「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「建仁寺」(けんにんじ)

2006年03月17日 12時04分54秒 | 古都逍遥「京都篇」
 祇園花街の中に威風堂々とした風格を漂わせている、臨済宗建仁寺派の総本山、建仁寺は、 明庵栄西が、円・密・禅の三宗兼学の寺として建仁2年(1202)に建立、京都で最初の禅寺である。開基は源頼家(1182-1204)。後に純粋の宋風禅の道場となる。応仁、文明の兵火で荒れ、天正年間(1573~92)に安国寺恵瓊によって再興された。
 秘蔵の宝物にも見所が多く、中でも俵屋宗達作「風神雷神図」の二曲屏風一双(国宝:江戸初期)は良く知られている代表作である。その他中国宋代の水墨画の名品もあり、海北友松の襖絵も数多い。友松は挑山時代から江戸初期にかけて活躍した水墨画家で独特の画風を残した。方丈の前庭は枯山水の庭園で東陽坊茶席(豊臣秀吉が北野大茶会のとき東陽坊長盛に造らせた茶席を移築、草庵式二畳台目の茶席)の竹垣は建仁寺垣と呼ばれるもので、掘立て杭に3本の胴縁を渡し割りだけを掻き付けて、同じく割竹の押し縁で押さえ、頭に玉縁を付けている。

 諸堂は中国の百丈山を模したもので、法堂は江戸時代明和2年(1765)に再建され、仏殿は瓦葺き重櫓の、禅宗様仏殿様式。
 勅使門は鎌倉末から室町初期のもので、銅板葺き切妻造り4脚門。平重盛(一説には教盛)の館門を移建した。扉に矢の跡があることから矢立門とよばれている。(重文)
 銅板葺き単層入母屋造りの方丈は、慶長4年(1599)安芸の安国寺から移建したと伝えられている。創建当時は柿葺きだったらしく、本尊は東福門院ゆかりの十一面観音菩薩像が安置されいてる。
 襖絵はもとは海北友松作であったが、再建時に京都国立博物館に寄宅され、現在は橋本関雪(1883-1945)の「生々流転の図」が納められている。
 三門も見事で、望闕楼の扁額がかかる三間二間の二重門、階上内部には観音菩薩像と十六羅漢像が安置されている。大正12年(1923)静岡県の安寧寺から移建した。開山堂(旧護国院)は、開山栄西禅師の入定塔(墓所)。明治初年に大改造が行なわれた。18世紀の客殿は妙心寺塔頭の玉龍院から移築された。

 栄西襌師(1141-1215)について紹介しておこう。
 14歳で出家し比叡山で修行、2度宋に渡り禅を学び、座禅によって悟りを開き、日本に臨済宗を築く。宋から茶の種を持ち帰り、京都の栂野尾や宇治に茶畑を開き栽培させる。「喫茶養生記」=茶の徳をといた著書がある。
 建仁寺では毎年4月20日、栄西の誕生法要(開山降誕法要)に「四頭(よつがしら)茶会」と呼ばれる茶会が開かれる。現在の手前作法とは異なっており、仏前飾りがなされ、立ったまま点茶を行なう茶礼は、禅院茶礼の古い形態(「太平記」「喫茶往来」に述べられている闘茶)だと言われている。 また、文献に見られる佐々木道誉の会や「喫茶往来」の会は立礼形式であり、禅院でも初期は椅子式であったとも推測されている。

 交通:京阪電鉄四条から7分、阪急電鉄四条河原町から歩10分。
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