「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「圓成寺」(えんじょうじ)」

2010年04月28日 20時55分14秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 国道24号線から旧奈良街道に入り東大寺を見下ろす峠にさしかかると、柳生街道へと向かう道をとり10㌔ほど山あいを走ると緑に囲まれて佇む山岳寺院にたどりつく。
 圓成寺は真言宗御室派の古刹で、山号を忍辱山(にんにくせん)と称する。寺伝によれば、天平勝宝8年(756)聖武・孝謙両天皇の勅願により、唐からの渡来僧「鑑真」(がんじん)の弟子にあたる「虚瀧」(ころう)が開山し、創建は万寿3年(1026)「命禅」(みょうぜん)上人が十一面観音を祀ったのが始まりともいわれている。

 保元元年(1156六)京都仁和寺の寛遍(かんぺん)が東密忍辱山流を開いて寺運は隆盛をきわめたといわれ、この頃に本尊が十一面観音から木造阿弥陀如来坐像(平安時代・重要文化財)に代わったと伝えられている。
 応仁の乱(1466年~76)で堂塔伽藍の大半が焼失したが、栄弘が入り寺を再興した。江戸時代は寺内に23の子院を有するほどの大伽藍だったようだが明治維新の後に寺領を失い現在の規模になったという。

 楼門(重要文化財)の前には平安時代の面影を残す池を中心とした浄土式と舟遊式を兼ねた寝殿造系庭園(平安時代)があり、蓮や小島が緑色の水面に映し出されてより一層の高貴さを醸し出している。その池の前にポツリと小さな御茶屋さんが店を構えており、これがまた妙に景観に溶け込んでいて面白い。
 池越しに見える楼門は、応仁2年(1468)建立されたもので、華やかさはないが極楽浄土を感じさせてくれるような佇まいである。山岳寺院らしい落ち着いた「桧皮葺」で、組物も格式のある「三手先」に「花肘木」を使用している。奈良の寺院では、このような風景は比較的少ないため、どことなく京都寺院の風情を醸し出している。

 楼門を入ると本堂を中心に鎮守社の春日堂、白山堂、宇賀神本殿(重要文化財)、多宝塔などが建っている。現存する多宝塔は平成2年(1990)の再建で旧多宝塔は大正9年(1920)老朽化のため撤去された。塔の中には、安元2年(1176)運慶20代の頃の作と伝えられている「大日如来坐像」(国宝)が安置されている。像高約99㌢の寄木造、漆箔仕上げの像で光背・台座等の大部分当初のものが残っている。

 「春日堂」と「白山堂」は国宝に指定されており、安貞2年(1228)に春日大社式年遷宮の際に旧社殿を寄進されたものといわれ、現存する春日造の社殿として最も古い。
 本堂(重文)室町時代に建立の寝殿造りで、入母屋造で妻入とするのは仏堂建築には珍しいという。寺の説によると文正元(1466)建立とあるが文化庁の資料では棟木銘から文明4年(1472)建立とされている。堂内には「阿弥陀如来坐像」と「四天王立像」(鎌倉時代)が安置されているが、目を惹かれたのが内陣の柱に極彩色で描かれた「聖衆来迎二十五菩薩」である。

 四季折々に風情を楽しむことができる寺だが、秋の紅葉時期はさぞ見事な錦で包み込むだろうと思いめぐらし、帰路についた。

 所在地:奈良県奈良市忍辱山町 1273
 交通:近鉄奈良線奈良駅 バス 忍辱山下車 徒歩約2分
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「海龍王寺」(かいりゅうおうじ)

2010年04月24日 09時07分19秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 平城宮跡の東方、総国分尼寺として知られる法華寺の東北に隣接している「海龍王寺」は、飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平3年(731)に光明皇后の発願で僧・玄のために「海龍王寺」として改めて創建されたあるが、正史に記載がなく正確なところはわかっていない。しかし、海龍王寺境内からは飛鳥時代から奈良時代前期の古瓦が出土しており、平城京遷都以前に何らかの前身建物が存在した可能性が指摘されている。敷地は、平城京の条坊(碁盤目状の町割り)からずれた位置にあり、平城京内を南北に貫通する道の一つである東二坊大路は境内を避けて、東方向に迂回していることから、先に寺があり後から道がつくられたことを意味しているという。

 『続日本紀』や『正倉院文書』(もんじょ)などの奈良時代の記録では「隅寺」「隅院」などと呼ばれており、天平9年(737)には「隅寺」の存在が確認できるという。「隅寺」というのは、藤原不比等邸の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われており、呼び名の由来については、江戸時代に書かれた『大和名勝誌』にも「平城宮の東北隅ゆえに隅寺と号するのであり、世に法華寺の隅寺と号するのは誤りなり」と記されているという。

 さて、当寺の伝説をいま少しさぐってみると、
 遣唐使として中国に渡っていた玄が、天平6年(734)10月仏教の経典を網羅した一切経5千余巻と経典に基づいた新しい仏法との二つを携えて中国の港を出発しましたが、航海の途中に東シナ海で暴風雨に襲われ4隻の船団のうち、玄が乗った舟だけがかろうじて種子島に漂着することができ、翌年3月、無事に奈良の都に帰朝することができた。このとき、玄の乗船に収められていた一切経の中に「海龍王経」といわれる経典が蔵経されており、狂乱怒涛の中、この経典を一心に唱えたことで仏法を守護する善神である海龍王が、我が国に一切経と仏法とを無事にもたらせるために玄の船を護ったのだと人々に信じられた。

 無事に帰国を果たした玄が海龍王寺の初代住持となったことから遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に平城京内道場の役割を果たすことにもなり、玄が唐より持ち帰った経典の書写(写経)も盛んに行われたとある。

 平安時代となり、都が平安京に移ると平城京は衰退し、海龍王寺も同様に衰退したが、鎌倉時代になると真言律宗を開いた興正菩薩叡尊(えいぞん=字は思円)により伽藍の大修理を受けると戒律の道場や勉学所として栄え、鎌倉幕府からは関東御祈願34ヵ寺に選ばれている。しかし、室町時代になり応仁の乱が起こると奈良も影響を受け、海龍王寺一帯も戦場となってしまい打ち壊しや略奪の被害を被ったことから再び衰退の一途をたどり、江戸時代になり徳川幕府から知行百石を受け本堂や仏画の修理が行われると同時に「御役所代行所」としての役割を果たした。明治時代の廃仏毀釈の際に東金堂や什器を失っている。

 本堂は奈良時代に建っていた中金堂の位置を踏襲しており、深い軒の出と勾配の緩い屋根、それに堂内の柱配置が整然としていることなど、奈良時代の仏堂の様式と似ている点が多く見られる。建立年代は寛文年間(1665頃)とも伝えられる。
 西金堂(奈良時代・重要文化財)は創建当時からの建物で、奈良時代に造られた小規模の堂はこの西金堂以外に現存していないことから非常に価値の高いものと評価されている。また、当堂と向かい合う形で東金堂が建っていたが、明治時代の廃仏毀釈により現在は基壇の跡を残すのみとなっている。
 経蔵(鎌倉時代・重文)は叡尊により中興された正応元年(1288)に建立され、高床式で大仏様式の影響を大きく受けているものの、一部に禅宗様式が取り入れられており、寄棟造のおだやかな姿が古代の蔵の面影が最もよく残されている。

 本尊である十一面観音菩薩立像(鎌倉時代・重文)は、光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造られたという。檜材で金泥が施され、条帛・天衣を掛け、裳・腰布をつけ、頭に天冠台・冠帯・左右垂飾、身は頸飾り・垂飾・瓔珞(ようらく=珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具)、手には臂釧(ひせん)・腕釧(わんせん=共に環状の装飾)をつけている。衣の部分の彩色は朱・丹・緑青・群青など諸色の地に唐草・格子に十字などの諸文様を切金で表したもので、縁取りや区画の境界線に二重の切金線が多用されている。頭飾および装身具は精緻を極め、すべて銅製鍍金で透彫りを多用し、垂飾には諸色のガラス小玉と瓔珞片を綴ったものを用いている。

 一方、文殊菩薩像(鎌倉時代・重文)は、目鼻口も小さく作られており、おだやかな起伏をもつ姿が自然な形状で表現されている。
 取材で訪ねた日は、境内のユキヤナギが満開で、風に吹かれた白い束の花がゆらゆらと揺れ、まるで本尊の天衣がなびいているようで美しくまぶしかった。清楚な寺院にふさわしく慎ましやかな世界に包まれた。

 所在地:奈良市法華寺北町897。
 交通:近鉄奈良駅13番のりばより大和西大寺駅・航空自衛隊前行バスで「法華寺前」下車すぐ

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「久米寺」(くめでら)

2010年04月07日 00時04分11秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 久米仙人の物語で有名な久米寺は、畝傍山(うねびやま)の東南麓、久米町の集落の北端に位置し、金堂、観音堂、多宝塔等が木立に包まれ古寺らしい雰囲気をかもしだしている。当寺は大和七福八宝めぐり(信貴山朝護孫子寺、久米寺、子嶋寺、おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院、大神神社)のひとつに数えられている。
 
 創建については『和州久米寺流記』は、聖徳太子の弟の来目皇子の開基を伝え、一方、『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などには久米仙人と結び付けており、定かではない。
 伝説にある久米仙人をたどると、吉野竜門寺に籠もって神通力を会得し、空中を飛行中に吉野川で洗濯をしている若い女性の脛を見て神通力を失い落下したと知られている。また今昔物語や徒然草には後聖武天皇の御代に、東大寺大佛殿の建立の際、神通力で数日の間に建設資材を運び集め、その褒賞として免田30町を賜り、久米寺を創建、以来、久米部氏の氏寺であったが、聖徳太子の弟が七才で眼病を患いここの薬師如来に願を掛けて平癒されたので“来た目”と喜ばれ、「くめでら」(久米寺)と呼ばれるようになったとあり、平癒のお礼に久米寺に諸建造物を建てて大寺の構えが備わったという。

 その後、大同2年(807)には唐より帰国した空海が真言宗を立教開宗し、久米寺にて大日経を初めて説いた所縁の寺とされ、空海が中興の祖と伝えられている。また、当寺の塔において真言宗の根本経典の一つである『大日経』を感得したとされている。

 養老2年(718)インド摩伽佗国の王善無畏三蔵が来朝し、約2年間のあいだに高さ約10.9㍍四方の塔を建立し、三粒の仏舎利並びに大日経を塔内に納めたとされる国重要文化財の多宝塔は、擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えの中央間に蟇股を置き、脇間蓑束の造りだったが。慶安年中(1648~52)に焼失し、現在の塔は万治2年(1659)京都の仁和寺から移建したもの。とち葺で高さ14.5㍍あり桃山様式を残している。堂宇は江戸時代に再建された。また隣接する久米御縣神社は、江戸時代までは久米寺の鎮守社となっていたようだ。

 仙人伝説のほかに、つつじやあじさいの寺としても有名で、境内のあじさい園には、和洋40~50種、3千~4千株のあじさいが植えられ、シーズン中には、あじさい祭りが開催される。中風よけのカボチャ料理も有名である。 

 所在地:奈良県橿原市久米町502。
 交通:近鉄橿原神宮前駅より徒歩5分。
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「吉田寺」(きちでんじ)

2010年04月06日 07時46分16秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 清水山吉田寺は大和路斑鳩にある浄土宗の寺院で、俗に「ぽっくり往生寺」の名で親しまれている。創建は、天智天皇(626~671)の勅願といわれているが、平安時代中期の天台僧、恵心僧都源信(942~1017)によって永延元年(987)に開山したと伝えられており、竹やぶや林に囲まれて、ひっそりとし佇んでいる姿は、いかにも斑鳩の古寺の情緒を漂わせている。

 本尊の「阿弥陀如来座像」(丈六尺/約4.85㍍<重要文化財>)は、恵心僧都が境内の栗の大木に感得され、一刀三礼の念仏の中で造ったという。奈良県最大で「大和のおおぼとけ」と呼ばれている。千体仏光背を背負って上品上生印を結ぶ端正無比の霊仏、金色に輝く尊像の前で念仏を称え、祈祷を受けた肌着(衣服)を身に付けると、長く病み患うこと無く、シモ(排便等)の世話にも掛からず、病み苦しみも無く、安らかな往生が叶い、霊験にあらたかとか。ぽっくり往生寺」として信仰されるようになったのは、孝心の厚かった恵心僧都が母の臨終に際し、除魔の祈祷をした衣服を母に着させた所、何の苦しみも無く、母が称名念仏の中に安楽往生の素懐をとげられた故事に由来している。

 重要文化財の多宝塔は大和路で数少ない最古の塔で、高欄のない縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは中央間のみ蟇股。上重は高欄と四手先組物、下重は組物(出組)と軒〈二軒繁垂木)の構成、方三間、二層、本瓦葺、高さ四〇尺(12㍍)あり、遠くからでもこんもりとした森の中に塔の先端が見える。建立は寛正4年(1463)で、内部に恵心僧都が父ト部正親の菩提追善の為と伝える秘仏「大日如来坐像」が安置され、毎年9月1日~2日と、11月1日~3日に開扉し一般公開される。また、境内に腰付き「鐘楼」も在り、石仏「慈母観音像」なども祀られている。本堂は江戸時代に再建された重厚なもので、拝観料300円を支払って中に入ると、座布団と木魚がズラリと並び目を奪われる。

 当寺の最大の行事は、9月1日に行われる「放生会」(ほうじょうえ)という、生き物を殺してはいけないという仏教の戒めに基づき、命を大切にし、感謝する儀式で数百羽の鳩と数千匹の魚に南無阿弥陀仏の念仏を授けたあと、境内と放生池に放つ。別名「鳩逃がし法要」、「魚逃がし法要」ともいわれている。

所在地:奈良県生駒郡斑鳩町小吉田一丁目1番23号。
 交通:JR大和路線・近鉄生駒線王寺駅より奈良交通バス「龍田神社前」下車、徒歩すぐ。
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