「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「法金剛院」(ほうこんごういん)

2006年10月28日 07時13分33秒 | 古都逍遥「京都篇」
JR嵯峨野線、花園駅の斜めすぐ前に、木立に包まれ蓮の寺として知られる古刹がある。山門をくぐると、そこは静かな庭園が広がる。

 法金剛院は、平安時代の初め、天長7(830)年頃、右大臣清原夏野が山荘を建て、死後双丘寺と称したのに始まる。
 その後文徳天皇が、天安2(858)年,大きな伽藍を建て天安寺として改築、さらに大治5(1130)年、鳥羽天皇の中宮待賢門院が天安寺を復興し、法金剛院とした。応仁の乱や地震などで堂宇のほとんどが倒壊したが、幕府の援助や泉涌寺の照珍が四宗
兼学の道場として再建した。

 当院は律宗・唐招提寺に属し、本尊は重文の阿弥陀如来、他にも僧形文殊菩薩、地蔵菩薩、十一面観世音菩薩などの重要文化財の仏像がある。
 庭園は待賢門院が極楽浄土として造園させた池泉廻遊式浄土庭園で、林賢、静意作の「青女の滝」という巨岩を並べた滝がある。 池の周りの遊歩道には紫陽花が植えられ、また世界中の蓮を集め、蓮池(苑池)や鉢に80種余りが育てられいる。極楽に咲くという大賀蓮は清楚で、千年の悠久の時を偲ばせる、はんなりとした雰囲気は、心のなかまで清められる思いである。写真愛好家にとっては見逃すことができない蓮の寺である。蓮の花は日の出とあわせるかのように静かに花開くから、蓮の時季は朝六時半から開門されている。

 現在の庭は、荒廃し土の下に埋まっていたものを昭和45(1970)年に、庭園研究家・森蘊(もり・おさむ)の手により復元したもので、地表に一部露出していた石組みを掘り下げていくと、「青女の滝」と呼ばれる4メートルもある見事な滝の石組みが現れたという。
 「青女の滝」は、林賢という人の作で、水の落ち方など見事であったそうだが、待賢門院はこれが気に入らず、もっと高くせよと命じたという。だが、残念ながら現在は水は枯れてしまい、ポンプで水を流している。
 重要文化財として、阿弥陀如来、十一面観世音菩薩、僧形文殊菩薩、地蔵菩薩がある。

 所在地:京都市右京区花園扇野町49。
 市バス91、92、93系統「花園扇野町」下車すぐ、JR花園下車、徒歩約5分。
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「方広寺」(ほうこうじ) 

2006年10月26日 09時39分26秒 | 古都逍遥「京都篇」
 天下を征した豊臣秀吉は、織田信長に仕えていた頃とは打って変わって次第に独裁者的権力を誇示していくようになった。その1つの象徴的事業として、天正14年(1586)、に奈良の東大寺を模した高さ約19㍍の大仏と大仏殿を東山山麓の地に建立、これが「方広寺」創設と言われるが、その10年後に地震で大破した。秀吉はすぐに大仏殿の再興を始めるが、志半ばで黄泉へと旅立った。その後、関ヶ原の戦いを経て、家康が秀頼と淀殿に寺の再興を勧めた。

 大仏、大仏殿、そして大鐘が完成したが、この大鐘が後の大坂冬の陣の引き金となってしまう。その後、寛文2年(1662)の地震で大仏殿が倒壊し、のちに造られた上半身だけの大仏も昭和48年3月に焼失。この鐘は、鋳物師大工・三条釜座(さんじょう かまんざ)の名越弥右衛門尉三昌、脇大工・芥田五郎右衛門などによって製作されたもので、日本四大鐘の1つとされ重要文化財に指定されている。他の3つは知恩院、東大寺、四天王寺にある。寂び行く当寺の大鐘は、ひっそりと栄枯盛衰の哀れさを漂わせている。

 大鐘のことを少し語っておこう。
 俗に「国家安康の鐘」と称されているこの鐘は、高さ4.5㍍、口径2.8㍍、厚さ3㌢、重量82.7㌧もある。製造は京都三条釜座の釜師、名越三昌の手によるもので、銘文は東福寺塔頭の天得院住職、文英清韓(ぶんえいせいかん)によって書かれた。「鐘銘事件」の発端となった鐘の銘文を家康に進言したのは、「黒衣の宰相」と呼ばれた家康の懐刀、南禅寺金地院の以心崇伝であったと伝えられている。鐘は「家康を呪詛するもの」とされているが、大坂冬の陣の理由を正当化するための言いがかりとも言われた。今でも、雨の夜には鐘の内側に秀頼を抱いた淀殿の亡霊が白いシミになって現れると言われている。本堂を拝観すると、鐘楼に入れ近くで見ると、問題の銘文が白線で囲んで示してある。

 さて、「鐘銘事件」を知らない方のために説明しおくと
 鐘銘事件とは、豊臣家滅亡の原因となった方広寺の鐘銘にまつわる事件で、鐘銘に「国家安康君臣豊楽」と刻まれており、前者「国家安康」を「家康を引き裂けば、国安し」と、後者「君臣豊楽」を「豊臣を君となし、豊臣の繁栄を楽しむ」と読み取れるとして、豊臣家に大鐘の破棄を求めたが、実のところは豊臣家、つまり大阪城を攻め落とす「言いがかり」であったと歴史家も解釈しているところで、この結果、大坂冬の陣が起こり、ついには豊臣家滅亡となっていく。
 現在も延長約九百㍍にわたって現存している「太閤石垣」は、豊太閤大仏造営に当たって21ヶ国に巨石の供出を命じた、俗に「石狩り」といわれた。
 大石垣は最初、小石で築かれたが、秀吉は「仏法も衰えれば、盗まれることもあろう」と思い、諸大名に命じて各地から巨石を集めさせた。諸大名は家紋を刻み寄進したという。
 この石垣の中でも特に有名な巨石は蒲生氏郷(がもううじさと)と加賀前田侯が運んだ2石と言われている。蒲生氏郷が献上した石は二間に四間という巨石で、容易に搬送することができなかったため、遊女を巨石に乗せ、音頭を取らせ、これを出迎えた秀吉は帷子を着て、木やり歌を歌い、笛や太鼓ではやし立てて引いたと伝えられている。また前田侯が献上した西北隅の巨石は、俗に「泣き石」と呼ばれ、その由来は秀吉の機嫌を取ろうとした前田侯が無理をして運んできたものの、あまりの重さに人夫一同が泣いたからという説や、あまりに経費がかかり過ぎて、さすがの加賀百万石の殿様もこれに泣いたからだという説などがある。

 交通:JR京都駅、市バス三十三間堂前下車、北に300㍍、徒歩5分。
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「宝泉院」(ほうせんいん)

2006年10月24日 17時49分37秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大原三千院を散策されると勝林院を訪ね、そしてその隣に佇む「宝泉院」を訪ねてみるとよい。山門を入ると法然上人が衣をかけたと伝えられる「衣かけの石」が目に入る。黒塀の上を見上げれば見事な枝ぶりの五葉松が美しく空を覆い尽くしている。幹はどのように・・・、急く気持ちで堂内に。
 手入れがよく行き届いた庭に左右に大きく幹が広がり、天に向かって主幹が伸びる。藤井住職に伺うと樹齢700年ほどで近江富士(滋賀県)を容どっているとのこと、京都市指定の天然記念物の一つである。

 「この寺の 竹の枝間を うちこして 吹き来る風の 音の清さよ」

 西側の庭園は「額縁庭園」とも称され、柱と柱の空間を額に見立てて観賞すると、竹林の間に間に風情豊かな大原の里が望まれる。
 当院は平安初期、比叡山に天台仏教を開いた最澄の高弟・円仁が唐に渡り、10余年間の仏教修行を終え、帰国した後、比叡山に密教、五会念仏など、また、その法要儀式に用いる仏教音楽「声明」を伝えたことに始まる。建造物は室町文亀2年の再建と伝えられるが、形式からみて江戸初期とも言われている。
 東側の庭園は「鶴亀庭園」と言われ、江戸中期の作で、池の形が鶴、築山が亀、山茶花の古木を蓬莱山に見立てた名庭で、部屋の中から格子ごしに見ると侘び寂びを漂わせている。

 交通:JR京都駅から京都バス17、18系統で大原バス停下車(約1時間)、徒歩2 0分。
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「退蔵院」(たいぞういん)

2006年10月21日 16時53分44秒 | 古都逍遥「京都篇」
 名刹・妙心寺の山内には40余りの塔頭があるが、退蔵院はそのうちの屈指の古刹として知られ、足利時代の波多野出雲守重通により、応永11年(1404)妙心寺第3世・無因宗因禅師を開山として建立された。妙心寺は足利義満の弾圧で「竜雲寺」と山号を変えられ、関山一派の人々も祖塔を去る悲運に見舞われた。退蔵院は応仁の乱で妙心寺とともに炎上し、後に亀年禅師によって再建された。

 宮本武蔵が愚堂禅師を求めて参禅した頃、この瓢鮎図を前に自問自答したという寺伝があり、武蔵自作の刀のツバ(岡山県・宮本武蔵資料館所蔵)にはこの「瓢箪と鯰」がデザインされているものが現存する。
 その瓢鮎図(如拙筆)は、「瓢箪でどうすれば鯰が捕らえられるか?」という禅の問答で、「公案」を表すもので相国寺の僧・如拙(じょせつ)によって描かれた。後に周文、雪舟まで筆が渡り、現存する彼の作品では最も傑出したものといわれている。名前の由来は「大行如拙(たいこうせつなるがごとし)」の語からとったもので、「最も大功(上手)であろうとするなら稚拙(下手)であるのがよい」とされている。

■山門
 本山の南門西にある「勅使門」は親柱2本、控え柱4本からなっており、様式名を「四脚門」という。退蔵院「薬医門」は親柱2本、控え柱2本から成り、当時、高貴な薬医にしか与えられなかった御屋敷門の形であった。妙心寺塔頭でも、バランスの整った美しい形状を残した「薬医門」であると言われており、江戸中期に建設されたもの。

■大玄関
 唐破風造りの変態で珍しいとされている玄関の様式は、袴腰造りと呼ばれるもので、昭和41年に重要文化財に指定された。破風の曲線が袴の腰のように直線になっている大胆な着想は、禅の精神を表象しているのかも知れない。茶道石州流の祖片桐石州の発案した様式だとの説もある。また、玄関は江戸初期の富豪比喜多宗味居士より寄進されたもので、法要儀式その他高貴の人々の出入り以外は使用されていない。

■余香苑
 広大な庭園は中根金作氏の設計によるもので、昭和38年に着工し、3年かけて完成した比較的新しいものである。余香苑は伝統的な造園手法を基本に、厳格さの中にも優雅さが醸し出されている昭和の名園である。正面から庭園を見ると奥行きが生まれ、庭園が広く見えることなど、随所に工夫が凝らされている。

■元信の庭(枯山水庭園)
 室町時代の狩野元信の作品で、絵画的な優美豊艶の趣を表わした風格を備えている。庭の背景には、椿、松、槇、もっこく等、常緑樹を植え、1年中変わらない美しさを求めたとものと評されている。
 借景として「双ヶ丘」をいただき、50坪ほどの中に滝組・蓬莱島を中心に、細心の心配りをした石を配置し、絵画的な曲線を用いている。狩野元信は、父・正信の創造した狩野派画法の典型をつくり基礎を確立、方丈庭園「元信の庭」は、画家としてもっとも円熟した晩年の頃の築庭と言われており、画家としての最後の作品が造園であったことで珍しい作品の1つと数えられている。

■水琴窟
 「つくばい」の下深く底を穿った瓶を伏せ込み、手水に使われた水が瓶に反響して琴の音に聞こえる水琴窟、耳を傾けた古人の侘び寂びの風情がうかがえる。

■襖絵(非公開)
 狩野光信の高弟であった狩野了慶は、探幽と共に狩野派の俊英で、この襖絵は高台寺の屏風絵や西本願寺の襖絵などとともに、桃山後期の優れた遺品とされている。国宝の「瓢鮎図(ひょうねんず)」は如拙が描いたもので室町時代の代表的絵画。

 所在地:京都市右京区花園妙心寺町35.
 交通:JR京都より市バス26、宇多野山越行き妙心寺北門下車、JR山陰線(嵯峨野線)花園駅下車徒歩8分。
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「宝鏡寺」(ほうきょういん)

2006年10月19日 18時22分16秒 | 古都逍遥「京都篇」
 宝鏡寺は、西山(せいざん)と号し、百々御所(どどごしょ)という御所号をもっている臨済宗の尼門跡寺院である。本尊は聖観世音菩薩で、伊勢の二見浦で漁網にかかったものと伝えられ、膝の上に小さな円鏡を持っている大変珍しい姿をしている。

 開山は景愛寺(けいあいじ)第6世であった光厳天皇皇女華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼であり、応安年間(1368~75)に御所に祀られていたこの聖観世音菩薩像を景愛寺の支院であった福尼寺に奉納安置して、名前を改め開山したのが始まりと伝えられる。
 景愛寺は弘安年間(1278~87)に無外如大禅尼(むがいにょだいぜんに)が開山した寺院で、足利氏の庇護により、南北朝時代以降は禅宗尼寺五山の第一位におかれ、寺門は大いに栄えていた。しかし応仁の乱の兵火や足利氏の衰退により消失してしまい、華林惠厳禅尼の入寺以後は宝鏡寺の住持が景愛寺を兼摂することとなり、以降、法灯は宝鏡寺が受け継いでいる。
 また寛永21年(1644)、後水尾天皇々女久厳理昌禅尼(くごんりしょうぜんに)が入寺してから、紫衣を勅許され、皇室とのゆかりが再び強まり、以後歴代皇女が住持を勤める慣わしとなった。
 
 天明8年(1788)の大火では類焼したが、寛政10年(1798)竣工の書院をはじめ、本堂・大門・阿弥陀堂・玄関・使者の間の六棟が復興され、現在は京都市指定有形文化財に指定されている。
 文政10年(1827)上棟の本堂は前後三室からなる六間取の方丈形式で、書院には円山応挙の杉戸絵、天保4年(1833)に円山応震と吉村孝敬が描いた襖絵が目を奪う。
 阿弥陀堂は勅作堂ともいい、光格天皇勅作阿弥陀如来立像が御所より移される折りに移築された建物。明治の廃仏毀釈以後は、宝鏡寺住職が代々兼務していた大慈院を合併し、本尊の阿弥陀如来立像、開基である崇賢門院(すうけんもんいん)御木像、尼僧姿の日野富子(ひのとみこ)御木像も阿弥陀堂に安置されている。これは、公卿日野政光の息女日野富子(1440~96)は、室町幕府八代将軍足利義政(よしまさ)の妻となった。我が子義尚(よしひさ)を世継ぎにしようとしたことが、応仁の乱を引き起こした原因の1つともなった。大慈院(浄土宗)が宝鏡寺に隣接してあり、後に富子は出家して妙善院(みょうぜんいん)となり入寺した。後に大慈院は宝鏡寺に受け継がれて日野富子の木像が奉られた。

 当寺は人々から「人形の寺」と呼ばれている。
 京都・奈良の尼門跡寺院にはたくさんの人形が保存されているが、これは代々内親王が入寺され、父である天皇から季節やことあるごとに人形が贈られてきたことに由来している。宝鏡寺も、そのような関係で多くの人形が所蔵されている。中でも特に近代の皇女である霊厳理欽尼(れいごんりきんに)には、3組の雛人形、猩々人形などが残っている。
 このような人形を公開する意味から、昭和32年(1957)秋より人形展が始められ、それ以降は毎年春と秋に一般公開することになった。
 その後、関係者により年1回、10月14日に人形供養祭が営まれ、島原太夫による舞や和楽器の演奏などが奉納される。昭和34年の秋には壊れたり汚れたりして捨てられてしまう人形を弔い供養し、その霊を慰めるために、人形製作に携わる人々及び有志などによって人形塚が境内に建立された。 人形塚は、吉川観方(かんぽう)氏による手に宝鏡を持った御所人形の姿をしており、武者小路実篤氏による
  
 「人形よ誰がつくりしか
    誰に愛されしか知らねども
       愛された事実こそ汝の成仏の誠なれ」という詩が刻まれている。
 
 当寺と皇女和宮との縁は深く、遺品がいくつか納められている。
 和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は、公武合体のため徳川将軍家茂公にご降嫁され、明治維新の江戸城開城に隠れた功績を残した。
 幼少の頃、百々御所(宝鏡寺)へお成りになり、若い上臈(じょうろう)たちと双六や貝合わせなどに興じられたり、鶴亀の庭で遊ばれ、また、桂御殿御普請中はここに桂宮と住まわれ、その間よく上臈たちとお経を唱えられたという。このような縁から、当寺には絵巻物をはじめとした和宮の遺品が、御所より特別に下賜された。

 百々町 (とどちょう)は、京都市上京区寺之内通堀川東入の江戸期~現在の町名。この町名は「今昔物語集」「応仁記」にも登場し「百々」という堀川通の北方を指す古地名でもあった。この地は現在でも多くの名勝や寺院が残るところで、宝鏡寺をはじめ、表千家不審庵、裏千家今日庵などがあり、茶道具を商う老舗も点在する。

 所在地:京都市上京区寺之内通堀川東入。
 交通:JR京都駅市バス(B)乗り場より9系統。京阪電鉄三条駅より市バス12系統。 バス停堀川寺ノ内より徒歩すぐ。



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「平野神社」(ひらのじんじゃ)

2006年10月17日 22時05分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
「平野神社」(ひらのじんじゃ)
 平野神社は、絹をかけたようなやわらかな衣笠山(きぬがさやま)の近く、西大路通りに面し、毎年8月16日に行なわれる京都の風物詩、京都五山の送り火、通称「大文字焼き」の「左大文字」が見通せるところにある。
 染め織りの街、西陣に接する由緒ある古社である。当社が最も賑わいを見せる季節は春、それもそのはず、神社をすっぽりと覆い尽くす爛漫の桜が人々を酔わせるからだ。ここの桜は種類が多いことでも有名で約45種、50本の花が春のはじめから晩春まで咲きついでいく。緋毛氈(ひもうせん)を敷いた床机(しょうぎ)で桜を見上げる風情は、千年もの王朝時代にタイムスリップしたかのように、妙にしっとりとした雅を漂わせている。

 当社は、延歴13年(794年)桓武天皇平安遷都の時、大和の国より四神を勧請したのが始まりで、延喜式内社の名神大社である。平安中期以後は22社中の5位として、伊勢・賀茂(上・下)石清水・松尾につぐ名社であった。また、源氏・平氏・高階・大枝・清原氏・中原氏・菅原氏・秋篠氏等の祖神として崇められてきた。明治四年官幣大社に列し、洛西の総氏神と仰がれている。

 本殿は東向きに建てられており、本殿、拝殿、楼門、境内東側の鳥居は直線上に配置されている。本殿は慶長3年(1598年)と慶長9年(1604年)に再建されたものとされ、「平野造り」又は「比翼春日造り」と称せられており、重要文化財に指定されている。
 拝殿内には寛文年間(1661~73年)に海北友雪が描いたとされている三十六歌仙の絵が掲げられている。「三十六人撰」は、柿本人麿から中務まで、三十六人の歌仙の歌150首を撰出して結番した、歌合形式の秀歌撰である。藤原公任(966-1041)撰。
「三十六人歌合」とも。人麿・貫之・躬恒・伊勢の巻頭4人、および平兼盛・中務の巻末2人は各10首、その他30人は各3首を選抜している。これ以前に公任は「前15番歌合」を編んでいたが、これを発展させた「三十六人撰」(散逸)を具平親王に贈り、親王はこれを改撰した「三十六人撰」(現存)を編んで公任に贈り返した。まもなく親王は没し、公任は自撰の「三十人撰」を改訂増補して「三十六人撰」を完成させたと伝えられている。従って成立は、具平親王が亡くなった寛弘6年(1009)7月以後、まもなくかと推測されている。その後盛んに作られた三十六歌仙形式の秀歌撰の祖にあたる。
 柿本人麿、紀貫之、凡河内躬恒、伊勢、大伴家持、山辺赤人、在原業平、僧正遍昭、素性法師、紀友則、猿丸大夫、小野小町、藤原兼輔、、藤原朝忠、藤原敦忠、藤原高光、源公忠、壬生忠岑、斎宮女御、大中臣頼基、藤原敏行、源重之、源宗于、源信明、藤原清正、源順、藤原興風、清原元輔、坂上是則、藤原元真、小大君、藤原仲文、大中臣能宣、壬生忠見、平兼盛、中務。

 当社が衣笠山の麓にあった頃、花山天皇が84方の境内に数千本の桜をお植えになったのが名所となり、寛和元年の花盛りに臨時の勅祭を執り行ったのが4月10日の今の桜祭りの起因となったともある。

 いくつかの名木を紹介しておくと、
「平野妹背桜」:花は淡紅色で、撒房形花序。妹背(仲の良い恋人)のように花柄の先に2つのかわいい実が寄り添うようにく。

「突葉根桜」:花は小さく花弁62~3枚で、一見菊桜のようで、紅色の花が咲く過程によりさまざまな表情を見せ、最後には大輪になる。

「胡蝶桜」:花は淡紅色の大輪で満開時には、あたかも蝶が飛んでいるようだ。

 所在地:京都市北区平野宮本町。
 交通:JR京都駅から市バス 205・50系、衣笠校前下車徒歩1分。京阪三条から 市バス15、衣笠校前下車徒歩1分。
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「廬山寺」(ろざんじ)

2006年10月14日 07時39分53秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都御所の東側のこの寺は、平安時代、御所づとめをしていた紫式部がここに住まい、「源氏物語」を執筆した所として知られている。夏から秋へかけ細かな白砂の庭、苔に咲く桔梗の楚々とした美に王朝の風雅をかもしだしている。

 当寺の創建は、天慶元年(938)に慈恵大師良源(正月3日に没したため元三大師とも言う)が、船岡山に創建した皇室直属の御黒戸四ヶ院の中で唯一残存する摂家門蹟を念仏道場としたが、応仁の乱による焼失。後の元亀2年(1571)、紫式部の邸跡と伝えられる当地に再興したのが始まりといわれ、皇室との関係も深く、本堂などは仙洞御所から移された。
 本堂前の庭は「源氏の庭」と呼ばれ昭和四○年の作庭、紫式部にちなんで桔梗が植えられ、砂の白と苔の緑の中に桔梗が巧みに配されている昭和の名庭といえよう。

 世界最古の文豪として、日本人でただ1人「世界の5大偉人」に選出され、ユネスコにも登録されている紫式部は、曽祖父の堤中納言が此処で建てた邸宅で育ち、結婚後もここで暮らし1人娘も育てている。長元4年(1031)59歳の生涯を閉じた。
 「紫式部邸宅遺跡」には、「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」と刻まれている。

 また、当寺は、節分の「鬼の法楽」が行なわれることでも知られており、追儺式鬼法楽(ついなしきおにおうらく)通称「鬼おどり」には、大勢の人たちが訪れ、狭い境内はすし詰めとなる。追儺式鬼法楽は、どん欲、怒り、愚痴の象徴の赤、青、黒鬼がほら貝、太鼓に踊り出てくる。そして導師の護摩供並びに福餅、豆に追い祓われ、よろけるように退散する。
 この「鬼おどり」は、開祖元三大師良源が村上天皇の代に300日の護摩供を修し時に出現した悪鬼を、護摩の法力と大師が持っている独鈷、三鈷の法器でもって降伏させられたという故事によるもので、この三鬼は人間の善根を毒する三種の煩悩、即ち貧欲・瞋恚・愚痴の三毒を表現している。三毒を節分の日に追い払い、また、福寿増長を祈念し、一切の悪疫災難をはらうことによって開運をはかり新しい節を迎えるという法会行事として伝承されている。

 所在地:京都市上京区寺町広小路上ル。
 交通:JR京都駅前より205系統17系統バスで府立医大病院前下車、
 徒歩5分。  
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「平等院」(びょうどういん)

2006年10月12日 10時56分36秒 | 古都逍遥「京都篇」
 平等院は、長徳4年(998)関白藤原道長が左大臣源重信の夫人から譲り受けた別業「宇治殿」で、万寿4年(1027)道長没後に、その子頼道が伝領した。永承7年(1052)3月、仏寺に改め大日如来を本尊とする五間四面の本堂を建立し、平等院と号した。
 阿弥陀堂は、建物の屋根に鳳凰が飾られていることと、建物が羽根を広げた鳳凰の姿に似ていることから「鳳凰堂」と呼ばれ信仰を集めている。
 天喜元年(1053)には、平等院の阿弥陀堂が落成し、堂内には平安時代の最高の仏師定朝によって天喜元年(1053)に作成された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、極楽浄土を再現した。その構造技法は日本独自の寄木造りの完成した技法をみることができる。また表現の上でも和様式で、頬がまるく張った円満な顔、そして伏目がちながら大きな眼で静かに見つめ、かぎりない優しさにあふれている。
 雲中供養菩薩像は、鳳凰堂中堂母屋内側の長押(なげし)上の小壁(こかべ)に懸けならべられている52躯の菩薩像で、定朝工房で天喜元年に作られた。南北2つのコの字形に南北半数ずつに分けて懸けられ、本尊阿弥陀如来坐像を囲んでいる。各像には北側分は1から26までの、南側分は1から25までの番号を、背面壁からはじまり側面壁をへて正面壁にいたる順につけている。南側の最後にある1躯は、他の51躯が国宝指定を受けた後に堂外から発見されたことから番外とされている。各像はいずれも頭光(輪光)を負い、飛雲上に乗ってさまざまの変化にとんだ姿勢をとり、5躯は比丘形(僧形)で、他は菩薩形。比丘形の5躯はいずれも坐像で、3躯は合掌し、2躯は印を結んでいる。菩薩形の像は多くが坐像で、それらはいろいろな楽器を演奏したり、あるいは持物をとったり、合掌したりしている。菩薩形像のうち6躯は舞い姿の立像。ゆったりとしたやわらかな肉どりや、穏やかな顔だち、自然な衣文などは本尊阿弥陀如来像に共通している。

 藤原氏氏寺として大伽藍が造営整備され興隆を極めたが、その後3度の戦乱に巻き込まれ、阿弥陀堂(鳳凰堂)観音堂、鐘楼のみが残った。
 治承4年(1180)源平の争乱勃発、源頼政父子が宇治川の合戦で平家に敗れ、頼政は等院境内の扇芝で自害。その子仲綱も阿弥陀堂内で切腹する。

四季折々に美しい景観を表わすが、初夏のころの藤の花は見事なもので、多くの観光客がこの藤をお目当てに訪れるともいう。秋の紅葉、春は梅に桜、とくに桜は宇治川の中之島の桜とあわせて爛漫と咲き誇る。

 所在地:京都府宇治市宇治蓮華116
 交通:JR奈良線「宇治駅」南出口から北東へ徒歩10分
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「竜安寺」(りょうあんじ)

2006年10月09日 08時02分52秒 | 古都逍遥「京都篇」
 無の境地に浸りたいと思ったら大雲山「龍安寺」を訪ねるがよい。山門をくぐると左に開けた鏡容池がある。徳大寺家によって築かれたもので、かってはおしどりが群れ遊んでいたところから別名おしどり池とも呼ばれた。周りに種々の花木が植えられ桜、雪柳、つつじ、藤、池の睡蓮、秋の紅葉、冬の雪景色、季節の彩り心和む風景が広がる。

 当寺を最も世に知らしめたものが方丈庭園である。枯山水の石庭で、東西約25㍍、南北約10㍍。3方を築地塀〔油土塀〕で囲み、庭内には一木一草も用いず、白砂を敷き15個の自然石をはいする。その姿から「都林泉名勝図会」は「虎の子渡し」の庭と記し、配置された15の石が東から7・5・3で構成されているところから「7・5・3の庭」ともいわれる。
 作庭の年代や作者、制作の意図などについては不明であるが、室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものと伝えられる。見た目は単純な構成であるがその中に秘められた魅力は哲学的でもある。岩とそれにまつわる苔、それらを取り囲む白い砂に描かれた筋目とが、言い知れぬ簡素な落ち着きと、枯れた気高い美しさをかもしだしている。

 方丈から東庭を隔てた東北隅に茶室がある。蔵六庵〔非公開〕というが、蔵六という語は亀の別名で甲羅の中に頭、尾、四肢の6つを隠すのでこの名がつけられた。江戸初期の茶人不遠庵僖首座の好みのままに水屋の掛け窓も珍しく四畳一間で中板が設けてあり、古くから龍安寺十勝の1つとする。茶席蔵六庵に水戸光圀公の寄進によるものと伝えられる「つくばい(手洗鉢)」(非公開で方丈裏にレプリカを置いている)は、中心の口を共有すれば、『吾れ唯足ることを知る』と成り、知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し、という禅の格言を謎解きに図案化された無言の悟道である。

 仏殿は昭和56年(1981)4月に完成、その翌年に新しく西の庭も室町時代に復元された鍾堂と共に整備された。現在は非公開で静寂の中、時に鳥のなき声、片隅の池で魚の跳ねる音が聞かれるのみである。方丈広間の龍の襖絵は残念ながら非公開になっていて観賞することはできない。

初めての方へ・・・このお寺の呼び名は「竜」と書かれていても「りゅう」とは言わず、「りょう」と呼称します。「りゅうあんじ」ではなく「りょうあんじ」です。
 
 所在地:京都市右京区竜安寺御陵ノ下町13
 交通:市バス「竜安寺前」下車すぐ、市バス「立命館大学前」下車、徒歩7分
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「曼殊院」(まんじゅいん)

2006年10月07日 16時22分16秒 | 古都逍遥「京都篇」
 紅葉がほんのり薄化粧をし始める頃、曼殊院を訪れた。当院は京都でも屈指の紅葉の名所として知られ、シーズンともなると混雑が予想されることから、その前にゆっくり散策しておきたいという考えからである。
 秋は参道から燃え立つような紅葉に覆われ、門跡の白壁に映える鮮やかな真紅は情念の世界まで漂わせる。白壁づたいを西にいくと石垣の土手にかわいい薄紫の花が群生していた。通りがかりの近所の方に「可愛い花ですね」と声を掛けると、「ツルリンドウっていうですよ」と教えてくれた。曼殊院の隠れた名物だそうだが、観光客はほとんど気づかないらしい。 

 曼殊院は、伝教大師(最澄上人)の草創に始まり(8世紀)、比叡山西塔北谷にあり「東尾(とうび)坊」と称した。曼殊院と改称されたのは天仁年間とされ、現在の地に移されたのは明暦2年(1656)で桂離宮と様式を同じくしている。 当院の襖絵が好きなことから数度も訪ねているが、特に狩野探幽の筆による障壁画・襖絵が好みだ。違い棚も見るべきところがあり、桂離宮のものと同じで「曼殊院棚」と呼ばれ、数10種の寄木で作られた珍しいものである。 

 皐月のころ、秋の紅葉のころ、ともに美しい庭園は小堀遠州作の枯山水。庭の芯に滝石があり、白砂の水が流れ出て、水分石から広がって、鶴島と亀島にそそがれる。鶴島には
樹齢400年といわれる鶴をイメージした五葉の松、亀島の松の緑が白砂に鮮やかに映えている。

 交通:JR京都駅から市バス5・特5、一乗寺西町徒歩15分。

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