「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「金福寺」(こんぷくじ) 

2006年03月13日 22時27分47秒 | 古都逍遥「京都篇」
 産経新聞であったと思うが、与謝蕪村(1716~83年)の自画自筆で、所在不明だった「奥の細道図巻」(巻物)を、『思文閣出版』(京都市左京区)が入手し、実物複製を刊行するとの記事を文化欄に掲載していたのを見て、急に蕪村所縁の「金福寺」を訪ねたくなった。
 俳人でありまた画家としても名声を誇っていた蕪村は、「奥の細道」など多くの俳画も書いている。

 叡山電鉄「一乗寺」駅下車、東の比叡山の方へ向う。白川通りを渡りさらに進むと、すぐに宮本武蔵が吉岡一門と決闘をした「一乗寺下り松」がある。さらに真っ直ぐ行くと詩仙堂だが、その手前に右手に折れる細い道がある。くねくねと露路を進むと本願寺北山別院があるが、その先を左に折れると金福寺の小さな山門が見える。
 佛日山金福寺は、清和天皇の貞観6年(864)、慈覚大師が自作の聖観音菩薩像を祀り創建した。その後、一時荒廃したが、元禄の頃、鉄舟和尚が復興し、臨済宗とした。その頃、和尚と親交のあった松尾芭蕉が当寺をしばしば訪ねており、いつしか山内の庵を「芭蕉庵」と呼ぶようになった。芭蕉の句「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」や、蕪村の「耳目肺腸(じもくはいちょう)ここに玉巻く芭蕉庵」、高浜虚子の「徂(ゆ)く春や京を一目の墓どころ」などの句碑が立っている。また呉春の景文と墓、中川四明の句碑、青木月斗の墓など、俳人たちの多くが当寺とかかわっている。

 NHK大河ドラマになった「花の生涯」(舟橋聖一作)のヒロイン村山たか女が尼となって、波瀾の人生を当寺で静かに送っている。
 村山たか女(可寿恵)は彦根藩城下の三味線師匠でしたが、和歌を詠み、漢籍にも通じた才女で、彦根藩士で国学者の長野主膳の愛人であった。
 やがて彦根藩主井伊直弼が黒船渡来に始まる幕末の危機に幕府大老に起用されたのに伴い、長野主膳は井伊直弼の懐刀となって活躍する。
 風雲急を告げる幕末の時期に、たか女は、長野主膳の命をうけて京都などで尊皇攘夷派の情報を収集する密偵となった。 井伊直弼が桜田門外で暗殺された直後、文久2年、勤皇の志士によって捕らえられ三条河原でさらし者にされたが、3日後、恋仇であったという志津女に助けられ、故郷の彦根の清涼寺に落ち着き、仙英禅師の弟子となって「妙寿」の名を頂いた。
 後、金福寺に身を寄せ、尼僧となって明治9年まで14年間過ごし、生涯を終った。法名は清光素省禅という。

 初夏は新緑とサツキが芭蕉庵を包み込み、初秋は白砂に桔梗が可憐に花開く。秋ともなれば紅葉が山内一帯を覆う。詩仙堂から南に400㍍ほど入ったところにあり、芭蕉庵から洛中が一望できる風光明媚なところでもある。

 所在地:左京区一乗寺才形町20。
 交通:JR京都駅から市バス5、特5で一乗下り松下車、徒歩15分。
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