「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「宝厳院」(ほうごんいん)

2008年01月30日 23時26分37秒 | 古都逍遥「京都篇」
 2001年秋、140年ぶりに庭園が公開され、神秘の世界に誘われた大亀山(だいきざん)宝厳院は、臨済宗大本山天龍寺の塔頭寺院のひとつで、通常は非公開となっている。140年ぶりのベールを脱いだというニュースに、これは見逃すことはできないと、さっそく訪ねた。茅葺の庵風の門を入り、竹柵の誘い小路を行くと、いきなり鮮やかな紅葉が目に飛び込み、一瞬息を呑み足がすくむほどの紅の杜であった。

 当院は、寛正2年(1461)室町幕府の管領であった細川頼之により、天龍寺開山夢窓国師より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え創建された。その見事な庭園は「獅子吼の庭」と称し、天龍寺開山夢窓国師の法孫である策彦禅師の作とされ、嵐山を巧みに取り入れた回遊式山水庭園である。威風堂々と座する大石は「獅子岩」と名づけら
れており、それはあたかも百獣の王、獅子の姿が目に浮かんでくるほど、荘厳さを湛えている。「獅子吼」とは「仏が説法する」の意味で、凛とした庭園にさえずる鳥の声、風の音の耳を傾ければ人生の真理、正道を肌で感じられるようである。庭内には須弥山を現す築山、その前には人生を思わせる「苦海」(空池)が広がり対岸には「雲上三尊石」が有り海の中には、「此岸」より「彼岸」に渡る舟石、仏の元に渡る獣石が配置されている。また策彦禅師が命名された「獅子岩」の他に「碧岩」や「響岩」といった巨岩が禅の境地に導いてくれる。
 また、回遊路の途中には天に向かってすっくと立つ「破岩の松」が信心の何ものかを教えているようだ。

 また、この庭園は江戸時代に記された京都の名所名園案内「都林泉名勝図会」にも掲載されており、春は新緑、秋は紅葉と1年を通じて楽しませてくれる。公開後、一度、雪降る冬に訪ねたことがあるが、蓑垣(みのがき)にこんもりと新雪が積もり、嵯峨らしい冬の情緒を醸し出していた。
 
 門前には、「嵐山羅漢」が祀られており、笠地蔵の昔話ではないが、小雪のなか、笠でもかぶせてあげたいような神妙な気持にさせてくれた。
 創建時は、京都市上京区に有ったといわれ、広大な境内を有した寺院であったようだ。応仁の乱により焼失したが再建され天正年間には、豊臣秀吉より御朱印料32石を付与され、徳川幕府も明治に至るまで外護した由緒寺院でもある。その後、変遷を経て天龍寺塔頭弘源寺境内に移転の後、現在地(旧塔頭寺院跡)に移転再興された。

 本堂には、本尊聖観世音菩薩、脇仏に33体の観世音菩薩、足利尊氏が信仰したと寺伝にある地蔵菩薩像が祀られており、西国33ヵ所巡りに等しいと伝えられている。
 夢窓国師曰く「山水に得失ナシ、得失ハ人ノ心ニアリ」。

 所在地:京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町36。
 交通:JR京都駅から嵯峨野線で嵯峨嵐山駅下車。京都バス71番72番
で京福嵐山駅前下車、徒歩すぐ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹の寺「地蔵院」(じぞういん)

2008年01月24日 15時01分54秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都バス「鈴虫寺」停留所から三分ほど南へ歩くと、住宅街の一角に通称「竹の寺」と呼ばれている山号を衣笠山と称する地蔵院に出会う。
 この地は今から7百余年前、歌人衣笠内大臣藤原家良が山荘を営まれた処で、南北朝時代の貞治6年(1367)室町管領細川頼之が夢窓団師の高弟宗鏡禅師を招請して伽藍を建立し開山した。
 
 その後、光厳・光明・崇光・後光厳・後円融五天皇の勅願寺に準ぜられ、場内17万平方メートル、末寺26ヵ寺、諸国に領地54ヵ所をもつ一大禅刹となったが、応仁・文明の兵乱(1467~)で諸堂ことごとく焼失した。

 しかし、皇室と細川家の援助等によりほぼ旧に復し、明治になって、竜済・延慶の両寺を合併し現在に至っている。本堂内には伝教大師(最澄)の作という本尊の地蔵菩薩を安置し、中央に夢窓国師・宗鏡禅師・細川頼之の各木像が配されている。本堂の南には宗鏡禅師・細川頼之公の墓がある。

 方丈(京都市登録有形文化財)は、貞享3年(1686)再建されたもので、庭園(京都市登録名勝)は、宗鏡禅師の作、頼之の遺愛といわれる平庭式枯山水庭園で、16羅漢の庭とよばれ石の一つ一つは羅漢を意味している。
 当院は一休禅師が幼少の頃修養した寺としても知られ、禅師は、後小松天皇の皇子として、応永元年(1394)当院の近くの民家で生れ、当院で成長した後、6才のとき安国寺に移って本国的な修行に入っている。

 開基細川頼之は、元徳元年(1329)三河国(愛知県)に生れ、貞治6年、将軍足利義満を補佐して管領職となり、後、武蔵守として南北両朝の和合に尽力している。頼之の「人生五十功なきを愧ず、花木春過ぎて夏巳に中なり、満室の蒼蠅掃えども去り難し、起ちて禅榻を尋ねて清風に臥せん」の詩(海南行)は日本外史にも見え、よく知られているところである。明徳3年(1392)64才で没している。

 紅葉は例年12月初め頃に色付き、薄暗い竹林を抜けると鮮やかな紅葉が目にとびこむ。竹林と紅葉の参道が美しい、またこの季節は山茶花の古木が二本見事な花を付け紅葉と花の美の共演を満喫できる。

 所在地:京都市西京区山田北ノ町23。
 交通:阪急嵐山線「上桂駅」下車徒歩13分、京都バス「苔寺」下車徒歩3分。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「首塚大明神」(くびづかだいみょうじん)

2008年01月17日 12時46分50秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都の国道9号線、明智光秀が織田信長を討ちに本能寺をめざして進軍した「老ノ坂峠」のトンネルに入る手前の細い道を心細く進むと、山陰街道の古道に出る。背筋がゾクゾクする怪奇な気配を感じながら、木の根がむき出しになった杜の古道を進むと、ほどなく酒呑童子の首を祀る社「首塚大明神」へ出る。

 当社の説明の前に酒呑童子伝説を簡単に紹介しておこう。

 平安時代初期(西暦800年頃)の話である。
 「昔、丹波の大江山に酒呑童子という鬼が住んでいて、都の娘達をさらっていた。そこで帝は、公家や大臣を集め相談したところ、『源頼光(みなもとのらいこう)に命じて、退治させるほかあるまい』という事になった。
 頼光は命を受け屋敷に帰ると、四天王と呼ばれた家来達を呼び、『相手は、神をも恐れぬ鬼だ。我々の武勇をもってしても及ばぬこともあるかも知れぬ。神仏の加護をおろそかにしてはなるまいぞ』

 そこで、頼光と保昌は「石清水八幡宮」へ、綱と金時は難波の「住吉明神」へ、季武と貞光は「熊野権化」へ参籠し、主従は山伏に姿を変え、丹波の国をめざして出立した。
 頼光一行は、大江山に向う途中、3人の老人(石清水・住吉・熊野の化身)に神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)という酒と星甲(ほしかぶと)を貰い受けた。

 頼光達は、道に迷った山伏だと言い何とか酒呑童子の棲家に潜入。
 そして、神便鬼毒酒を取り出し、酒呑童子の盃に、とくとくと注ぐ。
 酒呑童子は『これは美味しい』と飲み干し、酔いが回って寝てしまった。
 頼光達は、笈(おい)の中に隠してあった鎧を身に付け、老人からもらった星甲、それに「ちすい」という太刀を持ち、みごとに首を打ち落としたが、首は空中に舞い上がり、大きな口を開けて牙をむくと、頼光めがけて飛び掛ってきたが、星甲に守られ、鬼は息絶えてしまった。」

 さて、頼光が酒呑童子の首を都まで持って帰ろうとすると、老ノ坂峠にくると急に首が重くなり持ち上がらなくなった。しかたなく、この場所に首を埋め首塚としたのが首塚大明神である。
 社前に建っている石碑によると、酒呑童子が源頼光に首を切られるとき、今までの罪を悔い、これからは首から上に病を持つ人々を助けたいと言い残したと伝えられ、首より上の病気に霊験があらたかであると記されている。
 「首から上の病にきく」「酒の神さま」などとあがめられ、4月15日の祭日には、付近からの参拝者の列が続く。
 彩られた丹後伝説展 (酒呑童子)の錦絵は必見。

 所在地:京都市西京区大枝。
 交通:京都交通バス「老の坂」下車、国道9号線・老の坂トンネル入口手前の旧道を400メートル。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「妙圓寺」(みょうえんじ)

2008年01月10日 17時51分10秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都国際会議場に向かっていると路地のような細い道を北に上がったところに隠れ寺のように建っている「大黒天」は、松崎山妙圓寺と号し、日英上人の開基にかかる日蓮宗の寺である。

 本尊の大黒天は伝教大師の作、日蓮聖人が開眼したものといわれている。
 当寺は京都の表鬼門に位する所から、古来、福運を授ける神と信ぜられ、昭和44年(1969)の火災にも無事で「火中の大黒さま」と呼ばれ、正月初子の日を始めとし、甲子の日には参詣者が多い。
 また当寺は京都・都七福神の第1番で、背後の山では毎年8月16日盂蘭盆会の行事として五山送り火「法」字を点ずる。

 大黒天はインドの破壊の神でシヴァの化身とされ、名前の通りの漆黒の体に憤怒の形相という恐ろしい姿だった。日本には最澄(伝教大師)が持ち込み、その後大国主命と一緒にされ、農業神、台所を守る神として受け入れられていった。姿も変わり、狩衣を着用し、頭巾を被り、左肩に大きな袋を背負い、右手に福槌を持ち、米俵に立つ姿となっていった。

 拝殿の前には石で作られた“なで大黒”が参拝者の手で黒く光って迎えてくれる。この地に住む人達の信仰と共に社交場となったのであろう、境内登り口には稲荷社もあり、昔の雰囲気が残っている。

 所在地:京都市左京区松ヶ崎東町31。 
 交通:地下鉄烏丸線四条駅から市バス30系で松ヶ崎大黒天下車、徒歩約5分。京阪電鉄出町柳から叡山電鉄に乗り換え、修学院駅下車、徒歩10分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「源空寺」(げんくうじ)

2008年01月03日 16時56分47秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京阪電鉄伏見桃山駅を降り大手筋商店街へと入り、その中ほどにあるみずほ銀行の先に、ひっそりと佇む小寺がある。
 寺伝によれば、建久6年(1195)天台宗の「光堂寺」として、三井寺の公胤僧正の弟子の忍空上人が炭山(宇治市炭山)に念仏草庵を創建、その後、上人が法然上人の弟子となり寺ごと宗旨替えをし、「法然房源空」をいただき「源空寺」とした。
 後、慶長年間(1595~1615)徳川2代将軍秀忠、3代将軍家光によって当地に移された。

 本堂には、本尊円空大師坐像(法然)、阿弥陀仏立像が置かれている。二層からなる山門の階下両脇には、石仏六体地蔵、愛染明王像、朝日大黒天像を祀っている。朝日大黒天像は、豊臣秀吉の持念仏で、伏見城の巽櫓にあったものを、一時京町大黒町に預けた後、当寺に移された。

 法然上人が63歳の時、奈良東大寺大佛殿再建落慶法要の導師をつとめ帰路ここに逗留され村人の教化に勤めた出立の日、別れに際して、村人たちが念仏草庵に像を安置したいとお願いしたところ、上人はかねて書き写された法門や、法語をもってつくった張り貫の
像を安置し、草庵を寺と改めた。

 村人たちに別れを惜しんで、
「なみあむだぶつと いうひとの はちすのうえに のぼらぬはなし」と詠んだという。
 観光寺ではなく、家族でこの古刹を守ってこられたものでほっこりとする良い寺である。ルポをしていると、こういう寺に出会うこともあり、これが楽しみの一つでもある。訪ねたときは境内に芙蓉、ムクゲ、彼岸花がきれいに咲いていた。狭いながらも中庭はよく手入れされている。

 所在地:京都市伏見区瀬戸物町745。
 交通:京阪電車「伏見桃山」より徒歩4分、近鉄京都線「桃山御陵前」」より徒歩5分、JR奈良線「桃山」より徒歩10分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする