりの当社の斎庭に「方丈記」をもとに「方丈庵」を復元し、御料屋を資料館として、「鴨長明」関係資料展を方丈とともに年中公開している。

 方丈記の序の章を紹介しておこう。
 「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。世の中にある人と住家すみかと、またかくの如し。
 玉敷の都の中に、棟を竝べ甍を爭へる、尊たかき卑しき人の住居すまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年破れて今年は造り、あるは大家たいか滅びて小家せうかとなる。
住む人もこれにおなじ。處もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、23人が中に、僅に1人2人なり。朝に死し、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。また知らず、假の宿り、誰がために心をなやまし、何によりてか目を悦ばしむる。その主人あるじと住家すみかと、無常を爭ひ去るさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花殘れり。殘るといへども朝日に枯れぬ。或は花は萎みて露なほ消えず。消えずといへどもゆふべを待つことなし。」
 所在地:京都市左京区下鴨泉川町。 
 交通:京阪出町柳駅・叡電出町柳駅より徒歩8分。JR京都駅より市バス4・205系統、下鴨神社前(または糺の森)下車。


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「化野念仏寺」(あだしのねんぶつじ)

2006年02月25日 21時29分28秒 | 古都逍遥「京都篇」
 子供時代に夏ともなれば必ず戯れた遊びの一つに「肝だめし」というのがあったものだが、その肝だめしには格好の場所となるであろう所が、今回紹介する「化野念仏寺」(華西山東漸院念仏寺)である。小倉山の山麓一帯を化野といい、この辺りは都の西の風靡の地(無常所)で、東では鳥辺野が風葬の地であった。徒然草にも「あだし野の露消ゆることなく鳥辺野の烟立ち去らで」と記されている。

 今日の化野は観光地として多くの人が訪れるが、いわゆる無縁仏の墓場。
映画などのロケで登場するようになって、肝だめし的な墓場が、情緒ゆかしき名所と化してしまったようだ。

 化野念仏寺は、弘仁2年(811)、弘法大師(空海)が化野の風葬の惨めさを知り、五智如来寺を建て里人に土葬という埋葬を教えたのが始まりといわれている。後に法然上人がここに念仏道場を作った事から念仏寺というようになった。本堂は江戸時代の始め正徳2年(1712)寂道上人の再建された。
明治36年(1903年)頃に、化野に散在していた8、000体余りの無縁仏、石仏、石像を集め今日の形に供養するようになった。

 「化野」とは悲しみの地、はかない処という意味があり、無常の世界が映し出されている場所でもある。毎年8月23日、24日の地蔵盆には、無数の石仏、石塔にろうそくを灯す千灯供養が行われる。温もりのあるオレンジ色の灯火は、ゆらゆらと儚くも幻想的な風情を漂わせる。
 この千灯供養は予約が必要で、協力金を納めなければならない。午後6時より八時ごろまで千灯供養が行われる。6月15日から受付が始まり、8月23・24日の千灯供養入山の予約受付が始まる(先着2、000名)。

 私の好きなドラマである鬼平犯科帳で、「凶剣」という物語で登場するのが当地で、長谷川平蔵が上洛中という設定となっていたが、化野念仏寺の仏の間をゆく平蔵のシーンがある。
 小説の中では“おかしらは忠吾を連れて愛宕山に登り、下山後「平野や」で鯉の洗いを食す”とある。平野屋とは400年ほど続く鮎や鯉、湯豆腐の老舗で、原作者の池波正太郎氏はここを贔屓(ひいき)にしていたようだ。
 高尾山スカイラインの入り口に近く、こんもりとした山麓に鮎などの川魚料理と嵯峨野名物の湯豆腐を商いとする茅葺の店が数件建ち並んでいる。新緑の頃、紅葉の頃は、これらの老舗を背景に入れた写真に人気があり、写真愛好家にとって、化野念仏寺やこの一帯の景観は人気が高い。

 所在地:京都府京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17。
 交通:JR京都駅より京都バス清滝行1時間、鳥居本より徒歩5分。
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下鴨神社(しもがもじんじゃ・賀茂御祖神社)

2006年02月24日 21時07分17秒 | 古都逍遥「京都篇」
下鴨神社の正式名は賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と言い、上賀茂神社ともども世界文化遺産にも指定されている。

 賀茂別雷神は、高天原(たかまがはら)から日向国(現・宮崎県)に降り、後に山背(山城)国(やましろのくに)へ遷ってきた豪族・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の孫といわれている。命の娘・玉依比売命(たまよりひめのみこと)は、瀬見の小川(賀茂川)に流れてきた丹塗りの矢に感応して身ごもり、男児を出産したが、後にその子は、父である天神のもとへ昇天、それが賀茂別雷神だという。
 平安遷都後、上賀茂神社とともに王城鎮護の社として歴代皇室の崇敬があつく、国家の重大時には必ず奉幣、祈願がなされた。                   
 創祀の年代を特定することは出来ないが、「日本書紀」に神武天皇2年(紀元前658)2月の条に、当社祭神、賀茂建角身命を奉斎していた一系流「葛野主殿県主部」との氏族の名があり、この氏族は、賀茂建角身命の先の代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族であったことで知られている。
 また、「賀茂神宮賀茂氏系図」には、賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より11代後の大伊乃伎命の孫、大二目命が鴨建角身命社を奉斎していたことが記されている。その社が、今日の賀茂御祖神社の始源の社の一社であろうとされている。

 崇神天皇7年(紀元前90)には、社の瑞垣が造営(「鴨社造営記」)され、垂仁天皇27年(同2)8月には、御神宝が奉まつられている。また、緩靖天皇(同580)の世代より御生神事が行われたとの伝承があり、欽明天皇5年(544)4月から賀茂祭(葵祭)が行われていることからみて、創祀は西暦紀元をはるかに遡るものとみられている。
 当社が祀られたられたのは、崇神天皇の2年(同2)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代から祀られたれていたとおもわれる。先年糺の森周辺の発掘調査で弥生時代の住居跡や土器がたくさん発掘されたことから、それを裏付けているという。

 平安時代には、国家と都の守り神として、また皇室の氏神として、特別の信仰を受け、式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であったことが知られている。
 平安京遷都以降は皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称せられるようになり、大同2年(807年)には正一位となり伊勢神宮に次ぐ地位が与えられ、伊勢神宮と同様、齊王(さいおう:神社に奉仕する未婚の皇女)がおかれたという。
 賀茂川と高野川が合流する三角州にある、3万6千坪の広さをもつ「糺の森(ただすのもり)」は、「石川や瀬見の小川の清ければ つきも流れをたづねてぞすむ」と万葉集にも詠まれ、泉川と瀬見の小川、奈良のせせらぎが流れる。樹齢200~600年とも言われるムクノキ、ケヤキ、エノキなどが繁り、春には青葉、秋には紅葉を水面に映し悠久の時の流れをとどめ、国史跡に指定されている。
 森の中、参道に平行して西側に馬場が設けられており、ここで毎年5月3日には「流鏑馬(やぶさめ)神事・平騎射」が行われる。

 当社の例祭として名高い「葵祭」について紹介すると、今から約1400年前の567年、凶作に見舞われ飢餓疫病が蔓延した時に、欽明天皇が勅使を遣わされ、「鴨の神」の祭礼を行ったのが起源とされている。上賀茂、下鴨両神社の例祭であり、「祇園祭」「時代祭」と並んで「京都3大祭」の1つに数えられている。祭は平安王朝時代の古式のままに「宮中の儀」「路頭の儀」「社頭の儀」の3つに分けて行われ、内裏神殿の御簾をはじめ、御所車、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、全てを葵の葉で飾ったことから
「葵祭」と呼ばれるようになった。「路頭の儀」と「社頭の儀」がよく知られており、路頭の儀が葵祭のハイライト、都大路の行列である。
 行列は、勅使をはじめ検非遺使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代など平安貴族そのままの姿で列をつくり、午前10時30分、京都御所を出発する。そして、王朝風の優雅な列が市中を練り、下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かう。

 文化財について触れておこう。
 「社殿」は平安時代の様式を忠実に伝え、本殿2棟は国宝、53棟が重要文化財に指定されている。長元9年(1036)に、社殿り修理を義務づける式年遷宮制(しきねんせんぐうせい)が定められ、21年周期で造替されることになった。
 「本殿」は3間社流造(さんげんしゃながれづくり)で国宝に指定され、東本殿には玉依媛命、西本殿に賀茂建角身命が祀られている。現在、第33回式年遷宮が平成6年に東西両本殿の遷宮が行われ、続いて各社殿や社の修理が行われた。
 「御手洗社」(みたらししゃ)は井戸の上に建てられていることから「井上社」ともよばれており、本殿の東側に位置している。社の前の池は「みたらしの池」とよばれ、毎年7月の土用丑の日には多くの人がこの池に足を入れ厄除け、病除けを祈るという「足つけ行事」が行われる。また、この池に湧く水の泡を人の形に象ったのが「みたらし団子」で、ここがそれの発祥の地という。
 「中門」(重文)は檜皮葺の四脚門で、門の左右に設けられた楽屋(重文)は、かつて行事の際に雅楽を演奏した。「言社」(ことしゃ・重文)は干支の守護神を祀る社で、7棟の建物で構成されすべて3間社流造。「幣殿」(へいでん・重文)は、正面に軒唐破風を設け、二柱の祭神に供物を奉げる場所。奥に座する2つの本殿と渡り廊下で結ばれている。軒下には双葉葵の飾り金具があしらわれている。「舞殿」(重文)は寛永5年(1628)に、橋殿、細殿、楼門などとともに造替された。葵祭では、ここで勅使が祭文(さいもん)を奉上し、その後、日本最古の歌舞といわれる「東遊」(あずまあそび)の舞が奉納される。 御手洗川に架かる朱塗りの橋のたもとに「光琳の梅」と呼ばれる紅梅がある。尾形光琳がこの紅梅を見て「紅白梅図屏風」(国宝)を描いたといわれている。
 
 所在地:京都市左京区下鴨泉川町59番地 
 交通:京阪出町柳駅・叡電出町柳駅より徒歩8分JR京都駅より市バス4・205系統、下鴨神社前(または糺の森)下車。

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「乙訓寺」(おとくにでら)

2006年02月23日 23時07分19秒 | 古都逍遥「京都篇」
 ここのところ雨が多くなった。原稿仕上げで追われる週末、今日も雨。
 雨・・・、雨の寺もいいかな、と思い立ち、近くにある長岡京市の「乙訓寺」に出向いた。
 ここは牡丹の寺として名高く、奈良の長谷寺の牡丹を株分けしてこの地に植えた。
2千株にもなった色とりどりの牡丹は近隣をとわず全国からツアーで訪れるほどだ。寺院としては小さいが、長岡京造営以前は広大な寺院であったらしい。
 弘仁2年(811)、唐から帰朝した空海(弘法大師)が、同年11月に別当に任じられ、当寺の修理造営を行っている。空海は、翌年10月、高雄山に移ったが、この地に真言宗の由緒を築いた。
 また、早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉されたことでも知られている古刹である。
 中世には足利義満がこの寺を南禅寺院として再構築し、法皇寺の寺号も称した。5代将軍綱吉およびその生母桂昌院の信任が篤かった護持院隆光は、当時、南禅寺・金福院の兼帯地であった当寺を真言宗寺院としての乙訓寺を再興した。
 切妻造本瓦葺の表門は、元禄8年の頃に建立され、赤門として親しまれている。重要文化財の毘沙門天増、市指定文化財の十一面観音像が祀られている。
この寺を有名にしたのは、奈良の長谷寺と並び賞される「牡丹」が境内一帯に咲き誇る美しさからである。取材で訪ねた時節は、すでに牡丹は終わり、芍薬が数本、雨に打たれて可憐な花を咲かせていた。
 交通:阪急京都線、長岡京駅下車、徒歩20分。
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「瑞巌山圓光寺」(ずいがんさんえんこうじ)

2006年02月22日 21時43分13秒 | 古都逍遥「京都篇」
 ルポのネタを探すために書をひもといていると、日本最古の木活字が京都の洛東にある臨済宗・瑞厳山圓光寺の資料館にあるとあった。早速、休日を利用して訪ねてみた。

 一条下り松、この界隈の寺院は全て訪ねたはずであったが、ついぞ見過ごしていた所であった。二間ほどの山門をくぐると観音像が出迎えてくれた。まず資料館に入った。正面に渡辺始興筆による「寿老人図」(寛保2年・1742)の大屏風絵が目に飛び込んできた。お目当ての木活字は右手にあった。
 慶長4年(1599)、徳川家康に与えられた木活字で、「孔子家語」(こうしけご)を出版しているいわゆる世にいう「伏見版」で、「圓光寺版」ともいうと説明されている。そしてこの木活字は現存する活字では日本最古のもので、5万個の一部が展示され重要文化財になっていた。

慶長6年(1601)徳川家康は文治政策として国内数学の発展を図るため下野足利学校の学頭だった三要元佶(さんようげんきつ)禅師を招いて伏見に学問所を開いたのに始まり、圓光寺版と呼ぶ図書も出版、当時の木活字(重文)が現存する。寛文7年(1667)現在地に移転。明治維新で荒廃したが、尼衆専門道場として再興された。現在は南禅寺派研修道場として坐禅会などが実施されている。また「十牛の庭」の新緑・紅葉は美観を呈し、特に秋は「栖龍池」を紅に染める。絹本着色元佶和尚像・紙本墨画竹図屏風(重文)は円山応挙筆。

 静かな庭園に天使の琴の音が澄み切って聞こえる、その正体は「水琴窟」であった。石で出来た水盆に柄杓で水を滴らせると、なんとも美しい音が響いてくるのだ。日本庭園でよく見かける水琴窟ではあるが、当寺のものは中でも随一の音色である。
 所在地:京都府京都市左京区一乗寺小谷町13
 交通:京都駅から市バス一条下り松下車、歩10分。
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【雲龍院】(うんりゅういん)

2006年02月21日 23時28分36秒 | 古都逍遥「京都篇」
 洛東、月輪山の山麓に東福寺、泉涌寺、智積院と三有名古刹が悠然と立ち並んでいる。楊貴妃観音像が祀られていることで知られる泉涌寺のすぐ裏手に、同寺の塔頭の一つである雲龍院が ひっそりと森の陰に佇んでいる。

 泉涌寺に訪れる人は多いが、この雲龍院を知る人は少ない。私が訪れたのは、初秋の頃である。参道の砂利にまじってドングリの実が散乱し、それが玉砂利を思わせるほどあった。森の中から、四十雀であろう、ヒヨ鳥の鳴き声のまにまに可愛い音色でさえずっていた。
 山門を入るとすぐ目に飛び込んできたのが衆宝観音、真新しく歴史はなさそうだった。 その傍に「昭憲皇后御唱歌」碑があり、「金剛石もみがかずは、珠のひかりはそはざらむ、人もまなびてのちにこそ、まことの徳はあらはれる」と刻んであり、幼少の頃、歌った記憶がある。 石踏みの細長い参道を通り寺内に上がると、見事な水墨の龍が出迎えてくれ、身が引き締められた。

 本堂内はさほどの広さではないが、深緑の庭が目を引いた。まだ紅葉には早い時期であったが、 庭の中央に枝ぶりのよい紅葉が配されており、苔むした地と燃え立つ紅葉のコントラストが この世のものとは思えない景観になるであろうと、想像できた。誰も居なかった。 縁に座し暫し静寂の空気を味わった。
書院の部屋には、丸い悟りの窓と四角い迷いの窓。2つの窓を前に、しばし瞑想にふけった。雑念が走馬灯のごとく脳裏を駆け巡り悟りには縁遠く、やはり「迷い窓」の私だった。
 梅の季節や皐月の時節も美しい景観を楽しめそうだ。

 応安5年(1372)後光厳天皇によって建立。後、龍華院が建立され、徳川初期、如周宗師に よって雲龍、龍華両院を合併し、雲龍院となった。
 本尊は薬師如来(鎌倉時代の作)。応仁の乱で焼失後、文亀元年(1501)に御所の黒戸御殿を移築して再建されたが地震で倒壊。寛永16年(1639)、後水尾上皇の援助のもとに黒戸御殿をはじめ諸堂が再建された。
重要文化財の本堂は正保3年(1646)に建てられたもので、柿葺きの堂々とした建物。霊明殿には北朝天皇の位牌が安置されている。
 当院は古くから写経道場として知られ、今も本堂の竜華殿(りゅうげでん)で、参拝者たちが写経する姿をみかける。
 台所には、左足を一歩踏み出した珍しい姿の大黒像が安置され、「走り大黒」として広く親しまれているとのこと。

 所在地:京都市東山区泉涌寺山内町36。
 交通:JR京都駅から市バス、泉涌寺道下車、徒歩10分。





 
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「一条戻橋」(いちじょうもどりばし)

2006年02月20日 11時59分59秒 | 古都逍遥「京都篇」
 映画やテレビドラマの舞台に多く登場する橋が京都には4つほどある。その1つが京都府下木津川にかかる流れ橋、そして嵐山の渡月橋、祇園新橋白川の巽橋、そして二条城に沿う堀川通り一条にある「一条戻橋」である。この一条戻橋は通りがかりでは気がつかないほど、何のへんてつもない小橋であるが、その近く(100㍍)にある清明神社に祀られる天才陰陽師・安倍清明ともかかわりのある橋である。

 「源平盛衰記」に、中宮(建礼門院)がお産の時に二位殿(平清盛の妻)が一条戻橋で橋占を問う話があり、「この橋は昔、安倍晴明が天文を極め12神将を使役していたけど、彼の妻は識神(式神)の顔を怖がったので、晴明は12神将をこの橋の下に呪し置いて、必要な時には召喚して吉凶の橋占いを尋ね問うと、識神は人の口に移って善悪を示した」と記されている。
 一条戻橋は平安京(当時)の最北端にあたり、都の内と外との境目・堀川に架かっている。この橋は彼岸と娑婆の境目、つまりこの世とあの世との間に架けられているという意味をも持っていた。そのことは、能の世界でみると、怨霊が舞台へと登場する通路を「橋がかり」といい、つまり橋の向こうはあの世。そしてこの一条戻橋の先には葬送の池があったようで、葬儀の列は、向こう岸にあるあの世に向けてこの橋を渡ったと伝えられている。また、大徳寺の三門にあった千利休の木像が、太閤秀吉の逆鱗に触れ、太閤より処刑の命が下り、木像の首がここで斬り落とされた。その後切腹した利休の首が晒(さら)された地でもある。

 この橋の名前の由来については「撰集抄」巻7に、延喜18年(918)熊野の僧「浄蔵」の父・文章博士三善清行(みよしきよつら)が死去したという知らせを受けた浄蔵が、この橋で葬列にあい、柩にすがって神仏に祈ったところ、父が蘇生した。それで戻橋という名前が付いたと記されている。そこから、今でも京都の女性は嫁入り前には、この橋に近づかないという。黄泉(よみ)の国から戻ってくるという言い伝えがある橋だから、実家に戻ってくる、つまり離婚するとの凶縁を恐れてのことである。

 戻橋に伝わる源頼光の四天王の1人、渡辺綱の伝説を紹介しておこう。
 一条天皇(986-1011)のころのことである。豪勇の侍として知られた渡辺綱が、主命を帯びて一条大宮へ出かけたが、帰りは夜更けになった。そのころの堀川は瀬音が高く、川幅も広かった。戻橋のあたりは、鬼女が出没するという噂さえあり、夜ともなれば人通りがたえた。綱が戻橋にさしかかったとき、対岸にたたずむ一人の美しき女と出会った。
「私はさるお方のお使いでこのあたりまでやってまいりましたが、暗闇で帰る方角を見失い、途方にくれておりました。どうぞ都まで私をお連れ下さいませ」と女はしおらしげに言った。綱は哀れに思い女を馬に乗せ、轡(くつわ)を取って歩きだした。すると、正規町(しんきまち)小路にさしかかったとき、突然、女が馬上に立ち、鬼女の正体をあらわした。綱の髻(もとどり)をむんずとつかみ、「われが行くところは愛宕山なり、いざ連れゆかん」と血眼を光らせにらみつけた。綱は、「おのれ妖怪、わが太刀を受けてみよ」というが早いか、腰の名刀髭(ひげ)切丸を抜きはらい、一刀のもとに鬼女の片腕を切り落とした。血を吹き上げて腕は飛び跳ね、たまりかねた鬼女、悲鳴を残し、髪振り乱して天に浮き風の如く逃げ去った。(「平家物語・剣巻」を脚色)

 戻橋は、昭和初期に鉄製のものに架け直されたが、戦争中に兵器の製造原料にするため、国に回収されたという。終戦後、石橋が架けられ、1995年に改装され、現在の戻橋となった。橋名のついた欄干の遺石は清明神社に祀られている。

 所在地:京都府京都市上京区堀川下之町。
 交通:京都駅より市バス9系統、一條戻り橋下車徒歩2分。
 三条京阪駅より市バス12・51・59系、堀川今出川下車徒歩2分 。
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「一休寺」(いっきゅうじ)

2006年02月19日 21時47分32秒 | 古都逍遥「京都篇」
 通称「一休寺」と呼ばれる酬恩庵は元の名は「妙勝寺」といい、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明=なんぼじょうみょう)が禅の道場をここに建てたのが始まり。その後、元弘の戦火で焼失、6代の法孫に当たる一休禅師が康正年中 (1455~1456)、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、恩師にむくいる意味で、「酬恩庵(しゅうおんあん)」と命名した。 禅師はここで後半の生涯を送り、81歳で大徳寺住職となった時もこの寺から通ったという。文明13年(1481)11月21日、88歳で示寂し、当寺に葬られた。
 
 方丈周囲の庭園で作者は松花堂昭乗、佐川田喜六、石川丈山三氏合作といわれ、北庭は枯滝落水の様子を表現した蓬莱庭園、東庭は十六羅漢の遊戯を擬えたもの、南庭はサツキの刈込みと白砂の庭とした北、東、南、3面の庭よりなる江戸時代初期の禅院枯山水庭園で名勝指定を受けている。初夏のころになると、方丈入り口に咲くボケの花が白壁に映えて美しい。
 方丈(重文) は、加賀城主前田利常公が大坂の陣の時、木津川に陣をしき当寺に参詣したおり、寺の荒廃を歎き、慶安3(1650)年に再建されたもので、内部襖絵は江戸初期の狩野探幽斎守信の筆による。
 本堂(重文)は、永享年間(1429~40)足利六代将軍義教の帰依により建立したもので入母屋造り檜皮葺、内部には釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩を祀り、山城・大和の唐様仏殿としては一番古い遺構の建造物である。
 方丈中央に安置してある一休禅師木像(重文)は、一休禅師御逝去の年(88才)、高弟墨済禅師に命じて等身の像を作らせたもので、頭髪と鬢とは自らのものを植付けられたという。
 当寺には一休禅師が作り始めたという一休寺納豆がある。糸引き納豆とは違い保存食、塩味が効いて般若湯(酒)の肴によく合う。
 所在地:京都府京田辺市薪里ノ内102
 交通:近鉄「新田辺」駅徒歩20分、JR学研都市線「京田辺」駅より徒歩15分。


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