「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「當麻寺」(たいまでら)

2010年10月23日 17時28分02秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 中将姫の蓮糸曼荼羅(當麻曼荼羅)の伝説で名高い「當麻寺」は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に威風堂々と建っている。
 当寺はこの地に勢力をもっていた豪族「當麻氏」の氏寺として建てられたもので、仏像、梵鐘、石灯籠など、いずれも奈良時代前期(七世紀後半)の遺物があり、寺の草創はこのころと推定されているが正確な時期や事情については正史に記録がなく、今日に至っても明らかではないが、當麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になってからではないかと言われ、鎌倉時代初期の建久2年(1191)に書かれた『建久御巡礼記』に草創期の背景が見られるという。
 これは、興福寺の僧・実叡が大和の名寺社を巡礼したときに記録したもので、これに聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊とする「禅林寺」として草創したとあり、その後、その孫の當麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇10年(681)に役行者(えんのぎょうじゃ)ゆかりの地である現在地に移したものだという。
 一方、嘉禎3年(1237)の『上宮太子拾遺記』所引の『當麻寺縁起』によれば、推古天皇20年(612)、麻呂古王が救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建し、現座地の南方の味曽路という場所にあったものを、692年に移築したとも伝えられているという。

 当寺は、奈良時代の三重塔を東西二基とも残す全国唯一の寺で、国宝の本堂(曼荼羅堂)には室町時代に
転写されたと伝わる、縦横四㍍程の織物「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」(重文)を本尊として祀ってある。曼荼羅の原本については、中将姫が蓮の糸を用いて一夜で織り上げたという伝説がある。
 また、壮麗な絵天井で知られる中之坊の「写仏道場」には、平成に入って描かれた色鮮やかな當麻曼荼羅が祀られており、これに描かれた仏様を描き写す「写仏体験」をすることができる。 

 では歌舞伎などでも有名な中将姫伝説について触れておこう。
 『藤原鎌足の子孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるた、姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられたが、執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家したが、姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立った』。
 この話は、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎にも取り上げられ人気を呼んだ。

 各宇堂について簡単に説明しておこう。
■金堂(重要文化財)入母屋造、本瓦葺。鎌倉時代前期に再建されたというが、藤原京や平城京などの大寺の金堂と比べたら小さいが、創建以来の規模を保っているとのこと。内部は土間で、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などが安置されている。
■講堂(同)は金堂の背後にあり、寄棟造、本瓦葺。鎌倉時代末期の乾元2年(1303)の再建とされ、本尊阿弥陀如来坐像(同)のほか、多くの仏像を安置。
■本堂(国宝)
 金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。寄棟造、本瓦葺。平安時代末期、永暦2年(1161)の建築。
解体修理寺の調査の結果から、平安時代初期(九世紀頃)に建てられた前身堂を改築したもので、奈良時代
の建物の部材も一部転用されていることがわかっている。
■東塔・西塔(同)
 いずれも三重塔で、東塔は初重が三間に対して、二重・三重を二間とする特異な塔である(日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るのは異例)。西塔は初重、二重、三重とも柱間を三間とし、屋根上の水煙(すいえん)は、東塔の魚の骨のような形をしたユニークな作りをしている。細部の様式等から、東塔は奈良時代末期、西塔はやや遅れて奈良時代最末期から平安時代初頭の建築と推定されている。
 この他、別院「護念院双塔園」(国指定名勝)の牡丹の花は全国的に知られ、シーズンともなればバスツアーなど多くの観光客で賑わっている。

 所在地:奈良県葛城市當麻1263。
 交通:近鉄南大阪線「当麻寺駅」下車、徒歩20分。
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「般若寺」(はんにゃじ)

2010年10月15日 00時02分15秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 奈良東大寺へと続く街道と柳生の里へと続く街道の分岐点付近に、奈良北山の名刹、西国薬師第三番・関西花の寺第十七番札所、法性山般若寺がある。

 当寺は舒明天皇の元年(629)に高句麗から渡来した慧灌法師(えかんほうし/日本の三論宗の祖)が般若台を始めたのが草創といわれ、その後、天平18年(746)に至り、聖武天皇が平城京の繁栄と平和を願うため当寺に大般若経を奉納して卒塔婆を建立し、鬼門鎮護の定額寺に定めたと伝わる。また平安時代は寛平7年(895)の頃、観賢僧正(かんげんそうじょう)が学僧千余人を集めて学問道場の基をきずき、のち長らく学問寺としての般若寺の名声は天下に知れわたっていたが、源平の争乱により、治承4年(1180)平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討にあい伽藍はすべて焼失し礎石のみが残った。鎌倉時代(建長5年頃/1253)に荒廃の中から十三重大石塔が再建され、続いて良恵上人が本願となって勧進、金堂・講堂・僧坊をはじめとする諸堂の復興造営をはかられた。
 
 さらに文永4年(1267)には叡尊(えいそん)上人発願の文殊菩薩騎獅像(重要文化財) が本尊に迎え、かつての大般若寺の偉容がみごとに復興したとある。獅子に乗った童子のような顔つきの本尊文殊菩薩像は、檀像で裳には模様がほどこされ、獅子は寄木造りで彩色がなされている。右に四天王立像、不動明王坐像、弘法大師坐像があり左奥には南朝の護良親王が追っ手から身をひそめたという唐櫃(からびつ)が置かれていた。
 その後、室町戦国期の戦乱による哀微、江戸期の復興、明治の排仏と幾多の栄枯盛衰を経ながら、菩薩道精神を法灯にかかげ現代の復興を俟つに至っている。

 威風堂々とした楼門(国宝)は、鎌倉再興伽藍の回廊遺構であり、均整の取れた形と優れた意匠は楼門建築の傑作といわれる。二重門の下重の屋根に代えて廻縁をめぐらすのが楼門の特徴であるが、現存最古の楼門として知られる。下層は中央の柱を省いて桁行一間とし、上層は桁行三間となっている。全体に横幅に対して高さをより強調していて、軒反りも大変美しく立派な門である。下層上部梁にある板蟇股等、和様の細部をよく示しており、ほとんどが和様になるが、肘木等に天竺様の影響がみられ、特に肘木鼻の繰形は類例が少ないという。

 荒廃に中から再建され、大衆信仰のシンボルとしてなった十三重石宝塔(重要文化財)は、聖武天皇の創建と伝えられているが、現存の塔は慶長五年頃、南宋国明州(浙江省寧波)の石工、伊行末が建立したという。規模の大きさ、塔婆の荘重美みごとな四方四仏、わが国を代表する石塔で、高さ14.2㍍もあり、塔身に四方仏も繊細に線刻してあり美しい。

 四方仏とは、薬師(東)阿弥陀(西)、釈迦(南)弥勒(北)の顕教四仏のことである。
 本堂(県指定文化財)は、寛文7年(1667)に建立され、落ち着いた風格をはなっている。本堂、宝塔の周りには石仏群が鎮座し、参拝者たちを優しく見守っているかのようだ。秋には石仏たちをコスモスが囲い、癒し系の風情を漂わせる。

 奈良・大和路を代表する花の寺としても有名で、1年中いろんな花が咲いているが、特にコスモス寺として知られ、9月中旬~10月下旬が見頃となり、10種類約10万本のコスモスが咲き乱れる。

 所在地:奈良県奈良市般若寺町221。
 交通:近鉄、JR関西本線奈良駅より青山住宅行き、奈良坂行きバスにて般若寺下車、徒歩2分。
 
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「依水園」(いすいえん)

2010年10月08日 00時09分09秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 若草山を借景にした「依水園(いすいえん)」は奈良県庁のすぐ東側に位置している。この界隈は古くは興福寺の子院「摩尼珠院(まにしゅいん)」があった所で、延宝年間(1670)から吉城川で奈良晒(さらし)を業としていた清須美(きよすみ)道清が建てた別邸(依水園)で、知らない人も多い国指定の名庭である。
 園内は池の庭、苔の庭、茶花の庭からなり、木造・平屋建・かや葺の離れ茶室と一体となった閑静な佇まいとなっている。

 春日奥山から奈良公園を流れてくる吉城川沿いにあって、「依水園」という名はこの吉城川の水に依っているという説と、中国杜甫の漢詩に「名園緑水に依る」という一節を引用したとも伝えられている。
入り口を入ると右側(西側)の前園と、左側(東側)の後園があり、作られた時代がまったく違う二つの庭が組み合わされ大庭園となっている。

 前園は寛文12年(1673)に道清の作庭で、シンボルとなっている茶室「三秀亭」は、庭のお披露目に招いた黄蘗山の木庵禅師によって名付けられという。後園は明治時代に実業家関藤次郎が築いた築山式の池泉回遊式庭園で、作庭は裏千家12世又妙斎宗室による。寧楽の都をモチーフとし、若草山、春日山、御蓋山(みかさやま)や東大寺南大門などを借景とする雄大優美な景色をなしている。借景の池を囲むように遊歩道があり散歩できるようになっており、苔むした庭の中を踏み石を上ると水車小屋、その先には池の飛び石へと続き、散策していると、ときどき鶯のさえずりも聞こえてくる。春だとつつじ、菖蒲などが咲き新緑に映え、夏は蓮や百日紅、秋は紅葉と四季折々の花を楽しむことができます。

 昭和14年(1939)海運業で財を成した中村家が買い取り、前園と後園を合わせた形に整備。昭和44年(1969)には、中村家所蔵の美術品を展示するため、寧楽美術館を建設して一般公開している。
 庭園を鑑賞した後、依水園に入る手前の食事処「三秀」に立ち寄り食事をされるとよい。麦ご飯にとろろ「麦めしとろろ」は1800円、これに香ばしいうなぎの蒲焼きをつけた名物料理「うなとろ御膳」(2800円/平城遷都1300年協賛価格)が楽しめる。
 入園料は大人650円(寧楽美術館入館料も含む)。

 所在地:奈良県奈良市水門町74。
交通:近鉄奈良駅より徒歩15分。
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