「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「白峯神宮」(しろみねじんぐう)

2008年04月30日 08時08分15秒 | 古都逍遥「京都篇」
 明治天皇が父・孝明天皇の意思を継ぎ、 保元の乱により讃岐国(香川県)に配流になった崇徳天皇の慰霊のため明治元年(1868)に讃岐の白峰陵より神霊を迎えて創建。次いで明治6年(1873)に、奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いにより、淡路島に配流された淳仁天皇の神霊を合祀した。

 崇徳上皇は、皇位後継を争って後白河天皇に戦を仕掛けた(保元の乱)が、相手の不意打ちをうけて惨敗、讃岐の国に流された。
 その後、謝罪と望郷の気持ちを込め、3年かけて大乗経を五部写経、高野山に奉納してもらおうと京都に送ったが、後白河天皇に『謀反人の書いた経なんて汚らわしくて京都に置けない』と突っ返された。崇徳上皇おおいに憤慨し、「魔縁と成って遺恨を散ぜん」と、書いた経に血で誓詞を書き添えて海に流し、ボロを身に纏い、長頭巾を被り、髪も爪も伸ばし放しにして、ひたすら天皇家を呪い続け、長寛2年(1164)8月、45歳で崩御、その地の白峯山陵に葬られたが、上皇の遺体を火葬したところ、紫色の煙が塊となって立ちこめ谷に漂い続けたという。死してなお魔王となり、天皇家に仇をなすことを誓ったという逸話が残っている。 

 崇徳天皇は、幼少より和歌・管絃の道に秀でていて、数多くの名歌を詠んでいるが、なかでも、小倉百人一首の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」は有名である。

 一方、淳仁天皇は「日本書紀」編纂の舎人親王の王子として誕生し、47代の天皇に即位。藤原仲麻呂(恵美押勝)に官制改革、租税軽減、通貨鋳造、窮民救済等の制度を布かている。
 しかし、弓削道鏡らの謀計により藤原仲麻呂の乱を契機に廃位となり淡路島に流され天平神護元年(七六五)崩御。その後、和気清麿により道鏡は討たれるが、和気清麻呂は道鏡を討つため宇佐八幡の神託を得ての帰りに、御陵を参拝して報告したと言い伝えられている。
 また、当宮は、蹴鞠・和歌の宗家・飛鳥井家の邸跡で同家の守護神「まりの精大明神」が祀られ、 球技愛好者に崇敬されている。ほかに「伴緒社」「潜龍社」などの境内社があり「おが玉の木」 は京都市の天然記念物に指定されている。 

 毎年7月7日の七夕には、境内斎庭で梶鞠といわれる蹴鞠が行われ、七夕小町踊り、織姫舞が奉納される「精大明神例祭(せいだいみょうじんさい)」が催される。少女たちが七夕の大笹を廻ってあでやかに踊る夏の風物詩。元禄の頃に西陣の乙女たちが、技能・芸能の上達を祈って踊り歩いたという。4月14日の春季例大祭淳仁天皇祭では、「蹴鞠」の儀式が執り行われ、王朝の雅を今に残している。

 このほか、境内には清少納言も楽しんだと伝わる九名水のひとつ「飛鳥井」がある。井戸からほど近い所にある樹齢数100年と伝わる小賀玉(おがたま)の大木(天然記念物)の腋から湧き出る水は甘露で清らかな味がするのは気(木)のせいだろうか。
 
 当宮にはフランスW杯日本代表や、日韓W杯出場の日本代表選手が奉納したボールが飾られているほか、京都パープルサンガの「J1昇格祈願」と書かれたサイン入りのボールも奉納されている。

 所在地:京都市上京区今出川通り堀川東入飛鳥井町261。
 交通:市バス9・12系統、51・59・201・203系統「堀川今出川」下車すぐ、地下鉄烏丸線「今出川」駅下車4番出口より西へ徒歩8分。





 















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大梅山「長福寺」(ちょうふくじ)

2008年04月23日 07時48分51秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「長福寺」は、平安時代末期の仁安4年(1169)月林普光大幢国師により天台宗寺門として開山、尼の真理によって開基されたとある。尼寺とは言え、すでに相当の大寺であったようで、寺縁起には、開発領主梅津の財力によるものと推察されている。

 鎌倉時代後期になって寺領紛争のため寺運が傾いたが、南北朝に入り、梅津左衛門尉清景が月林国師に傾倒し、師を招いて禅刹とした。花園上皇(在位1308-18)は備中の園東庄を寄進、貞和2年(1346)同寺に臨幸され、さらに崇光上皇(在位1348-51)の御幸もあり、北朝方の寺として全盛期を迎えるが、応仁の乱(1467-77)で一時荒廃した。しかし、山名宗全により再興、明治の廃仏棄釈まで大寺を誇っていた。

 元禄8年(1695)に再建された仏殿は今も威容を誇り、正面七間、側面五間、入母屋の大屋根に下層の屋根と、二層の屋根が木立を抜いて堂々の大寺ぶりを見せている。
 寺宝として、国宝として花園天皇像―豪信筆、古林清茂墨蹟月林道号があり、重要文化財として、石造長福寺宝塔、花園天皇宸翰御消息一幅、月林道皎禅師送行文一幅など。この他、山岡鉄舟筆隷書額など多数保存されている。

 所在地:京都市右京区梅津中村町36。
 交通:JR京都駅より市バス「長福寺道」下車徒歩約3分。

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 「墨染寺」(ぼくせんじ)

2008年04月17日 22時26分44秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京阪電鉄墨染(すみぞめ)駅から徒歩3分ほどの所にある墨染寺(正式名称・日蓮宗深草山墨染寺)は、貞観16年(874)摂政藤原良房が、娘の産んだ親王(清和天皇)の加護のため、深草(ふかくさ)の地に「貞観寺」として建立したが、天皇家・摂関家の勢力の衰退とともに寂れていった。

 寺伝では寛平3年(891)平安時代の歌人、上野岑朝臣(かんつけのみねおあそん)が、この地に葬られた堀川左大臣・藤原基経(もとつね)を哀悼して、

「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」

 と詠んだところ、桜がこれに応えて色あせて咲いたという故事がある。
 それがそのままこの地の地名となったらしい。その話を知った豊臣秀吉が旧貞観寺を「墨染桜寺」として再興した。天正年間(1573~91)に、豊臣秀吉の姉が法華経に深く帰依したのをきっかけに、秀吉が大僧都・日秀上人に貞観寺の故地等と寺領千石を与え、上人は旧寺を改めて法華宗・墨染桜寺を建立した。

 その後現在地へ移転された。現在の墨染めの桜は、15年程前に受け継がれた2代目であるが、そう言えば、うっすらと墨を流したような気もするが、だいたい白っぽい花を咲かせている。この桜にちなんで墨染寺は通称「桜寺」とも呼ばれ、本堂には「桜寺」の立派な扁額が掲げられている。狭い境内は満開の桜で一杯だ。

 本堂前にある御手洗鉢は明和5年(1768)年に歌舞伎役者の2代目中村歌右衛門が寄進したもので「墨染井」と呼ばれている。
 墨染駅から八百屋の通りをそのまま行くと住宅街の一角にあるこじんまりとした佇んでいる。京都の著名な観光寺と違って町に溶け込んだ寺で、桜の季節以外は訪れる人もまれなようだ。京のおばんざい(家庭料理)を商っている店もあり、普通の京都の下町である。

 取材に出向いた頃は、幸いにも「墨染め桜まつり」が開催されており、商店の軒先には桜の造花が飾られ、キャンペーンセールなどで活気ずいていた。昔、駅のそばを流れる運河(疎水)は汚染され、ゴミなども流れていたが、綺麗になった川面に桜の花影が美しさを漂わせていた。

 所在地:京都市伏見区墨染町741。
 交通:京阪電車「墨染」駅下車、西へ徒歩2分。
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「西岸寺」(さいがんじ)

2008年04月09日 22時35分43秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「西岸寺」は通称「油懸地蔵尊」と呼ばれ、寺伝によると、創建は定朝作と伝えられる阿弥陀仏を本尊として安置する油懸地蔵尊に起因するとあり、地蔵尊の元々の所在は里三栖(現在の伏見区下三栖)だったそうだが、伏見上皇の信仰が篤く、正応3年(1290)不思議な霊験があり、文保元年(1317)伏見院の別御殿(当山の現在地)に下賜され、地蔵尊を下三栖から移したのがはじめとされている。

 地蔵尊は石仏で、高1.7㍍、幅80㌢の花崗岩に像高1.27㍍の地蔵菩薩立像を厚肉彫りし、右手に錫杖、左手に宝珠をささげている。昔からの信仰により油を注いで祈願したために、2cmあまり積もっているという油の層で表面が覆われ、黒光している様が気高い。

 何時頃の話か不明で、山崎の油商人が寺の門前で転んで油桶を落とし、商売物の油を流してしまった。残った油を地蔵尊に懸けて祈願したところ、その後大いに商運が栄えて富豪となった。以来、この地蔵尊に油を懸けて祈願すれば、商売繁盛・願望成就・家内安全のご利益が有るとされ、「油懸地蔵尊」の通称が生れた。

 永禄年中相州小田原の雲海(岸誉)上人が当山に仮錫して諸堂を増築し浄域1600余坪の壮大な寺院となし、天正18年(1590)浄土宗と定め、現寺名となった。後、鳥羽伏見の戦いで諸堂宇焼失し、昭和53年(1978)地蔵堂だけ再建されたが、本堂も最近再建されたばかりだ。
 なお、同じ読みの「油掛け地蔵」が右京区嵯峨天竜寺油掛町にもあり、ご利益を聞き及んで天竜寺の油商人たちも、自分達が居住・商売をする町の地蔵さんに油を注いだのかもしれない。

 蕉翁塚が境内奥に建っており、これに「我衣に ふしみの桃のしづくせよ」が刻まれている。貞享2年(1685)に当時の住職宝誉上人を訪ねた芭蕉が、再会の喜びを伏見の名物であった桃に事寄せて吟じたものといわれている。
 そばを運河が流れているが、これは豊臣秀吉が築城した伏見城の堀を利用し、江戸時代に交通水路として造ったといわれており、竜馬通り称する細長い商店街は古の面影を漂わせている。月桂冠や黄桜などの伏見銘酒の酒蔵が軒を連ね、運河の柳と水(伏水)と酒蔵と竜馬が定宿とした寺田屋など、見所の多い界隈である。

 所在地:京都市伏見区下油掛町898。
 交通:京阪電車「伏見桃山」か「中書島」下車、徒歩10分、近鉄電車「桃山御陵前」下車、徒歩15分。
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補陀洛山「観音寺」(かんのんじ)

2008年04月02日 15時15分24秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都府福知山市にある観音寺は、通称「丹波あじさい寺」として知られており、百種類一万株が育てられ6月初旬から7月初旬にかけて多くの人々が訪れる。

 当寺は奈良時代の養老4年(720)にインドの帰化僧、法道仙人によって一霊木から十一面千手千眼観世音菩薩像を刻んで本尊とし、草堂に安置されたのが開基といわれ、その後、平安時代の応和元年(961)、踊り念仏で有名な空也上人が七堂伽藍を建立。その後は元正・醍醐天皇勅願寺として栄え、鎌倉時代には25余坊の寺坊が軒を並べる中
本山の寺院として栄えた。しかし天正4年の明智光秀の焼き討ちでことごとく焼失、現在の塔堂は江戸時代の元禄6年(1693)に再建された。明治29年に大聖院・多聞院が統合され補陀洛山観音寺と総称し現在に至っている。本尊の観世音菩薩は秘仏とされ平素は拝観できず、次のご開帳は平成42年となっている。本尊の観音は西方(財宝)を向いて立っており、お詣りすると財宝に恵まれるといわれている。

 高い石垣が組まれた荘厳な山寺だが、四季折々の花が訪れる人々を楽しませてくれる。紫陽花は1970年頃から植栽され、木造金剛力士像が並ぶ山門のそばに咲くヒメアジサイのほか、ヤマアジサイなどが水色や紫色などは見事である。
 あじさい期間中は入山料が必要、あじさい祭は6月第4日曜日。

 所在地:京都府福知山市観音寺1067。
 交通:JR山陰本線福知山駅から京都交通バス綾部方面行きで15分、観音寺下車、徒歩5分。車の場合、近畿自動車道舞鶴線福知山ICから東へ15分、福知山市と綾部市を結ぶ府道の中間点。
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